And( From) Now( On)

「でも、そういう人が大多数なんじゃないの?」


 夢叶は透明なスープに浸かった野菜をゆっくりとかき混ぜた。


「そうなのかもしれない。けどさ、なんかこのままでいいのかなって不安になるんだよ。俺の人生、何もないままで終わるんじゃないかって怖くなる」


「それでいいんじゃない?」


 道幸は夢叶の顔を見た。彼女の口元に微かな笑みが浮かんでいた。


「……もしかして、めんどくさくなった?」


「違う違う」


 夢叶は笑みを浮かべながら、首を振った。


「私が言いたいのは、波も起伏も無い人生も、立派な人生だってこと。これまで歩んできた道にはあなたの命がある。あなたにしか作れない足跡が刻まれてるの。プロ野球選手にもハリウッドスターにもスーパーマンにも真似できないようなのが。それにさ」


 夢叶はスイッチを切り、おたまでスープを掬う。そばに置いていた白いお猪口を手に取り、そして移す。白の器に薄く色づいたスープは良く映えた。それを自分では飲まず、道幸に手渡した。両手でそっと受け取ると、口につける。


「……美味い」心の声が漏れた。


「薄くても味はちゃんとある」


「気づいてないだけってこと?」


「ちゃんと分かってんじゃん」


「そっか……」道幸は視線を落とし、微笑みながら顔を上げた。「ありがとう」


「どういたしまして」


 炊飯器が出す甲高い音に、2人は同時に振り返った。天井に向けて蒸気を吹いている。


「開けますか?」目の前まで行くと夢叶は両手を太ももにつき、首だけ横に向けた。


「お譲りしますよ」


「いやいや」


 同様に顔だけを向け、「先ほどのお礼に」と手で差し出す動作をする道幸。


「なら、お言葉に甘えて」


 夢叶は炊飯器の開閉ボタンに人指し指をつける。


「あら、意外にあっさりとしてるね」


 夢叶は鼻から息を吐き出す。ボタンに置いただけで、まだ押してない。


「なら、もう少しやる?」


「いや、『どうぞどうぞ』ごっこはこれくらいがいい」


 『どうぞどうぞ』ごっこ、という単語は初耳だったものの、俺が私がと次から次に手を上げ続け、遅れて上げた最後の人に一斉に「どうぞどうぞ」と譲るフリして押し付ける、お笑い芸人のテンプレートであることを、夢叶は容易に想像することができた。


「なら、やらせていただきます」


「どうぞどうぞ。あっ、どうぞどうぞって言っちゃった」


 夢叶は道幸の天然ぶりは無視して、ボタンを押し込む。開いた途端、白い煙が昇る。蓋についた水滴が伝いながら落ちていく。次第に、赤いものが姿を現わす。トマトジュースを吸った白米だ。


 2人は体も折り曲げ、寸前まで顔を近づけた。


「似てる?」夢叶は道幸を見た。


「うん」


 頷いてから、道幸も顔を向けた。満面の笑顔をしていた。夢叶は心の底から安堵した。同時に胸から喜びが溢れた。


「お皿取って」


 体を起こした夢叶は指をさす。道幸は炊飯器のすぐ隣にある食器棚に近づき、すりガラスの引き戸を開け、大きさで綺麗に分けられた皿を2枚取る。中央部分に深いへこみがあるものだ。


「これだよね?」


 見せると、夢叶は「うん」と首を縦に振り、「あと、上のマグカップもお願い」と続けた。


「ああ」


 少し背を伸ばし、腕も伸ばし、2つ手に取る道幸。当然、これも2つ。そして、閉め忘れていた引き戸を元に戻した。今日は、今日こそは忘れなかった。


「はい」


「ありがと。先に座ってて」


 道幸は両手に、指の間に挟んだワイングラス2つを持って、テーブルに向かう。テーブルの上は赤と青のランチョンマットとスプーンとフォークが綺麗に並んでいる。真ん中には冷蔵庫から少し前に出しておいたワインがある。いつもより0が2つ多い高級な赤ワインだ。道幸はワイングラスをマットの左上に置くと、青の前にある椅子に座る。


「お待たせ」


 夢叶は器に移したジャンバラヤとスープを乗せたトレイを両手で持って、テーブルへ。マットの真ん中にジャンバラヤを、右上にスープを置き、赤の方の椅子に腰掛けた。道幸は、左横に置いてあったT字型のワインオープナーを手に取ると、ワインのコルクにねじり入れていく。


「これが最後の晩御飯か……」


「嫌?」


 オープナーを固定し、持ち替え、今度は上に引っ張る。


「微妙……かな」


「なんだよ、微妙って」夢叶の聞いたことのない反応に思わず、道幸は笑う。


「だってさ、こうやって仲良くなることも、こうやって一緒に料理することもなかったかもしれないでしょ?」


「……冬、だからかな」


「ん?」唐突に今の季節を言った道幸に疑問の一文字を発した。


「終わるって冬が入ってるでしょ? だから、冬っていうのは色んなことが終わっていく季節だって思うんだ」


 言及はしていないが、関係性を表す糸も終わりには入っていることを道幸は頭に浮かべた。


「そうして、また新しい始まりの春に向けて歩んでいくんだ。それが世の常、人の常なんだよ」


「だから、ってこと?」


「あっいや、それは全く考えてなかった。本当偶然だったんだ」


「大丈夫。怒ってない」夢叶は慌てている道幸を安心させるために、優しい笑みを浮かべた。「ほら、冷める前に食べよ」


「うん」


 道幸はワインを閉じ込めていたコルクを外した。短くも勢いよく抜ける爽快な空気の音とともに。道幸はそのままワインの口を差し出した。夢叶は慌ててグラスを手に取り、斜めに傾けた。透明なグラスの中へ、濃い赤色のワインが静かに注がれていく。小さな泡が浮かんでいる。並々と注ぐと、ボトルを立てる。そして、自身のグラスにボトルの口を近づけた。


「注ぎましょうか?」


「……お言葉に甘えます」


 先ほどのことを思い出しながら、道幸は同じく注いでもらった。


「よし、これで完璧だね」


「再現度は?」夢叶は再度確認した。


「ベリーグッド」綺麗な赤い米も、彩りと量が豊富な具材も、あの日とおんなじジャンバラヤ。「違うのはここがスペインのレストランじゃないことぐらいだよ」


「味は分かんないけどね」


「けど、匂いはそっくり」道幸は目を閉じ、手で扇いだ。


「ふふっ」


「ど、どうしたの」


 理由の分からぬ夢叶の吹き出すような笑いに、道幸は戸惑う。


「こんな夫婦、他にいるのかなーって」


「こんなって?」道幸は首を傾げる。


に、初めて出会った店で頼んだ料理を一緒に作って食事する夫婦」


「どうだろ」道幸は人差し指で顔を掻いた。


 仲が良いのか悪いのかと言われれば、2人とも良いと口を揃える。けれど、夫婦としてなのかと問われれば口をつぐむ。

 互いが互いを思っていても、それが辞書に載るような広く一般的な愛というものとは異なると感じていた。言葉にするには些細で繊細で、何より難しいということも。正解か不正解かさえも、全く不明だ。


「でも、こういう夫婦がいてもいいんじゃないかな。これからの時代は多様性が大事なんだし」


「ダイバーシティってやつね」


「それそれ」


 外では雪がしんしんと降っている。東京ではそうは見られない水分のない柔らかくて軽い雪だ。触れれば形を失う儚い雪だ。静かに降る雪を2人は知っていた。けれど、要らなかった。代わりに、この取るに足らない愛しい会話が続かないかと胸の中で小さく思っていた。


「なら、相手のこれからを応援してもいいよね?」


「勿論」


 そのために別れる——そう口にするのは、道幸は野暮に感じた。


「では」夢叶はグラスを手にして差し出した。「これから進む道に幸せが沢山ありますように」


 道幸は頬を緩めると、持ったワイングラスを前に出した。夢叶のそういうところが道幸は好きで、今でも素敵だよと言えるところだった。


「これから色々な夢を叶えていけますように」


 2人はグラスを近づけるが、寸前で止めた。そのまま、ほんの少しだけ持ち上げて、互いに口元を緩ませた。


「「乾杯」」

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DiNNER 片宮 椋楽 @kmtk

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