エピローグ

君に逢えて良かった

 彼とは高校のときつきあって、別れた。

 フッたのは彼だけどフラせたのはわたしだ。

 彼はやさしかった。

 まるで父のように。

 父はわたしにとって大切で甘えられる唯一の人だから、わたしは彼に甘えた。

 無邪気な子供のように、わたしは彼より背が高くて、弟みたいにみえたけど、わたしには頼れる父親みたいな存在だった。

 それに気づいたからわたしは別れることにしたのかもしれない。

 いつの間にか甘えている自分が許せず心のどこかで申し訳ない気がしたから離れることを決めたのかもしれない。

 自分を変えたくて、新しい自分に出会いたくて、触れあうことをどこかでさけてきた。

 いろんな人とすれ違い、そのたびに誰にも言えない言葉を抱え込んできた。

 上手に振る舞いつくり笑いをするコツを覚えるのが大人になることなんだって、薄れていく想い出とともにあきらめていった。

 かわりに胸の奥に降り積もるさびしさが心をすりつぶし、思わず口からこぼれる言葉に涙する。


 ……つらい、よ。


 シャワー室の壁にもたれしゃがみ込んだまま生あたたかい水を頭からかぶる鏡に映る疲れ切った自分の顔は泣いていた。







 前略皆様、卒業されてから六年経ちますがいかがお過ごしでしょうか。

 という書き出しではじまる同窓会通知を手にして甘粕洋子は会場のホテルに入った。

 同窓会会場になっている広間に入る。

 卒業式のあと、またねと手を振って別れた人たちの顔が浮かんでは消えて、見覚えのある顔が年月を重ねただけ違ってみえる。

 笑いながら、ネクタイを締めるスーツの群れから彼を捜す。

 声をかける前に、目が合い、二人が歩いてくる。

 岡本秋人と志水陽。

 久しぶり、と明るく声をかけた秋人の隣で、元気そうだねという陽をみて過ぎた時間に嫉妬した。

 記憶の中の二人と少し違う。

 髪は短いし背もちょっと高い。

 大人になったねと言うと、おかしなことをいうねと二人に笑われた。

 秋人はパソコンのメンテナンスの仕事をし、陽は小さな出版社に務めてると言った。

「甘粕さんはなにしてるの?」と秋人が言う。

 わたしは絵の販売をしてる、ビルやデパートの一角を借りて版画製法で作られた絵を展示販売してるのみたことないかな、そういう仕事してる。

「甘粕さんは絵がすきだったからね」

 陽がそういって笑みをみせた。

 彼は少し背が伸びたみたいだけど、話をして、変わっていないと思った。

 うらやましいとは思わなかった。

 ただ、ずるい、そう口の中で呟いた。

 二次会を抜け出し彼らと三人、ゆっくり話のできる店で飲もうと決めて、騒がしくない居酒屋に入った。

 ビールで乾杯してから、互いの空白の記憶を埋めるように、それぞれがどんな時間を過ごしてきたのか高校時代のことも交えて話した。

「和樹のヤツは印刷関係の仕事をしてるみたいで、涼はアパレルの総合職になんとか就職が決まった」

 今も秋人は涼とつきあっていて婚約指輪をこの前贈った、と照れながら教えてくれた。

 思い出した、祥子さん、結婚するんだって。

 この前偶然会ったとき話してくれたの。

 そういうと二人は驚いた顔をした。



 飲もうといったわりに二人はお酒に弱かった。

 まさかビール大ジョッキ二杯と熱燗とワイン一本で倒れるとは。

 陽は秋人をトイレで吐かせてから、泊まっているホテルへ送ろうとタクシーを呼んだ。

「一人で大丈夫だよ、この埋め合わせはまた今度な」

 秋人を乗せたタクシーは街明かりに向かって走り去る。

 志水君はだいじょうぶなの。

「あんまり飲めないから飲まないようにしてたんだ。それより甘粕さんこそだいじょうぶ? かなり飲んでたけど」

 ちょっと飲みすぎたみたい、足にきてるのと嘘をついた。

「だいじょうぶ? 送るよ」

 陽は肩に手を回して寄りかからせた。

 支払いを彼に任せタクシーを呼んでもらった。

 これで新着したスーツの代金分は浮かせたかな、堅実的な考えをしてしまう。

 彼と別れてから数人の男とつきあったが誰とも長くは続かなかった。

 彼とつきあう前にもつきあった人はいたし、はじめてしたから特別な人というわけでもない。

 あの頃が一番たのしかったと思えるからだ。

 がむしゃらにまっすぐ、馬鹿なこともあったけどそれを青春と呼ぶのなら、あの日々は夜空の星が一つひとつみえなくなるように失われる時間だったのかもしれない。

 思い出さないとあの日に帰れない、帰りたい。

 戻りたい、戻れない。



 アパートの前で降りて、陽の励ましを聞きながらドアの前へ運ばれ、カギを渡して開けてもらった。

 部屋にあがり電気がついたとき、まずいと思った。

 部屋の片隅に置いてある洗濯かごには早く洗いに行かなくてはいけない洗濯物で溢れ、その隣にはananやレタスクラブなどの雑誌と新聞が混ざった山があり、分別してない出し忘れたゴミ袋が三つ転がっている。

 部屋の対角線上に張ったロープにはハンガーに掛かったシャツとブラウス、ショッキングピンクにくすんだタオルとバスタオルがぶらさがっている。

 テレビとミニコンポの上にはうっすら埃が積もり、それらを乗せている台の前につぶれへしゃけたビールの空き缶が無造作に転がっている。

 床にはコンビニエンスストアーやスーパーマーケット、デパートの地下食品売場で買ってきた惣菜の入っていたパックや割り箸の袋、菓子パンやジャンクフードの袋、小銭やボールペン、口紅などが転がっていた。

「まるで夢の島だね」

 ものが増えるのはさびしさの証なのかもね。

 仕事が忙しくて一人暮らしだと部屋がかたづかないの、といいわけをしてベッドの上に座った。

 彼からコップに注いだ水を一杯もらう。

 飲みほして、本当はそんなに酔ってないから心配しないでいいよ、だいじょうぶだからと言った。

 陽は壁にかかっている時計をみてからエアコンを入れてもいいか訊ねた。洋子は足下に転がっているコントローラ-を取ってボタンを押した。

 それをみて陽はコートを脱いで洋子の隣、ベットの上に腰を下ろした。

「時間あるから、少し話をしない?」

 そう聞いて、洋子は小さくうなずく。

 志水君は一人なの。

「うん」

 久しぶりに会えてうれしい。

「うん」

 元気だった?

「そうでないときもあったけどね」

 仕事はたのしい?

「そう思えることもあるよ」

 夢はかなえたの。

「まだわからない」

 なんだか聞いてばかりね。

「いやなことでもあった?」

 世の中にゴロゴロしてるよ。

「たのしいことはありましたか」

 今、かな。

「ちゃんとたべてるの」

 うん。

「しっかりねてますか」

 うん。

「ならだいじょうぶだよ、食べて寝ることができるなら」

 それだけじゃさびしいよ。肩に持たれてしがみつく。

 あの頃はやりたいこともほしいものもたくさんあって、何でもやろうって気持ちで手を伸ばしてきた。

 でもそのうちに伸ばすことをやめて、忙しく仕事をすることにしたの、動き回っていれば、思い詰めて考えることもないし不安な気持ちにならないでしょ、そうでしょ。

 そう思っていたの、でも違うような気がしたら、何がなんだかわからなくなって。

 ずるいのは自分だ。

 泣きそうになりながら、でも泣いちゃいなかった。

 ここで泣いたら、彼にすがったら、甘えてしまう。

 胸の奥では甘えたくて仕方なかった。

 彼はやさしいから甘えさせてくれるかもしれない、そんな期待をしている自分がひどく汚く、ずるいヤツに思えた。

 でも、もうダメ。

 誰かに甘えないとこれ以上自分ではどうすることもできないくらい心が弱っていた。

 陽は何も言わず聞いてくれた。

 黙ったまま聞いていてくれた。

 時計の秒針とエアコンのモーター、遠く近く走る車の音が静かに聞こえる。

「星詠組で、たくさん星を観てきたけど、本当は光や風景をみてきたんじゃないかって思う」

「あのときにしかみられなかった景色だったって今は思う」

「あのときよくみていたのは、時代を表していて、取り立てて注目もされず二度とみれないものの風景だったね」

「本とか頭でわかることでも、実際目で見て感じるものとはぜんぜん違う」

「そういうものを、みてきたような気がする」

「誰もを惑わす騒音も雑音も多くて、どこも似たり寄ったりの景色が広がってる、何がなんだかわからなくなるのも当然だよ」

「甘粕さんだけじゃないよ。ぼくもそうかもしれない」

「道に迷ってもいいと思う」

「問いかけに、自分の中にある答えと向き合って、歩いていけばいいと、ぼくは思う」

 一言ひとこと、ゆっくりと語りかけるように話してくれた。

 それを聞くことができたのは、彼が洋子の知っている、志水陽だからかもしれない。

 一緒に歩いてくれない?

 そう言ったらきっと彼は歩いてくれるだろう。

 その言葉を言えたらどれだけ楽になれるだろう。

 その言葉を言うにはお互いの距離が開きすぎてしまっていることを洋子はわかっていた。

 うまくいえないけど、君に逢えて良かった、ありがとう。

 洋子は陽の胸の中でつぶやいた。



 次の日、ベッドの中で目覚めた。

 カーテンの隙間からもれる光に照らされる部屋は昨夜と違いきれいに片付けられている。

 空き缶の山もごみ袋もない。

 洗濯物がしまわれ、新聞や雑誌をわけてひもで縛ってある。

 床にこぼれていたものすらきれいになく、流し台にあった洗い物まで洗われている。

 レンジの上に置かれた鍋の蓋を開けると湯気と一緒に味噌の香りがした。

 炊飯器の中はおいしいそうな御飯が炊けている。

 靴を脱ぐ床の上に部屋のカギが落ちていた。

 たぶん、彼が整理整頓と朝食を作り、ゴミを抱えて外に出、カギをかけてから新聞投入口に投げ入れたのだろう。

 ごみ袋を抱え帰った彼の後ろ姿を想像しながら、今日もまた一日頑張ろうと甘粕洋子は思った。


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