第5話 シエヘラザードの魔法

      1


 悟桐さとぎり助手はケータイを耳に当てる。僕を視界の中央に収めたまま。

「出ない」どっかの課長が足止めしてくれているとかゆう所長に報せているのだろう。「何をしたんですか」

「単に無視されてるんじゃなくて?」

「先生に何かあったら僕はあなたを殺します。副所長だろうと」悟桐助手はポケットから取り出した何かを。

 檻の中に向かって放り投げる。も、

 うまいこと鉄の柵に当たって。

 跳ね返って床に落ちる。僕の足元。

 カギだった。

「さっさと出ろよ、冤罪小僧」悟桐助手の眼は据わっている。

 僕が拾おうかどうか迷っていたカギを。

 思いっきり踏んづけて。

「てめえがここにいるから先生がおかしくなっちまったんだ。てめえがんなとこにいやがるから」

 落ち着いて。とか、

 まあまあそのくらいで。とか、

 仲裁をしてもよかったが。いまなら、

 いまの異常な極限状態に追い込まれた悟桐助手なら、

 口を割らせることができるかもしれない。と不届きにも考えている僕もいて。

「さっさと出てこいっつってんだろ」檻の中に向って怒鳴りつける。

 それはさも、言葉の通じない猛獣か何かに向かって言葉を使って言葉以上の暴力を伝えようとしているみたいだった。

 その仮想猛獣は、

 動きもしない。柵と対面の壁に背をつけて。

 相変わらず脚を投げ出している。

「問題の答えだけど」僕は場を仕切り直そうと思って声を発したが。

「冤罪なんだろ? 知ってんだよ」悟桐助手は大股で闊歩して檻に接近する。「てめえは模倣犯で。真犯人はてめえがぶっ殺した。犯人ぶっ殺したところでてめえが模倣犯のパクリ野郎なのは変わんねえんだよ。いいか? てめえはてめえで満足してるかもしんねえがな。先生の役に立ったとか思い込んでるかも知んねえがな。違えんだよ。てめえは先生の」

「ゴトーちゃんよ、邪魔しねえでくんねえかな」登呂築無人とろつきナサトくんが言う。挑発と沈着の狭間で。「俺ぁいま、副所長サンとゲームしてんだ。割って入ってきて不正解だぜ。副所長サンよお、俺の答えは2だ。そこにいるアタマめでてえゴトーちゃんだ。どうだ?」

「せ」いかい。と言おうとした口を根絶される。

 上方向への加速度。床への衝突。

 咄嗟でもこんな素人の強襲ごとき。頭くらい庇える。

 骨ばった指と指の隙間から、

 悟桐助手の血走った眼球が見える。

「てめえの遺言はそいつでいいか」

 口を力づくで押さえられたとしても、僕の両手はフリーなわけで。ついでに言うと、両脚も完全自由な。

 隠し持ってる飛び道具を出すまでもない。ずぶの素人相手に。

 我ながら大人げないなあ。

「は、な」せ。と言いたいんだろう。

 言わせない。

「彼の言うとおりだよ。僕らはいま神聖な勝負の真っ最中なんだから。そこに乱入してくるとか、人格的にどうかと思うよ?」素人じゃなきゃ一本や二本折ってもよかったが。

 そこで観戦している、登呂築無人くんに悪影響だ。

「ひでえの。副所長さんよお、やっぱあんたただもんじゃねえな。ホントに元ケーサツかよ? 極悪人の部類だぜ?」

「ひどいのはどっちだろうね」悟桐助手の動きを封じている力を緩める。「こんなにあからさまな正義の味方はいないよ? 僕が信じてるのは」自分だけ。

 正義なんて借り物は、

 どこかに置いてきてそれっきりお目に掛かってない。

「よ、くも」悟桐助手が体勢を立て直しつつ咳き込む。

「そうだね。正解だ。瀬勿関先生が愛してないのは」指を差す。「そこの助手くん。ご愁傷さま。自分でもわかってたんじゃないかな。そのくらいのこと、察せないほど鈍くないはずだよ。君以上に先生に愛されていない男はいない」

 悟桐助手がもし睨みつけるだけで相手を八つ裂きにできる能力があったとしたら、僕も。彼も、登呂築無人くんもただの肉片と化していただろう。

 現実はそうなっていない。

 現実はそうはいかない。お生憎だけど。

「お次行っちまっていいか」登呂築無人くんが言う。「先生が愛してねえのは、てのが出たからその逆だ。先生が一番愛してんのは。お前か」僕を指す。「俺か。それとも俺がぶっ殺した連続ごーかん殺人鬼・不破繁栄か。それでもやっぱ俺か」

 もの凄い自信だ。

「この中に答えある?」今度は挑発じゃない。「一番てのが曖昧だけど、男に限るってんならまあ」いなくなくはないが。

「答えわかってんだろうがよ。サービス問題だ。そいつ」悟桐助手を。「黙らしてくれたお礼だ」

 さて、どうするか。男に限ると言っても、

 この中に答えなんてない。

 でも、登呂築無人くんにとっての正解を与えないと。

 この先に用意しているあれやこれを繰り出せない。仕方ない。

「多少思い込みな気もするけど」彼は、

 先生の患者だ。

 たったそれだけの理由。

「そだね。2番と4番の」まで言いかけたとき、

 かつん。

 カツン。

 近づいてくる。

 エナメルのヒール。

 翻る白衣。短すぎるマイクロミニの丈。

 くせのかかったセミロングを指で払って。

「本人のいないところで何を勝手に人の好きだの嫌いだのをやってるんだ。副所長のムダくん、そんな暴露大会は修学旅行で済ませなかったのか」

 瀬勿関先生が、

 足元に転がっている悟桐助手を。

 そのアングルだと確実にスカートの中が見えたと思う。とか完璧に思考があらぬ方向へ行っている僕も僕だが。

「せん、せ」い。は悟桐助手の口から発されることはなかった。

「誰が許可した。誰が会っていいと言った。誰が」瀬勿関先生は、

 課長が足止めしてるんじゃなかったのか。足止めできなくなったのか。

 そうか。なるほど。

 僕がここに踏み込むまでの間だけ足止めしてもらっただけでもありがたいと思おう。

「誰がお前を嫌いだと言った?」瀬勿関先生が腰を落とす。

 しゃがむ。やっぱりその角度は犯罪的で。

 犯罪だろ悟桐助手。眼くらい瞑れ。むしろ眼が潰れろ。

「嫌いなわけがないだろ。嫌いならどうしてここに置く?」白い指先が、

 悟桐助手の顔の輪郭をなぞる。

「せ、んせい」

「外してくれ。所長命令だ」

「失礼します」悟桐助手は機敏に立ち上がって廊下を引き返す。

 白い扉が、

 開いて。

 閉まるのを見届ける。

「ひどい宗教ですね」

「なんだ、副所長。君もやってもらいたいのか」瀬勿関先生が言う。「ナサト。私の許可なく喋るな。ここを出たくないのだろう? それとも出るか?」

 床に。

 落ちていたカギの存在に気づいた。

 拾う。

「丁寧にこいつもあることだしな」

「勝負がまだ途中なんです。先生、いや所長。僕とナサトくんは」

「その勝負とやらをやっていいと、誰の許可を取りつけたんだ? 誰の許可が取れたんだ? ムダくん、いや副所長。君の権限を見誤ってもらっては困る」

「冤罪と言ってみたり、出さないと言ってみたり。先生は彼を弄んでいるだけです。患者とすら見ていない。実験材料です」

「それ以外に何がある?」瀬勿関先生は、拾ったカギで。

 檻を解放した。

 手前側に柵が開く。

「これでいいだろ? 連続強姦殺人犯・登呂築無人は冤罪だから家に帰す」

 中にいる連続強姦殺人犯は、

 動こうとしない。

「先生。ナサトくんが途中放棄とゆうことであなたに勝負を継いでもらいたいんですが。僕の番です。第3問。なぜナサトくんは甘んじて7年もこんなところに入っていたのか」

 ・その1

 愛する瀬勿関先生の傍にいたかったから。ここに入るしかその方法が見当たらないと思い込まされたから。

 ・その2

 二十歳になったら、

 7年経ったら結婚してくれると嘘の約束を取り付けられたから。

 ・その3

 二十歳になったら、

 7年経ったらナサトくんの親権が切れるから。子どもの間だけ面倒を看る義務があったから。

 ・その4

 連続強姦殺人犯を始末した模倣犯として実験材料にされたから。

「どれですか?」

「ひどいな。実にひどい」瀬勿関先生が嗤い出す。腹部を押さえて、

 柵にもたれかかる。

「涙まで出てきたぞ。見ろ、この私が泣いている」白い指先に光るものをのせて。「ムダくん、君の想像力には本当に恐れ入るよ。どうしたらそんな発想ができるんだ」

「どれですか。教えてください。話してください、あなたの」

 真実を。

 ここで、この場で。

 聴かせてください。僕に。

 僕以外に。

「どれですか」

「どれでもないさ」瀬勿関先生が言う。柵の蝶番をきいきい軋ませながら。「どれでもないよ。どれも不正解だ。残念だったな。真実だ? そんなものはない。私が握り潰した。何も残っていやしないさ」

「選択肢を」ひとつ。「五つ目を提示し忘れました」

 ・その5

 娘のマリアさんに殺人を犯させないため。

 ナサトくんがここに入っていたのは、本人の意思なんかじゃない。

 無理矢理ここに、

 容れられていた。先生が守りたかったのは、

 患者でも実験材料でもなんでもない。

「実の娘ただ一人です。それ以外はどうなったって構わない。だからあなたは、先生はマリアさんを守るためなら何でもやった。こんな馬鹿げた研究所まで作って。すべてはカムフラージュなんですよ。マリアさんを守るための。マリアさんに気取られないための」

 瀬勿関先生の様子を、

 表情を。

 動きを。

 視線を。およそ、

 外部から観察でき得るすべての現象を。

 捉えたつもりだった。が、

 相手が悪い。この人の本職は、

 精神科医。

 誰よりもそれが上手い。

 表情も。

 動きも。

 視線も。およそ、

 外部から観察でき得るすべての現象を。

 制御できる。

 コントロール下における。置いている。

「マリアを守るだ?」

 だれがあんながき。瀬勿関先生は口の中で呟いた。

「あいつは私の唯一の汚点だ。消し損なったんだよ。ナサトがすべきだったのは不破繁栄の抹殺じゃなかった。不破くんは、不破はな。私の娘を、マリアを」手に掛けようとした。「だから先に殺してやった。マリアを守るだ? 下半身脳の不破繁栄から眼を覚まさせてやっただけのことだ。怨むなら」私を。「怨んでくれて構わない。マリアを守れるならな」

 なんて。

 瀬勿関先生はそこまで一気に喋って。

 嗤う。

 はははっははっははははははっははは。

 高いような低いような声が通路に響き渡る。

「マリアを守るだ? ムダくん、私はね。あんな子死ねばいいと思っている。あいつが産まれるよりずっと前から。いまだってずっと」そう思っている。

 それが。

「先生の真実ですか?」

「忘れたよ。7年前に」置いてきた。

 なにもかも。

「なにもかもが遅すぎた」瀬勿関先生はそう言って、

 檻の中を覗き込む。さもそれは、

 狭くて暗い洞窟に閉じ込められた小動物を。

 光の下へ救い出すかのような優しい。

「終わりにしてやろう、ナサト」手を伸ばす。「終わりだ。なにもかも」

 なにもかも。

 終わりなのは。

「てめえらのほうだよ」登呂築無人くんは背中をつけていた壁から。

 抜けた。

 消えた。



      5強がる女は

お控えなすって萎える男は傾城買四十八手



 毎週水曜日が楽しみだった。午後診察の一番目。

 いつもそこに予約を入れていた。

 白い部屋。風通しがよくてカレンダが揺れる。

 デスクの時計がカチカチ音を立てる。

 椅子は二つ。

 でも決して正面には座らない。先生は、

 今日もそこにいた。

「今日で終わりにしよう」先生はそう言ってペンを置いた。「何度も言うが、君は特にどこも悪くないし、どこかがおかしくなっているわけでもない。異常なしだ。異常があるとすれば私に対して感情転移を起こしていることだが、それには気づいているか?」

 かんじょーてんい?

「なんですか、それ」難しい言葉だ。「専門よーごとかですか」

「説明はしない。知りたかったら自分で調べるといい。とにかく、今日で終わりだ。来週からは来なくていい」

 なんで。

「なんでそんなことゆうんですか」

「君に処方する薬はない。受けるべき心理検査も、効果のありそうな精神療法もない。君が求めているものはここでは手に入らない。家に帰りなさい。まずはそこからだ」

 先生が看護師に言いつけて次の患者を呼ぶ。

 診察室を出なければならなくなる。出た。

 先生に迷惑がかかる。

 受付でお金を払った。来週の予約はなかった。

 先生とは、

 今日でお別れだ。

 俺と入れ違いで入って行ったやつ。あいつのほうがフツーっぽいのに。

 受付で処方箋をもらっていた。向かいの薬局に入っていくのが見えた。

 その次のやつも、

 またその次のやつも。処方箋をもらって薬局へ向かう。

 俺には、

 診察券が返ってくるだけ。

「まだいたのか」先生が診察室から出てきた。傍らに、

 看護師がいた。最近入ったやつだ。

 男の。

「あまり長居されますと他の患者様に迷惑になりますので」言葉遣いや語調は丁寧を装っていたが、視線が。

 俺を歓迎していないことは丸わかりだった。

 出ていけ。さもなくば摘まみ出すぞ。

 そうゆう眼だった。

 出た。スタッフ用の駐車場に車があった。三台。

 赤いスポーツカー。

 黒いバン。

 白い軽自動車。どれが先生のかだなんて、

 すぐわかる。

 ナンバを控えた。メモったんじゃない。ここに、

 頭に入れた。

 俺は割と記憶力がいい。余計なことまで憶えていて困るくらいだ。困るのは、

 憶えていられると困るほう。俺は困らない。

 先生が話した一字一句をすべて記憶している。とまでは大見栄切れないけど。

 憶えてる。忘れたくない。

 今日を、

 最後にしたくない。どうすれば。

 どうすればフツーじゃなくいられる?

 どうすればあいつらみたいに、

 フツーじゃない薬を飲まされる?

 駐車場で待っていたら先生が来た。もうそんな時間。

 そういえばそんな空。

 暗い。

 先生は一人じゃなかった。後ろから、あいつが。

 看護師がついてくる。のこのこ。

 二人で同じ車に乗った。え、

 そっちに乗るの?

 俺が控えたナンバの車じゃなかった。そんなことはどうでもいい。

 追いかけなきゃ。

 追いかけた先は、

 マンション。さすがに中には入れない。

 でもそんなことじゃあきらめられない。なんとかして、

 どうにかして先生に。

 先生の患者にしてもらうには。

 先生は水曜以外はどこで何をしているのか。

 大学で心理学を教えていた。

 けーれつの大学病院に、

 先生の夫がいる。外科医。

 娘が一人いる。

 母親のいる大学に通っている。一年生。

 娘が付き合っている男がいる。その男は、

 行方不明だとかいう。

 最近物騒な連続殺人事件。

 ぜんぶ市内で起きている。

 俺は先生のマンションの入り口で待った。ほとんど賭け。

「家に帰れと言ったはずだが」先生は俺を見つけてくれた。「今度やったら警察に保護してもらうぞ。家出少年」

「今日は見逃してくれるんですよね? 今度ってことは」

「二度言わせるな。疲れている」先生は、

 確かに疲労がにじんでいた。あのキレイな横顔に。

 曇りと陰りが。

「駄目ですよ、先生」れんぞくさつじんはんを。「見つけたらケーサツにつーほーしないと」

 先生の表情が明らかに変わった。俺を見て、

 周囲を見て。誰もいないことを確認して。

「時間はあるな?」

「ありますよ」先生のためなら。「俺の一生をあげます」

 てっきり先生の部屋に入れてくれると思ったら。違った。

 先生と夜のドライブ。

 それはそれで楽しいけど。

「何から聞いてやろうか」

「どーしてわかったのか、とかどうですか? わかりますよ?先生がやってることはなんでも。わかるんです俺には。甘く見てたでしょ? ガキだと思って」

 先生は深い溜息。先生が吐き出したその空気を、

 ぜんぶ吸い込みたかった。その空気で、

 俺の肺を膨らませてほしかった。

「ストーカにしたって性質が悪いな。誰にも言ってないはずなんだが」

「俺にできることありますか? ありますよね?」なんでも、

 ゆってほしい。

 なんでもする。先生の、

 患者になるためなら。

「君の家はどこだ」先生は白く細い指でカーナビをいじる。

「ここです」俺は迷わず、

 自宅を押した。

 先生の家。

「二度は訊かない」

「ごめんなさい。じょーだんです」すぐに謝ったけど、

 先生は前方を見つめたまま。

 どこかへ車を走らせる。

「どこ行くんですか」

「知らないとでも思ったか」先生はちら、と俺を見て。

 見たかのように俺が錯覚しただけかもしんないけど。

「君がこそこそストーカの真似ごとをしているのを。私は忙しい。詐病の君に構っている時間は一秒たりともない。君が辿り着いた真実は、私にとっては取るに足らない妄想だ。警察に通報するならすればいい。私と君と、どちらの言い分を信じるかはわからない君ではないだろう。その前に君が単体で警察に顔を出せるのかどうか。行くといい。警察は君を捜しているよ。誇大妄想癖の家出少年くん」

 車を停める。そこは、

 ○○県警察本部。

 眼の前の信号に書いてあった。

「どうした? 降りないのか」

「先生は何をしてるんですか」

「未成年連れ回しだな。犯罪行為だ」

 そうじゃなくて。そうゆうことじゃなくて。

「君が気にするようなことは何一つない」

 先生は車を駐車場へ。関係者用の。

「私はここの本部長と知った仲でな。公式に捜査協力を依頼されている」

「どうするんですか」俺を。

「どうもしないさ。言ったろ。君に構っている時間はない。忙しいんだ私は。君が降りないなら」先生は、

 車を降りてしまった。

「待っていてもいいが、日を跨ぐ恐れがある。帰るといい」

「会議とかですか」

「君に言う必要があるか?」そう言うと先生は、

 キィだけ持って行ってしまった。本当に、

 俺を置き去りに。

 駄目だ。このくらいの脅しじゃ、

 脅しにもなってない。脅かせない。先生は、

 俺なんかがどうこうできる人じゃない。それがわかっただけだった。

 降りよう。帰ろう。

 どこへ?

 どこにも。どこへでも。

 先生が連続殺人犯とつながっていることは明白。

 それなのに、

 ケーサツにこーしきにきょーりょくをいらい?

 先生はとんでもなく悪い人なのかもしれない。

 悪い人。だったら俺も、

 悪い人になればいい。先生と同じ、

 先生以上に悪い人に。

 悪い。悪くなるには。

 簡単だ。

 殺そう、その。

 連続殺人犯とやらを。まったく同じ方法で殺せば、

 気づいてくれるはず。わかってくれるはず。

 俺がやったってこと。

 先生は、連続殺人犯を庇ってたってことを公にしたくないばっかりに。

 絶対、俺に。

 罪をなすりつけてくる。さも俺が、

 最初から、

 その連続殺人犯だったみたいな真実に書き換えて。

 望むところだ。そうすれば、

 俺は。

 先生の患者になれる。わかってる。

 先生は俺の口封じをしたいから、

 俺がバラさないかどうか見張りたいから。

 絶対、俺を。

 担当したいと立候補してくる。

 この国立更生研究所は、

 俺のために。先生が、

 俺一人のために作ってくれた俺と先生の家。

 出ろ?

 冤罪だ?バカ言え。

 出て行くのはお前らのほうだ。ここは、

 俺と先生の。

 なんだろう。楽園?愛の。


      2


 登呂築無人くんが壁に背をつけたまま脚を投げ出して座っていた理由。

 極力(何度か挑発に負けて檻の向こう側に噛みつこうとしていたが)動こうとしなかった事情。

 背をつけていた部分が、

 扉だった。

 その存在を隠すため。

「ムダくん」瀬勿関先生に呼び止められる。「そこから先は立ち入りを許可していない。どいてくれ」

「いまそんなこと言ってる場合ですか」無視して扉を。

 開かない。中から鍵が。

「どいてくれ」瀬勿関先生が首から提げたIDをかざすと。

 ロックが解除された音。

「ナサト!」僕を押しのけて中に。入った先生が、

 鋭敏な瞬発力を持って無慈悲なまでに閉ざそうとした扉を。

 咄嗟に足を挟んで。

「僕も行きます」

「来ないでくれ。頼むから」瀬勿関先生は、とても女性とは思えない強靭な力で。「頼む。ここから先は」

「見せるわけにいかない? 一人で行く? 先生、いま一番だいじなことはなんですか? 僕は関係者じゃないんですか? 国立更生研究所・副所長の僕は、ナサトくんの早まった行動を抑止する力がないんでしょうか」

「そうは言ってないさ。そうじゃないんだ」瀬勿関先生は、扉を引っ張る力を緩めない。

「じゃあどうだと言うんですか。ここで僕を足止めしている間に、最悪の状況に陥らないとも限らない。もういいでしょう? すぐにわかりましたよ」研修初日にB4に入ったとき感じた違和感。「ナサトくんは檻の中にいたんじゃない。この檻は」部屋の一部にすぎない。「他のフロアと比べここだけこんな狭い檻がひとつぽつんとあるだけではおかしいんです。この裏に住んでいたんでしょう。ごく普通の生活空間を用意して。多少地上から遠いですが、風も通らないし窓もないですが。ここに住んでいたんですナサトくんは。7年間。先生と一緒に暮らしていたと、彼は」

「私に任せてくれ。所長は私だ。ナサトのことは」瀬勿関先生の力は、

 一向に弱まらない。むしろ強くなってはいないか。

「ナサトの主治医は私だ」

「主治医だからこそ。ナサトくんは先生の患者です。そうです。だから」

 酷だとは思ったが、瀬勿関先生相手にこんな暴力行為を働きたくはないのだが。怪我が治らなければそれ相応の責任は取らせてもらいたいが。先生は、

 要らないと。不要だと切り捨てるだろう。

「ナサトくんの部屋は先生の所長室につながっていますね? 直通のエレベータが」あるんじゃないですか。「もしものときのために。そのもしもは」いままさに起こっている。

 起こしてしまった。僕が、

 止めてみせる。

「ごめんなさい」先生。一発で、

 あなたは動けなくなります。

 動かなくなります。次に意識が戻るのは、

 戻ったときにはきっと。

 7年前と、

 7年後が、

 同一時間軸で交わっているはずです。

「すみません」床にうつ伏せに倒れた先生を見る。「所長に暴力行為を働いたあれで、僕の国立更生研究所・副所長研修は中止でお願いします」あと何日残っていたのか。

 それすら不明。カウントする価値もなかった。

 とは言いすぎかもしれないが。

 いまは、

 登呂築無人くんに与えられていた部屋は。ごく一般の、

 何の変哲もないワンルームと変わらなかった。

 家主はやや怠惰で引きこもりではあるが。

 読みかけなのかすでに読んであきたのか、

 漫画雑誌やコミックが散らばって。飛び石的にそこを抜ける際、ふと。

 視線を上げると、

 壁一面に。モザイク状に、

 瀬勿関先生の写真が所狭しと。それが瀬勿関先生の写真だとわかるのに、

 時間をロスした。それほどの密集。

「ナサトくん」呼びかけても、

 返事はない。どこだ。

 エレベータは。もし僕が、

 この部屋の住人なら。大好きな瀬勿関先生の部屋に直通できる魅力的な箱の入り口をどうやってデコレイトするか。

 むしろデコラティヴにはしない。そうやって飾らずともその入り口を通れば、

 部屋を装飾するこんな薄っぺらな虚像なんか遙かに凌ぐ、

 魅惑的な実物の本体に会えるのだから。

 あった。

 そこだけ厭に白い。壁。さわる。

 あった。

 切れ目ができて。

 到着音。中には、

 黒い水たまり。

 源泉は、

「上で待ってんぜ」所内放送。

 エレベータの床に、

 横たわる緑野リョクヤ外科部長越しに、

 行き先ボタンが自動で光るのが見えた。


      3


 所長室の所長デスクに彼はいた。椅子には座っていない。

 文字通りデスクの上に。

 黒い眼の人種には心許ない白熱灯ではあるが、

 鼻から上の黒い闇が薄れて。

 思いのほか長身だった。脚を組んで、

 後ろで結わえた髪の束が肩にのる。

「死んでたろ?」

「どうかな。放っておけば或いはね」

「ひっでえの」彼が言う。大きな口が裂け目を作る。「あんた、マジに悪人なのな」

 窓に彼の背中と僕の前面が映っていた。そうか、

 夜だ。

 会議室で結露する窓に手形をつけたことを思い出す。

 あれが朝だった。あれから、

 それだけ経っている。

 そんなに。

 いや、まだ。

 たった、

「それだけのことで悪人呼ばわりされるのは心外だね」

「先生に追って来てほしかったのによお。なんで」てめえが。

「所長が手を煩わせるような異常事態は起こってないってことだよ。研修中の副所長程度で事足りると判断されたんだ」そこから。「下りてよ。そこは君の居場所じゃない」

「地下戻れってか? 戻るさ。戻るに決まってんだろ。俺のは」

 家は。

 彼はわざと省略した。自明だ。

 言わずともわかる。

 ことは敢えて口にしない。好ましい。

 だからこそ、僕は。

 無粋な飛び道具を君に向ける。

「やっぱ悪人だろ」

「撃つ気はないよ。いまのところね」

 彼を無事に連れて行きたい。地上まで。

 7年前、

「君は不破繁栄を殺した。緑野マリアの眼の前で」

 7年後、

「君は時限装置を発動させた。模倣犯は君という模倣犯のさらに模倣を」

「オリジナルなき模倣ってね。端っからニセモンの俺にはぴったりじゃねえの。で、あんたはどっちだと思う?」両手を下ろした彼が言う。「眼の前で恋人が犯されて殺されんの。女と男と。どっちが」

 しょーきでいられなくなるか。

「それを調べてたの?」

「俺じゃねえよ。不破繁栄の悪友がな。ほら、二件目の」自首した。「あいつがやってた研究だよ。あいつ、それで博士論文書こうとしてたらしいぜ。大マジメにな」

「とても審査を通るとは思えないけど」

「どーかんだ。親もかんどーだわな」

 親に。

「勘当されちゃったの?」

「俺があいつらを見限ったんだ。死ねばいい。あんな奴ら」

 やはり。

 そこか。

 登呂築無人の核の部分は。

「君は」瀬勿関先生に。「お母さんになってもらいたかったの?」

 もの凄い眼力。

 僕じゃなきゃ、

 せっかく合わせた照準がずれていた。

「黙れよ」

「お父さんを殺して、お母さんを犯したいあれだよ。言ってほしい? 詐病の君のことだ。瀬勿関先生に相手にされなかったんじゃない? 診断も分析もしてもらってない。副所長の僕が代わりに」分析してあげよう。

 君を、

 カテゴライズしてあげる。どのグループにも、

 入れないんじゃない。

 入りたくなくて無理して逸脱行動を取っている。

「黙れよ」

「君の思春期は終わった」二十歳なんじゃないのか。「もう大人なんだ。いつまでも駄々を捏ねるもんじゃない」迷惑してるんだ。「先生は」

 うるさい。

 ふらりと、顔を上げ。

 登呂築無人は、

「黙れ」

「本当のことだから聞きたくない?」

「っせえなあ」距離を、

 詰められるのかと思ったが。彼に、

 そんな度胸があったら最初から、

 こんなところで無為に7年も過ごしていない。

 そんな度胸がないから、

「君はいつまでもガキのままだ」

 所長室にも窓がある。ここは3Fだか、それでもよく見える。

 無数の赤い光と。

 煩いサイレンが。

「君を逮捕する」

「ケーサツかよ」

「ゆったじゃん。元、ね」銃を突きつける。

 そんな距離。

 撃たない。撃ったところで、

 彼は懲りない。彼を、

 改心させて大人にするには。

 こんな野蛮な方法じゃ駄目だ。

「ゲームは僕の勝ち」

「みてえだな」登呂築無人はやる気なく両手を挙げ、

 やる気なく?

 挙げた両手を。

「だーれが」

 負けを認めるか。

 所長室のドアが開け放たれて、

 悟桐助手が、

 ものすごい形相で。

「くそがきあああああああああ」鋭利な刃物を携えて。

 しまった。

 そっちに気を取られて、

 たわけじゃないけど。あまりにもの凄い狂気で。

 揉みくちゃになったその場の空気を。

 切り裂かれてしまった。

 どうして僕が、

 庇わなきゃいけないのかよくわかんなかったけど。庇わないときっと、

 最悪の状況のさらに最悪の状況が待っていた。

 誰に配慮しているのか。僕じゃない。対策課でもない。

 僕は、

 瀬勿関先生を泣かせたくないのだ。泣くかどうか、

 あの人に涙があるかどうか(失礼)不明だが。

 これ、

 刺さってるよね?完璧。

「どけよ」悟桐助手が怨念染みた轟音で喋る。「どけ。てめえが」

「先生をあの状態にしたのは確かに僕だ。けどね」ヤバい。全然痛くない。「だからといって僕を刺さなくてもいいんじゃないかな? 先生が死んでるならともかく」

「殺したのか?」

「見てないの?」

 ああ、なるほど。

 実際に駆けつけてない。悟桐助手は、

 監視カメラで見ていただけだ。

 それならある意味無理もない。どう好意的に見ても、

 僕が瀬勿関先生にとどめを刺したようにしか見えないんだから。

「だったら、こんなところで傷害事件起こしてないでさっさと」先生のところに。

 行けばいいのに。行かれない?

 理由が、

 彼にはある。それは、

 考えようと思えば考えられたんだけど。ここに、

 刺さってるこれが、

 引き抜かれたと同時に噴き出てきた赤い黒いあれが、

 残酷にも僕の思考を一斉遮断した。

 大丈夫、こんなの。

 慣れっこなんだけど。困ったな。

 登呂築無人の姿がどこにも。

 ない。

 行かなきゃ。

 どこに。行かないと。

 彼は、

 死ぬ気だ。


      4


 死ぬ気なんかありはしない。マセガキ。

 屋上なんか、

 飛び降りるために存在しているようなもの。

 えげつない夜風がわたくしのコートを靡かせます。

「うすら寒いですわね」

「来るな」マセガキは、

 勿体つけてフェンスによじ登りますけれど、

 震えておいでですわよ?

 その口。

 その手もその足も。

「来るなって」ゆってんだろ。が、掻き消されるほどの。

 強風。

 耳鳴りが致します。

「わたくしの手を煩わさないでくださいな」

「誰だよ。お前」

 ようやく、

 頭が冷えて来たようで。

 わたくしを見る。

 一対の眼球。

「そちらでお世話になっていた副所長と将来を約束された関係にありますただの小娘ですわ」

「ガキじゃねえか」

「あなたに言われたくありませんのよ」マセガキが。「その覚悟があるなら止めませんけれど、それをやったところで」飛び降りたところで。「敗北を認めたようなものですわ。よろしいですの? セキさんは」

 赤い眩しい明滅も。

 けたたましいサイレンも。

 すべてはまやかし。

 お気づきですか?これは、

 ムダさんがわたくしに言って用意させた、

 架空の部隊。

 国立更生研究所E‐KISは、

 国家の犬ごときに侵させることはできない。ここは、

 架空の領地。

 ママのもの。

「死んだら会えませんわよ?」

 それでもよろしいのなら、

 死ねばおよろしいのだけれど。

「どうする気だよ」マセガキは自分の処遇を気にしている。「俺は」この期に及んで。

 嘆かわしい。

 一体何を恐れるというのか。

「一生をここでお過ごしに? とんだコブタちゃんですわね。家畜のあなたに人間として生きる価値などありはしませんわ。どうぞ? お飛びになって」

「家畜だ?」

「ええ。7年も檻で、愛する飼い主に餌付けされていたのでしょう? 家畜でなければなんですの? 奴隷?お人形?」挑発など決して。

 真実を、

 申し上げているだけのこと。

「患者だ。俺は」

「大脳に重傷を負った? 治らない? 治す気がないだけですわ」

 マセガキが。

「甘ったれてんじゃねえよ」

 臆した、その隙こそが。

 あなたがマセガキであるという何よりの証。

 自分より年下の小娘が突如として変貌を遂げたくらいで。

 この黒の衣裳がいけませんのね。

 どこぞのおとぎ話の悪い魔女のよう。

「あなたの罪状は三つ」ここの場所柄、

 セキさん方式で行くとしましょう。

 三本の指を立てます。

「殺人。強姦。それと」わたくしのだいじな。「副所長(認めてはいませんわよ)に穴を空けた重罪ですわ。死刑でも生ぬるい。未来永劫だいじな人に会えない苦しみを味わわせて差し上げますわ。是にてさようなら」

 架空の部隊突入。

 合図はしておりません。合図など、

 彼らには無用。わたくしの、

 些細な機微を感じ取って。最も最適なタイミングを見計らって、

 来ていただけますのよ。

 白い。

 気配。ああ、そうでしたの。

 どうりで、

 寒いわけですわ。

 雪が。

 わたくしの瞼に落ちる。

 わたくしの瞼も落ちる。見たくありませんもの。

 そんな、

 えげつない処遇など。

 えげつない音も吸い取ってくださいな。

 白い白い、

 雪に。

 どうか。このままそのまま、

 待ち焦がれるあの日目掛けて。

 すべてを白に染めてくださいな?

 わたくしのために。

 わたくしと、

 わたくしのだいじな。

 この世界のために。魔法をかけてくださいましな。

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