エバルシユホフ

伏潮朱遺

第1話 タマーラの抱擁

      0


 サンプルが足りない。

 これではどちらが罰罰なのか判りやしない。

 もっと、

 もっともっともっと被験体を揃えなければ。

 少なくとも百人の回答を得なければ、

 統計分析にかけることが出来ない。

 あと何人?

 あと何十人の協力が得られれば、

 有効回答数に満つるのか。

 私のこの好奇心的研究に賛同して貰えるのならば、

 是が非でもご連絡を戴きたい。

 都合を付けて直ぐに参上致す次第。

 この崇高なる研究の目的は、

 身をもって体験することで解って戴けるものと。

 この下劣たる研究の方法は、

 わざわざ説明するにも及ばない。

 恋人と二人きりで出掛けてくれればそれで。

 どこに行くかは瑣末な問題であって、

 どこに行くのかだけ私に予め報せておいて。

 あとを尾行けるだなどという無粋なことは一切しない。

 待ち伏せをしている。

 君たちがやってくるのを。

 目的地にやってきたなら、

 選ばせてほしい。

 君たちのどちらが、

 罰罰を受けて。

 罰罰を受けている恋人を、

 ただ黙って観ているしか出来ないのか。

 私が君たちから奪うのは三つ。

 まずは自由。

 つぎに処女童貞。

 これは既に奪われている可能性が大きいが。

 君たちのどちらかに先を越されていようと構わない。

 肝心なのは、

 君たちのどちらかが見ているその前で、

 君たちのどちらかが私に罰罰されることなのだから。

 そして命。

 安心してほしい。

 なにも君たちの両方から奪いはしない。

 君たち二人で合わせて、

 三つすべてを奪わせてもらえばいいだけのこと。

 どちらかに一つ。

 すなわち自由。

 どちらかに二つ。

 すなわち処女童貞と命。

 どうかそのような不公平な振り分けになってしまうことを許してほしい。

 すべては三というの数のせい。

 三が二で割り切れないから。

 自由を奪ったどちらかにも命を請求すればいい?

 自由を奪っておいてそのうえ命までも請求しろと?

 何を身勝手なことを。

 自由を奪うことのえげつなさを君は解っていない。

 自由の偉大さに比べれば処女童貞など微々たる事象。

 自由を奪われた者は奪い返すことに難儀を極めるが、

 処女童貞を奪われたら、

 奪い返せばいい。

 それだけのことではないのか。

 命はそうはいかない。

 奪われた者に反逆の機会は万に一つもあり得ないのだから。

 さあ、

 今回はどちらにしようか。

 既に得た被検体の割合からすれば。



      7310



 聞き慣れた靴音。

 赤いハイヒール。白く扇情的な脚。

 短すぎるスカート丈。

「どうした」

 薄すぎるブラウス地。

 透ける胸部の膨らみ。

「腹でも冷やしたか」

 羽織るだけの白衣。

 なぞるだけの口紅。

 癖のかかったセミロング。

 仕事中という証のメガネ。

「自慢の裸体は見せつけてくれないのか」

 触われもしない、

 格子越しに。

「聞きたいことは三つよ」先生が腕を組む。「いつ抜け出したの? どうやってあのカスども丸め込んだの? 7年前のあれは冤罪なの?」

「三つが三つそれぞれ独立してるようだが」

 舐めるしかない、

 大気の表面を。

「三択の間違いじゃないか」

「答えて」先生からは平素の余裕が感じられなかった。

 俺に与えられた猶予は、

 いまこの報せを持って立ち消えたことになる。

 そうか、

 もう。

 いや、ようやく。と言うべきか。

「すまないが、今日は何月何日だ?何年の」

「答えなさい」先生が格子を掴んで至近距離に。「あなたと共犯なのは誰? リョクヤ?サイグウ?まさかゴトー? 誰なの?」

 眼が血走っている。

 肌の潤いが衰えている。それが、

 7年という歳月の末路。

「誰なの?」

「俺だ。最初から言っている。俺が」

 あんたの教え子を犯して。

 その教え子の恋人を殺した。

「先生の患者だろ。治療はまだか」

 7年も待った。

 7年だ。

 おかしくなるには充分な。

「早いとこやらせてくれよ」先生。「あんたが欲しくてほしくて堪らないんだ」

 あと2ミリ近かったら、

 その麗しい唇を貪れたのに。先生は、

「俺の前だけ女になるよな」

 連続強姦魔でも見るような眼つきで睨んで、

 元来た通路を駆けて行った。その背中を、

 揺れる。

 たなびく。

 白い布を。追う。

 焼き付ける。

 綺麗だ。

 美しい。

 この世でもっとも。






 第1章 タマーラの抱擁



      1


「ずえええええええったいイヤですわ」スーザちゃんの悲鳴が響き渡る。

 8時46分。

 略して対策課の本部に。

 電撃的に訪問なされた魅惑の美脚精神科医・瀬勿関せなせきシゲル先生によって。

「賭けは賭けだ。そうだろう」先生は僕を見て。「一週間、私の下で副所長の任に就くといい」

「そんなふざけた辞令認められませんわ」スーザちゃんが、ソファに寝転がって如何わしい雑誌を眺める対策課課長・胡子栗茫えびすりトールの、すっかり治った頃合いの脚を蹴飛ばす。

「いた」

「痛いように蹴ったのですわ。ボーくん?あなたからも言ってやってくださいな? あなたのだいじな部下がいままさに悪の手先によって連れ去られようと」

「悪の手先とは言うじゃないか」瀬勿関先生が肩を竦める。

「いててて」胡子栗が脚をさすりながら顔を上げる。「そですよ、ご主人さま。そこのよーかい露出狂は悪の手先というよりはさ、ほら、魔女ですから」

「魔女で結構だ。ムダくんの人事権はお前にない。それをわかってるな?」

「センセにはあんの? 対策課の補欠人員のくせしてさ」

「そうですわ」スーザちゃんが食ってかかる。「そうですわよ?セキさん。ムダさんをどうこうしていい権利はわたくしに」

「賭けは賭けだ」瀬勿関先生は冷静に返す。「それとも約束も守れないような無粋な女に成り下がったか。朱咲スザキ

 朱咲というのはスーザちゃんの本名。

 ぐ、と黙り込む。スーザちゃんは、どさくさにまぎれて僕の腕にしがみつく。「イヤですわ。ムダさんと一週間も離れ離れになるだなんて。ねえ?ムダさんもそう仰って。あのような不埒で淫らな格好でムダさんを誑かすようなサキュバスの下で一週間も」

 悪の手先になったり魔女になったり。挙句の果てにサキュバスと来たか。

 さすがに瀬勿関先生も厭きれている。「朱咲」

「無効ですわ」

「そう、その賭けだけど」胡子栗が首を突っ込む。

「知りませんわよ」スーザちゃんが顔を僕の腹部に押し付ける。

 瀬勿関先生が取り合おうとしないので、自動的に。

 僕に回答権が回ってくる。

「え、なんだっけ?」

「言わないでくださいましな」

「えー気になる」

「行くぞ。ムダくん」瀬勿関先生がくるりと向きを変えたのを。

「ごめん、センセ。一個だけ」胡子栗が呼び止める。

「なんだ。お前に割ける時間は三秒しかない」

「ムダくんを副所長にしたいってのさ、本気で言ってる?」

「私には、彼をここで遊ばせておくことのほうが無駄遣いに思えるが」

「そ。なら好きにすればいーよ。だけどね、これだけは言っとく」胡子栗が真剣な表情をするときは。「ムダくんのどーていは俺のだから。そこんとこ憶えとくよーに」

 碌な発言をしない。

「それも違いますわ。ムダさんはわたくしの」

 そうじゃないんだスーザちゃん。ツッコむところがいまいちズレてるんだ。

「憶えていたらな」瀬勿関先生が僕を見る。「一週間後、君が土下座して是非とも私の下で働きたいと願い出るのが楽しみだ」

「セキさん!」スーザちゃんがまたも悲鳴を。

 斯くしていまだ対策課に馴染めない新人の僕は、あっけなく。僕の意志など蚊帳の外の完全無視で、異動の運びとなった。

 国立更生研究所。

 瀬勿関先生が所長を務める。性犯罪者の更生施設とのことだが、実際は。

 更生不可能な性犯罪者を使って悪逆の限りを尽くした非人道的な実験が日夜行なわれているとかどうとか。あくまで噂だが。

「何かあったんですか」

 そうでなければ、僕は呼ばれない。

 瀬勿関先生はIDカードを首から提げようとしたところで、手を止めて笑う。

「だから君にはここが相応しい」IDを手渡される。「これで所長室を除くすべての部屋が自由に出入りできる」

 研究所内のほぼすべての部屋を出入りする権限を使ってまで、僕がしなければいけないこととは。

「7年前、私はここに一人の男を収容した」瀬勿関先生が手すりに背をつけ。白衣の胸ポケットからメガネを出して掛ける。

 吹き抜け構造になっており、階下が見える。

 エスカレータに沿うように。一体の巨大な首長竜の骨格標本が逆さ吊りになっている。

「確認が取れただけで実に六名もの男女をレイプし殺した。連続強姦殺人鬼をな」

「更生中ですか」

 それとも更生不可能なので已むなく、7年経過したのか。

「目の付けどころが痺れるような慧眼だが、その件に関してはのちほど触れよう。その連続強姦殺人事件は7年前、奴をここに収容することによって終わったはずだった。終わらなければいけなかった」瀬勿関先生の表情が、僅かながら引き攣っている。

 事件当時の凄惨さを物語るには充分すぎるほどの。

「結論から言えば、終わっていなかった。つい昨日、日付からすれば本日未明。四肢を拘束された二十代の男が発見された。その傍らで彼の恋人が変わり果てた姿となって」

「どこですか」荒種あれくさ本部長は知っているのか。そういう意味の質問。

「情報の一切を伏せてもらっている。無論マスコミにも。知っているのは荒種の周りの極めて口の堅い幹部と、私と」

 僕か。

「甘味料には追って報せるが」甘味料というのは、胡子栗課長のこと。

「対策課の担当になるんですか?それなら」いち早く課長の胡子栗に報せて協力を。スーザちゃんはまあ、知ってるとは思うから。

「7年前だ」先生が言う。

 胡子栗は対策課の課長の座に就く以前、小頭梨英おずリエイと名乗り(というかこっちが本名なのだが)少年課に所属していた。

 いまから5年前。

「私は早急の解決を望む」

「出来る限り少人数で、世間が知らないうちにこっそり闇に葬ろうと」

「そうは言っていない」瀬勿関先生が首を振る。ゆっくりと。「ムダくん。君ならわかってほしい。君を、君だけをここに呼んだ意味を」

「僕の得意(ということになっている)技ですか」

 瀬勿関先生が、満足そうにうなずく。

「容疑者は三名。外科部長の緑野みなのリョクヤ。施設管理主任の斎宮さいぐうイツキ。私の助手、看護師の悟桐さとぎりゴトー」

「取り調べをしろと」

「奴らが今回の模倣犯に一切関わっていないことを証明してほしい」

「無実を晴らしたいと。そういうことでしょうか」

 自分の下で働くスタッフだ。信用したいのだろう。

「関わっているとするなら全員がグルだ」あ、違った。「そうでなければ誰一人無関係。全か一か。その二択しかあり得ない」

「どうしてそう言いきれるんですか?」

「奴らは私の下で働いていることをよしとしていない。私に怨みを持っている。敢えて私の下に就き虎視眈々と私に復讐する機会を伺っている」

「よくそんな人たちを」雇った。「下手をすれば殺されるかもしれないんですよ?」

 抱いている恨みがどの程度のものなのか想像の域を出ないがおそらくは、三人が三人。瀬勿関先生の所長の座を羨んでいる。プライドの貶し合い。

「三人だけですか?」疑わしきは。「初期からいる職員とかですか」

「ムダくんはここに、私の下に何人いるかわかるか」

「いないんですね?」うぞうぞと大量には。

 つまりは、先ほど紹介された三名こそが。

「私を含めて四人。そこに君が入って」瀬勿関先生が結んでいた手を広げる。

 指の数。

 五本。

「やってけてるんですか?」

「やっているだろう。現に。それとも人員基準に則っていないことが心配か」

「杞憂なんでしょう? ここは、どの法の下にもない」国立とご立派な印籠が付いてはいるが、この国立は接頭語か何かだ。もしくは、

 創設者の名前とか。

 なんという叙述トリック。あながちあり得なくなくないところが怖い。

「君には、一週間、副所長として住み込みで徘徊してもらう。ただ、所内の至る所には監視カメラと盗聴器があり、かつ奴らにも発信機を埋め込んである。どこで何をしようと私に知れるところとなる」

「それなら」わざわざ僕が徘徊するより確かだと思うのだが。僕が徘徊する意味はいままさに見失ったわけだが。「アリバイになりませんか? 未明のその事件の」

「私は機械を信用していない」

「人間のほうがエラーが多いですよ?」

「大いに興味深いが、その論議はまたの機会にするとしよう」瀬勿関先生が両の肘を手すりにのせて指を組む。「やってくれるか」

「質問しても?」

「三つ以内ならな」

 渡されたIDには、承諾した覚えのない役職がさもまことしやかな真実像を装って。

 国立更生研究所(E‐KIS『エキス』と略すらしい)副所長

 徒村等良あだむらナドヨシ

「所長の部屋に入るにはどうしたらいいでしょうか」

「ノックをしてくれ」瀬勿関先生が答えてくれる。「鋭利な推理を披露してくれるのを心待ちにしている」

 安易に賭けの景品を承諾した落とし前は、確実に僕本人のみにツケとして回ってくる。

「できたら、その連続強姦殺人鬼に会わせてほしいんですけど」生きているんなら。

 わざわざ生かしているんなら。


      2


 県内随一の繁華街にありながらそこに背を向けるようにひっそりと佇む雑居ビルにこっそり本部を構える対策課より、車で行くこと約二〇分。方角的には東。山間という立地条件に不満たらたらとばかりに、ぎらぎらと目立つ人工物。

 国立更生研究所。略してE‐KIS。

 E‐KISはエキスと発音するらしいが、何の頭文字なのか不明。

 地上3階。地下4階。屋上にはヘリポート。

 エントランスは2Fにある。首長竜が見張るエスカレータでは、2Fと1Fとを行き来することしかできない。

 エントランスロビィに心地の良い環境音楽を提供している人工滝の裏側にそれはある。

 エレベータ。

「説明したかもしれないが」乗り込んでから瀬勿関先生が言う。「罪の重さと階層の深さに関連性はない。空いた部屋に新規をぶち込んでいるだけだ」

 表示された数字が大きくなる。

 B3で停止。

 ドアが開くが瀬勿関先生は降りようとしない。

 頑丈そうな白い扉が見えた。

 その向こうに、更生途上の性犯罪者が収容されている。

「僕の推測だと、その連続強姦殺人鬼はこの下にいる気がするんですが」B4に。

「一人で行くのなら面会を許可できる」

「一人で行っていいのなら」

「別室で見ている」瀬勿関先生がかごを降りる。「こいつを」IDカード。「かざして任意の4ケタを入れろ。二度目以降もそいつが要る。忘れるなよ」

 ドアが閉まる。

 教えられたとおりの手順を踏むと、かごが下降した。

 B4に到着。

 頑丈そうな白い扉が見える。

「センサにかざせ」所内放送。瀬勿関先生の声。

 天井付近に監視カメラ。そこから見ているのだろう。

 僕のIDが受理され、任意の4ケタの入力を求められる。

「さっき入れた番号だ」瀬勿関先生の声。

 電子音とともにロック解除。

 白い通路が延びる。

 白い天井と白い壁と白い床。

 突き当たりは、檻だった。

 人間を収容しておくそれというよりは、動物園に近かった。今日び獰猛な動物ですら無柵だというのに。

 通路部分は煌々とLEDが照らしてくれていたが、檻の中は。

 ノスタルジックな白熱電球一つ。

 壁に背をもたれて、人間らしき影が脚を投げ出して座っている。

 特に身体拘束の類はされていなさそうだった。

 足の裏が柵に接触するかしないかという奥行きで。

「こんにちは」とりあえず当たり障りのないところから。「あの、僕今日付けで」どこかで聞いたような挨拶だなあと思ったりもしたが。

 蹴られた。

 檻を。

「副所長さんだろ。名前だけ聞いとくわ」

「徒村です」

 胸から上が闇に覆われて見えない。

 擦り切れた黒のジーンズ。裸足。

「で、俺のことどこまで聞いてんだ?」声の低さと重さからいって比較的がっしりとした体格を想像できたが、

 若い。声の質から判断するに。

 十代?

 いやまさか。世も末だ。

「名前から教えてもらえますと」

 蹴られた。

 柵を。

「冤罪なんだよ、俺は。さっさと出してくんねえかな」

「7年前に言えばよかったでしょうに」7年も経ってなにをいまさら。

 冤罪?

「そのために来たんじゃねえのか」

「なんのためなんでしょうかね」僕が副所長になったのって。

「で、挨拶だけじゃねえんだろ?」

「今日の未明のなんですけど」やったのかどうか。

「のわけねえだろ。どうやったら出れんだって?」

 それは、確かに。

 入るのは難儀だったが、出るのは案外簡単だとかいうことは。

「他の部屋は知らねえが、ここ入るには先生の承認が要んだよ。出んのもな」

「じゃあ先生の許可を得て外に出るしか方法がないわけですね」

「真犯人がいんだよ。だからそいつをさっさと捕まえて無罪の俺を出してほしいわけよ」

 本当か?

 何も知らない僕の同情を引いて所長に取り入ってもらいたいという狙いが。

 あるのか?

 成功が見込めそうにない。可能性が限りなく低い。

 だったらこの発言の裏には。

「本当に?」冤罪。

「先生が大学で教授やってたこと知ってるか? そんときにクリニックで非常勤やってたときの患者が俺でな。あれよあれよっつー間に仕立て上げられちまったわけ」

 百パ信じるには眉唾だが、百パ信じないにも情報が足りない。

「誰かに嵌められたということは」流れに乗ってみよう。

「嵌められたんだろうよ? 先生と俺の関係に嫉妬したどっかの誰かに」

 嫉妬?

「好きなんだよ、俺は」

「誰を?」好き?

「先生だよ。他にいねえ」

 患者だったなら。

「転移て知ってる?」

 テクニカルタームの意味がわかったのかどうかはわからないが、彼が機嫌を損ねたのは確かだった。

 言葉こそ発しないし暴力行為の発露もなかったが、殺意かそれ以上の(殺意以上の負の感情があるのかどうか不明だが)視線を。相変わらず胸から上は影に覆われてはいるが。

 見える。感じる。

 第一印象の形成に成功した。さらに言えば、所長と副所長の関係を曲解してくれるとやりやすくなるのだが。

「未明の事件の話って」詳しく聞いているのか。

「知らね」

 ほら、そう来る。

「帰れよもう」

「僕が所長から聞いてるのは、君が7年前に連続強姦殺人事件を犯したせいでここに容れられたってことと、そのときの被害者が6人いたってことと、君がここに容いることで終わったはずだった7年前の事件が、未明の事件が起こったことで」できるだけ冷静に。「君が言うとおり冤罪なら、7年前に君に罪を被せて逃げおおせた真犯人が、わざわざまた捕まるようなことを、わざわざ捕まるような手口で起こしたってことなんだけど。君がもし真犯人の立場だったらそんなことするかな? せっかく君に罪被せて7年ものうのうと自由を謳歌できてたってのに」

「んなこと知るかよ。真犯人に聞けって」

「真犯人は7年間罪の意識にさいなまれてその末に血迷ってまた同じこと始めた?」

「なにが言いたいんだよ」

「君の知り合いじゃないの?それもすごくだいじな。その子のために甘んじてぶち込まれた?」

 沈黙。果たして、

 降参の合図か。図星の絶句か。

「それとも最初から先生が目当てで」

 空気が、

 歪んだ気がした。こんな地底深く。

 檻が、共鳴して。

 揺れる。

「あんたホント副所長でいいのかよ」

 闇と白熱灯の照り返しとのコントラストで、柵越しに顔が。

 指と。

「所長狙えよ。隠し切れてねえぜ?ぎらぎらぎらぎらさせやがって」

 見開かれた白眼に、

 赤線と、

 黒丸が浮かぶ。

「ようやく顔が見えた」同時に僕の読みが当たっていたことがわかる。

 若い。彼は、

 少なくとも7年の時を止めていた。

「出してみろよ」俺を。

「てことは出たくないわけだ。君の意志でそこに」

「時間です」後方からの声。

 白い看護服。

 黄茶髪の。

「スタッフミーティングを始めます。副所長」

 僕は彼にすごく見覚えがあった。

 この秋、後味の悪い事件があった。

 そのとき、被害者でもあり加害者でもあった少女を。全身拘束し車椅子に乗せて、屋上のヘリポートより。到着した悪の秘密結社に少女を明け渡すときに瀬勿関所長を補佐していた青年。

 彼が、

 助手の。

「所長も待っていますので」

 名前は確か、

 悟桐ゴトー。

 僕は振り返ったが、檻の中の禍々しい狂気はすっかり消え失せ。

 無言。

 興味がないのか。やり過ごしているのか。

 助手も特に何も言わない。

 檻の中に対して。

 毎日会っていればそう話すこともないのか。

 所長によって、みだりに話すことを禁じられているのか。

 エレベータに乗る際にもう一度振り向いたが、

 無駄だ。白い扉が邪魔して。


      3


 遺体を見るのは苦手なのでご専門の方に任せるとして。

 被害者。

 男。生き残ったほう。

「話しても大丈夫なんですか」最高責任者に尋ねる。

 言わずもがな、

 県警本部長。

「訊きたいことがあるだろう」

 さも、君が望んだから場を整えたみたいな。

 そうじゃない。俺が言いたいことは、

「被害者が話せる状態なのかと訊いてるんです。どうなんですか」

「訊かないことには捜査ができないな」

 だから、

 そうゆうことじゃなくて。

「ついこの夜に被害に遭ったばっかなんでしょう? 眼の前で恋人が殺されて。そんな危機的状況を目撃したばかりで」

「早いほうが記憶も鮮明だろう」本部長は当然だとばかりに。「ここまで来て四の五の言わないでくれ。先生は早期解決を望んでいる」

 あきれてものも言えない。というのはまさに、

 いま。

「その先生は? なんてゆってるんです?」

「模倣犯の逮捕が最優先だ」

「模倣犯なんですか」瀬勿関シゲルの見立てでは。「真犯人じゃなくて?」

「ここまで来て四の五の言っていても仕方ありませんわ」ご主人が、ドアノブに手を。

 止められない。すでに、

 開いている。相手もいる。

 瀬勿関シゲルと癒着のある大学病院。

 かつてその大学で、教鞭を執っていたとかいないとか。系列のクリニックを任されていたとかどうだとか。そこの最高責任者に権限を奮わせて、最高級のVIP用個室を用意させた。

 一体全体どんな癒着だ。

 親族あたりの穏便な関係なら愛想笑い程度で流せるが、まあ。深入りはしないでおいてやろう。ゲスな勘繰りなんかしている場合でもないし。

 学生だろうか、ソファで項垂れていた若者はスリーテンポほど遅れて顔を上げた。

 喪服にしか見えないむしろ喪服の一種ではないかと思われる黒のワンピースに身を包んだスーザちゃんことご主人と、仕事着で決めた(断じて仕事着だ)俺を交互に見て。

 ほんの僅かに頭を下げた。

 軽い会釈。その程度の訪問者に思ったのだろう。

 無理もない。

 見た目は完全に、愛らしい少女と美しいお姉さん(断じてお姉さんだ)の二人組なのだから。

「お話してもよろしいですかしら?」ご主人が口火を切る。

 さすが勇ましい。

「わたくしは、ただの小娘ですけれど」

 こうゆうところも上手い。相手はたいがい年上なのでこう前置きされたら油断する。

「こちらは」俺を手で示す。「この手の凶悪かつ卑劣極まりない重犯罪に立ち向かうために特別に組織された専門家集団の長ですの。どうぞご安心を」締めくくりに女神のような微笑みを投げかける。

 完璧だ。惚れ惚れする。

「只今紹介にあずかりました、対策課課長・胡子栗です」

 焦っていない、時間はたっぷりあるのだということを示すために。

 ゆっくりと礼をする。

 ゆっくりと視線を合わせて。

「突然のことでおつらいとは思いますが、詳しいお話をお聞きしたく」

「女のかたなんですね」若者は小さい声でそう漏らした。

 この手の凶悪かつ卑劣極まりない重犯罪に立ち向かうために特別に組織された専門家集団の構成員、しかもその長が女だということに時代の最先端を感じてもらえたならば光栄だが。頼りなさや力不足、果ては男尊女卑を言っているのだとしたら、多少。

 強引に推し進めようが二次被害は抑えられそうだ。

「取り調べなんてねちねちとやってる時間も手間もありませんのでね、こちらにもそちら側にも。わたしが」混乱しているところに持ってきて更なる混乱を避けるためだ。わたし、なんてむず痒いが致し方ない。「わたしたちが訊きたいのは一つです。やったのはこの方ですか」写真をテーブルにのせる。

 7年前、

 瀬勿関シゲルが収容したとかいう少年。その7年後。

 連続強姦殺人犯の近影。

「彼ではないんですね?」写真を摘まんで吊るす。

「どうして否定形で訊くんですか」若者が言う。「わかっているなら」

「わかっていないからです。百パーセント否定できないからあなたの証言を得たいんです。違うんですね?」

 若者がうなずく。

「別人だと思います。これでいいですか」

「なんだか誘導尋問みたいですわね」ご主人がぼそりと。

 若者にもぎりぎり聞こえる音量で。厭だなあ、

「誘導尋問してるのがバレちゃうじゃないですか」

「誘導尋問だったんですか」若者が言う。「あんたたちには犯人がわかってるわけだ。そうなんでしょう? だったらさっさと」

「捕まえろ? いいですよ。そのためにわたしたちがいるんですから。でもね」近影を破り捨てる。本当は燃やしたかったが病院というところは火気厳禁なので。

 已むなく、ちりぢりびりびりにした破片を手の平の間で転がす。

「そのときは、あなたごと連れて行かせてもらいますので。ここでおとなしく保護されていてください」

 若者が何ぞ反論してくる前に、ご主人が。

 テーブルにのせる。小型ノートパソコンのモニタに、

 趣味の悪いサイトのトップページ。

 会員暗証画面。

「どうぞ? パスワードをご入力くださいな? いつもやっています通りに」

 この裏サイトの趣旨は、

 恋人を寝取らせる第三者を募集する。

「ゲスにもほどがありますわ」ご主人が静かに唱える。

「は、ゲスだ?」若者のツラの皮が。「最高の褒め言葉だね」剥がれた。「わかんねえだろうよ。こいつの快楽はよ。でも、なにも殺しちまうことはなかったんだよ。やりすぎなんだって」また別の奴を。「引っかけてこなきゃなんねえじゃねえか」馬鹿な女を。

「サイトの管理者は?」お前とどこまでつながっているのか。

「そうゆうのはそっちで調べてくれんじゃねえの?」

 こうゆうのは面と向かって論破しても駄目だ。覆せないほどの決定的で徹底的な動かぬ証拠を突き付けて、顔筋を痙攣させなければ。隅々まで。

「なんにせよ、ケーサツが守ってくれんなら安心だわな」若者が横柄な態度でふんぞり返る。「飯も宿もぜんぶ面倒見てくれんってことすよね? 俺らのぜーきんで」

「君はまだ払ってないよね」

「ここ缶詰んなるってことっしょ? なら飯と宿のほかにもイッコ世話しといてくんねえと」

「替えのパンツ?」

「衣食住は足りましたわね」

「じゃねえだろ?ざけてんのか」若者がご主人を、

 あろうことかご主人を。

 そうゆう眼で検分する。

「あんたでもいんだけどな。ちっこいのもたまにゃあ」

「わかった。おーけい。掃除機と大根と彫刻刀ね。準備させるよ」

 退室。

「はいはーい、冗談ですって」若者が廊下に出ようとする。「ホントのホントに守ってくれるんですよね? 頼みましたよ」

「みだりに外出たりしないんならダイジョブなんじゃない?」

「そうですわ」ご主人が言う。「一歩でも外に出てくださいな? その暁にはわたくしが」

「へえ、なんですか? 遊びに来てくれるとか?」

「ええ。天罰を下しに」ご主人がケータイを取り出す。「あなたへの天罰依頼が、あらまた。これで四件ですわね。少なくとも四人の皆さまが、あなたに並々ならぬ怨みを抱いているご様子ですのよ。覚悟していてくださいな。一歩でも外に出ましたら」

 若者が、

 一歩下がる。ドアの内側、

 部屋の中へ。

「一歩でも外に出ましたら、わたくしが、責任を持って天罰を下させていただきますわ。あなたの歪んだ欲望によって顔も知らない第三者にあなたが見ているその前でレイプされた女性たちの代表として」

 若者の表情が濁る。

「およろしいかしら?」

 ドアが閉まった。

「ふーん。依頼来てたんですか」出張サービスに。

「ハッタリですわ」

「んじゃま、近々来ますかね」業は深い。

「どうでしょう」ご主人はケータイをバックに戻す。「ムダさんはどうしてますかしら」

 本部長がエレベータホールで待っていた。

「もういいのかい」

 そのやたらカッコつけたポーズで直立してるのが腹立つ。コートも著しく時代遅れのデザインだし。

「お忙しいでしょうに」帰ればいいのに。の意。

「何かご連絡は?」瀬勿関シゲルから。ご主人が言う。

「私が行ってもいいんだが」本部長はエレベータを呼ぼうかどうか躊躇う。

 指を、

 上げて下ろす。

「越権行為に当たる」

「なんでムダくんだけ?」俺は全然行きたくなんかないけど。

 あんな地獄の煉獄監獄。

「いいんすか?」スーザちゃんに言う。「それこそドーテイの危機じゃ」

「ボーくんはご存じないでしょう? セキさんのこと」

「知りたくもないですけどね」興味ないし。「7年前のあれだって。どうせ患者に手ェ出したとかその手の倫理違反でしょうに」

 連続強姦殺人犯を、好きになったとか。破滅的にもほどがある。

 7年前ならどっかの少年課刑事はばりばり現役だから、知らないはずはないんだけど。

 いかにもワイドショウ週刊誌好みなネタだし。殊しばらくはテレビでしつこくあることないこと特集組んでくれそうだし。卒業文集まで引っ張り出して。当時のクラスメイトに音声変更のインタヴュで。

 よく憶えてない。

 一回死んだからかもしれないけど。でもそんなはず。なにせ、

 当時、

 未成年だ。むしろ少年課の範疇では。

 報道規制?いや、

 揉み消した。か?

「憶測で決めつけるのはよくないな」本部長が言う。「先生だって最善を尽くしておられるわけだから」

「詳しいみたいですね」

 この男はどうにも瀬勿関シゲルの本性を勘違いしている。

 あれは、生物的オスを根絶やしにしようとしてる悪のマッドサイエンティストの一種かなんかだってのに。

 知らないのはどっちだよ。教えてやんない。

 自分で気づけ。

「ムダさんでなければできませんのよ」ご主人が、かごを呼びつける。

 到着の高音。

「セキさんの悪夢を追い払うために。ちょっとお貸ししただけのことですわ」


      4


 会議室は3Fにあった。エレベータを降りてすぐ右手。

 左手は、制御室だそうで。勝手に入るなとのお達し。ということは、

 裏を返せば。勝手に出入りができ、かつ入れたものなら誰にでも都合よく改竄できてしまうという。監視カメラの映像云々を。

 スタッフ三名に埋め込まれているとかいう非人道的な発信機の追跡も、おそらくはここでモニタしている。

「お連れしました」悟桐が平板な声で言う。

 長テーブルのお誕生日席に、所長がいた。

「まずは紹介をしよう。今日から一週間、副所長研修を受ける」

「徒村です」副所長研修?「ご存知かもしれませんが、本当は対策課とゆう無駄な公共事業も真っ青な実験的部署にいます。よろしくお願いします」

「緑野だ。外科医をしている」所長から向かって右にいた白衣の男が言う。

 年齢のほどは、瀬勿関先生と同年代かやや上。髪の量は決して少なくない。が、その反動か何かわからないが。

 白い。灰色でも黒との混紡でもなく。

 真っ白。

 縁なしのメガネをかけて。眼つきが鋭く、冷たい印象を受ける。が、視力が悪いと得てしてそうゆう眼つきになる。見えていないのを無理繰り見ようとする。眼を細めて。じっと眼を凝らすたびに、眼は細く鋭くなり続ける。

 麻のシャツに、黒のネクタイ。細身ですらっと縦に長い。首から提げたIDカードは、白衣の胸ポケットにすっぽりと。

 見せたくないのか。ぶらぶらするのが鬱陶しいのか。

「斎宮イツキです。設備管理とかしてます。よろしく」最もドアに近い末席にいた青年が言う。

 悟桐助手と同年代かそこら。

 ここのスタッフにおけるコホトは2つある。

 瀬勿関先生と緑野医師。

 悟桐助手と斎宮主任。僕は後者のグループに含まれる。

 他三名が医療従事者の制服を身につけているのに対し、彼は。白のシャツにニットベスト。カジュアルなボトムス。肉体的な作業とは縁遠い業務をしていることが見て取れる。

 設備管理というのはおそらく、先ほどの制御室で監視カメラ等の監視をしている。彼の城はそこだ。

 緑野医師が絶壁の氷山だとするなら、

 斎宮主任は陽の差す中庭。

 さしずめ悟桐助手は不毛の荒野。

 この中で、所長も含め誰に所内案内を頼みたいかと訊かれたら。九割方、無難そうな斎宮主任が選ばれる。サービス業である医療従事者がそれでいいのかと。

 あ、違った。彼らの目的は、

 どちらかというと。病院というより、

 試験管培養の研究所。

「ゴトー?」瀬勿関先生が促す。

「悟桐です。先生の助手で、看護師です。何かわからないことがあったら遠慮なく」

 どうやら所内案内は、彼の専売特許であるらしかった。これなら美術館の音声ガイドのほうがフレンドリィだ。馴れ馴れしいほどに。

「私の紹介は省くとして」瀬勿関先生が言う。「ムダくんは副所長だ。私の次に偉いということを認識しておくように。じゃあ本日の予定を」

 悟桐助手が席に着いてパソコンを広げた。書記も彼の仕事の内らしい。

「期日を迎える患者が二例いる」緑野医師がカルテを所長に回す。

「心苦しいな。プログラムに乗らないゲスは」所長は苦々しい顔でカルテにサインをする。

「僕は特に」斎宮主任が言う。「副所長のIDも正常に機能してるようだし」

「ゴトー?」瀬勿関先生が呼びかける。

「副所長のデスクですけど」

「ああ、そうだったな。うっかりしていた。同室でも構わないが」

「夜もですか」悟桐助手が尋ねる。

「不満ならお前の部屋を貸すか?」

「荷物はあとで届くんですか」悟桐助手が僕に訊く。

「どうだろ。荷作りした覚えはないね」

「住み込みではないんですか?」悟桐助手が所長に訊く。

「すまない。それも私の落ち度だ」瀬勿関先生が僕に言う。「取りに行くか。いまからでも」

「いえ、それには及ばないかと」

 たぶん、きっと気を利かせたスーザちゃんあたりがそれにかこつけて。今日中にでも押しかけてきてくれそうな予感が。

「せめて夜は」悟桐助手が食い下がる。

「心配なら監視に来ればいい。違うか」瀬勿関先生がにやりと笑う。

「許可を下ろしてもらえるのなら」

「私に関係がないようだから」緑野医師が席を立つ。

「せっかちだな。患者は逃げないぞ」瀬勿関先生が言う。「どうして急に副所長を連れてきたのか。お前らに心当たりはないか。申告は早いほうが望ましいが」

「どうして僕らが所長の下に集ったのか」斎宮主任が言う。「それをもう一度思い起こしてほしいものですが」

「そうだ」緑野医師が同意する。「人間の皮をかぶったあの化け物を私の手で処刑するまでは」

「ゴトー?」瀬勿関先生が振る。

「本日未明、7年前と同様の手口の事件が起こったようです」

「どうゆうことだ」緑野医師が瀬勿関先生に詰め寄る。「奴はいまも」

「詳しく状況を教えてもらえる権利はありますよね」斎宮主任が所長を睨む。

 悟桐助手がモニタから眼を離す。

 視線が、

 集う。同一方向へ。

「あれから7年だ」瀬勿関先生が静かに言う。「どうして私が7年も奴を生かしておいたのか。奴に並々ならぬ怨みを抱いている私たちからすれば、実に気が狂った処遇だったと憤慨した者もいる。それで然るべきだ。私だっていますぐにでも君たちの前で奴に期日をくれてやりたい。しかし」そこで一息置いた。

 緑野医師と、

 斎宮主任と、悟桐助手を順番に見て。

 もののついでに僕を一瞥して。

「7年だ。あまりに長かったが、その成果は充分にあった。薄々気づいている者もいると思うが、奴は」登呂築無人は、

 トロツキナサト?

 登呂築?その名字は。

「7年前の事件で真犯人に罪をなすりつけられた。まったくの冤罪だ」

 一斉に三名の表情が銘々変化するのを視界の端で感じながらも僕は、

 登呂築。

 その名字の意味を精一杯考えていた。登呂築、

 それは僕が対策課に派遣された当時。いまから半年前、そこの課長を務めていた人物。彼と同じ。しかしいま彼は、課長の任を解かれ、課長の任に就く前に収容されていた、ここ。

 国立更生研究所で再び、更生プログラムを受けている。

 実の娘を、性的に殺した罪で。



      1群がる女は

   息絶って悶える女は引き取って



 自分の罪の重さはわかっていたつもりだった。

 だからいつ死刑になったって構わなかったしそれを望んでいた。が、

 どういうわけか。

 私はまだ生きている。生かされている。

 未来永劫、この命が続く限り。

 過去に犯した罪に向き合い続けろという刑罰。

 ここには時計もカレンダもない。つまりは、

 時間概念も日付制度も存在しないということ。

 それこそが無限。

 無限に苦しみを与えられ続ける。

 やっとの思いで積み上げた石の山を一瞬にして蹴散らされ。気を取り直してまた作ったところでそれもまた一瞬にして蹴散らされる。

 どうせ一瞬にして蹴散らされる運命の山だとしても、

 山を作ることをやめることは許されない。山を作り続けることこそが私に与えられた唯一の仕事なのだから。山を作るか、

 何もしないか。どちらかしかない。

 何もしないことには耐えられない。何もしないことはすなわち、

 自分と向きあうことになる。

 自分の内面と徹底的に対話することを意味する。

 自分で自分の首を扼めているのと何も変わらない。耐えられない。

 息が絶えてしまう。

「どうした」女が言う。「気持ちがよすぎて動けないか」

 女は、

 服を着ていない。正確には下着と、

 白い。

 それのお陰で天井のレンズに映らない。自らの白い肌が。

「まだ出るんじゃないのか」女が挑発する。「遠慮する必要はない。その心配はない」

 私は遠慮も心配もしていない。

 この女は魔女だ。

 魔女に、生殖能力などありはしない。

「ああ、そうか」女が嗤う。「わかった。期日を気にしているんだろう。そのための検査か何かだと思っている。違うか」

 期日。詳しくは知らないが、

 看護師が仄めかすに。

 更生プログラムから零れ落ちた性犯罪者に適応される最終手段との。

「残念ながらハズレだ」女が首を振る。「期日に関しては部長に一任している。私が口を出せるものではない。媚を売るなら部長相手にしろ」

 ついでに腰も。

 感じるな。感じては。

 ならないのだが。感じてしまえば。

「硬くなってきたじゃないか」女が、

 なぞる。白い細い、

 指先で。

 爪が、やけに。

 艶々と。

「その調子だ。私を退屈させるなよ」女は、

 私に跨ったまま。

 どうしろというのだ。私は、

 それをするわけにいかない。これ以上罪を重ねるわけには。

「知っているぞ」女が囁く。「娘だって孕ませたんだろう?」だから、

 死んだんだ。息子が、

「姉の代わりに姉を演じているが」女の太ももが痙攣している。

 ああ、駄目だ。

 駄目だそれは。それをしないために、

 私はここに収容されたというのに。

「代表を降りたらしい」女が腰を引く。私の、

 なれの果てを露出させる。

「姉のふりを辞めるそうだ。先日、男の格好で挨拶に来た」

 それが果たして何を意味しているのか。

 私にはわからなかった。混濁する脳でそれでもなんとか理解できたのは、

 私の期日が近いということ。

 私の罪が増えたということ。

「妊娠したらお前にくれてやる」堕ろして「喰うなりしゃぶるなり好きにしろ」女は羽織っていた白衣を翻して、

 私の部屋をあとにする。

 その翌日(時計もカレンダもないので翌日だという確証はどこにもないのだが)白衣の男がやって来て、

 私に紙を突き付ける。

「期日だ」

 死刑判決のほうがきっと生易しい。

 所長直筆のサインが眼に入った。


      5


 今日半日で僕が手に入れた(知ることを許可された)情報は以下の通り。

 最下層B4に収容されている連続強姦殺人犯は、

 7年前。

 真犯人に罪をなすりつけられたまったくの冤罪で。

 て、いいんですかそれで。

 所長。

「想定外の質問を寄越してくれ。どいつもこいつも」瀬勿関先生は心底うんざりといった表情で。群がる部下を振り切って。「あとはまとめて文書で提出しろ。眼くらいは通してやる」会議室を脱してしまった。

 これにて、

 スタッフミーティング終了。

 それでもしつこく追いかけるのかと思いきや、緑野医師も斎宮主任も互いに顔を見合わせて。

「戻るとしよう」

「そうですね」

 案外あっさり引いた。すんなり持ち場へ帰って行った。

 残るは悟桐助手。

「知ってました?」

 彼だけ、所長に何の質問も浴びせていなかったように思えたので。

「何をですか」

「いや、冤罪だったとか」

「僕は先生の助手です。それだけです」

「随分と妄信してるんですね」気を悪くさせることを見越して聞いたのだが。

「愛していますから」

 彼の受け答えはそんな下世話な目論見を遙かに凌駕していて。

 愛と来たか。それじゃあ、

 敵わない。

 どんな悪も黒も、

 正義であり真っ白く見えるクリアな視界を持っている。

「僕は先生の下で働けること以上の喜びを知りません」

「先生の横で働けたらそれ以上の喜びが得られると思うけど」

「あなたのほうが相応しいようですので」悟桐助手が言う。

 嫌味だったのかもしれない。皮肉と羨望と嫉妬と。

 いろんな感情が渦巻いている。彼は存外正直な性格のようだ。

 部外者であるはずの僕に対しても敵意を剥き出しにする。こんな調子ではさぞ想いを寄せる所長の前でも。いや、それはこの場で証明されている。

 僕のデスクを置く場所ごときで。

「夜は遠慮してください」所長室を副所長室と兼ねること。

「助手の君が寝ずの番に入ればいいんじゃないかな」

 エレベータホール。

 矢印は下向きのみ。悟桐助手が押す。

「このあとも君に付いて回ればいいの?」

「所内案内図で不充分だというのなら」

「登呂築ナサトが冤罪ならさっさと釈放?出所?言い方は知らないけど、出してあげればいいんじゃないの? そのほうが囮にできる。真犯人は必ずかかる」

 到着音。乗り込む。

「対策課の前課長も登呂築ってゆってね。偶然じゃない。所長が付けた名だ。どうして登呂築と付けたのか、わざわざ。その理由がわかった」

「僕に話す内容でしょうか」

「君は助手だ。まずいことがあれば真っ先に所長に筒抜ける。そうゆうことだよ」

 2F。

 エントランスロビィのほか、

 診察室と病室がある。このフロアが、

 所長の助手・悟桐のテリトリィ。

「直接お話しください。あなたにはその権利がある。脳のない手足の僕らと違い」

「君はどうして所長の手足になったの?」

「ご想像の通りかと」悟桐助手は一礼して診察室の中へ消えた。

 愛?

 どういうレベルでの?

 異性愛。には違いないが、

 敬愛。性愛。純愛。

 相思相愛でないことは確かだ。お生憎だけど。

 上に行こうか、

 はたまた下に行こうか。逆さ吊りの首長竜の骨格模型を眺めていると。

 1Fから。吹き抜けになっているので見えるのだが。

「時間はあるかな。悪いんだが」下りて来いと。

 外科部長・緑野医師。

「きちんと挨拶をしていなかった」

 だったらそっちが来いよ。とも思ったが、自分の縄張りの外にいるのでどうにもできないのだろう。

 彼の城は、1F。

 手術室や処置室など外科的な治療に関する部屋があるとのことだが。

「立ち入り禁止なんですか」他人の縄張りには。

「その理屈だと3Fで会議を開けんな」緑野医師がメガネのブリッジに触りながら言う。「そうではないんだ。察してもらえると有り難いが」

「なんとなくわかりました」内密な話があると。

「ここにいる限り密談はあり得ん」緑野医師が天井を見遣る。

 監視カメラ。

「録画もされる。それに私たちには」発信機。「君がどのような経緯で副所長に立候補したのかは聞かん。興味もない。だが一つだけはっきりさせてもらいたいことがある」

「僕は誰の味方でも敵でもありませんよ」

「中立という意味合いなのか。それとも」判断を保留中なのか。

「僕も一つお聞きしても」

「どうして私がこんなことをしているか、だろう。所長から聞いとらんのか」

 何か聞いてたかな。

 憶えてないところからすると。

「おそらくは何も」

 ミーティングの際に小耳に挟んだ、所長への所長の想定内の質問の節々に見られた引っかかる内容以外は。

 つまるところ、盗み聞きした内容からの推論でしかない。僕が得たのは、

 緑野医師は。

 登呂築ナサトを殺したいほど憎んでいるという。

「これを話したら君の話も」どうして憎んでいるのか。

「外科部長の情報開示の度合いによりますね」

 緑野医師は、僕に対する評価レベルを更新してくれたようだった。下方修正か上方修正か。

「君を信用していいのか。どうなんだ。それがわからんと私も」

「そっくりそのまま返したいくらいです。失礼ですが、僕はいまのところ誰一人信用していません。勿論所長も含め、全員を疑ってかかっています。それが捜査ですので」

「警察なのか」

「元、ですが」

「ではやはり7年前のあれの再捜査のために」

「ご期待には沿いたいと思いますが」

 どうにも、山の高さと海の深さを測りかねている。この事件は、

 誰によって山の高さと海の深さを決められてしまったのか。

 全員が各々決定した山の高さと海の深さがまちまちだったことによる、二次的要因によって。

 事件を不用意に掻きまわしてはいないか。

「そのためには、外科部長が知り得るすべての事実を明るみにしていただかないと」

「したいさ。できるものなら」緑野医師は苦渋の表情で。「できんのだ。私は、私たちはここに」こめかみ。彼が両側を押さえる。「埋め込まれとるんだ」

 発信機。

「GPS程度でしょう」

「所長は誰も信用しとらんのだ」

「僕と一緒ですね」

「違うんだ。頼む。まともに聞いてくれ」緑野医師は、僕のIDを掴んで。

 首を絞める意志はなさそうだったが。それは、

 これからの僕の返答如何でいくらでも変化する。

「都合の悪いことを私らが言おうとすると、こいつが」

「電流でも流れるんですか」

「発信機じゃない。騙されたんだ、こいつは」

 爆弾。

「SFですね」

「信じてくれ。本当なんだ。過去、こいつが爆破して頭が吹っ飛んだ同僚を」

「冗談でしょう」なにもそこまで。

「最初は信じとったんだ。セナくんは、所長は私らのためにやってくれとると。しかし、現状を見れば明らかだろう。奴はいまものうのうと生きとるんだ。おかしいだろう。私の娘を。うぅ」緑野医師が突然、頭を押さえてしゃがみ込む。

「大丈夫ですか」爆破するなら外でやってほしいのだが。

「事実だけ端的に述べろ」どこからともなく、

 瀬勿関先生のお声が。

「お前の娘は登呂築無人の被害者だ。私が目撃している。お前が怨むべきは誰だ。私か。お前に復讐の機会を与えてやった私か」

 緑野医師が頭を押さえて首を振る。

「言え。聞こえないぞ」瀬勿関先生は低く重い声で。

「所長ではない」緑野医師は消え入りそうな声で。

「登呂築無人は?」

「私の娘を殺した」

「だからお前は」

「登呂築無人に娘と同じそれ以上の苦しみを与える」

「洗脳実験の様子を生で見せてもらっているところすみませんが」天井にある監視カメラを見ながら言った。

 レンズを通して僕らを見ている瀬勿関先生と眼が合うことを期待して。

「やり方が人の道から大きく外れてしまってはいませんか」

「知りたいことがあるなら私に直接ぶつけてくれて構わないぞ」

「そのほうがよさそうですね」爆発に巻き込まれても嫌だし。

 少なくとも屋内には、三つの爆弾がうようよ縦横無尽に活動していることに。

 ゲームじゃないんだから。映画のほうがまだいい。

 爆処理だって来やしない。

 苦しんでいる緑野医師には申し訳ないが、僕は医学的知識が皆無なので自分で何とかしてもらうとして。ここで本当に必要なのは医学的知識というよりは、爆弾という工学的知識のような気がしないでもないが。

「三つに厳選できたか」瀬勿関先生の声。

 頭上。2F。

 手すりに腕をのせている姿が。なんともアンニュイ。

「期日とはなんですか」

「リョクヤの過去と、サイグウの過去と、ゴトーの過去じゃなくていいのか」

「それは別途調べてもらうとして」スーザちゃん辺りに。

「朱咲なら来ないぞ」

「そうなんですよ。てっきり押しかけてきてくれるもんだと」

 確かに、あんなに反対していた割に何の音沙汰もない。ポーズ?まさかの。

 着信もメールすらない。

「厭きられたんじゃないか」

「晴れてお払い箱になればあとは課長だけですもんね」

 胡子栗課長が瀬勿関先生とあまり仲が良くないのは知っているが。それはあくまで、私生活というか生き方や人生観に対する貶し合いと思っていたので。

 仕事上となれば話は別で。協力体制が敷かれるものと思っていたのだが。

 同じ対策課の一員なわけだし。

「朱咲も甘味料も別の事件で忙しい」

「二手に分かれて同じ事件を追っているのではなくて?ですか」

 瀬勿関先生が2Fから何かを、

 落とす。僕が拾えない位置に。

「すまない。手が滑った」

 どこかで見覚えのあるケータイ。ああ、そうか。

 僕のだ。

 やられた。

「使うなとひとこと言ってくだされば」何の連絡も来ないわけだ。

 気づかなかった僕に最上級の落ち度があるのだが。

「副所長研修に集中してもらいたいからな」

 拾う気にもなれない。

 広い気にもなれない。

「で、期日とは何でしょうか」せめて気だけは取り直して。

「更生プログラムの不適合者に対する最終処遇だ」

「もう少しわかりやすく」

「二度とレイプが出来ない身体にする」

「先生のご専門とする方法で?」

 精神科的処置。

「いや、リョクヤの専門だ」

 それは、

 つまり。

「身体の一部が失われるということですね」

 外科的処置。

「そいつがなければレイプはできないからな」

「そうでしょうか」

「期日を迎えた奴の再犯率はゼロだ」

「出所率と死亡率を聞きたいですね」

 瀬勿関先生が、エスカレータで下りてくる。

「そいつが二つ目でいいのか」

「前課長に登呂築と名付けたのは、真犯人を誘き出すためですね?」

「そいつが二つ目か」

「成功したわけですね?結論から言うと」

「登呂築無人は私の患者だ」瀬勿関先生が言う。「私の患者が連続強姦殺人など犯すはずがない。私の患者だ。あり得ない」

 それはすごく、

「暴論甚だしいですね」

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