昭一と、大人になりたいホタルのひと夏

いろは紅葉

昭一と、大人になりたいホタルのひと夏

 昭一しょういちは知らないことだったが、この田舎は、大昔に「『ホタル』の里」とも呼ばれていたそうだ。


 夏ごろ、『ホタルの子』は蛍とともに現れる。虫ではなく、妖怪や妖精の類とされていた。

 人間の子供とたがわぬ姿で、さまざまな色の目をしていて、感情に乏しく人見知り。

 しかし根気よく接すれば、次第に心を開いていくという。

『ホタルの子』は複数の人間に懐くが、ただひとり、生涯においてこの人という相手を決める習性がある。

 そのひとりと真に心を通わせたとき、『ホタルの子』は「大人」になる。

 大人といっても、姿形は変わらない。

 ただ、自分が決めたひとりだけに、自分の化身である螢石ほたるいしを残して去っていく。

 それが、『ホタルの子』が大人になるということだ。


 では。大人になる前に、その「たったひとり」がいなくなってしまったならば?



 ◇ ◆ ◇



 夕暮れ。河原には紺の甚平姿の少年がいた。少年は、川縁にしゃがみこんでなにかをしていた。

 昭一は弟が忘れた虫取り網を取りに来たところで、見知らぬ少年に対して首をひねる。


 このあたりでは見かけない。夏休みを利用して、親戚の家にやってきたよその子供だろうか。

 年は昭一より少し下、八歳くらい。髪は茶色く、振り返ってこちらを向いた目の色は深緑。

 顔立ちこそ日本人。しかし妙に整っていて、純粋な日本人ではなさそうだと昭一は思った。

 裕福な友人の家で見せてもらうテレビ番組にも、外国人はそう出てこない。もっとも、白黒の画面では色などわからないが。

 だから、


「おまえ、ガイジンってやつか?」


 昭一の第一声は、不躾ぶしつけでぶっきらぼうなひと言だった。

 甚平姿の少年はきょとんとして目を丸くする。


「ガイジンって、なに?」


 少年は自然な日本語でそう言い、不思議そうに首を傾げる。


「なにっておまえ、ガイジンはガイジンだろうよ……」


 自分で言っておきながら、昭一はうまく説明することができない。

 昭一にとって「ガイジン」は「ガイジン」だ。それが意味するものはひとつしかない。昭一以外の子供も、きっと大人たちもうまく説明することはできないのではないか。


「つまりだな……」


 何を言うべきかと昭一が考えているうちに、日はゆるやかに落ちていく。

 暗くなるにつれて、あたりを飛び交う蛍の光が鮮やかに映る。毎年変わらない田舎の光景だ。

 いつもなら、何匹か捕まえて家に持って帰ろうとしただろう。

 いつもなら。

 なにごともなかったのなら。



 甚平姿の少年が、蛍のように光っていなかったならば。



「ガイジンは知らないけど、ぼくはホタルだよ」


 髪や指先といった先端に光を灯して、自分をホタルと称する少年は微笑む。およそ、この世のものとは思えない。

 昭一はゆっくりと腰を落とし、尻もちをついた。腰が抜けたのだ。

 少年はまた不思議そうな顔をして、「あ」と笑顔を浮かべて手を差し出す。掌の上には、川でよく見る細長い巻き貝が乗っている。


「これ、いっしょに食べる?」

「食わねえよ!」


 昭一は思わず大声を出した。




「つまりおまえ、ニンゲンじゃねえってのか?」

「うん。ぼくはホタルで、『ホタルの子』」


 河原の丸い石の上に胡座をかいて、昭一とホタルは向かい合っている。

 小さな蛍たちがふたりの周りを飛んでいて、夕暮れでも明るい。ときおり、数匹の蛍が昭一の坊主頭をかすめるように通り過ぎる。


 にわかに信じがたい話ではあるが、現に目の前で碧色の光を灯す少年がいる。納得しがたいが、否定する気持ちは昭一の中ではもっと小さくなっていた。


 ホタルと名乗った少年は、昭一の困惑などどこ吹く風といった様子だ。自然な所作で、巻き貝の中身を吸い取ってかみ砕き、飲み込む。

 昭一は「う」と声を詰まらせ、おぞましいものを見たと顔をしかめた。

 昔は川の巻貝を煮たり焼いたりして食べたこともあったそうだが、今は食べない。

 少なくとも、生では。


「ハルコを待ってるんだ」


 そんな視線など気にしていないようで、ホタルは笑顔で昭一を見る。

 ハルコ。

 昭一も聞き覚えがある名前だ。


「ハルコって、春子姉ちゃんのことか」


 昭一は川の向こうを指さす。

 丈の高い草に隠れて見えないが、昭一が知る中学生、春子の家がある方角だ。


「そうだよ。これをくれたのもハルコ」


 ホタルは昭一に見せるように、腕を上げて着ている甚平を広げた。

 ホタルと、蛍の光が甚平を照らす。


「一緒に蛍の光を見ようって言ってたんだけど。まだ来ないんだ」


 なんでだろう? と、ホタルは首を傾げる。


「春子姉ちゃんなら、カゼひいて今日は寝てるって聞いたぞ」

「そうなの? じゃあ仕方ないか。ぼくを大人にしてくれるって言ってたんだけどな」

「なんだ、それ?」


 今度は昭一が首をひねる番だった。


「ぼくはこのとおり『ホタルの子』だから。夏のうちに大人になって、卵をのこさないといけないんだ」


 ホタルは、爪に碧色の光が灯る指を一本、立てて見せる。


「卵?」

「そう、卵」

「おまえ、男なのに卵生むのか?」


 昭一の言葉に、ホタルはぱちぱちとまばたきをする。そして「んー」と少し考える仕草をしてから、


「どっちでもいいんじゃないかな」


 ぼくは『ホタルの子』だし。

 当然といった態度に、昭一も「お、おう」と頷かざるをえなかった。


「おまえ、春子姉ちゃんとは仲いいのか?」

「うん。ハルコはぼくをかえしてくれたし、大人に近づけてくれたよ」


 ホタルはにこりと笑う。

 昭一はじゃりじゃりな坊主頭をぽりぽりと掻いたあと、


「……しゃーねーな。明日一緒にお見舞い連れてってやるよ。もともと母ちゃんから頼まれてんだ」



 ◇ ◆ ◇



 翌日、昼前。


「ごめんくださーい」

「くださーい」


 昭一は母親から持たされたお見舞いの品を手に、春子の家の玄関を叩く。

 後ろにはホタルもいる。髪色と目が目立つので、昭一は自分の麦わら帽子を目深まぶかにかぶらせた。


「はーい、ただ今」


 ほどなくして、立派な作りの洋風扉が開かれた。顔を出した中年の女性は、春子の母親だ。


「あら、しょーちゃん。こんにちは」

「おばさん、こんにちは。これ、母ちゃんから」


 昭一は持ってきたスイカと夏ミカンを春子の母親に渡す。

 春子の母親はそれを笑顔で受け取りながら、


「ありがたいわ。あとでお礼に伺うから、お母さんによろしく言っておいてくれるかしら」

「うん、わかった。それでさ、おばさん。ちょっとだけ春子姉ちゃんのお見舞いしてもいい? こいつも一緒に」


 昭一は後ろのホタルを手で示す。

 ホタルは「こんにちは」と、やや遠慮がちにあいさつをする。


「いいけれど、その子は?」

「おれの友だち。春子姉ちゃんとも仲いいんだってさ。こいつちょっと恥ずかしがり屋だからこんなんだけど、そこはこー、勘弁してやってくれないかな」


 苦笑いを浮かべて、昭一はホタルを見やる。

 昨日は昭一相手に全然臆さなかったくせに、意外と人見知りなところがあったのだ。

 あら、そうなの。と、春子の母親は笑う。

 気を悪くはしていないようだ。昭一は内心胸をなで下ろす。


「春子はまだ具合が良くないのだけど、少しなら大丈夫よ。上がってちょうだい」




 昭一とホタルは、春子の部屋に通された。


「しょーちゃんたちに移るといけないから、少しだけね」

「わかってる。ありがとう、おばさん」

「……ありがと」


 春子の母親は、部屋の扉を閉め、離れたようだ。足音が遠ざかっていく。

 春子の部屋は、板張りの床に、家具なども洋風で揃えられていた。

 もの自体は少ないが、飴色の西洋風箪笥の上に乗ったぬいぐるみなどが、さりげなく女の子らしさを演出している。

 そんな部屋の一角に、ベッドがあった。


「ハルコ!」


 ホタルは麦わら帽子を吹っ飛ばす勢いで、しかし静かに駆け寄る。

 昭一の知る春子は、ベッドの上で目を閉じて横たわっていた。

 いつもはゆるい三つ編みにしている黒髪はほどかれて枕元に広がり、白い肌は熱のせいかやや赤味がかっている。閉じたまぶたを縁取る睫毛は黒く、長い。

 額に濡れタオルを乗せた春子は、ゆっくりと目を開く。


「ホタル……?」


 春子が昭一たちに目をとめ、ゆっくり起き上がろうとする。


「来てくれたのね……」

「あー、だめだって寝てねえと!」


 麦わら帽子を拾った昭一は慌てて走り寄る。

 横になるよう促したつもりなのだが、春子はベッドの背もたれに背中を預けて上半身を起こしてしまった。

 そして不思議そうに昭一とホタルを見て、


「しょうちゃん……? どうしてホタルと」

「おれは元々母ちゃんにお見舞い持ってくように頼まれてて、こいつは、えーっと……」


 春子の額から落ちた手ぬぐいを水桶に戻しながら、昭一は答えあぐねる。春子とホタルの関係がまだいまいちつかめておらず、何と言っていいのかわからない。


「ショーチャン? とはね、昨日河原で会ったんだよ」

「おい、おまえ変な呼び方すんなよ」


 妙な発音で名前を言われ、昭一は眉間に皺を寄せる。

 ホタルはきょとんとした顔で、


「じゃあなんて呼べばいい? ぼく、ショーチャン? の名前知らないよ?」

「そういや言ってなかったか。おれは昭一だよ」

「ショーイチ? わかった!」

「……まあいいけどよ」


 発音が若干おかしいことには目をつぶる。このあたりでやめておかないと、同じようなやりとりが続きかねない。

 なんとなく、昭一はそう思った。


「ふふっ」


 春子がふき出した。昭一とホタルは同時に視線を向ける。

 それに気づいた春子は口元を押さえ、少し恥ずかしそうに目を泳がせた。


「ごめんなさい、ふたりがなんだかおもしろくて。ホタルが私以外の人と気安く話してるのも、見ていて楽しかったし」


 そして照れくさそうに、また「ふふ」と笑う。


「なあ、おれもこいつのこと知らないんだけど」

「ぼくはホタルだよ」

「おまえは横から入ってくんなよ」

「えー?」

「話が進まねえだろうがよ!」


 昭一は半眼で、なかば睨むようにホタルを見る。話の腰を折られてばかりで、思うように会話が進まない。

 そんなふたりを前に、春子は笑いを堪えきれないといった様子で、


「『ホタルの子』は、しゅとしての名前ね。この子自体の名前はホタル。まあ、『ホタルの子』はみんなホタルなんだけれど」

「……?」

「そういう『いきもの』だと思って、ね? 昨日会ったのなら、ホタルがどんな子か、しょうちゃんも見たんでしょう?」


 疑問符が取れないままの昭一に、春子は苦笑を向ける。

 昨日の夕方の出来事を思い出して、昭一はしぶしぶながら頷いた。


「ホタルは――この子は、私が卵から孵して育てたの。卵は……」


 春子は、ベッドの枕元の横にある、小さいテーブルに手を伸ばす。上には、蓋がガラス張りの、中が細かく区切られた小物入れがあった。

 春子は蓋を開け、中から小さな石を、親指と人さし指でつまんで昭一に見せる。

 それは八面体の、淡い碧色の透明な石だった。


「これよ、螢石ほたるいし。『ホタルの子』はみんなこれから生まれるの」

「生まれるときに粉々になっちゃうんだけどね」


 ホタルが補足する。

 昭一はいっそう眉間の皺を深くし、首が真横になるのではないかというくらいに傾けた。


「そんな顔しないでよ。昨日見たでしょ? ぼくが光ってるとこ」

「あれがありなら、これもありだと思って。ね?」


 春子の優しい苦笑に見つめられて、昭一はまた仕方なく頷く。

 ホタルはもとより滅茶苦茶だが、春子が言うならその滅茶苦茶さも納得せざるをえない気がするのだ。

 世の中、不思議はひとつではないのだろう。


「しょうちゃん。手を出して」

「え? うん」


 言われたとおりに手を出すと、春子は、


「じゃあ、はい」


 昭一の掌に、そのまま螢石をのせた。


「え、春子姉ちゃん何これ」

「それはしょうちゃんにお願いするわね。私はもう、無理そうだから」

「え?」

「ハルコ、ぼくを大人にしてくれるんじゃないの? あと少しだよ?」


 春子は困ったように笑うだけだ。

 ホタルを「大人にする」ことといい、昭一は春子に聞きたいことが色々とある。

 さらなる質問をしようと、昭一が口を開けたとき、


「しょーちゃんたち、そろそろお昼よ。今日はここまでにしておかない?」


 板をコンコンと叩く音とともに、カチャリとドアの取っ手が回り、重量感のある戸板が開けられる。

 昭一が、持っていた麦わら帽子をとっさにホタルの頭にかぶせる。そのすぐあと、春子の母親が部屋に入ってきた。手に、粥と薬袋の載った盆を持って。


「春子が風邪でなかったら、お昼を一緒に、と言うところなのだけど……」

「いや、おれたちが長居しすぎちまったんだよ。春子姉ちゃんも、ごめんな」


 昭一はひと言詫びて、春子に向き直る。

 春子は母親に似た笑顔で、


「しょうちゃん、その子をお願いね」


 言葉の意味を尋ねられぬまま、昭一とホタルは春子の家を出た。



 ◇ ◆ ◇



 事態が急変したのは、夕飯時だった。

 河原でホタルと別れた昭一は、食器を片付けている途中で春子の体調が悪化したことを聞かされた。


「え……。だって、昼会ったときはけっこう元気そうだったのに」

「今夜から入院だって、奥さん言ってたわ。最近暑かったからかねぇ。春子ちゃん、もともとそんなに身体が丈夫じゃないから」


 母親が心配そうな声で話すのを、昭一はぼんやりと聞いていた。

 昼間の春子は熱っぽそうだったが、口ぶりは普通だった。あのときから無理をしていたのだろうか。

 昭一は半ズボンのポケットを探る。こつりと、指先が硬いものに触れた。

 春子から渡された螢石だ。


「母ちゃん、おれ河原に網忘れた。取ってくる」

「え? 今日はあんたなの?」

「うん。うっかりしてた。行ってくる」

「あ、ちょっと! 遅くなるようなら諦めて帰ってきなさいね!」


 母親の声を背に、昭一は下駄を履いて素早く家を飛び出した。




 夕暮れに飛び交う蛍の光と、光る少年。

 昨日と同様の光景が、河原にあった。


「おい、ホタル!」


 昭一はホタルに駆け寄る。小さな蛍たちが昭一から逃げて、幾筋もの光の線を描く。


「ショーイチ。どうしたの?」

「春子姉ちゃんに会いに行くぞ!」


 昭一はホタルの手をつかみ、引いて走ろうとする。

 しかし、ホタルは動かない。


「何やってんだよ、行くぞ!」

「行っても会えないよ」

「何でだよ!?」


 怒鳴りながら振り返って、昭一は言葉を失った。

 昼間、あれだけ朗らかに笑っていたホタルに、表情がない。

 なまじ顔立ちが整っているだけに、作りものめいた不気味さがある。


「ハルコにはもう、会えないよ」

「なん……」


 それでもホタルを焚き付けようとして、言い返そうとして、しかし昭一は言葉を口にすることができなかった。


「ハルコはね。ぼくを孵してくれて、会いたいって願ってくれて、一緒にいてくれて」


 ホタルの手をつかんでいた昭一の手から、力が抜ける。

 昭一とホタルの腕が、だらりと脱力して真下を向いた。


「だから、ぼくが大人になるなら、相手はハルコなんだ。ハルコじゃなきゃ、だってぼくたちはあと少しで」



 心を通わせられたのに。



 深緑の目は、次第に虚ろいで。

 目の前の昭一ではない何かを。

 ここにはいない、誰かを見ているように。


 夕闇が夜に変わる。今日は月が出ない。宵闇よいやみが迫る。

 すぐ、そこまで。


 蛍が一匹、ふたりの間を横切った。

 昭一ははっと、正気を取り戻す。


「何だよ、意味がわかんねえよ! 行けばいいだろ、明日でも、明後日でも! 春子姉ちゃんが元気になってからでも!!」


 昭一は懸命に叫ぶ。

 しかしホタルは、


「ムリだよ。だってさっき、こっそり会いに行ったんだ。だからわかる。ハルコのことなら、ぼくにはわかる。ハルコは」



 もう、どこにもいないよ。



 昭一はゆっくりと河原に両膝をついた。

 春子の急逝は帰宅後すぐ、取り乱した母親から聞かされた。



 ◇ ◆ ◇



 遺影はるこは白黒だった。なのに、生前の姿とまったく変わらない。

 最後に会ったとき、思えばすでに白すぎたのか。


 あっと言う間に、現実感がないままに、告別式は終わっていた。

 周りの人間たちの泣き声などは、耳から耳へ通り抜けていく。慣れない礼服を着た昭一は、自分が何をしてどう動いたかも覚えていない。

 家は洋風なのに、葬式やらあれこれは寺でやるんだなと思ったくらいか。

 昭一はふらりと、人知れずその場をあとにした。



 気づけば河原に来ていた。

 昭一の胸の内とは違い、太陽は天高くじりじりと照りつけて、緑は濃い。蝉たちの鳴き声も容赦なく、耳を突き破るのではないかと思うほどだ。

 まったく、生命力に溢れている。


 そんな中、静けさを体現したような少年はそこにいた。


 茶色の髪に、かすりの甚平姿。

 昼間だから光は見えないにしても、昭一に背を向け川を見る姿は、どこか人間離れしていて目を引くものがある。


「ホタル」


 昭一は呼びかける。

 返事も反応もない。


「おれ、頼まれただろ。春子姉ちゃんに」


 礼服のポケットを探る。すぐに、指先が硬い感触にたどり着く。


「おれ、絶対にお前を大人にしてやるからな。こっちのちっこいのも」


 親指と人差し指で、淡い碧の八面体――螢石をつまんで掲げる。

 ホタルはついに、振り返らなかった。



 ◇ ◆ ◇



 秋にさしかかるころ、ホタルは姿を消した。

 昭一は辺りを探し回ったが、見つけることは叶わなかった。


 秋が一面に色づき、冬があたりを吹雪いても。

 昭一は諦めなかった。



 絶対に見つけて、ホタルを大人にする。



 方法すらわからないのに、昭一は愚直に思い続けた。

 冬が徐々に溶け、春が一斉に芽吹いて。

 それでも思い続けて想い続けて。

 さて、それはひとつの奇跡をもたらした。


 思い続けて想い続けて。

 夏の気配を感じるころ、春子から昭一に託された螢石――『ホタルの子』の卵に変化があった。

 黄金週間と呼ばれる期間の、ある夜中。

 昭一はひとり起き出して、縁側で月を見上げながら、掌の上で螢石を弄んでいた。


「熱っ」


 不意に熱を感じて、昭一は螢石を取り落とす。

 小さな八面体は庭に落ち、二、三度転がった。

 拾おうとして、昭一の手は止まる。

 石は、『ホタルの子』の卵は、中心に光を宿していた。

 光はだんだんと強くなり、卵の輪郭すらあやふやになるほど強い輝きを発して、ぱつんと弾けた。散らばったかけらは粉々になって、もろもろと土に同化する。

 代わりに残ったのが、


「ううーん……」


 ゆっくりと伸びをする、八歳か九歳くらいの少女。その目は、弾けて消えたホタルの卵と同じ碧色。濃紺の夜に光る、手指や髪の先。

 新しく生まれた『ホタルの子』だ。

 少女の姿をした『ホタルの子』は昭一の姿を認め、


「……だれ?」


 無表情に問うてきた。


「おれは昭一」


 昭一は迷わず答える。

 少女はわずかに首を傾げて、


「ショウイチ?」

「そう。ショウイチだ」

「わたしはホタル」


 少女は抑揚に乏しい声で答える。


「そうだな。『ホタルの子』のホタルだ」

「ホタルはわたし」

「ああ。『ホタルの子』はみんなホタルだ」



 その夏。昭一はあの河原で「ホタル」と再会したが、ホタルはついぞ反応することはなかった。

 傍ら、昭一は少女の「ホタル」と日々を過ごした。

 ふたりは少しずつ心を通わせ、昭一は最後、まばゆい笑顔で消えてゆく彼女に卵を託された。


 昭一は知った。

『ホタルの子』は、誰かと心を通わせることで大人になるということを。

 その瞬間、今までの時間を閉じ込めたような美しい卵を残して、跡形もなく消えてしまうということを。


 茫然とする昭一の手に、少女の目と同じ碧色がひとつに、淡い蒼色がひとつ。

 ふたつの螢石が残された。


 そしてまた、甚平姿の「ホタル」は姿を消した。


 ふたたび夏が冷え、秋が草木を彩り、冬が視界いっぱいに積もり。

 春がはらはらと散って行くころ、ふたりの『ホタルの子』が生まれた。

 河原の「ホタル」は相変わらずで、しかしときおり呼びかけに反応するようになっていた。

 そうして季節を繰り返し、何度も何度も繰り返し――。



 ◇ ◆ ◇



 長い休みには、この田舎に子や孫が遊びに来る。

 今年のゴールデンウィークも例外ではない。


「じいちゃん、部屋の本見ていい?」


 濃灰色の虹彩を持つ少年が、いつか子供だった誰かの部屋を指さす。

 十歳になった孫のお気に入りは、色鮮やかな図版をふんだんに収めた昆虫図鑑だ。


「おう、好きに見ていいぞ」


 にかっと笑って答えれば、孫は「ありがとう」もそこそこに、そそくさと部屋へ吸い込まれていく。

 それを見てまた笑いながら、縁側で下駄を引っ掛け、河原へ赴いた。

 たどり着けば、見知った人影がそこにいる。


「今年もまた会ったね、ショーイチ」


 振り返った少年は、深緑色の目をまっすぐ昭一に向けて笑った。

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昭一と、大人になりたいホタルのひと夏 いろは紅葉 @shira_tama10

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