~それから~

「ふーん、それからどうしたの?」

 無邪気な質問者は、前のめりになりながら大きな目を輝かせていた。

 まだ幼い子の純粋な瞳は、まるで星の輝きに似ていた。

 曇りなき純粋な眼から目をそらせる親がいるだろうか。

 テーブルの食器を片付ける手を止めた洋子は、我が子と向き合う。

「わたしがつらいときは傍にいるよ、と言ってくれたの。だから、想いに寄り添うことができたんだよ。時間はちょっとかかったけどね。でもおかげで、春斗くんを授かったんだ」

 おもむろに抱き上げて、互いの頬をすり合わせた。

 ずしっとした感触。

 日に日に大きくなってきている。

 子供の成長は、驚くほど早い。

 いろんなものに興味を持ち、吸収していっている。

 すごい、の一言だ。

 手足をばたつかせ、「ちがうよ」と言ってくる。

 暴れないでと、そっと椅子に座らせた。

「なにが違うの?」

「ほかのみんなはどうしたの」

 みんな、という言葉に洋子は懐かしい顔を思い浮かべる。

「アッキーと涼ちゃんは一緒になったし、和樹くんも祥子先輩も誰かと結婚したんじゃなかったかな」

 それぞれ家庭をもつと、連絡も滞り、疎遠になっていく。

 メールやネットの連絡手段があっても、直接会う機会はなくなっていた。

 お互い、大事なものができたからだ。

 目を閉じなくても思い出せる。当時過ごした日々の、ゆれたりぶらさがったりした気持ちまで蘇ってくる。あの時のみんなの顔、声、みてきた太陽や草木の匂い、一緒に見た星の光さえも、ありありと感じることができる。手を伸ばせば触れるほど近くに。なのに、あの時間にはもう戻ることができない。

 十代のころは、二十代に夢を持っていた。

 二十代になってみると、見る世界が変わっただけで、ただがむしゃらに前に進んでいくので精一杯だった。ほとんど夢はかなわないし、知らないこともたくさんあって、友達は減っていくし、やらなければいけないことに日々追われるばかりだった。

 三十代になったら、体力がなくなって疲れが残りやすくなり、勢いはなくなったけど賢くなった気がする。父親がなくなり友達が病気で他界するなど、悲しみばかりふえていった。歳月は過ぎていくのに、心はとどまろうとしてしまう。

 子供の成長が生きがい、なんて思う瞬間があるんだよね、と我が子を前に洋子は苦笑いしたくなる。子供の人生と自分の人生は別物。

 だからこそ、子供の性格や気持ちを受け止め、信じてあげなくてはいけない。

 いつか一人で歩いていく時はくるのだから。




 帰宅した陽に、今日思ったことを、ゆっくり打ち明けた。

 相談じゃなく、ただ聞いてほしいだけなんだけど、と前起きして。

 そうしないと、アドバイスが返ってきてしまう。

 きっと彼だけではなくて、大多数の夫は、経済的にも精神的にも妻を支えようとしてくれる。話す前にプレッシャーを解いてあげる必要があるのだ。

 疲れているにもかかわらず、陽はたべながら黙って聞いてくれた。

「そうだね。その気持ちはわかるよ」

 食べ終わった陽は、食器をシンクへと運ぶ。

 わかる? と、受け取って洋子は洗い始める。

「徹夜ができなくなったし、体力は落ちたかなって。それに年月がすぎるのは早い」

 ほんとうだよ、ずいぶん遠くまで来たなぁーってかんじる。

 おまけに、記憶も薄れていく。

 二十代の頃は思い出せないことなんてない気がしてたのに、三十を過ぎてからは、どんどん記憶が曖昧になってきている。数年前だけでなく、数カ月前のことも怪しくなり、自分が子供だったなんて記憶も、遥か彼方に遠ざかってしまっているのだから。

 昨日の晩御飯は、まだ大丈夫。一昨日からが怪しくなってくるけれど。

 片付けを終えると、洋子は子供部屋を覗いた。

 今日一日、遊び疲れたのだろう。ぐっすりベッドで眠っている。

 この子がどうか幸せな人生を歩めますように。

 頭をやさしく撫でてリングへ戻ると、陽が珈琲を淹れてくれていた。

 陽の隣、リビングのソファーに腰掛けて、マグを受け取った。

「一昨日は焼き魚だったかな、その前はカレー」

 いわれてみると、洋子はそんな気がしてくる。作ったのは自分なのは忘れてないんだけど、と笑えば、「そういうこともたまにはあるよ」と慰めてくれた。

 なんとなく星と似てるね、と思いついたことを口にする。

「物忘れと星?」

 物忘れじゃなくて。

「記憶とってこと?」

 うなずいて、珈琲を啜る。 

 だって星の明かりは、いまから幾十、幾百年前のものがみえてるんだよね。手を伸ばせば届きそうなのに、決してつかめない。記憶もおんなじだと思わない?

「いわれてみれば、そうだね」

 いつでも思い出せば、あの日、あの時、あの場所で、交わした言葉や過ごした出来事が浮かんでくるけど、だんだんとぼやけて、かすれ、はっきりとはわからなくなっていく。

 だけど、たしかに体験を積み重ねてきた記憶は、いまも胸の中にあるのに、もう二度と触れることはかなわない。

 差し出した洋子の手を、陽は黙って握った。

 あ、そうか。

 あの時の感触もぬくもりも、いまもかわらずここにある。

 いつでも触れられる。

 洋子は鼻をすすって、珈琲を飲んだ。

 なんだか最近涙もろくなったみたい。

 首を傾けてもたれかかると、「ぼくもだよ」と陽がつぶやいた。

 

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