第3話 クセニヤの追放

      1


 二日目。

 だとは思うがどうにも自信が持てない。

 時刻がわからないだけでこんなにも不安になるのか。

 時刻がわからなくなるほど昼夜問わず働いていたくせに。

 悟桐さとぎり助手あたりに頼めば、時計の一つや二つもらえないだろうか。そうと決まれば。

 2Fへ。

 悟桐助手はそこにいるはず。しかし、

 エレベータホールで。

 後方から近づいてくる姿が。

「おはようございます副所長」

 ここは、

 3Fのエレベータホールなのだが。

「ご気分は如何ですか」悟桐助手が言う。

「仕事熱心ですね。随分と早朝から」

 僕の見間違いでなければ、

 悟桐助手は。

 3Fの突き当たり、所長室から出てきた。

「一時間後にミーティングがあります。場所は食堂を予定しています。朝食も兼ねて」

 かごが到着する。

「所長は?」

「ミーティングにいらっしゃるかと」

「所長室に?」

「緊急のご用事ですか」悟桐助手はボタンを押し続けている。矢印が外向きの。

 駄目だ。この青年には、

 皮肉を根こそぎ却下される。

「いま何時?」

 悟桐助手が腕時計を外して、僕に手渡す。

「ないと不便でしょうから」

「君が不便じゃ」

「研修の最終日に返していただければ」悟桐助手は押し続けているボタンを見遣って。「よろしいですか? まとめたい資料があるので」

「あ、すみません。どうぞ」

 ドアが閉まる。

 2Fに下りる用事はたったいま解消されたわけだが。

 7時04分。

 後ろを振り返る。行くべきか、

 やめとくべきか。

 邪推であってほしいのだが。それを踏まえて考えると、悟桐助手の行動原理がすべて一本の線でつながるというか。

 そういえば昨日、瀬勿関せなせき先生の姿を見ていない。寝に帰ってくるだけとのことだったが。

 所長室。

 このIDでは入れない唯一の部屋。入るには、

 ノック。

「誰だ」いた。「副所長以外はお断りだが」

「その副所長です」

「開いているぞ」

 とびきりの嫌な予感がじわじわとドアの隙間から漏れ出てはいたのだが、開けるしかなかった。

 先生は、

 とびきりの扇情的な格好で。

「すまないな。シャワーを浴びるところだ」

 いや、目の当たりにしたことはなくなくはなかったのだが、

 そう何度も。

 しかも頭が割とクリアな時間にまざまざと見せつけられると。

「出直しても?」

「今更何を遠慮する?」

 こうゆうところがどこかの課長とそっくりなのだが。言うと怒られるから言わないが。

 これならいっそ何も身に纏っていないほうがいやらしくないのでは。

 普段の白衣にミニスカートだって相当な刺激剤だというのに。

 下着本来の目的を著しく逸脱した用途の。

 さらに恐ろしいことにそれらの布は、大量に汗を吸収したことより素肌に密着していた。つまるところ、

 何もかもが透けている。頭の中以外は。

「一刻を争う用件なら拒まないが」

「悟桐助手とはどのような爛れたご関係で?」

「想像の域を出ない質問はするな。時間切れだ」と言い放つと瀬勿関先生は、奥のドアへ消えていった。

 すぐに水音が聞こえてくる。

 念願の瀬勿関先生の執務室のはずなのに、なにも嬉しくない。これはもう確実に、悟桐助手の牽制に遭ったと言っていい。

 やられた。

 気分を鎮静させるために所長室を検分させてもらうことに。

 したがおそらくは逆効果であり。やる前からわかっているならするなよと。

 ツッコんでくれる親切な第三者はここにはいないわけで。

 あああああ。僕はショックなのだろう。

 やっと意識化できる。

 別に瀬勿関先生とああやこうやしたかったわけではない。高嶺の花とゆうか、生活上の潤いとゆうか。麗しの脚線美とゆうか。

 それらがすべて、

 職務や仕事以外で。職務や仕事の関係者に関係されていたということが。

 やりきれない。

 例え身体だけの関係であったとしてもだ。身体だけの関係ってなんだ。

 スーザちゃんなら、ここで。

 僕と課長の爛れた関係を棚に上げるなと的確な砲弾をぶっ放してくれるんだろうが。

 なんでここに、

 スーザちゃんがいないんだろう。

「解離を起こしている顔だな」瀬勿関先生が、バスタオル一枚で風呂上がり。そしてそのバスタオルが覆ってくれている部位は、

 首の後ろから胸部の頂上にかけてという。

 ふつーは胸部の頂上から脚と脚の交わる部位を隠しませんか。違うんですか。

「現実感を取り戻すために私といまここで寝るか」

「いえ、それはさすがに」無理だ。いろいろが。そのいろいろの一部分を、

 瀬勿関先生が発見する。

「甘味料には勃って私には勃たないのはどういう倒錯だ」

「それはもう放っておいてもらうとしまして」お願いです。「服を」

「ふうん。こうべ以外は無駄をぶら下げているんだな」

「そうゆう名前ですので」衣擦れの音を認識しないように背を向ける。

 国立更生研究所の殺風景な近未来性とは一線を画す調度。

 アンティークなデスクとソファセット。壁を取り囲む本棚にはみっしりと専門書が。それらを保護する橙色の照明。

 所長室は、造りだけなら非常にシンプルなのだが。

 余剰部分が収まりきらずに溢れ出して足の踏み場を迷子にさせている。要するに、

 とっ散らかっている。

「これでも片づけたんだ。ゴトーが」

「ですよね」

 所長はそんな雑務は致さないだろう。しかしそのとっ散らかりぶりが、瀬勿関先生の頭の中を如実に表しているかのようで。

 運悪くこの人の頭に収まりきらず零れ落ちたものが、ここに。

「想像の域を脱する質問は思いついたか」

「服着ましたよね?」まだ振り返れない。顔を、

 見れない。

「そんなことでこの先どうするんだ。副所長なら慣れてもらわないと」

「あの、その件もきちんとお聞きしたいと思っていたんですけど」僕は、

 本当の本当に。

 国立更生研究所の副所長の座に付かなければならないのか。

 犬猿の仲の(と本人たちが言うのでそうゆうことにしてあるが)対策課課長に対する当てつけだとか、嫌がらせだとか、その手の小さな小競り合いのだしにされているだけのような気がしてならないのだが。

「僕にはその気がまったくないんですけども」

「なぜそこまで頑なに牙を隠すんだ」瀬勿関先生は、いつもの白衣にシャツにミニスカートという出で立ちに戻っていた。

 メガネはなかったが。

「君は環境に順応する必要はない。環境こそが君を鈍らせている要因だ。取るに足らない環境に媚びて大脳を麻痺させるな。君を損なわせている原因が、朱咲スザキや甘味料にあるのなら私はそれら阻害要因の一切を除くことも厭わない」

「僕には何がそこまで先生のお眼鏡に適っているのかがまるで理解できないのですが」

「祝多がみすみす殺されたのもそれが原因の一端じゃないか」

「僕は」

「会議の前に君の耳には入れておこう。なにせ副所長だからな」瀬勿関先生が、僕の言い訳という考察を遮る。

 遮ってくれて正解だった。そんなこと、

 言いたくなかった。

 言ってしまえばそれは形になってしまう。現実味を帯びてしまう。

「二件目だ。場所は○○大学の構内。私が以前いた研究棟のすぐ脇で」やるなんて。「私個人への宣戦布告と取るほかない」

 8時02分。

 ミーティングが大荒れに荒れることが予想される。


      2


 自首したとかゆう院生と面会許可が下りた。出張をそこそこに切り上げて駆けつけてくれたご主人のお陰。

 県警本部。

 もしかするとひょっとこすると本部長のお陰かもしれないけどなかったことにした。

 あんまここ、来たくないんだけど。

 建物内うろうろするだけで視線がぎらぎら痛いから。

 そんなに見つめないでよ。減るから。

「体液のDNAはお調べに?」ご主人が本部長に尋ねる。

「それがだね」

 検出されていない。

「なにそれ? ご丁寧にゴム付けたの?」強姦魔が。「付けます?ゴム」

 取調室。

 殺風景という単語を具現化したかのような白い部屋。被疑者と思しき院生は、手錠をされたまま椅子で項垂れていた。

「いやあ、これはこれは本部長殿。わざわざこんな」急に態度を翻す小太りと、

「お、お疲れ様です」その脇で背筋に電撃が走る若造。

 本部長引率ツアじゃなければ頭ごなしな怒号が飛んでいただろうと。

 院生相手にじゃない。対策課課長に。

 どうせ院生から性的暴行の一部始終を聞いてだらだらと空想の涎を垂れ流していたんだろうと。まともな人間はここにはいない。

 まともな人間じゃとてもケーサツ組織になんかいられない。

 本部長の一睨みで、小太り逃走。若造もそれを追う。

「口下手キャラってわけでもないでしょうに」

「あまり時間が取れない」本部長は唯一の出入り口を封鎖する。ドアにもたれて。

「ありがとうございますわ。あとはお任せくださいな」ご主人が言う。

「そうもいかないんだ」本部長が言う。

「送検? 弁護士でも来るわけ?」

「暴行犯と一緒にいさせるわけに」

「あーはいはい」そうゆう公私混同ね。「というわけでお待たせしました。えっと」被疑者と思しき院生の名前を聞いていなかったことに気づく。

 髪はぼさぼさ。くしやブラシが彼の髪を通過した一番新しい情報が、更新を拒んでいるみたいだった。

 空調の温度設定が低めにされているためか、単に脱ぎ損ねたのか、脱がしてもらえなかったのか、分厚いジャンパを着込んだまま。袖口が腐食ばりに変色している。買ってからいったい幾度の冬を越したことか。

「僕は研究を続けられますか」院生は下を向いたまま言った。抑揚が極端に欠如した声。

「研究内容を聞いてもよろしいですかしら」ご主人が尋ねる。

「一般人に理解できるかどうか」

「その研究で博士号をお取りになられるのでしょう?」

 論文は公開される。だから、いまここで彼が黙秘する意味はまったくと言っていいほどない。

「えっと、心理学がご専門で?」あの研究棟にいたんなら。と、助け船を出してみる俺。

「研究の邪魔をしないでもらえませんか」

「ですから、なんの研究ですの?」

 院生はそこで初めて、

 顔を上げた。眼が、

 誰にも似ていなかった。誰かに似ていることを、

 拒絶していた。

「説明の価値がありますか」

「うーん、論文の完成は諦めるほかないね」駄目だ、この手のタイプは。「君にとってそれは研究だったかもだけど、世間一般にとってそいつは」

 性犯罪。

「恋人の片方の自由を奪ったうえ、もう片方を無理矢理犯して最後に殺すってのはさ。どー考えても」

「考えてもいない人に言われたくないですが」

 あー言えばこー言う。

 小太りと若造相手には口を割ったのだろうか。

「研究の目的は何ですの?」ご主人が尋ねる。あくまで、優しい口調で。

「それ聞いて理解できますか」

「オリジナルの研究ですの?」

「どういう意味ですか」

「どなたかの研究をパクっているのでは?ということですわ。例えば、7年ほど前の、とある連続殺人事件を参考に」ご主人は、バッグから。

 一枚の写真を取り出す。

 青年が映っていた。二十歳前後の。さほど、

 印象の強くない。次の瞬間には、

 忘れてしまえそうな没個性。

「この方をご存じ?」

「答えなければいけませんか」

「返事は結構ですわ。あなたはこの方の手口をまんまとパクったのですから」

 え、誰?という意味で本部長に眼を遣ったが。

 この朴念仁は、

 見やしない。天井と床の中間をぼんやりと。

 聞いてもないだろ。

「あなたは見ていただけですわ。童貞のあなたにそんなことができますかしら。こんなオリジナリティに溢れた、最高の」に続く単語が思い当らなかった。

 最高だろうか?

 最高の下品。ならわからなくはないのだが。

「サンプルが足りないんです」院生が唱える。呪文のごとく。「全然足りない。実験の協力をしてもらっているんですが、それでも有効数には届かない」

「その協力依頼をしているサイトが、ここですわね?」ご主人がケータイ画面を見せる。ケータイサイトもあるらしい。

 パートナ寝取らせサイト。

「管理者は復讐のために。あなたは研究のために。利害が一致したのでしょう?」

「まともな会員がいない。足りないんです」

「他の似たか寄ったかサイトにも声かけてるんじゃ」モグラ叩き甚だしい。

 氷山の一角か。

「あなたの仮説をお聞きしますわ」仮説?

 なんのこと?

 ご主人には、7年前も。

 7年後も。

 しっかり見据えられているのだろうか。

「逆に聞きたいです」院生が食いつく。「そこまで理解できているんなら。僕の研究を理解できる可能性がありそうですから」

「理解など」ご主人が首を振る。「幻想ですわ。いまあなたはわたくしに、理解してもらいたいと。そう思っただけのことですわね。ご自分の近似値領域にあると、あってほしいと。その片鱗を勘違いしただけのことですわ。ご自分に都合よく」

「僕の仮説は」

 愛。

 院生が訴えかける。

「性差では現れないと思ってます」

「でしたら実験方法に不備がありますわね。おやめになっては?」

 陥落?

 院生は黙って項垂れた。かと、

 思われた。俺にもたぶん、

 本部長にも。話を聞いていたんならだけど。

 地を這うような震え。

 天を乞うような嗤え。

「なんで不破繁栄は死んだんですか。彼が生きていれば、彼なら。彼がいれば僕の研究は実験は。殺した奴は誰なんですか。知ってたら教えてくれませんか。そいつに不破繁栄の代わりをさせたいんです。僕の研究を妨害した罪で」そこまで一気に喋って、院生は。

 天井に向かって笑い出した。

 あははははははははははは。

「あーあ。悔しい。仮説が指示される前にこうなっちゃうなんて。捕まえるんならツリシバさん?だって同罪じゃないんですか。彼女は僕と違って直接取り仕切ってますけど。彼女は野放しで僕だけ捕まえるだなんて、だいぶ不公平じゃないんですか」

 ご主人が本部長に眼で合図して。

 取調室を後にする。

 廊下で張ってた小太りと若造に返品してやる。熨斗つけてクーリングオフだ。

「吊縛さんのことですけれど」誰もいない廊下に差し掛かったときに、ご主人が言う。

 立て続けに掛かってきていた着信を見もしないで切った本部長に。

「もう少し猶予を戴きたいのです」

「誰に復讐しようとしてるんだね」

「不破繁栄さんは7年前、確かに亡くなっていますわ。それが答えです」

「登呂築無人の冤罪が晴れるんだろうね」

「この7年は決して無意味ではありませんのよ?」ご主人が俺を見る。「彼に会うことでようやく確信が持てましたわ。この7年が結果としての7年だったのか、必然としての7年だったのか。ずっと考えていましたの。どちらであっても必ずどなたかの真実には一致しますの。だいじなのは、どなたの真実に合わせるのか。どなたの真実に沿ってこの7年後が動いているのか」

「わかったみたいすね」相槌代わりに口を挟む俺。

「ええ。あとはムダさんがセキさんの真実に辿りついていただければ」

「ご主人は?」瀬勿関シゲルの真実とやらに辿りついているのかどうか。「て、俺が言うことじゃないんすけどね」

「わかっていたら、むざむざムダさんを一週間もレンタルさせませんことよ」

「え、あ」まさか、てっきり。

「わたくしよりも、そちらの」ご主人が本部長を見る。「ずっと付き合いの長い大王さまのほうがお詳しいですわよね」

 聞くべきなのだろうか。聞きたくもないと言ったら嘘になるけど。

 瀬勿関シゲルの真実。

 なんだそりゃ。露出狂に至るまでの壮絶なるドラマティックならぬ、トラウマティックな過去とか?

 興味そそらない方向だなあ。

「奴、逸樹菜遇いつきナアイの処遇はどうすればいいんだね」血迷った本部長が言う。

「まあ、わたくしが決めておよろしいの?」

 本部長の送らせよう命令が発される前に県警本部を脱出。

 寒い。

 ああ、寒い。

 なんでこんな薄ら寒い朝っぱらから働かなきゃなんないのだ。ケーサツでもないのに。

 そこかしこに連れ回されてわかったことは、ご主人には大方読めているという。わかったようなわからないような一般論。

 不破繁栄が確かに死んでいるんなら、女王様こと吊縛さんとやらが献上したあのデータの意味は。

 わからない。考える気がないから。

 考えてもいない人に言われたくない、か。院生はしっかり見抜いていた。

「聞きたいことがございますかしら?」ご主人が白い息を吐きながら言う。

 朝帰りとは思えないほどの地味な格好で。本業の出張もそこそこに県警本部に直行してくれたことがよくわかる。

 あれか。渾身の衣装を見せつける相手を貸し出し中だからか。

「女王様は逮捕しないんすね」もう少し猶予、の意味。

「あら。被害者を逮捕するのがケーサツのお仕事ですの?」

「泳がせてるとかじゃなくって?」あ。「さっきの?」院生。「あいつがすか?」

 真犯人。

 模倣犯、だとのことだが。

「7年後の、ですけれど」

「7年前、はまだってことすね」

 誰なのか。

「すでに死亡していますわ」

 ??

 ?

「ええっと、すんません。それってまさか」7年前に、

 確かに死んでるとかゆう。

「不破繁栄くんとやらじゃ」



      3縋がる男は

   語らって聳える男はカフェラッテ



 不破くんがそんなことするわけない。

 その証拠に、

 わたしはまだ生きている。殺されてない。

 付き合って三ヶ月。

 サイグウくんには悪いけど、

 わたしが好きなのは。

 サイグウくんじゃない。

 五人の女が死んでるらしいけど、そんなの。

 不破くんに捨てられた逆恨みとしか思えない。

 死にたいなら、

 不破くんを巻き込まないで。

 一人で勝手に死んで。

 不破くんは優しい。すごく優しいんだけど、

 最近。

 わたしのとこよりも、

 あの女のところに行っている。

 知ってるんだから。

 サイグウくんと口裏合わせて、

 ありもしない講義に出席してる。

 知ってるんだから。

 あの女に抗議してるふりして、

 相談に乗ってもらってる?なんの?

 やってないんだから。

 不破くんは、

 殺してなんかないよ。

 ふられた女どもが、

 嫌がらせをしてるだけだよ。命がけの。

 あたしが証明してあげる。あたしが生きてるってことが、

 不破くんがやってないってゆうなによりの証拠。

 だからお願い。

 今日こそ会いに来て?

 メールをちょうだい?

 バイトもレポートもそっちのけで駆けつけるから。

 だからお願い。

 あの女のところには行かないで?

 今夜を最後にして?

 そうしてくれないとわたし、

 何をするかわかんないから。

「不破くんを返してください」

 あの女はのんきに研究室で夏みかんなんかむいていた。

「入室のお伺いがほしかったなあ」わたしを見もせずに果肉にかぶりつく。「すっぱ。食べる?」

「要りません」要らない。わたしがほしいのは、

 あなたの所有物でもなんでもない。

「不破くんの彼女はわたしです」先生じゃない。「わたしなんです」

「らしいね。不破くんも言ってたよ」次の房を口に入れる。「おー酸っぱい。いいの?食べない?」

「まともに話をしてください。わたしは本気なんです」

「みたいだね」先生はようやく夏みかんを手から離して、

 わたしと眼を合わせる。

 距離は数メートル。

「私はあなたから不破くんを奪った覚えはないよ。返してほしいってのは前提条件がおかしいわけだからね」

「昨日の夜は何をしてましたか」

「取り調べみたいだね。アリバイ?」

「一緒だったんじゃないですか」

「本人に聞いてみたら?」

「連絡が取れないんです」昨日から。ううん、

 もっと前からだけど。それは言いたくなかった。

「サイグウくんのバイト先に寄ったあと、行方がわからなくなってるみたいで」

「やっぱり私に聞くべきじゃないね」

「不破くんはコーヒーが飲めないんです。においが苦手みたいで。だからサイグウくんのバイト先に行くわけがない。カフェなんです。コーヒーのにおいが駄目な人がカフェなんか行くでしょうか」

「だからね」先生が溜息。「私にぶつける質問かなあ、それ。聞いたの?」

「サイグウくんが嘘を言うわけない」

「嘘をつかない人間はいないよ。もう一回聞いてみたら? それこそ取り調べみたいにねちっこく。何度も何度も。そしたらぼろっとぼろが零れるかもしれない」

「サイグウくんが私に嘘をつく理由がないんです」

「私なら、あなたに嘘を並べる理由があるってこと? 怨まれちゃったもんだね」

「茶化さないでください」この女の、

 こうゆう態度が大嫌いだ。

「どこやったんですか? どこに」隠したのか。「返してください」

 先生は夏みかんの皮をまとめて、

 ゴミ箱に捨てる。

 白衣の襟を掴んで。

「あーあ。染み飛んでるよ。落ちるかなあ」

「返してください」

 女が嗤う。

「やーだよ」


      3


 センサにIDカードをかざし、任意の4ケタを入力。

 一回目と同じ数字を入れたはずなのに、エレベータが下降しない。

 ミスった?

「副所長」あな麗しや、瀬勿関先生の所内放送が響き渡る。「行き先が違わないか。ミーティングが始められない」

「欠席します。理由はわかっていただけるものと」

「わからないな。きちんと説明しろ。納得するかどうかは」

「納得させます。僕にはあのミーティングに特別な必要性を見出せない。そして、僕があの場にいることに何の意味もない。なにせ研修中の身ですから」

 8時05分。

「口を出すなんてとてもおこがましくて」

「君は副所長だ。私の次の地位だ。君の意見には所長の私に次ぐ影響力がある」

「でしたらその影響力で副所長であるところの僕がいまからしようとしていることについての所長直々の許可を戴きたいものですが」

「念のために聞きたい。何をするんだ?」

「現時点で最も有力だと副所長であるところの僕が思い込んでいる仮説を検証しに」

「具体性に欠けるな」瀬勿関先生が、マイクを手で覆って何らかの指示を出している。

 悟桐助手あたりが止めにくるかもしれない。所長の手足筆頭だ。

「ミーティングの場で発表の機会を設けよう。全スタッフの耳に入れるべきだ」

「賛成です。僕のこの声を、会場に流してもらうわけにいきませんか。そうすれば仮説検証をしながら発表の機会を得られますので一石二鳥です」

 再度トライ。

 センサにIDを。任意の4ケタ入力。

 駄目か。エレベータの段階で所長の承認が必要らしい。

 あまり回数やりすぎてID自体がロックされてもいけないので。

「所長はいまどちらに?」僕の姿が見えているというのなら。

 この一週間限定で変更になったミーティング会場、つまりは食堂で。

 僕の姿を監視でき、かつ。

 局地的所内放送で僕と会話ができるだろうか。

「制御室ですか?それとも」所長室。

 考えないわけではなかった。大元の制御室と同等とまではいかないものの、監視と双方向のやり取りが可能な簡易設備くらいはあっても。

 スタッフに発信機を埋め込むほどの用心深さだ。だとすると、

 僕の外付けGPSは。

「親切は疑えって、すっかり忘れてました」悟桐助手がくれた腕時計。天井から見下ろすカメラに突き付ける。「いったいどのタイミングで電池を外したんですか」

 僕の時計の電池の寿命まで見透かされているわけがないから。そんなの持ち主の僕にだってわからないのに。

「先生は僕に何をさせたいんですか? 7年前の冤罪を云々じゃないんですか」

「いま私が副所長に望むことは、眼の前の3のボタンを押して食堂に来てくれることなんだがな。ついでに入室時にひとこと、申し開きの言葉があったっていい」

「ミーティングは始まりましたか?」埒が明かない。「食堂には所長も含め、4名が揃ってますね? 時間に遅れるとそれはそれは恐ろしい精神的ペナルティがありそうですし」

「奴らに示しが付かない。副所長として分別のある行動が見たいものだな」

「いるんですね?」

 瀬勿関先生。

 緑野医師。

 斎宮主任。

 悟桐助手。は、ゆうこと聞かない副所長を迎えに行ってるかもしれないが。

「登呂築ナサトくんに会わせてください」

「何を企んでいるのかだけ聞こう」

「ナサトって漢字でどう書きますか」

「無人だ。誰もいない」

「それです。それが僕の仮説です」

 登呂築無人は、

 その名が表わす通り。

「いないんですよ。そんな人間最初っから」

 沈黙。

「どうですか? それでもいるというのなら、スタッフの誰かが居もしない人間のふりをしていないという証拠があるのなら、これから僕が彼に会いに行ったところで何の問題もないはずですよね? まあ、ドクタストップという印籠を出されれば僕も逆らえないですが」使ってみろ。

 それこそが、

 仮説の実証にほかならない。

 諸手を挙げた降参。白旗を振り続ける。

 さあどうだ。

 どう来る。瀬勿関先生。

「会わせてもらえますよね?」

「検証は拒まない」ぶち、と放送が途切れた。

 エレベータが下降する。

 B4で止まる。

 白い扉。先日と同じ手順を踏襲。

 開錠。

 白い通路の突き当たり。檻の中。

 誰もいない。

 いるはずがない。

「誰だったのかは聞きません」誰でもいい。だいじなのは。「晴らす冤罪なんて最初からなかったんです。先生は架空の人物を犯人に仕立て上げて、ここで7年という月日を稼いだ。どうして7年なのかはわかりませんが」7年。失踪宣言でもあるまい。「僕がたまたまここに来たのが7年後ということです。残念でした。先生、誰を庇って」

 いるんですか。

 ははははははははははははっはははっは。

 放送が再開される。特大音量で。

 耳が割れそうだった。

 嗤っている。笑っている。

 所長が。

「いない? トロツキナサトが?いるんだよ」登呂築無人は。「いるさ。そこに。よく見ろ。いるんだよ、そいつは確かに。私が」ぶち込んだ。「連続強姦殺人鬼だ」

 檻の中に。

 さっきはなかった殺気。いる。

 いるのだ。

 それは、たしかに。

 嗤った。

「面白い仮説だったよ」瀬勿関先生の声が。「副所長。久しぶりに笑わせてもらった。いない? 誰がどこにいないって? やはり私が見込んだだけのことは」

 登呂築無人が、

 脚を投げ出して座っていた。

「よお。誰がいないって?」

「僕のこの仮説には穴があったことを認めます」負け惜しみじゃない。この展開まで込みの流れ。「スタッフの誰かが、というのは無理がありました。それではあまりに穴が空いてしまう。大きな穴が。先生は、登呂築無人という架空の犯人を仕立て上げるために、そもそもの代理を立てました。それこそ候補はいくらでもいたでしょう。先生がここで非人道的な実験台にしている性犯罪者の中からより取り見取りで」

「だからそれが登呂築無人なんだよ。そこにいる。見えるだろ?」瀬勿関先生の声。「わざわざ代理を立てる理由がわからない。すべての性犯罪者はここで更生プログラムを受けるべく制度が整っている」

「先生は真犯人を庇っています。不破繁栄くんですね?元教え子の」

「サイグウだな」告げ口の源。「始末書が書きたくて仕方ないらしい」

「先生は不破繁栄くんを捕まえさせたくなかった。アドバイスをしてたそうじゃないですか」

 付き合っていた女を捨てるために。違う女に乗り換えるために。

「無自覚で6人もの人間を殺せますか? 起きたら死んでた? 冗談も休み休み言ってくださいよ。好きだったんじゃないでしょうか。野暮なこと言ってますが」

「野暮だな。実に野暮じゃないか、ムダくんにしては」

「もう一つの仮説があります。彼」登呂築無人こそが。「不破繁栄くんという可能性です。不破繁栄を捕まえさせないために、死刑にさせないために、生かしておくために」或いは。とゆうかこれが最も可能性としては順当なのだが。「手に入れるために。他の女に乗り換えさせないために」ここに閉じ込めた。監禁を正当化させるために。「ここを」国立更生研究所E‐KISを。「創った。カムフラージュのために。違いますか」

「よくもまあぽんぽんとありもしない妄想を思いつくものだな」瀬勿関先生の声。「もしだ。もし万一私が不破繁栄を愛していて他の女に奪られたくないならそんな生殺しみたいな方法は採らない」

 殺すよ。

「私の手で。そのほうが手っ取り早く確実だ。私がそんな生ぬるい方法を好まないことくらいわかっているだろう?副所長」

 そうなのだ。監禁という後ろ向きな方法論が瀬勿関先生に馴染まない。

 瀬勿関先生が、不破繁栄を愛しているという前提条件が誤っているのか。

「言いたいことはそれだけか」瀬勿関先生の声。「抱腹絶倒な仮説とやらがまだあるのなら聞かせてもらいたいが」

「僕も聞かせてもらいたいです」あなたの。「先生の真実を」

 7年前、何があって。

 7年後、まさにいま。

 何が起こっているのか。

「聞かせてくれませんか」

「先生が愛しているのは僕です」後方から。

 悟桐助手が、

 ミーティングをサボった副所長を連行しに。

「それが真実です。ご理解いただけましたか」

「はあ? ゴトーちゃんよお」登呂築無人が鉄柵を揺らす。さながら檻の中の猛獣。「誰が誰をなんだって? もっぺん言ってみろや」

「冤罪ならさっさと出ろよマセガキ。出してやるよ、俺が、いますぐに」鉄柵越しに悟桐助手が挑発する。「出てえんだろ?出りゃいいだろうが。ほら、こいつが」カギ。

 カギは、

 悟桐助手の手にもある。ということか。

 まずい。そうすると、

「疑い濃厚ですか?」悟桐助手が僕の思考指針を読む。「確かに、僕には可能です。こいつで」カギで。「このマセガキを連れ出すことができます。しかし、それには」

 所長の承認が必要。

「いっそ所長が僕を副所長として鍛えるための自作自演寸劇とかだったほうがマシなんですけど」それはないだろう。いくらなんでも。

 そこまでやるだけの価値が、果たして僕にあるのかという。

「どうすか、副所長さんよお」登呂築無人が言う。「俺を解放する算段はついたのか」

「そだね。君が存在してるってゆう前提での仮説に組み直してくるとするよ」

 負け惜しみじゃない。

 惜しむのも負けるのも、まだ早い。


     4


 悟桐助手をつかまえて、B1からB3の案内をしてもらおうと思ったら。

 お前のその首から垂れ下がってるそいつはなんだと。

 飾りなら俺に寄越せと。そこまでは言っていないが。

「君に案内してもらいたいんだよ」

「僕だけまだ事情を話してませんからね」

 読まれていたか。

「緑野先生の手伝いがあるので」悟桐助手が言う。

 1Fに下りる。

 エスカレータを降りた裏側に回り込む。ドアには、

 処置準備室とあった。

 さほど広くない。むしろ窮屈な印象を受ける。押しつぶされそうな。

 それもそのはず。

 壁にぐるりと金属棚が取り囲み、整然と医療器具が陳列されている。実際に使用している器具をそこに収納しているというよりは、医療器具メーカの弊社商品一覧に近い。並べ方が尋常でない。ほどの、

 単に異常なまでの神経質かつ几帳面なのか。

「始めるとしよう」隣の部屋から緑野医師が顔を。出したが、

 いるはずのない顔が眼に入って。

 足を止める。

「見学ということだろうか」

「何を始めるんですか」なんとなく想像がついたが敢えて訊いた。

 わかっていることを尋ねると瀬勿関先生に怒られそうだったが。

 瀬勿関先生はこの状況を見ているはずだ。天井から。

「時間です」悟桐助手が緑野医師を誘導する。ドアの向こうに。

「しかしだね」

「彼は副所長です。僕は所長にくれぐれも不便のないようにと」

 緑野医師は、僕の顔と悟桐助手の顔から共通点を見出そうとして失敗したような表情で。「わかった。わかったよ」

「合図があるまで入らないでください」悟桐助手が言う。

 合図って具体的にどんなものか尋ねる前に二人ともいなくなっていた。

 緑野医師の役割は、

 外科医。すなわち。

 手術室手術中。

 国立更生研究所で行われている非人道人体実験の一つ。

 期日。

 それを迎えた性犯罪者に外科的処置を施す。

 見たくなんてないのだが。

 見てどうしろとういうのだ。見せてもらったほうがむしろ不便だ。

「見たかったんじゃないのか」瀬勿先生の声。やっぱり見ている。「ここを潰すにはうってつけの証言だと思うがな。君からなら信憑性もある」

「事件はどうなりましたか」7年後の。

 一件目。

 7年前と同一手口。

 二件目。

 7年前と同一背景。

「外のことは外の奴に任せておけばいい。なんのために甘味料を野放しにしていると思っている。馬車馬のごとく駆けずり回ってほしいものだ」

 7年前と。

「関係ないんですね?」

「何故そう言いきれる」

「先生が放置しているから。これ以上の裏付けはありません」

 音声が中断された雑音がして。

 ドアが開いて所長が手招き。

 これ以上にわかりやすい入室許可の合図はない。

「いらっしゃったんですね」まさかの隣室に。

「誰の研究所だと思っているんだ?」瀬勿関先生が言う。「いいものを見せよう。期日を迎えた下半身脳の末路だ」

 先ほどの処置準備室よりさらに閉塞感のある。医療器具の陳列棚なんかないのに。

 照明が落とされている。

 ドアと対面の壁が、ワンサイドミラーになっており。

 そこから注ぐ蛍光灯の光が眩しすぎて眼を瞑ってしまう。

「7年前と無関係と言ったな」瀬勿関先生が言う。「無関係? 冗談はときと場合を考えろ。副所長、ここに呼んだ理由を勘違いしてもらっては困る」

「ではなぜ先生が率先して動こうとなさらないんでしょうか」

「動くのは私じゃない。何のための対策課だ。甘味料は、朱咲の協力で一件目も二件目も逮捕が完了している」

「どうして蜂が飛んでくると思いますか。彼、いいえ働き蜂はメスですから彼女ですね。巣がありそこに女王蜂がいるからです。元を絶たないと事件は終わりません」

「その元が私だと言いたいのか。この際だ、ムダくん。私がここを創ったきっかけは7年前にある。ナサトを生かしておいた理由がわかるか?」

「冤罪だからですね」

「真犯人を誘き寄せるためだ。いまも奴はのうのうと生きてるんだ。ナサトは私に協力を申し出てくれた」

「感情転移を利用して」登呂築無人くんだけじゃない。「悟桐助手だって。先生には先生なりの正義があるのかもしれませんが、彼らは先生のいいように利用されているだけなんですよ? 良心が咎めませんか?」

「まさか良心に訴えかけられるとは思わなかったな、副所長のムダくんよ」瀬勿関先生が鼻で嗤う。「さしずめ凶悪犯罪者の説得だな。女王蜂のほうが聞こえがいい」

 駄目だ。この人は、

 落ちない。

 そもそも凄まじいところまで落ちて落ちて落ち切っているから。これ以上、

 どこにも行かない。行けない。

 俗も貫けば聖となる。

 黒を凝縮しすぎて単なる白の中の一点と化した。

「僕の推理だと真犯人はすでにこの世にはいない。いないからこそ7年後が起こってしまった。一件目の被疑者も、二件目も、詳しくは知りませんが、彼らは模倣犯ですらない。操っているのは誰なんですか。彼らを犯行にひた走らせている人物は」

「私じゃない」

「知っていますね? 先生はその女王蜂を庇っている。違わないはずです」

「女王蜂は真犯人じゃないよ」瀬勿関先生はそう言ってワンサイドミラーに向き直る。「見てくれていい」

「手術の場面なら遠慮したいんですが」

 瀬勿関先生のおみ脚をちら見することで眼を背けることに成功していたが。

 注意を逸らされる。人は、

 相手がふいに向けた視線の先を追ってしまうようにできている。

 緑野医師と悟桐助手の間に横たわる手術台。

 何かが、

 置かれている。ちょうど人間の大きさくらいの。

 赤々と黒い血液と補色の、

 青緑色の手術着。

「縫合が終了したところだ」瀬勿関先生が解説をくれる。「あれが誰かわかるか」

「僕の知り合いかそうでないかのどちらかですね」

 手術着は上半身のみ。頭まですっぽり覆われている。

 悟桐助手が後方の見学者に配慮して移動してくれたので見えてしまった。

「誰だったらこの壁をぶち破って執刀医とそのオペ看をぶん殴りに行ってくれるんだ」

「課長ですかね」

「ああ、そうか。その手があったな」瀬勿関先生が口元に笑みを浮かべる。「それは追々検討しよう。しかし、さすがだよムダくん。どうして君はそんなに切れるんだ。課長には違いない」

 厭な、

 汗が引いた。

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