第2話 ファティマの報復

      1


 僕の恋人を寝取ってくれる人募集。だとか、

 私の妻を寝取ってもらえませんか。だとか、

 見れば見るほど見なくても悪趣味なサイトだ。然るべきところに頼んでサイトごと抹消してもらおうか。

「利用価値がなくなりましたら速やかに滅ぼしますわね」というなんとも頼もしい二代目店主のお言葉だが。

「管理者は?」わかったはずだが。「どやって誘き出すんです?」

「わたくしが囮になってもいいのですけれど」

「あー駄目すわ。そーゆーのは俺の役目なわけで」囮だとか。「いっちょやらせてもらえませんかね」

「むざむざ殺されてしまっても厭ですし」

「模倣犯なんすよね?」7年前の。「だったら」

「模倣犯と申しましても手口があまりに似通っていますのよ」ご主人が言う。「ボーくんがご存じなかったのは、連続殺人事件として報道させたせいですわ。強姦の部分が重要でしたのに」

 なぜか対策課に邪魔している本部長を睨んでみる。

「お暇なんですか」

「心外だな。私の判断なものか」

「じゃあ誰なんです?」報道規制と称して揉み消したのは。

「ママですわね」

 祝多いわた

 またお前か。

「公に報道させなかっただけできっちりと被害者のフォローはしているはずですわ」

「被害者のこと考えたらそうゆうのは伏せていくべきだと?」ご主人じゃないほうの人間を睨んでみる。

「だから私の判断ではないんだよ」本部長が言い訳する。「指揮系統は私になかった。実質的に先生が」

「ケーサツでもないのに?」研究職に近い精神科医が。

「前課長に提言される前から存在したんだよ」対策課。「名こそなかったが、それの走りとなる原型は当時からすでに運用がなされていたんだ。ただ扱う内容が内容だから、もっと対外的に成果をアピールできるように改良を加えたのが」

「上の命令で?」国民の血税を有効に使っていることを示すための、

 広告宣伝材料に落とされたわけか。

「要は被害者を支援するほうが主だったわけでしょ?」

 いまは、加害者の確保や処遇に力が注がれているが。

「祝多店主がいなくなってしまったからね」

「ええ、殺しましたわ」

 あまりにあっさりと言いのけたので。

 本部長は悪い冗談だと思ったらしく。

「スーザちゃん?」呼び名がものすごく血迷ったことになっている。

「はい。なんでしょう大王さま」

 本部長がこっちを見る。

 誰が。

 助け舟なんかやらない。

「あーそれホントらしいですよ」

「私をからかったところで何も出てこないよ。逮捕状くらいだ」

「誠に申し訳ないのですが、大王さまに捕まるつもりはございませんのよ? 殺人犯のわたくしはムダさんが必ずや捕まえてくださると約束してくださいましたもの」

「私はどうすればいいんだろう」

「本部に戻ればどうですか」逮捕状取りに。「模倣犯決め込んでる管理者はこっちで血祭りにあげときますんで」

「せめて冬祭りになると平和的で有り難いがね」

「雪降ったら考えます」

 本部長退場。

 まったく、日に日に態度がでかくなって来て困りものだ。確かに本部長のお陰でここが存続できているのかもしれない。

 が、本部長は対策課の一員ではない。みだりに我が物顔で入り浸らないでほしい。

「模倣犯するためには」話を戻して。「実際の事件の、しかも伏せられてた本当の内容を知ってないとできないすよね」

「ボーくんの考えを聞きますわ」

「よーかい露出狂がすべての元凶ってのが一番しっくりくるんすけど」

「それはどのレベルですの? 真犯人? 幇助者? 共犯?」

「真犯人に惚れちゃってるとかじゃないすかね」

「庇っていると?」

「でもそれじゃあ、7年間も文句言わずにぶち込まれ続けてた冤罪くんの説明が」

「同じですわ。すべては」愛。

 愛だけで、

「7年も地下でおとなしくできますかね」俺だったらご免だ。

 ご主人に助けてもらえて心から感謝している。

「7年すよ? おかしくなりません?」地下に。

 数ヶ月いただけでこの様だ。

 ほとんどただの死人。死体と大差ない。

「すでにおかしいのではございません?」ご主人はこともなげに言う。「それに、地下で一人きりということは、セキさんが会いに来てくだされば」

 二人きり。

「わたくしにはとびきり甘美な世界に思えますけれど」

「いやあ、何かいろいろが狂ってる気がするんすけどねえ」

 その方法なら、瀬勿関シゲルを一人占めできるかもしれないが。

 真の意味で独り占めできてはいない。しかし、

 真の意味において決して一人占めできない相手だとするなら。

 それもまた愛か?

 わけがわかんなくなってきた。愛や恋はどうも俺とは相性が悪い。

「そろそろ参りましょうか」ご主人が、

 黒いファーコートを羽織る。

 黒のワンピースに、黒タイツ。

 黒い靴のヒール。その高さが、

 ところにより派遣店員の俺を究極的に煽る。いやはや。

 出動前に一蹴りしてもらいたい。

「悪の女幹部みたいすね」

「よくわかりましたわね」ご主人がくるりとスカートを翻し。「これからの一週間におけるわたくしの心の中を露骨に表わしてみましたのよ」

 やっぱ荒んでたんだ。まあそれはそうか。

 ちょうど一週間後のムダくんが解放される当日こそが、

 ご主人がいまかまだかと心待ちにしている恋人たちの聖夜。

 その日なのだから。

「今回の作戦ですけれど」ご主人が言う。

 寝取らせサイトの管理人誘き出し。

「路地裏で待ち構えるご主人が突如としてコートの前を開けることによって」

「女ですわよ?」

「あーそーなんすか」それは意外。意外や意外。「副業女王様かなんかで?」

 祝多イワンの傘下の風俗街。祝多イワン亡きいまは、

 二代目を継いだご主人のお膝元。

 黒と赤を基調とした檻が入り口の、

 カテゴリ的には○○バー。

 対策課が2Fを間借りしている雑居ビルの1Fにもバーはあるが、そことはちょっとばかし趣の異なる。

 出迎えがあった。頭のてっぺんから足の先まですっぽりと、黒のラバースーツに覆われた。かろうじて口と鼻は解放されているが、

 眼は。

 小さい穴でもあいているのだろう。ぱっと見ではわからない。

 階段を上れとばかりにようこそのジェスチュアを。

 上に行くにつれて天井が低くなる。閉塞感が増す。

「ぞくぞくしますでしょう?」ご主人が言う。

「まあ、それなりには」

 赤々と揺らぐ照明。アルコールとその他の有害物質のにおい。

 営業時間外なので客は誰もいなかった。

「ようこそ、こんな吹き溜まりに。二代目」鞭のしなる音がして。「と、その奴隷」

 あからさまなボンデージな責任者が極上の笑みを向ける。

「一体どちらの悪の女幹部かと思いましたわ」ご主人はカウンタを陣取ろうと、するのだが。丸椅子の脚が思いのほか高く、苦戦していたのを。

 先ほど出迎えをしたラバースーツが手を、

 貸そうとしたのを。

 鞭を振り下ろしたボンデージが言い放つ。

「その手がどれだけ汚らわしいかわかっているの?」

 ラバースーツがたじろぐ。

「ご無礼。そんな、悪だなんて。二代目には遠く及ばず」ボンデージが腰を落として。「本日も素晴らしい悪女っぷりで」お嬢様お辞儀。いや、

 女王様だ。

「ネタは上がっていますのよ」ご主人が言う。

 ラバースーツがノートパソコンを盆にのせてウェイタよろしく。

「二代目のお役に立てる日が来るだなんて」女王様がうっとりした表情で。

 キィ操作。

 あの悪趣味サイトの管理ページ。

「きっちり一週間後に閉鎖してくださいな」ご主人が言う。

「ご気分を損ねてしまったのなら謝りますけど」女王様が首を傾げる。「とある会員の吊るし上げが目的と伺っていたので」

「そうそうそれですわ」ご主人はいま思い出したみたいに。「ボーくん、説明してあげてくださいな」

「奴隷に発言権を与えるだなんてさすがお心の広い」女王様が鞭を構える。「二代目のご慈悲で口を開けていることを忘れないで?奴隷の下男」

「俺はたぶん、あなたの奴隷でもなんでもないすね」

 鞭だとか、

 無恥にもほどがある。

 悪いがそうゆう趣味はない。断じて、ないのだ。

「この趣味の悪いサイトを作ったのは」

「趣味のことをとやかく言わないでちょうだい?」女王様が急に嗜虐的な態度に。むしろこっちがスタンダードか。「創ったのはあたしよ。なんか文句ある?」

 文句と仰いますのか。

「一歩間違えると犯罪すよね」

「そんなの使う側の問題よね? 包丁で人刺した場合、包丁発明した偉人が悪いの? その包丁を作った職人が罰せられるの? メーカ?工場も共犯? 違うでしょ? あたし何か間違ってる?」

「会員の個人情報を垂れ流してくれればそれでいいんすけどね」

「奴隷ごときにそんな権限あると思ってるの?」

「四の五の言わずにさっさと用意してくださいな」ご主人が言う。グラスの氷をストローでかき混ぜながら。

「直ちに」女王様は承りましたのポーズ。「用意させます」

 自分でやってくれよ。管理者お前じゃないのか。

 ラバースーツがグラスを運んできた。

 俺の分かな?と、思って手を伸ばしたら。

 鞭に吹き飛ばされる。

「奴隷が二代目と同じもの飲んでいいと思っているの?」

 そんなことだろうとは思ったが。

「会員一覧もらうだけならわざわざこんな吹き溜まり訪ねてきませんわ」ご主人が本題に戻してくれる。「7年前のことを」

 女王様が纏う嗜虐的なオーラが、増強される。

 割れたグラスを片づけていたラバースーツが、のんきにモップなんか引きずってきて床を拭く。もしかしたら耳は、聞こえていないのかもしれない。

「ツリシバさん」ご主人が言う。

「やっと始まったんです」ツリシバさんとやらが言う。「やっと。やっと、このときを」待っていた。

「もしわたくしたちが真犯人をひっ捕らえましたらサイトを閉鎖していただける?」

「ピンポン咥えさせてあたしの前に跪かせてください」

「調教でもするおつもり?」ご主人が嗤う。「コブタちゃんが殖えるだけですわ」

「家畜として最期はミンチにして餃子を作ります。そうしたらお呼びしても?」

「安いお肉は好きませんわ。コブタちゃんたちに飼料として共食いをさせればおよろしいのよ」

 別のラバースーツが膝をついて、供物よろしくメモリスティックを差し出す。

 女王様に、脳天を踏み付けられても。

「お陰様で会員数は四ケタを突破しました」ぐりぐりと尖った踵をねじ込む。「どうぞ?存分に調べてください。捜し当てられるのであれば、ですけど」

 メモリスティックを受け取ったご主人は、足早に店の外へ。嫌がらせに対する憤りがそうさせたわけではなく、

「昔はあんなではなかったのですけれど」

 女王様の古傷を思い遣っての行動。

 それと、事情がおぼろげにしかわかっていない奴隷に、女王様にはご内密に女王様の事情を耳打ちしてくれようとする意図。

「7年前の?」被害者。「生き残ったほうですか」

「ええ。眼の前で意中の方をなぶられ殺されたと」

 それは、

 復讐に生きても仕方がない。のか?

「そのことでイブンシェルタを利用していたのですけれど」

「そこで教わったのはSM嬢になるためのいろはだったと」

「それは言いすぎですわ」ご主人が微笑む。「ツリシバさんはツリシバさんなりに生きる意味を遮二無二見出したのですから」

「ふくしゅー代行が大元でしたっけね」祝多出張サービス。「天罰ですか」真犯人に。

「ボーくんは」ご主人が歩き出す。「この7年が必然だと思いますかしら」

 本部に帰ってメモリスティックの内容を検める。

 中には、あんなことゆってた割には。データは、

 たった一人。

「これが」真犯人?「え」

 昨日ひっ捕らえた若者じゃなかった。

 のはあの若者の年齢から7を引いた数の覚束なさからわかってはいたのだが。

「あー」

「問題はいまもご存命かというところなのですけれど」

 不破繁栄ふわシゲル

「セキさんのかつての教え子ですわ」

「いやー、そこじゃなくてすね」

 不破の下の名前。

「シゲル?」て読むのか。

 ルビが振ってあったのでかろうじて読めたが。難読だとかそうゆうことでもなくて、

 シゲル。という名前に、

 俺はものごっつ心当たりがあるんだけども。

「深読みすべきすかね?」

「どうしてわたくしが、セナセキ先生とお呼びしないのか。セキさんとお呼びするのか。なんらかの仮説が立ったのではなくて?」

 瀬勿関シゲル。

「イブンシェルタに」いや、あすこは3年前にできたばかりだ。「じゃなくて」

「さすがはボーくんですわ。いい線いってますわよ。イブンシェルタでは」

 本名を名乗らない。

 偽名を名乗っている。

「セキさんの本当のお名前を聞きたくて?」

「不破セキじゃないすよね?」

「いいえ」ご主人が首を振る。「シゲルの部分が後付けなのですわ」


      2


 結局僕の部屋は、3Fの会議室を間借りすることに。

 たった一週間のことだ。

 大事な会議よりも、僕のこの敵か味方かもはっきりしない素性の怪しさに。図太い神経が割かれている。

 中央の長机を壁際へ追いやり、椅子を重ねて隅に寄せ、代わりにデスクと簡易ベッドを設置してもらった。

 設備管理主任・斎宮イツキに。

「シャワーはお貸ししますので、使いたいときに言ってください」

「お世話になります」

「よければ夕ご飯、ご一緒しませんか」

 もう。いや、やっとそんな時間か。

 実はここに来て早々、愛用の腕時計が止まってしまったので時刻を確認する術を失っていた。腹時計は頼りにならないし、ケータイも転落死で殉職だし。

 研究所内で時計を見掛けない。

「今週は食事当番でして」斎宮主任が言う。

「そうゆう制度があるんですか」意外や意外。「え、じゃあ所長も?」

 うまいことその週に当たっていれば手料理が食べれたのか。

 悔しいやらなんやら。悔やみきれない。

「あまりお勧めはできませんけどね」斎宮主任が苦笑い。「というか、所長の手を煩わせるようなことはすべて受け負ってくれる便利な助手君がいますので」

 悟桐ゴトー。

「所長が腕を奮う機会は永久に巡ってこないというわけです」

 食堂兼調理場も3Fにあった。

 会議室とは通路を挟んだ向こう。その向こうが、

 所長室。

 瀬勿関先生の城。

「普段そこにはいません。寝に帰ってくるだけです」

「入ったことは?」

「それ、僕に訊きます?」斎宮主任が冷蔵庫のドアを閉めて笑う。「副所長。嫌いなものとかありますか」

「研修中の身なので何も文句は言えません」

 一般家庭のダイニングキッチンと、設備面はそのもの。

 ただ、機能面に大いなる差が。

 ここで同じ釜の飯を食う人間が、団欒や交流等の触れ合いを一切の目的としていない。胃に一定量以上の食物をぶち込めがそれで用は足りる。

 椅子は全部で四つ。

「席は」決まっているのか。

「気を遣わなくとも誰も来ませんよ」斎宮主任がフライパンをコンロに載せて言う。「緑野先生はオペや術後の経過観察で忙しいし、助手は更生プログラムとやらに夢中だし」

 斎宮主任はとかく手際が良かった。趣味が高じて上手くなったというよりは、仕事上の訓練の賜物。

「僕はもしかするといい週にお邪魔しましたかね」

「食べる前からハードル上げないでくださいよ」斎宮主任が皿に盛り付ける。鮮やかな手つきで運んでくる。「大したことないですって。学生時代にカフェでバイトを」

「食後のコーヒーが楽しみですね」

 カフェか何かで見かける(僕はカフェなんか行ったことないのだが)いろんな種類の惣菜がのせられたプレート。メインは鮭に梅と和えた大根おろしがかかっていた。お弁当みたいで食べやすかった。

「ごちそうさまです。美味しかったです」お世辞じゃない。

 対策課というあの空間にいると自分で作るか外に食べに行くかの二択なので。眼の前で誰かに作ってもらうという安心感を、長いこと得ていなかった。そのお礼もある。

「いえいえ。お粗末さまでした」斎宮主任が感じよく微笑む。

「主任は、いつからここに?」

「そんな前置きいいですよ。本題どうぞ?」

「んじゃあ自慢のコーヒーもらってからに」

「失礼なこと聞くと毒でも入れるって?」斎宮主任は食器を片づけながら。「しませんよ。緑野先生はあれですけど、僕はけっこう期待してるんです。新しい風というか。どうして僕らしかスタッフがいないと思いますか? 人員基準がどうとかではなく」

「あなた方から立候補したか、所長直々のスカウト」

「両方ですね。僕はどっちで緑野先生がどっち、というわけではなく。両方の理由でここに勤めています。それこそオープン当時から」

「旗揚げスタッフですね。本題いいですか?お言葉に甘えて」

 斎宮主任の事情。

「話せるところまでで構いません。あとは調べますので」

「そんなお手間は取らせませんよ。洗いざらい白状しましょう。信用の証として」斎宮主任はコーヒーカップを二つ持って。

 席に着く。

「お待たせしました。砂糖とミルクはお好みで」

「いえ、最初の一杯はブラックでって決めてるんで」

「副所長の人となりが現れてて面白いですね」

 なかなかに切り返しが上手い。

 これは、油断していると手痛いしっぺ返しを食らう。用心レベルを見直そう。

 外見と第一印象がよさそうな人間に碌なのはいない。

「僕の友人は、7年前、六人もの女性を死に追いやりました。すべて彼が付き合って捨てた女性たちです。自殺ではありません。彼が殺したんです」

「それは直接手を下したという意味で?」彼にフられたショックで死を選ばされたのではなくて?

「彼本人から聞きました。どうやら自分は、付き合って捨てた女を殺しているらしいと」

「らしい?」

「ええ、殺したときの記憶がないそうです。僕はそうゆう病気だと思ってましたが」

「病気じゃなかった」

「はい」斎宮主任が頷く。「僕は大学に入ってすぐに彼女ができました。同じサークルの同じ一年でしたが、それには裏がありまして。彼女は僕と付き合いたいわけじゃなかった。僕は利用されたんです。彼と仲がいい僕を。彼女は僕を踏み台にまんまと彼に取り入り、彼の恋人の座を勝ち取りました。しかし、付き合って数ヶ月後」

 殺された。

「彼は蒼い顔をして僕のバイト先に押しかけてきました。朝起きたら自分の部屋で彼女が死んでいたと」

「やっぱり憶えていなかったと」

「それが六人目でした。僕は自首しろと言いましたが、彼は」斎宮主任はカップを両手で包み込む。暗黒色の液体から熱を吸い取っているみたいだった。「彼はどうしたと思いますか?」

「いまもご存命ですか?」

「僕の通っていた学部の教授陣に変わり者の美人精神科医がいまして。もうおわかりでしょう?それが」

 瀬勿関シゲル先生。

 彼女以上に美人な精神科医なんかこの世に存在しちゃあいけない。僕の身が持たない。

「そんなとっかえひっかえな彼の素行から想像に難くないでしょうけど、例に漏れず彼も先生を狙っていました。彼のその奇妙な体験、と言っていいのかわかりませんけど、とにかくそれをだしにしばしば頻繁に先生に相談に行っていました。自分は病気なのか。治るのかどうか。先生がなんと答えていたのかはわかりませんが。教えてくれなかったので。脱線しました。彼は、その六人目が死んでからぱったりと姿を見せなくなったんです」

「失踪? 自首して実刑出て刑に服してるとかじゃなくって?」

「だったらいいんですけど」斎宮主任が苦笑い。

「死んでますかね」

「わかりません。でも僕はそれが知りたいんです。自首を勧めて突き放したあと、彼は先生に相談に行っています。それは確かです。僕が見捨てたらそこしか行く所がありませんから」

 友か女か。でも彼はどうやら結果から判断するに、

 女を取ったらしかった。

 その結果が現状。謎の失踪という形で。

「生きていると思いますか? 身も蓋もなくて申し訳ないですけど」

「さあ」斎宮主任はイエスともノーとも取れる言い方を返す。「でも所長がすべてを知っているのは疑いようがありませんね。生きていてくれたらそれはそれでいいですけど」

 記憶がないとはいえ、六人も殺してたら。

 まあよくて死刑。

 よくなくても一生入院。

「ここに?」国立更生研究所。

「いるかもしれないし、いないかもしれない」斎宮主任が言う。

「捜せば」いいんじゃ。むしろそのために、

 ここにいる。

「捜しました。捜したんです。でも」

 見つからなかった。いなかった。というよりは、

 わからなかった。自分の眼では、

 判断が付かなかった。彼が、

 この地下にいる彼らの内の誰かなのか。およそここに収容されている性犯罪者で、

 人間の中身を保っている者は存在しない。存在できない。

 人間の中身を捨てさせられて、

 人間だった外見を遺される。生かされる死体。

 登呂築前課長もそうなんだろうか。

「友だちですよ? でも、僕は友だちでしかない。彼が女遊びをしたその後始末をさせられる可哀相な後片付け係なんです。その程度の関係です」

 どうしてそこまで、その最低な男の尻拭いをしていたのか。仮説は一つ。

 無粋なので尋ねるのはやめた。

「もし万一その友人がここにいたとして。主任はどうしたいんですか。助けますか」

「どうでしょうね。あ、お代わりを」斎宮主任がコーヒーを注いでくれた。

 空のカップに並々と。

「すみません。至れり尽くせりで」僕はこの部屋に入ってから一回も立ってない。

「副所長がここに来た理由。外で起きている事件と関係がありますね?」

 7年前の模倣犯。

「主任はそれが友人の仕業じゃないかと危惧している」

「違いますよね?」

「どっちであってほしいんですか」もしあれが、

 友人の仕業ならば。友人は生きていたことになる。

 友人の仕業でなければ、

「主任の7年はさらに延長されますね」

 しかしながら、残念ながら。

 僕は斎宮主任の友人が犯人でないと確信している。なぜなら、

「別件ですね。手口がまるで違う」

 斎宮主任にその手口が知らされていたのかどうか。

 表情と動作と反応に細心の注意を払いつつ。

「主任の友人は女を単体で殺しただけですが、7年前の、所長が収容した冤罪の」

「僕は最初から冤罪だと思っていました」

「ご友人こそが真犯人だと?」

「手口がどうとか」斎宮主任がカップをソーサに戻す。「知っていますよ。片方を身動きが取れないように拘束してその眼の前で、もう片方をレイプし最後に殺す。友人が姿を消してからなんですよ、その連続強姦殺人事件が起こったのって」

 つまりは、

 その六件は。捨てた女を殺した云々は。

「それより前なんです。これでどうですか?副所長。僕の仮説は支持されますか」

 なるほど。それなら、

「一つの仮説として気に留めておきます」僕は、

 斎宮主任が嘘をついていないと信じられるほどまだ誰も信用していない。

 サンプルも足りない。

「ちなみに、その友人の」名前は。

 不破繁栄。

「繁栄と書いてシゲルと読みます」



      2尻軽る女は

  仰け反って教える女は歯向かって



 頭が中から抉られてる感じ。

 あれだ。コーヒーのにおいかいだときの。

 俺の家のにおいじゃない。どこだ。

 サイグウ?

 違う。コーヒーと紅茶がごっちゃになった。

 硬いな。

 サイグウの家にいるんだったらベッドに入ってるはずだから。

 やっぱ違う。ここは。

 ああそうか。

 眠くなってそのまま。

 叩き起こせよ。殴り返すかもだけど。

 何時だ。次の日になってなければいいが。

 5時。

 夕方じゃないだろう。きっと。

 朝っぽい。

 それにしたってサイグウは。

 俺を置き去りに一人で帰りやがったのか。

 なんつー。

 自分のバイト先に友だち置いてくか。ふつー。

 手探りでケータイ。発信。

 なんか音が。振動。

 切る。

 音が消える。掛ける。

 音が聞こえる。

 まさか。あいつケータイ忘れて。

 莫迦だろ。

 どこだ。

 床。すぐ下。

 転がってた。

 頭が。見覚えのある。

 サイグウ?

 俺と一緒に眠りこけてどうする。

 お前は俺を家に連れてく役目だろうが。

 揺する。首が。

 だらりと。舌が。

 なんだ、

 これ。

 サイグウ?

 力が抜けきって。眠ってるにしては。

 眠ってないんだとしたら。

 どうゆう状況だこれは。

 仰向けにして胸に。心臓ってどこだ。

 手首を摑む。脈ってどこで。

 わからない。

 わかるわけない。

 おい、

 なにしてる。なんで答えない。

 なんかの冗談だろ。

 俺を驚かすためとか新手のジョークだとか。

 おい。ちょっと。

 冷たい。今更気づく。

 口に手を当てる。温かくない。

 なんか言えよ。

 なんでもいい。そうじゃないってこと教えてくれれば。

 白い顔。

 蒼い唇。

 嫌味な三桁が浮かぶ。どっちに掛ければ。

 でもこの状況見られたら完璧に俺が怪しい。

 俺が座ってたカウンタの椅子の真下に転がってたなんて。俺以外に誰が。

 最期にサイグウを見たのは確実に俺だし。

 最期にサイグウと話したのだって絶対に。

 俺じゃない。

 だったらサイグウが自分で?

 どっか怪我してるんなら。

 胸に包丁刺したとか。出血多量とか。

 なんか変なもん飲んだとか。首絞めたとか。

 見た感じなんもおかしいとこはない。

 どこも血が出てないし、首にもあざっぽいものはない。

 ただ身体の力が入らないだけで。寝てるのとは違う。

 苦しそうな顔。

 やっぱ毒?

 口の端に涎のあと。はない。

 サイグウ。

 自分でやったんだよな?

 俺じゃなくて。俺のせいじゃなくて。

 でもなんで。

 このタイミングで。

 俺が疑われるような。俺を嵌めたみたいな。

 怨みか。

 緑野殺したから。

 自分が死んで俺が殺したように見せかければ。

 復讐。大成功だよ。

 まんまと俺は。

 俺じゃないのに。

 俺はなんも。

 無関係だ。勝手に死んだだけだろう。

 迷惑だ。

 とにかくここから逃げないと。

 やってないなら逃げる必要はない。

 でもどうせ俺がやったって決め付けられる。

 やってないなら堂々としてればいい。

 でもどうせ冤罪をでっち上げられて。

 動機は。

 ついかっとなって。

 ついかっとなるような場面なんかなかったのに。

 さもあったかのように細工される。いくらでも後付けで創作される。

 でもやっぱやってないんだから。

 無罪。どこをどうしたら?

 わかんない。

 どうしよう。どうしたら。

 ケータイ。

 自動で掛けてた。

「不破くんじゃなきゃ出ないよ」

 先生。

「起こしてごめん。どうすれば」

「寝たほーがいいよ。夜は寝るようにできてる」

「そうじゃない。どうしよう先生。俺」

 サイグウ殺したかもしんない。

「いまどこ?」

 サイグウのバイト先。店の名前とだいたいの位置を。

「ねえ、ほんとに?サイグウくん」

 死んでる。

「とにかくいまからそっち」

「いや、来ないほうが」

「なんで? 死んでるんなら。あ、救急車は、手遅れか。でももしかしたら」

「そうじゃないんだよ。だから俺が」

 殺したに決まって。

「ちょっと深呼吸しようか。はい、吸って。吐いて。もっかい吸って。吐いて。どう? 楽になった?」

「それどころじゃ」

「よかった。語調が戻ったね。そんで? ほんとに不破くんが」

 殺したの?

「わかんない。起きたら死んでて」

「やったの?」

 やってない。

「ちがう」

「信じるよ。で、その分だとケーサツはまだ。あのね、人が死んだら」

「わかってる。でも俺じゃ」

「ないんでしょ? わかってる。わかってるから。私だけはきみの味方だよ。やってないって言うんならやってない。自信持って。サイグウくんは」

 自殺した。

「どうすればいい?」

「指紋拭き取って」

 ハンカチは。

 どこだっけ。

「不破くんがそこに居たっていう形跡をぜんぶ消して。あ、今日以外にそこ」

「駄目だ」

「そんなら残らず消えてるのはまずいね。んじゃ今回触ったっぽいとこだけで」

 拭き取って。

「大丈夫? そうゆうことしてあると余計」

「一理あるね。そっか。たしかに。証拠隠滅そのものだもんね。んじゃあ、そのまま出ておいで。家に帰って何事もなかったみたいに」

「そんなのバレバレじゃ」

「賭けだよ。まさか犯人、不破くん犯人じゃないけど、そこまでべったり証拠残したりしないって。だからすぐに不破くんにぶち当たるだろうけど、なんも後ろめたいようなことしてないんだから。指紋消してあったりなんかしたら思う壺だよ。後ろめたいから消したって取られても仕方ない。そこを逆手に取ろう」

「ねえ、ここサイグウの」バイト先。

 繁盛しないカフェ。

「店長? になすりつけるのもいただけないね。レジからおカネ盗んで物取りに見せかけるのも賢くない。だからそのままにして出ておいで。できる?」

「あんたんとこ」

 行ってもいい?

「まずは帰りなね。一限ある? いつもとおんなじに振舞うんだよ。そだね。できればサイグウくんなんて最初っから」

 いなかったみたいに。

 できるだろうか。

 でもやらないと。俺じゃないんだから。

 サイグウ。

 俺に怨みがあるんなら俺を殺してけばいいのに。

 そうゆうことしてかなかったのがサイグウらしいというか。

「いい? 不破くんが帰ったあともサイグウくんはバイトしてた。そうゆうシナリオでいくよ」

 それならいいや。俺は知らない。

 サイグウ(が死んでる)なんて。


      3


 二件目。

 本部長からの電話で明け方のまどろみを引き裂かれる。

 ご主人は出張中。

 に連絡するのはご法度なのでメールだけ入れて。

 そんなことしなくても絶えずご主人の元には有用無用問わずいろんな情報が流れつくんだろうけども。

 一件目は、生き残ったほうの被害者が犯行の露呈を恐れて、死んでしまったほうの被害者の遺体を隠そうとしたので。報道規制という名の、非公開捜査という形に持って行けたのだが。

 二件目は、そうもいかないらしい。

 遺体の発見現場が、

 大学の構内であり。

「学生の口の早さというか軽さには敵いませんね」嫌味のつもりだったのだが。

 本部長殿は、

 至極冷静で。

「その早さと軽さを逆手に取らせてもらう。知っていると思うが、大学というのは存外敷居が高い」

「偏差値の話ですか」

「二代目は?」本部長が周囲を見渡す。

「俺じゃ不満みたいですね」

 えげつないブルーシートが撤去される。

 学生が本日も変わらぬキャンパスライフをおっ始める前に何事もなかったかのように日常を復旧してしまおうという作戦らしいが。

 どうだろう。なにせ、

 第一発見者がここの院生じゃあ。

「監禁でもします?」ほとぼりが冷めるまで。

「どうなんだ? 7年前と」

 井戸端会議をするには外気温が低すぎる。雪こそ降らないだろうが、

 降らないよね?

 やめてくれ。明け方の寒さを嘗めてかかってスカート丈を誤ったせいで、膝から下の感覚がなくなってきた。

「寒くて口が開かなくてですね」あったか~い自販機をそれとなく示唆しつつ言う。「あっちでなら」対策課横付けで送迎してもらった覆面パト。「口が開くかも」

 本部長は周囲をきょろきょろと見回して。てっきり自販機にパシらせる手足を探してるんだろうと思ったが。おもむろに、

 自分の着ていたあの流行遅れのコートを俺の肩に。

「君をここに呼んだのは」

「公私混同だったら帰りますけど」加齢臭しかしない。「はい、これ」

「着ていてくれて構わない」

「そーじゃないんですけど」投げつける。「厭ですよ、こんなだっさいの」

「風邪でも引かれたら毎日看病に行くが」

「いろいろすいませんしたー」

 仕方ない。そっちのほうが厭だ。

 本当にいちいちあれやこれやとお世話好きで。

「で?なんで呼んだんですか」日も昇っていないうちから。

 文字通りお先真っ暗だ。

 ついでに息は真っ白だ。

「私は別の事件ではないかと思う」

 紺色のつなぎを着た集団が仰々しく敬礼して撤収する。

 スカートと膝の境目にびしびしと視線が集中するのを感じたが、本部長の不可視殺人光線により一掃された。

 なんでそんなに独占欲強いわけよ。

「あ、帰っちゃったら」ここまで送ってくれた車は。「徒歩とか勘弁してくださいよ。始発までだいぶ」

「君が望むならヘリを呼ぼうが差し支えない」

「うわー、国民の血税を何だと」

「君の意見を聞きたい」本部長が仕事モードの顔で俺を見る。

 にこりともしないのは、その必要性がないから。不要なことは一切しない。

 この人は、

 そうゆう人だ。

「ホントにヘリ呼んでくれますか」俺が望めば。

「私の金でだ。経費は一切使わない」

 あー、なるほどね。そーゆー意味ね。

 単なる空の上でのデートじゃないか。

 よけーに厭なんですけども。

「よく見てくれ」

「ここが?」犯行現場なのか。

 あまり人通りのない研究棟。学部生がここに近づくことは稀有だという。

 主として院生の。

 お世辞にも綺麗な外観とは言えない。ぼろくて古い。あれだ。

 小学校の理科室を独立した建物にするとそんな感じ。

 剥製だとか人体模型だとかが闊歩する。夜な夜な。

「第一発見者はどうしたんですか」連行したのか。強制したのか。

「自首した。通報も本人からだった」

 はい?

「あの、じゃあ」俺を呼んだ意味は。「まさか本当に公私混同で」

「以前先生が勤めていた大学がここだ」

「へえ、はあ」

「よく見てほしい。7年前の六件目の被害者は、二人ともここの学生だった」

 それはもう、完璧に。

「当時ここの教授やってた精神科医が怪しいですね。任意で引っ張ってください。それはもうご自由に。煮るなり焼くなり吐かせるなり」

「吐かせはしないが、博士には違いないな」本部長がドアに近づいて。

 え、中入るの?

「このほうが寒くないだろう」

「入れるんですか?」カギとかセキュリティとか。「てゆうかさっきうすら寒いオヤジギャグかっ飛ばしましたよね」

 やはり暖房は入っていない。が、寒風に曝されるのは防げる。

 本部長がスイッチに触れる。やや時間差あって蛍光灯が点いた。

 それでも不気味さは消えない。

「先生の研究室もここにあった」

「やたらとお詳しいですね」瀬勿関シゲル情報に。「いっそそっちに乗り換えたらどうです? 脂の乗ったおススメ物件ですよ」

「既婚者との婚姻は認められない」

「はあ??」え、それ。「初耳なんですけど。マ、ジで?」

「娘もいたが」

 た。過去形。

「亡くなった。7年前に」

「そのときの被害者じゃないでしょうね」

「無理もない。そうでなかったらもう少し冷静な対応ができているだろうが」

 いろいろと、

 未知の情報がだだ漏れてきて。

 既婚者?娘?

 瀬勿関シゲルの7年はいまだに、

 終わっていない。

 とゆうことか?

「自首したのって」

「例のサイトの会員だそうだ」

「だったら」別の事件じゃない。「もーちょい整理してから」改めて聞くとして。

 寒いのだ。とにもかくにも、

 寒くて働く思考も働かない。凍結している。

「あ、別って」そっちか。

 7年前と、

 7年後と。

「そっちサイドでサイト閉鎖させたほうがよかないですか」

 気のせいだと思いたいが、薄ら寒さが感染している。

「やったはやったが」本部長が思い出したかのように、手の平と手の平をこする。それは無言で、

 俺の墓穴的薄ら寒さをツッコんでいるかどうなのか。

「モグラ叩きですか」

「元を絶とうにも」

 ツリシバさんとやら個人をどうこうしようが。

 氷山の一角にすぎない。あんな悪趣味サイト、

 いくらでもごろごろ。

「かんつーとかごーかんとかでなんとか」逮捕は。「できない、ですね」

 未成年あたりが絡んでるんならともかく。

「かくなる上は俺が会員登録して囮捜査とか」

「駄目だ」

「ですよねー」言うと反対されるから黙ってやろう。「やめまーす」

「事件が収束するまで対策課に詰めなければならなくなる」

「しませんて」しつこいなあ。

 やるに決まってるだろって。

 対策課課長の得意技を復唱してみろっての。

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