第4話 ヤロスラーヴナの悲嘆

      1


 一件目の被害者、兼、被疑者がいなくなった。

 妖怪露出狂と癒着のある大学病院の、VIP対応の個室から。

 常時外から鍵をかけており、これまた常時ドアの外に見張りを置いていた。

 部屋の中に誰もいないのを最初に発見した制服Aによれば、自分が交代になったときに一度ドアを開けて若者の姿を目視していると主張。

 部屋内の監視カメラでも、その様子は裏付けられた。

 確かに部屋内には誰かがいて、

 確かに部屋の外にいた制服Aがその誰かに声をかけている。

 制服Aに交代になってから、

 制服Aが部屋内に誰もいないという事実に気づくまでの映像を。

 もう幾度となくガン見しているのだが。

 何もかもが怪しすぎてどこから攻撃していいやら。

 まず、この監視カメラの映像は改竄されている。

 そうなると必然的に、制服Aは嘘を言っていることになる。

 そして極めつけは、部屋内にいるであろう若者の顔が一切映像として残っていないという奇妙な死角。

 これはもう、最初から謀られていたと見ていい。

 ご主人と共にここを訪れたあと、いまに至るまでこの部屋で暮らしていた何者かが、一件目の被害者、兼、被疑者であるという証拠は何もない。

 まんまと。

 してやられた。天罰代行業者・祝多出張サービスに。

「依頼が来てたならそう言ってくださいよ」VIPルームから電話をかける。

「言ったら言ったらでそのゲスと寝起きを共にするとか申し出そうでしたので」

「生きてますかね」

「さあ、どうですかしら」ご主人が言う。「今夜のショウ次第ですわね」

「ショウ?」とびきりのヤな予感が。「あのですね、まさかですけど」

「ええ、そのまさかですわ」

「あー、そう。すか」思わずケータイを持ちかえる。「何時開演ですかね? その処刑的SMショウは」

「お望みでしたら招待状を横流しますわ。戴いていますのよ。材料調達の見返りとしまして」

「依頼主って」ツリシバさんとやらだ。職業的女王様。「ほんと、そちらさん。女性が頼めば何でもしてくれますよね」

「あら。ボーくんの望みはきけませんのよ?」

 対策課本部に戻ると、課長のデスクに。

 ペアチケット。但し、男女の組み合わせに限る。

 黒地に赤抜きの字で。

 日付は本日。時間は深夜。

 行くべきなのだろうか。せっかくペアだから本部長でも連れてってやろうとか血迷った思考が一瞬かすめたが。

 発狂はしないだろうが。

 発射はするかもしれない。ああ見えて、まんまだが。どこぞの優秀な部下くんに負けず劣らすなヘンタイ性癖をお持ちなので。

 むしろ新しいドアをこじ開けさせてどっかの課長への精神的ストーキング行為を辞めるきっかけになりは。しないか。ヘンタイ性癖のカテゴリが増えるだけだ。

 しかし、ペアか。と思う。

 俺とご主人ならばっちり男女ペアになるのだが。

「二代目の許可もなしに」本部長は渋っていた割には、

 ちゃっかり。

 ツリシバ女王様の暗黒城を制圧する準備を整えた。

 開演まであと十分ほど。

「いいかい? あくまで潜入捜査の一環という」

「あーはいはい。そーしないと国民に示しとか付きませんもんね」

 県警本部長が職務中に○○バーでこともあろうに自分が中心になって推進している民間委託の最前線、そこの課長とデートもどきだとか。

 一発で警察組織の威信を地にへばり付けることができる。

「君はその、よくこうゆうところに足を運ぶのかね」

「それ聞いてどうします?」

 決定的証拠を押さえて現行犯逮捕に持ち込むためとはいえ、連れてくる相手を間違ったか。本部長は会場に入る前から、いや、入ってもそわそわそわそわとこんな感じで。

 照明が暗すぎるのが原因とは思えない。多少生々しい映画館だと思えばいいと、散々言い聞かせてやったというのに。

 こっちの耳からそっちの耳に抜け落ちる。

 眼が泳いで久しい。赤と黒を基調とした会場の毒毒しさにやられたか。

 参加者は蝶や蝙蝠をモティーフにした極彩色のヴェネチアンマスクで目元を飾っている。受付でチケットと引き換えに渡されたものだが、素顔を隠すには面積が不足しており、どちらかというと個人の匿名性を確保するためのものだろう。

 もしここで世俗の知り合いをであったとしても、ここでは。

 この非日常の異空間では、

 あなたの知っているあなたと顔見知りの私ではないと。そうゆう趣向らしい。

「尿意を催したらどうすればいいんだね?」本部長が言う。

「飲みましょうか?」

「正気かね」

「冗談です。始まりますよ」

 開演ぎりぎりにもぐりこんだため、ステージから最も遠いカウンタ席しか空いていなかった。奇しくも、つい昨日スーザちゃんが座って飲み物を所望した席。

 地を這うような歓声が上がり、

 暗黒の幕が開く。半円状のステージが出現して、

 そこに。

 四つん這いになった全身ラバースーツの背に。

 女王様が鎮座される。

 マイクの音割れがひどくて何を言っているのかいまいち聞き取れなかったが、要は。

 会場ごと挑発している。音割れが反響するたびに、

 溜息とも嗚咽ともつかない混声四部合唱が。

「何が始まるんだね」本部長がわけのわからない質問をぶつけてくる。本人は精一杯の小声だが、音圧が張っていて鼓膜が揺らされる。

「なんだかわからないで付いてきたんですか」

「君が誘ってくれるならどこだって行くよ」

 気持ち悪くなってきた。アルコールとその他有害物質が殊のほか急激に身体を外部から蝕んでいる。せいだと思いたいが。

 本部長がグラスを一気に空けた。て、それ。

 俺のなんだけども。しかも中身は、本部長のそれと決定的に違う物質が含まれているんだけども。

 まあ。この人はこっち方面はザルだし。呼気を採取されない限りは大丈夫だと。

 このあと、どうゆう手順でどうゆうことをおっ始めようとしてるのか。

 ちゃんと憶えてるといいんだけど。

 やっぱミスキャスティングだったか。

「何年ぶりだろうね。君とこうやって」

 何年ぶりも何十年ぶりもない。

 本部長が妄想で描いてるようなそうゆう行事なんかしたこともない。

 どさくさに紛れてドレスの裾に手を突っ込んで人の太ももまさぐってないでステージ見ろっての。決定的証拠を見逃すんだけども。

 本日の生贄とやらが。

 女王様の動く座イスとまた別のラバースーツに、

 首輪と鎖で散歩されながら登場した。

 鼻の下まですっぽりとゴム製の帽子を被されており、

 口は棒を噛まされて。だらだらと涎が垂れ流れている。

「こいつはね、ホントに酷いのよ。もう悪行三昧」女王様が生贄の紹介をぶつ。鞭でぶちながら。「感じてんじゃないわよ。あたしはまだ何も命令してないでしょ?」

 生贄が腰を高く上げて女王様に尻を差し出す。

 股間を覆っていたゴム製のビキニファスナが開いており、

 生贄の股間にぶら下がっている竿よりも数倍太い張り型がハメてあった。

 竿自体も強固なベルトで拘束されており、

 血が集まるどころか血も流れない。外しても果たして二度と使い物になるのかどうか。

 それにしても本部長の手が調子に乗ったセクハラ三昧で。

 お前も一緒に生贄にしてもらえよ。

「彼女を寝取らせる?あんたの見てる前で? バカじゃないの?」女王様が鞭を振り下ろす。空気をしなる音が響き渡る。

 会場に存在する眼球という眼球が、

 女王様のその鋭い踵の下に磔だ。

「どうせ無理矢理なんでしょ? 彼女のこと人間だと思ってないからそんな外道が平気で出来んのよ。彼女に代わってあたしが、あんたみたいなゴミを処分してあげる」

 ここまでが前座。

 会場が狂喜と狂気に満ちる。

 問題はその生贄とやらの正体その一点なのだが、

 本部長が率先して俺の集中を逸らさせる。何しに来たんだあんたも。

 俺としっぽりか。

 ああ、なるほど。仕事する気なんか端からなかったわけか。

 これ終わったら接近禁止宣言してやろう。

 一件目の被害者兼被疑者の顔をおぼろげに思い出す。照合しようにも、

 生贄の鼻から上は公開されていないし。

 こんなことならご主人が言うように一発ヤっとくんだった。

 顔以外に何の手がかりもない。声なんかゲスすぎて忘れた。

「すまない。限界なんだが」本部長が自分の猛り狂った竿を握らせようとするので、

 いっそ玉を左右同時に握り潰してやろうとしたそのとき。

 突入。

 いや、そうゆう意味じゃなくて。

 制圧?のほうが正しいか。

 悲鳴と動乱。

 動くな、という怒号によって会場内がしんと静まり返る。

 外で待機していた捜査員が一斉に飛び道具を構えて。

 誰の合図?

 まだ決定的なことはナニも行なわれていないのだが。

「あとは頼んだよ」おもむろに立ち上がった本部長が捜査員の一人にどや顔で言い放つと某課長の細腕を確保して。「行こう」

「一人でイけ」高いヒールは足が痛くて嫌なのだがたまには役に立つ。

 クリーンヒット。ケツに。

「何をするんだね」

「そうゆうあんたはナニをしたよ」ここ来てしたことと言ったら、

 人の太ももまさぐって勝手にセルフで高まってただけの。

 ステージ。

 しまった。いない。

 ラバースーツ二体と生贄は難なく御用となったが。

 肝心の女王様が。

「どこ行くんだね」本部長がついてこようとしたので。

「部屋片付けといてくださいね」と、俺が勘違い必須の文言を投げ捨てるや、

 普段の標準装備。にこりともしない鉄仮面に戻った。

 手足のはずの捜査員を無言で竦み上がらせる。

 やれやれようやく仕事モードに。

 誰があんたの部屋を片付けろなんて言ったよ。

 お前が片付けるべき部屋は、

 女王様のお城。有象無象を一掃しろという意味。

 お前の仕事はそっちだ。

 俺の仕事は。

 対策課・課長の役目は。

「待って!」

 よりによってこの寒空の下、電飾煌びやかな深夜の歓楽街を追いかけっこだとか。

 方やボンデージ女王様。

 方やくるぶし丈のドレス。走りにくいったらない。

 裾を破いた。

 前方に、

 胸板の厚い巨漢の方々が。

 あっちゃあ。わたしは怪しいものではありません。なにを隠そうここいら一帯を支配する美少女店主の奴隷だと説明すれば一発で通してくれるんだろうけど、そんなことしてる時間がない。

 女王様はこちらの状況に気づいて、

 タクシーを捉まえる。そうは行かせるか。せっかく、

 公務員のセクハラに耐えてまで追い詰めた現行犯だ。みすみす、

 逃せるか。

 眼の前で。行ってしまう。

「お待ちになって」ここいら一帯の下々を支配する権力者。

 スーザちゃんこと俺のご主人の一声で、

 胸板の厚い巨漢の方々が空気を呼んで。

 タクシーを止めにかかる。そんな壁みたいな壁に襲いかかられたら、発進を諦めざるを得ない。

「なかなかの手際ですわね」待ってましたなご主人のご衣裳は、

 肩の部分が透けた黒のバルーンドレス。

 背中が大きく空いているが、ストールで覆われて。

「このくそ寒い中よくやりますわね」

「見てらしたんで?」無意味な質問。「どちらにお出掛けで? 素敵ですね」

「ボーくんこそ。ドレスを犠牲に犯人確保など、わたくしにはとても」

 嫌味か?

 胸板の厚い巨漢の方々が、

 職業的女王様を拘束して。

「ちょっと、気安く触んないでよ。痛い、痛いじゃない」

 権力的女王様の前に差し出す。

「騙したのね?」

「あんなコブタ痛めつけたところであなたの曇天は晴れませんわよ」

 なるほど。

 一件目の被害者兼被疑者は、餌として使い道を見出されたわけか。

「わたくしだって、こんなことしたくてしているわけではありませんわ」ご主人がケータイしか入らないような小さいバックを俺に持たせる。

 やたら重かった。何入れてるんだろう。

「あら、乙女の秘密を覗かないでくださいましな」

「爆弾とか?」

「もっと恐ろしいものですわ」ふふふ、とご主人が意味深に笑う。

「信じてたのに」女王様が言う。「どうする気? 二代目ともあろうあなたが被害者をケーサツに突き出すの?」

「天罰はどうかわたくしに任せてくださいな」

「自分の仕事取られたから厭なんでしょ? それだけなんでしょ?」

 ご主人に噛みつかんばかりの勢い。胸板の厚い巨漢の方々四人がかりでも女王様を完全に制止させることはできない。

「あなたが二代目なんか受け継ぐ資格ないのよ。祝多さまならこんなこと」

「ママなら、どうしたのでしょうね。わかりませんわ」ご主人がゆっくりと女王様に近づいて。「あなたの真実を話してくださらない? 会わせたい方がおりますのよ」


      2


 もはや三日目なのか。

 いまだ四日目なのか。

 悟桐助手に渡された発信機内蔵腕時計は謹んでお返ししてしまったので。

 わからない。窓もない。そうか。

 この押しつぶされそうな閉塞感の背景にはそれもあったか。

 僕に与えられた会議室くらいだ。

 窓の外が見えるのは。

 しかし窓の外に特別な何かがあるわけではない。

 窓があることで安心できるのは、そこに空や雲が見えるからではない。

 窓の外に、こことは違う世界が広がっているという期待。

 窓の内側の世界がどんなに絶望的でも、

 窓の外側の世界に夢を馳せることができる。

 窓ガラスに手を付ける。ひんやりと、

 結露している。

 見えない。窓の外は。

 手を離すと、

 手の形に窓の外が透けて見える。

 水滴が一直線に落下する。その跡。

 何本もの線が。格子を思わせる。

 僕はまだこの窓を開け放つべきではない。

 開け放った向こう側を視認すべきではない。

 なぜならこちら側に、

 視認すべき化け物が息を潜めているから。

 そいつの息の根を止めるか吹き返すかして、

 正体をあぶり出さなければいけない。

 お前の名前とその生態を。

 この化け物は厄介で、見る角度によってまったく違った存在に化ける。

 だからこそ化け物なのだが。

 緑野医師の真実。

 斎宮主任の真実。

 悟桐助手の真実。そして、

 瀬勿関先生の真実。

 登呂築無人の真実。

 僕はこれらすべてを同価値かつ同時進行で捉えなければ。そうしなければ、

 国立更生研究所の副所長の任から逃れられない。一生を、

 この非人道的な人体実験の推進に捧げさせられることになる。

 スーザちゃんなら。

 どうするだろうか。

 知っているのだろうか。僕が知らなければならないことを。

 知らないはずはない。知っていて、敢えて。

 僕をこんなところに。

 だとすると目的は?

 賭けの景品云々はポーズだったか。まんまと。

 ノック。

「開いてますよ」誰だろう。

「朝早くにすみません」斎宮主任だった。つい今しがた叩き起こされた、みたいな覚束ない表情で。「ちょっとよろしいですか」

「ちょっと、の内容にも依りますが」

 斎宮主任は後ろを振り返ってドアを閉めた。

「電話がきてまして」

「いいんですか?」僕が外部と連絡を取っても。

「本当はまずいんですけど、運よくと言いますか、所長は昨夜遅くに出掛けられたきりまだ戻ってきていなくて。なので」

「誰からですか」

「たぶん、合ってますよ」斎宮主任は意味深な微笑みを浮かべ、僕にケータイを手渡すと足早に退室してしまった。会話内容を立ち聞きする意志がないことを示してくれているようだった。

 ケータイを耳に当てようとして、待受画面に映っているものの異質さに気づき。

 思わず二度見してしまった。これは、

 動いて、る?

「おはようございますわ、ムダさん」スーザちゃんの動画が喋る。

「え、あ」なんだこれ。

 テレビ電話?

「なにが、え、あ、ですの? 久しぶりすぎてわたくしのことなど忘れてしまったのでしょう? セキさんのところがあまりに居心地がよすぎて帰りたくなくなってしまったと」

「ううん、それはない」それだけは。「ごめん。意外だったからビックリで」

「ふふふ。よろしいですのよ? それでこそわたくしのムダさんですわ」スーザちゃんが微笑む。

 ああ、そうだ。これだ。

 これが足りなかった。僕には、

 この笑顔が必要なのかもしれない。なんて、

 言わないけど。言ったら取り返しがつかなくなりそうだから。まだ、

 言わない。もうちょい。

「ごめん。いろいろ混乱をきたしてて」

「そんなことだろうと思いましたわ。ご安心を。セキさんはこちらで足止めしていましてよ? ボーくんが」

「課長が?」どうやって?「大丈夫なの?」

「ええ、ですからムダさんは」スーザちゃんの顔がフェイドアウトして、

 緩くくせのかかったセミロング。眼元の化粧に渾身の力を費やした。

 二十代前半くらいの女の子が。

 思いっきりガン見された。

「さあさあ、この方が噂のムダさんですわよ? 遠慮なさらずに?」見切れたスーザちゃんが急かす。

「ケーサツなの?」その女の子が訝しげに言う。

「元、ね。いまは」

「へえ、クビってこと。ふーん、おじさん、イケナイことしたんだ」

「らしいね。おじさんには身に覚えがないんだけど」

 見切れたスーザちゃんが女の子にツッコミ専用の肘鉄を喰らわせる。自他共に認めるおじさんに対するツッコミだったのかもしれないが。

「徒村です」女の子の警戒を解くために自分から名乗るべきだと思った。「そこにいる二代目店主の奴隷が課長やってる対策課ってとこに所属してます」

「課長? あの奴隷ってなんなの?」

「なんだろうね。僕も常々そう思ってるんだけども」

 見切れたスーザちゃんがごほんごほんと咳払いする。

 場面転換の合図。

 になればいいんだけど。

「吊縛ってゆったら話が通じないから」女の子が言う。「みなの。マリア」

「緑野先生の?」娘?この女の子が、

 緑野医師を復讐に駆り立てる原因となった。

 生きてた。なんだ、

 てっきり殺されたほうの被害者なのかと。思ったが、

 生き残ったほうの被害者。サヴァイバ。

「ふーん、知ってるんだ。あいつまだ生きてる?」

 生きてるも何も。

「いまお父さんの職場で体験実習してるんだけど」

「あんなの父親じゃない」マリアさんの表情が歪む。「だからあたしを緑野って呼ばないで?マリアもイヤ。吊縛だから。吊縛って呼んで」

「わかった。ツリシバさん」スーザちゃんがわざわざ電話をかけさせたとゆうことは。「だいじな話があるんだね? 7年前のことと関係してる」

「あたしはその被害者なの。あたしの元彼は7年前殺された。あたしの眼の前で、あたしも触ってない穴をぐっちゃぐっちゃに犯されて最後虫けらみたいに殺されたわ」

「犯人は?」見たのか。「誰かわかる?」

「捕まったわ。自首したんだって。いまもそこ、あいつのとこにいるんでしょ? なんで生かしてるか知ってる?」

「人体実験?」

「そこの所長が庇ってるの。自分の患者だから」

 登呂築無人で間違いなさそうだが。

「所長と面識は?」あるに決まってる。

 7年前の被害者イコール、

 イブンシェルタの利用者。だけど、

 敢えて訊いた。反応を見たかった。

「セナセキこそまだ生きてんの?」

「生きてたら厭なんだ?」

「聞いてないの?」

「何をだろう」

「あたしとセナセキの関係」ツリシバさんが言う。「ミナノリョクヤのち*こから出たせーしが運悪くセナセキのしきゅーでタネ付けされたなれの果てがあたし」

 その描写は随分とえげつないが。

「え?」ちょっと待って。いま、

 なんてゆった?

 いや、あんまりそう何度も繰り返して聞きたい説明文じゃなかったが。

「なによ。ウソなんか」

「そうじゃなくて」

 え?じゃあ、瀬勿関先生は?

 緑野医師と?

 そうゆう関係で?

 え?

 そうだったの?

「どーせセナセキにげんそーとか抱いてたんじゃない? あんなあばずれ」

「ホントに?」本当の本当に。

 信じられない。

 信じたくない。あの瀬勿関先生が、

 すでに一児の母で。

 しかもすでに子どもはこんなに大きくなってて。

 相手はあの、

 冷酷無比そうな外科医。ちょっとばかし頭がSFに支配されてるが。

「無理矢理じゃないの?」子どもつくらされて、とか。

「どっちでも変わんないわ。結果がここにいるもの」

 産んでしまえば同じ、と。

 そうだろうか。産みたくなくて仕方なく産んだのと、

 産みたくて産んだのとでは。

「お願いがあんだけど」ツリシバさんが言う。「いまミナノリョクヤのとこにいるってゆったよね。てことはそこにセナセキもいんでしょ? そいつらの前であいつぶっ殺してよ。あいつはあたしの不破くんに」

 あいつというのは、

 登呂築無人のことか。

「フワくんてのが、君の元彼?」

「そう、不破繁栄。セナセキは不破くんにもちょっかい出してたの。あり得ないでしょ? 娘の彼氏寝取ったのよ?」

 本当かどうかはさておき。

 ツリシバさんの元彼の名前だ。フワシゲル。

 ん?

 どこかで聞いたな。不破シゲル。

 斎宮主任の友人も確か不破繁栄。

「瀬勿関先生の名前もシゲルだよね?」

「なにゆってんの?」ツリシバさんが何か汚いものを見るような眼で。「あのあばずれはセナセキ。瀬名セキよ。なんでシゲルになんの?」

「え、ちょっと待って」

 セナが名字で。

 セキが名前?

「瀬勿関シゲルじゃ」ないのか?

 ないんだ。

「そうか」

「ぶっ殺してくれんの? どうなの?」

「ツリシバさん」改めて彼女を見てみた。

 似てるかもしれないが、そこは割とどうでもよかった。

「ぶっ殺す願いは受け入れられないけど、君の真実を話してくれてありがとう。お陰で僕がこれからどうすべきかわかったような気がするよ」

「それはよかったですわ」異を唱えるべく画面に顔を近づけたツリシバさんから巧みにケータイを引っ手繰ったスーザちゃんが言う。「セキさんを足止めした甲斐があったというものです。7日間は長すぎますわ。ラスボスをぶっ倒したら帰ってきてもよろしいんですのよ? 主のいなくなった城に長居する理由はありませんもの」

「ラスボスになり変わる以外はね」

「そこどこ? いまからあたしが行って」ツリシバさんが見切れている。

「登呂築ナサトくんを殺すにはまだ早いんじゃないかな」彼の真実をまだ、

 話してもらっていない。

 行くならいまだ。いまをおいて他にない。

 なにせいま、

 ラスボスが城を空けている。

「もう一個だけいい?」ツリシバさんに聞いた。「君は瀬勿関先生と緑野医師のどっちが嫌い?」

「わかってること聞かないで」

「わからないから訊いたんだけどな」

「どっちか好きだと思ってるの?」

「わかんないよ? もしかしたら君はそれほど二人に怨みを持っていないかもしれない」

「どういう意味よ」ツリシバさんがその切り返しをしたとゆうことがすなわち、

 僕の仮説もあながち間違っていないと。

「セナセキの患者じゃないの?」

 真犯人。

「それをいまから確かめに行くよ」


      3


 まんまとしてやられた。そうゆう顔をしてくれればこっちだって。裏工作のし甲斐があるんだけど。

 このよーかい露出狂は。

「これがお前の仕事なのか」そうゆう態度でふんぞり返る。

 どっちが拘束されてるのかわかりゃしない。

 一件目の被害者兼被疑者をぶち込んでおいた個室。そこに瀬勿関シゲルを誘き寄せてうまいこと手錠をかけることに成功したのだが。甘んじて、掛けさせてもらった気がしないでもない。

 抵抗のての字もなかった。

 何も知らずに(かどうか大いに不明だが。予想が付いてたような気もするが)まんまと個室にやってきた瀬勿関シゲルを、照明も点けずに暗い室内で待っていた某課長が。うまいことひっ捕らえるとゆうシナリオだったのだが。

「朱咲の考えそうなことだ」瀬勿関シゲルはベッドに腰掛ける。後ろ手に手錠で拘束されたまま。「大方私が留守の隙にムダくんをナサトのところへ行かせようとそうゆう魂胆なんだろう。行ったところで奴は何も言わないさ」

「センセに口止めされてるからすか?」

「明かりくらいつけたらどうだ。甘味料、お前の落胆した顔が見たい」

「まだ暗順応がお済みでないですか?センセ。人参でも差し入れしましょうか?」

 逃げられないとも限らない。

 俺はホントは、瀬勿関シゲルと一対一で話なんかしたくない。ご主人に命令されなければ誰が好き好んでこんな。

 脳の中を、

 内側からその白い指先でなぶられている気分だ。

「解離でも起こしたか?」瀬勿関シゲルが言う。

 奴は俺の表情を肉眼で捉える必要はない。そんなことしなくたって、

 見えている。わかっている。

 奴の本職がそれだから。

「診察してやろうか?」

「瀬勿関シゲルって、本名じゃないらしーすね」

「お前だってそうだろう。胡子栗茫。いや、小頭梨英。ちゃん付けのほうがいいか」

「なんでシゲルって名乗ってるんすか。贖罪とかすか」

「贖罪て字書けるのか? 私は書けないな。食べ物の材料のほうなら」

 駄目だ。なんでこんなに、

 難攻不落なんだ。俺が相手だからか。

 ムダくんなら。

 太刀打ちできてたのか。どうやって?

「せめてメガネくらい掛けさせてくれないか。白衣のポケットにある」

「その隙に俺からカギを奪おうとかそうゆう算段ぽいすね」

「しないさ。お前が本当にその手にカギなんか持ってるなら、だがな」

 ばっちり見えてるんだろう。そうでなければ、

 どうしてこんなに汗が垂れる。

 理由が説明できない。したくない。

「お前じゃ駄目だ、甘味料」瀬勿関シゲルがベッドから腰を浮かせる。

 近づく。こちらへ、

 一歩。

 二歩。

「どうした? 魔女でも見るような顔だな」

 脳の一部を除いてその他すべてが、

 後退の意志を表明している。

 下がれ。そうだ。

 一歩。

 二歩。

「怖いか?私が。怖いんだろ?」瀬勿関シゲルの眼が。

 厭だ。

 いやだいやだ。

「さわるな」背中がドアに。

 なんでこの部屋はそんなに狭い。

「そう毛嫌いしないでもらいたいな。一応はお前の主治医でもあるんだから」

 耳。その裏側。

 メガネのかかっている部分。

「こいつを借りようか」舌で。

 顔を背けると同時にしゃがんだ。メガネのフレームが曲がった気がするがどうでもよかった。こんなのは直る。

「治らないな。お前の女嫌いは」

「治すつもりないんで」そんな話してる場合じゃない。

 いつまでこの精神的脳外科医をここに足止めすればいいのか。

 まだか。ムダくん。

 スーザちゃん、助けて。

 掘られる。


      4


 誰にも気づかれずにB4に辿りつくのは不可能だ。少なくとも、天井のカメラで斎宮主任は気づいている。気づいていて敢えて止めないとしたら、

 斎宮主任はもしかしたら、

 僕らの味方なのかもしれない。

 いや、そう決めつけて寝首を掻かれるのも厭だが。

 いまのところ、

 誰も追ってこないし誰も僕を止めにこない。

 いざ、

 ラスボスに幽閉される。のは、

 なんだろう?姫じゃあれだから。

「よお。俺が存在してるってゆう前提での仮説ってのはできたのかよ?」

 通路の突き当たり。

 垂直方向の鉄の棒の向こう。

 いる。いるのだ。

 確かにそこには。

 登呂築無人と呼ばれる人間が。

「昨日はごめんね」昨日かな?「僕自身もいろいろな仮説を試してみたいってのもあってね。君の名前が珍しかったからつい暴論を吐いちゃったね」

「で? どうだって?」彼はさっさと結論を望むタイプのようだ。

 僕と同じ。

 好ましい。

「仮説云々の前に一つ、ゲームをしたいんだけど。どうだろ?」

「あ? んなまどろっこしいことしてられっかよ」鉄の棒を蹴られる。「時間ねえんじゃねえの? 一週間限定の副所長さんよお」

 やはり鼻から上が見えない。闇に覆われて。その闇を、

 晴らして白日のもとに曝したい。

 なんて、どっかのケーサツ組織から借りてきた正義感染みたことは思ってないけど。

「ゲームとか嫌い?」

「は? ゆうじゃねえの。誰が負けるのが怖いって?」

「だったらやれるよね? 負けるのが怖くなければ」誰も勝ち負けのあるゲームだなんてゆってないのだが。ゲーム、イコール勝ち負けがあるという等式が彼の中に存在しているということはつまり。

 勝負事を好む。好戦的な性格。

 本当はこの手のパーソナリティ分析もどきなんかやりたくないのだが。

 顔が見えない以上は、

 表情以外で彼の本質に迫らないといけない。致し方ない。

「んで? ゲームっつうのは?」

「簡単だよ。僕と君が交互に問題を出す。三択でね。より多く相手の問題に正解できたほうが勝ち。勝ったほうが相手のゆうことをなんでも一つ聞く。どう? やれる?」

「は? んなの絶対ェわかんねえ問題出しゃあ勝ちじゃねえの? ムリだろ」

「そう。無理か。君はこのゲームに勝つ自信がない?」

「ゆってくれんじゃねえの」鉄の棒を蹴る。彼は、怒りの矛先を周囲にまき散らすタイプのようだ。「いいぜ? でもいいのかよ? 俺が勝ったらてめえ」

「僕を追放する? いいよ。僕だってこんなところ二度と来たくない。君が望んでくれるならこんなにいいことはない」

「何問勝負だ?」

「どっちかが間違えるまで。ここの所長はどうゆうわけか三にこだわってるけど、その所長はいまここにいない。気を遣う必要もない。あ、三択ってのも別にどうでも」

「確率的に3問だしゃあ、1問当たっちまう計算だな。あと3択だと人間てのは2番目を正解にしちまいがちらしいぜ? 4か5にしねえ? そのがサドンデスが盛り上がるってもんだろ?」

「じゃあ四択で。五つも瞬時に思いつけないからね」

「いーぜ。どっちからだ?」

「じゃんけんでもする?」

「そっちからでいーぜ? 副所長サンよお」

 そう来ると思った。

 その場の思いつきで行動しているように見えて、彼は実はとても用心深い。僕が提案したゲームをまず、僕が出した問題によってその悪質さを見極めようとしている。

「それじゃ僕からね。第一問。僕の名前は何でしょう?」見えていないとは思うが念のため、檻に近づく前に首にかけてあるIDを裏返しておいた。「1番、徒村等良。2番」を提示するまでもなく。

「1番だろ? 徒村さんよ。俺が憶えてねえとでも思ったか」

「正解。嬉しいな。一度しか言ってないのに憶えててくれて」

「いきなり捨て問じゃねえの? いーのか? 俺は最初っから飛ばしてくぜ?」登呂築無人くんは楽しそうだった。話し相手ができて暇つぶしになるからだろう。

 その程度の、相手だと思われている限りは僕に。勝ち目がある。

 どうにか彼が油断しているうちに先手を打ってしまいたい。

「んじゃ俺の番。俺の歳はいくつだ? 18。19。20。21。どーれだ」

 この問題をわざわざぶつけてきたことの裏を読め。

 そうすれば、答えはおのずと。

「難しいね。そうだなあ」考えるふりをしろ。「迷うけど」自信のない素振りで。「3かな? そのくらいはいってそうだよね」

 二十歳。

「なかなか勘がいいじゃねえの? せーかい。やるねえ、副所長サンよお」

 やはり。彼は子ども扱いされることに対し僕に釘をさしてきた。

 もう自分は二十歳なんだから。子どもじゃないんだから。

 それ相応に扱ってほしい。

 この問題はそうゆう意味合いが強い。正解不正解云々よりも。

 彼はまだ、

 僕が仕掛けたこのゲームの本当の意味に気づいていない。

「次だ次。てめえの番だよ」

「急かすなあ。そんなにぽこぽこ思いつかないよ。そうだね」悩んだふりをしろ。「あ、こうゆうのはどうだろ」いきなりすぎるかもしれないが、早急に。

 決着をつける意味で。

 彼の言うとおり、僕にはあまり時間がない。

「第二問。国立更生研究所の所長を務める美しき精神科医・瀬勿関シゲル先生が愛していないのは次のうち誰でしょう? 1番」

「おいおいおいおい。そりゃあんた、正解わかってんのか?」

「わかってるよ。君は知らないの?」やや挑発。「1番、外科医の緑野リョクヤ先生。2番、看護師の悟桐ゴトー助手。3番、連続強姦殺人犯の登呂築無人くん。4番、副所長研修中の僕」

「てめえ、気のせいか? あっちゃならねえ選択肢があった気がすんだが」

「答えわかんないの? 誰でしょう?」

 登呂築無人くんが黙る。答えられないんじゃない。彼には、

 答えがわかっている。だから、

 答えたくないのだ。

 答えてしまったら。

「どれ? 答えてよ」認めたことになる。

「てめえ、ざけてんのか? んなてきとーな問題出しやがって」逆上。「愛してないのは誰だ? んなの」

「本人に聞かなきゃわかんない? 僕にはわかったよ。この中で一人だけ、先生が愛していない人がいる。一人だけね。先生が愛してないのは」

「1番の緑野リョクヤですね」後方から。

 振り返るまでもない。

 見つかった。しかし、ゲームセットとゆうよりは。

 仕切り直し。

「正解ですか?」悟桐助手が、仏頂面で立っていた。「正解でしょう?」

「その自信のほどを聞こうか」



      4選りに選って男は

 バイリンガル揃いも揃って男はプレッツェル



 先生はとても綺麗だった。綺麗だった先生を穢したあの男を、

 絶対に許さない。

 緑野リョクヤ。

 先生がお前なんか相手にするわけないだろう。先生は、

 俺のことが好きなんだから。愛してるんだから。

 俺と一緒に暮らしてるんだから。

 でも俺は夜勤が多いから、先生とすれ違うことが多い。

 俺が家に帰ると、先生は出掛けたあとで。

 先生が帰ってくるよりも前に俺は家を出ている。

 最近先生と喋ったのはいつだっけ。

 先生の笑顔を見たのはいつだっけ。

 思い出せない。そこだけ、

 虫食いに遭っておまけに黒塗りにされている。

 わからない。思い出せない。

 だから俺は、

 夜勤のない職場に変えた。そうしたら先生は、

 夜中に帰ってこなくなった。

 どうして?

 俺を避けてる?

 尋ねようにも会えない。メールも電話も無視。

 俺と先生のつながりと言ったら、

 毎月二五日にリビングのテーブルに、

 家賃と水道光熱費の半分が置いてある。

 たったこれだけ。

 耐えきれなくなった俺は、先生が非常勤をしてるクリニックに面接に行った。

 先生と知り合いだということは伏せて。

 先生は毎週水曜日の担当だった。

「ここまでされると重たいなあ」先生は他のスタッフが帰ったあと、

 診察室でそう言った。重たい?

 なんで?俺は。

「先生の」

「恋人でも気取ってる? そう。それは残念だね」先生はカルテを片づけながら言う。「知らなかったの? あたし、結婚してるんだよ? あなたとそう歳の変わらない娘もいる。あなたとは」遊び。「不倫してたわけ。でももう厭きちゃった。そろそろあの家、あんたに」あげる。

 要らない。先生が、

 帰ってこない家なんか。

「騙しててごめんね。とか言ってほしい? 言ってあげよっか」先生は相変わらず、

 俺なんか見てない。先生が見てるのは、

 その手元の、

 カルテ。患者。

「よく面接通ったね。人足りてるはずなんだけど」

「先生」

「帰っていいよ。残業代もつかないし」

「先生」

「戸締まりしたいから」外に出ろと。

 先生はそうゆう素振りで。

 もしここで俺が先生を無理矢理襲っても。

 何の意味も成さない。もしかしたら先生の胎内に既成事実を作れるかもしれないけど。

 そんなもの、

 先生は平気で殺してしまうだろう。なかったことにするだろう。

 最後に先生の綺麗な身体を見たのは何年前なのか。

 俺は、

 どうすれば先生の傍に置いてもらえるのか。

「お願いです」

 先生。

「俺を」

 捨てないで。

「なんでも」

 するから。

「なんでも、できます。先生のためなら。先生が望むなら俺は」人殺しでもなんでも。「だから、先生」

 先生は無言で帰る支度をしていた。

 肥大化したバッグを肩から掛けて。俺を、

 見てくれていたらいいけど。見てない。

「出て」

「先生」

 駐車場まで追いかけた。先生は迷惑そうな顔すら浮かべない。

 迷惑じゃないから、じゃない。

 何とも思っていない。俺のことなんて。先生は、

 俺を愛してなんかいなかった。

「先生」ウィンドウに手を付ける。「ねえ、お願いです」

 キーを差し込んで、先生は。

 エンジンを止めた。

 ドアを開ける。先生の、

 綺麗な脚が見えた。

「ねえ、本当に何でもする覚悟ある?」

「はい。あります。なんでも」できる。する。それが、

 先生に愛されるためなら。いや、

 先生の傍にいられるのなら。

 あたりは真っ暗。俺はようやく、

 自分の身体感覚を意識する。寒いのか熱いのか。

 わかろうとした。

 わからなかった。どうでもよかった。

 先生が、

 微笑んでいる。

「あたしのためになんでもするのね?」

 ゴトー。

 ああ、久しぶりに。

 先生に呼んでもらえた。

 ゴトー。先生は俺を、

 そう呼ぶ。

 本当はゴトーじゃないんだけど。先生がそう呼ぶのなら俺は、

 悟桐ゴトーなのだろう。

 それでいい。

 それがいい。

「乗って」

 助手席。

 先生の横顔が見える。

「連続殺人犯て知ってる? いまニュースでやってる」

「ええ、はい。6人でしたか、殺したとかゆう」そんなに殺しておいて、

 まだ捕まっていないのだ。

 ケーサツは一体何をしているんだ。テレビも新聞もマスコミ総出でバッシング合戦。

 犯行はすべて深夜から未明にかけて。

 だからその時間帯の外出を制限するくらいしか。打つ手立てがない。

 狙われているのは若い女性。

 犯行現場は、六件ともすべて。

 市内。怖くなくはないが、

 誰もが自分だけは安全だと思っている。思い込んでいる。

 どうだか。

「私はその犯人を知ってる。でもちょっと厄介でね。本当に彼がやってるのかどうかいまいち信じがたいの。だから」ブレーキ。

 信号は赤。

「知ってるんですか?」まさか。

 先生の。

「さすがはゴトー。察しがいいね。そうゆうとこは」好きだよ。「ケーサツにもまだ言ってない。なんで言ってないと思う?」

「野放しにしてないんですね?」

「もし彼がホントにやってるんなら、七件目以降は決して起こらない。模倣犯がいない限りは、だけどね。そこでゴトーに」

「共犯ですね」

「聞こえが悪いなあ。でも」スタート。

 信号は青。

「そうかもね。連続殺人犯を匿ってるんだから」

「いまから彼に会いに?」先生の、

 患者だ。そうでなければ、

 先生が庇う理由がない。

「ちょっとした実験を考えてるの。協力してくれる?」

「返事は一種類しか浮かびませんね」先生が、

 白というならそれは白であり。

 黒というならそれは。

「苦労かけるね」

 先生がやっていることに間違いなんてない。

 例えそれが、

 連続殺人犯を模倣犯によって葬り去ってしまうことだとしても。

 連続殺人犯は、

 連続殺人犯ではなかった。単語が抜けている。

 連続と殺人の間に、

 抜けている。

 足りない。

 その言葉を補ったとき先生の、

 その生涯を懸けて打ち込みたい偉大なる研究の全貌が明らかに。

 なったのだ。俺はそれを、

 喜ばなければいけない。

 先生の姿を後ろから眺めることができるこの位置を。

 満足しなければならない。

 先生が本当に愛していたのは、

 誰なのか。俺じゃない。

 俺じゃないのだ。

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