来訪者との対話

湿原工房

来訪者(4500文字)

   0.はじめに


ある祝日のこと。


   1.来訪者


めずらしくインターホンが鳴り、モニターに見知らぬ女性ふたり。なにかチラシのような者をカメラに向けている。


「ちょっと解像度がアレで……なんて書いてます?」


「「日蓮大聖人の説法」です。私たち顕正会の者です」


ああ、顕正会。よく知らないけど名前くらいは。


「ちょっと待ってください、出ますね」


出るんかーい。

と向こうが突っ込みを入れただろう。私自身変な手順に思ったし。


とにかく出てみると、まだいってて20代半ばくらいかなという若いふたりである。


「日蓮大聖人をご存じですか」


「日蓮さんね」


信仰心のないことを敬称に表して答える。


ここ数ヵ月、法華経や日蓮の魅力はなんだろう(わからない)と思っていたところだったので、どこかで私を見ていたんじゃないかというタイミングだなと思いつつ、知ってますよと答える。「法華経のあれですよね」


   2.顕正会


「そうですそうです。日蓮大聖人は『立正安国論』を著され、そこに当時のさまざまな厄災の原因は、本当の正しい仏法(法華経)を人々が忘れ、まやかしの教え(注:主に当時流行していた浄土思想)を信仰していることにあると説かれているんです」


そうですねと答える。


「そして、なおも誤った教えに立つなら、日本国内に端を発する混乱のみならず、やがて外国の勢力が日本を襲うと予言されました。それはその通りとなり、蒙古が日本に攻めて来るのです。まさに大聖人の仰ったそのままの事態が起こったのですね」


それも最近読んだ本にたしかにそう書いてあった。


「しかし日本に攻めいろうとしました蒙古軍は、日蓮大聖人の正しい仏法への帰依によって、天候が荒れて蒙古の軍勢は退陣を余儀なくされたのです。これを神風と称す人もありますが、大聖人ひいては仏法の起こしたものなのです」


眉につばをつけながら、しかし彼女らの信仰には敬意を払い頷いてみせる。


「このように、日蓮大聖人は正しい仏法への帰依をお説きになりました。このことはけして当時のお話で終わらず、現代の日本にも言えることです。先の東日本大震災から、今回の連続的な台風到来、各地の地震、立て続けに災害が起こっているのは、ほかならぬ大聖人その教えに帰依しない人々、また日蓮宗、日蓮正宗、創価学会等の誤った帰依(大聖人がその魂を移したご本尊はただひとつ、顕正会の富士大石寺に祀るご本尊のみです)によっているのです」


近年の災害を宗教的に意味付け、ある方向へ物語化することは、すでに想像していたとおりだ。日蓮の生きた時代と、現代は同じ様相にあるという。すれば、


「かつて日蓮大聖人が蒙古の襲来を予見していた通り、現代日本においても、中国の勢力が日本を脅かそうとしています。これは全く日蓮大聖人、法華経に帰依しない、あるいは誤った帰依によっています。いま日本の安倍政権はかつての神による統治を目指していますが、神というのは仏法を守護する者であり、神の上に釈迦、法華経、日蓮大聖人が存するのです。そして、正しく教えを守っているのは顕正会だけなのです」


という。


   3.私のスタンス


私は物語として彼女らの話に納得しつつ、


「私はそう聴いてもやはり信仰心が生じないのですね。というのは宗教というのはそのどれに限らず、文化として捉えているというのがあって、たとえば私の実家などは浄土宗ですが、とりわけ浄土宗に私自身が帰依しているということもありません。特定の宗派、宗教に入信するより、各宗派を文化として見ていきたい、そう思っています」


と飽くまで宗教への関心は、宗教学や文化人類学などに由来する関心であることを述べる。


「信仰は人それぞれとはよくいいますが、ほんとうに意味のある宗教というのはあり、数多ある宗教には正邪の別があります。このとき正しい宗教とは顕正会です。他の宗教ではそもそもが間違っていたり、道半ばのものだったりするのです」


こういう顕正会の方に対し、


「たとえば、よく訪問されるのでエホバの証人を例にしますが、彼らは旧約新約(あとで調べたらエホバの証人はこう区別しないらしい)の聖書に依拠していますね。先ほど法華経、日蓮さんへの帰依を過ったゆえに今回の巨大地震、台風の連発が起きていると言いましたが、これを聖書に基づいて考えると、そこに予言した通り世界は最終局面に向かっているといいます、そしてエホバへの正しい信仰をもつ者だけがその後の1000年王国に復活し、永遠の生をうけられるのだと説く。私にはこのどちらかが正しいとして、選ぶことはできません」


と返した。


「日蓮大聖人の起こしたことにはこのようなことがあります。当時の人々は大聖人の説得に耳をかさず、あまつさえ大聖人を首切りの刑に処そうとしたのでしたが、執行人が刀を振り上げると大聖人の不思議な法力により、その刃はたちどころに崩れました。それまで日蓮大聖人の御言葉に耳を貸さなかった者が、このとき誰もひれ伏さなかった者はなかったのだそうです。それはそうですよね、目の前でまさにその仏法に護られてあることが起こったのですから。私たちもまた、これほどのものではありませんが、日蓮大聖人の仏弟子となってさまざまの御守護を日々実感しています」


つまり、理路整然と分かったから信仰するのではなく、信仰のなかでその正しさを見出だし確信していくのだというわけだ。


しかし私は首肯しない。


なぜならただ解釈のみがあるというニーチェの言葉は真だと思うからだ。


   4.死相


加えて彼女らは言う。正しく日蓮を信仰すれば、その死相(死んだときの遺体の様子)にもそれが現れると説く。これは日蓮正宗でも聴く話だ(顕正会は日蓮正宗や創価学会との縁が深く、日蓮正宗からの分派として創価学会、顕正会があるようだ(後で調べた))。彼女は他宗教の葬儀に参列した経験を話してくれたが、亡くなった方の死に顔を見て人は口々にキレイだというのだが、彼女の目にはとてもそうとは受け取れない苦悶の表情に見えたという。彼女はおそらくと考えて、親類縁者はとうぜんその方を知っているし、尊厳を保ちたい、すれば実態がどうであれ、キレイな死に顔と言いたいのでしょうと解釈していた。それは涙ぐましいことではあるかもしれないが、そもそも正法に則していれば、死相はおのずと美しく、死後の行く先は明るいものと確信させる死に顔になるのだと、その正法とはすなわち顕正会の南無妙法蓮華経に外ならないのだという。


その他、日蓮の抜け落ちた歯(肉付き)がなんとかとも言っていた(ニクシと言っていたと記憶しているが検索すると御肉牙というのがあるらしい)。


私はどうも、こういった奇跡の伝承には神話学的興味こそ湧かせ、信仰心の発起にはつながらない。とうぜんいわばこの荒唐無稽な話をそのまま信用できるほど素朴でもない。


   5.雑談的な


たぶん向こうもここで話しても押し問答であろうことを察してだろう、こう言った。


「もし、お時間があるようでしたら、これから一緒に勤行(お題目を唱え、法華経の重要らしい二篇を読み上げるらしい)してみませんか」


顕正会の会館は愛知県下にもあちこちあって、そこへ行くのだという。会館とはいえ宗教施設に入れるのは魅力的な誘いではあるが、この顕正会は不穏な部分をもっていたように思う。彼らのテリトリーに入ってしまえば、最悪、意に反して入会させられる可能性があり、そこは「行かない」と明言した。


そこでやや世間話めいて、


「じつは私たち東京から来たんです」


と言う。近所の顕正会員だと思っていた私は少し驚いた調子で、


「え、布教(折伏?)回りのために来たんですか?」


と問うと、違うらしい。


「名古屋のほうに友人がいて、その人が入信を決心されたので、それでこっちに来たのですが、待ち合わせにはまだ時間があるから、ふたりでちょっと近くを回ってみようかという話になって、それで伺わせていただいたのです」


いずれにしても宗教関係ではあったが、なんか、彼女らの感覚では宗教勧誘って結構カジュアルなんだなと妙な感心をしつつ、


「まあ、それはこうしてあることも何かの縁といえば縁ですね」


とかなんとかそれっぽいことを言う私に、


「今回、このパンフレットと顕正新聞を差し上げますので、お暇なときに読んでみてください。もし興味が湧きましたらここ(パンフレット隅)に連絡先を書いておきますので、どうぞご連絡ください」


と、携帯番号を書き込んだ。そろそろ待ち合わせ場所に向かわないといけないのだろう。最後にお互いに頭を下げながらお別れした。


個人的には楽しい時間を過ごしたが、さて、彼女ら、手応えありとみて愛知の支部に連絡し、足繁く顕正会の方が来られても困るな、などと思いつつ、貰った紙面をざっと読んだりなぞした。日蓮信仰によくみる終末思想が現代に接続されて論が展開される。


   6.結びとして


毎度毎度思うのは、さまざまな仏罰を説き、正しい仏道はすなわち日蓮のそれだと説くが、肝心の日蓮の説いた思想とは何かは一向説かれない(それは入会後はじめて説かれるのかもしれないが)。


死相や奇跡的伝承についてもそうだが、仏教の本来依って立つは依って立つ色(しき=物事)はないということと思っているため、物事のほうが良縁(これは全く科学的因果関係、社会学的因果関係に発する)によって善い方向へ向くということはあっても、死相に出たり、たとえば法華経の観世音普門品に著されるような(解釈によるが)火に焼かれてもその肉は焦げないというような超人的なあり方を目指したりするようなものではないと考える。


むしろ、どんな苦悶する状況にあっても色=空(無本質)であり、六根六処もまた色に由来するなら空から出た空に異ならず、よってこの苦悶もまた楽と通じているし、その苦楽の二律を超越(ヘーゲル風にはアウフヘーベン)して、生にありといえど死にありといえど、つねに平静にしていられるといったふうに、物事の捉え方のほうを変容し、事態を肯定する論法のほうが私には好ましい(これが宗教だと言われれば、まあそうだ)。これはたぶん、日蓮(法華経)の寂光土、白隠の当所即ち蓮華国この身即ち仏なりだろうと思う。実態は、なかなかそうはならないのだが。


日蓮系を批判するなら、表に出てくる話はあまりに論より証拠を立てすぎて、私みたいな頭でっかちにはそれを信仰する端緒がないので、よほど強行的(主体性を剥奪された状態)でないかぎり入信はない。加えて教団を成す以上経営が付いて回り、どうしてもいかがわしさは払拭できないし、実態としてもうしろ暗いところが団体の下層の信者はともかく、少なくとも上層部にはあるだろうなと思ったりなぞする(資金集めが主となり、下方には積極的に折伏を促す等)が、これはもちろん顕正会に限ったことではない。とはいえ彼女らの信仰心には憎めない部分がある。日本の仏国土到来への努力自体は応援したいと思う(誰目線)。私は私で独り、仏はすでに現れ仏国土はたちまちにここであると思索しようと思う。


宗教者との話は楽しい。たぶん幹部クラスになると上記したようなしがらみがあるだろうが、末端布教者は熱心な信者なの(だろうと感じるの)で、割合まっすぐな意見が聴ける気がする。いっそ各宗教の勧誘がいちどきに来し、私の玄関先で論争を繰り広げればいいのにと夢想する。

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