私の御主人様

高柳神羅

私の御主人様

 私は犬である。

 何処にでもいるような白い毛並みで、少しばかり体が大きくて、それなりに知恵が回るだけの、ただの犬だ。

 私は物心ついた頃から、今の御主人のペットとして暮らしていた。


 私の御主人は、世間からは『勇者』と呼ばれていた。

 勇者とは、私たちが暮らすこの世界を壊そうとする悪いものと戦い、それから世界を守って平和に導くための使命を生まれながらに背負った『選ばれし人』のことを呼ぶ呼び名らしい。

 勇者と呼ばれる人は、世界にたった一人しか存在しない。

 この世を創った神様がそう定めたのか何なのかは分からないが、そういう『決まり』なのだそうだ。

 勇者と呼ばれる人には、それを象徴するための『紋章』というものが体の何処かに刻まれているらしい。

 私の御主人は、右手の甲にその模様が刻まれていた。赤い色で、何とも例え難い奇妙な形をした、痣のようなものだった。


 御主人は何処か抜けていて、どんくさい。

 人からは勇者と呼ばれて讃えられている偉大な存在なのかもしれないが、私からしてみたら、ただの世話が焼ける人でしかなかった。

 その辺の小石にすぐに躓いたり、すぐに道を間違えたり、服をよく裏返しのまま着てそのまま外を歩いて他の人に笑われていたりと、とにかく目を離せない人だった。

 武芸の腕は一流で、難しい魔法も難なく使いこなす、勇者としての力は紛れもなく本物ではあったが、その『勇者らしさ』が幻想なのではないかと思えてしまうほどに、とにかくそそっかしくて情けない人だった。

 本当に御主人がこの世界の平和を守る勇者たる人材なのだろうかと、私はいつも首を傾げていた。


 ある日、『魔王』と呼ばれる世界を壊そうと目論む悪しき存在が現れた。

 御主人は勇者として、魔王を討伐するための旅に出ることになった。

 御主人は私を家に残して一人で旅立っていったが、私は御主人が一人で魔王を倒すなどという偉業を成し遂げられるとは思えなかった。

 すぐに道を間違えて、すぐに転ぶような、そんな人が……下手をすれば命を落とすような旅に一人で出て、無事に帰って来るなんて、できるはずがないじゃないか。

 私は自分を小屋に繋いでいる紐を噛みちぎり、御主人の後を追いかけた。

 御主人は私が後を追ってきたことを酷く驚いていたが、追い返すことはせずに、一緒に行こうと私を旅の供に加えた。

 こうして、私と御主人との、魔王討伐の旅が始まった。


 道中、やはり御主人はどんくさかった。

 地図を読み間違えて道に迷うことは日常茶飯事で、店で買い物をする時も代金を一桁多く支払おうとしたり、階段に躓いて転んだり、とにかく危なっかしかった。

 私は賢い犬だ。空を見上げれば方角が分かるし、鼻が利くから近くに潜んでいる魔物の存在もすぐに分かる。人の言葉を話せるわけではないが、人の言葉は理解できるから、御主人が立ち寄った先で人から聞いた話の内容を理解して覚えることも容易いことだった。

 人の造った迷宮で罠を見つけたり、時には自慢の牙で一緒に魔物と戦ったりして、私は御主人を守り続けた。

 私が御主人を助ける度に、御主人は笑いながら私の頭を撫でてこう言った。「お前は本当に頼りになる相棒だよ」と。

 違う。私が頼りになるんじゃない。御主人がどんくさすぎるのがいけないんだ。

 御主人は勇者なんだから、もっと勇者らしく振る舞えるようになってほしい。何もないところで転んで私をハラハラさせるのはいい加減にやめてくれ。


 そうして、御主人と私は魔王が住むという世界の果てにある城へと辿り着いた。

 城内にひしめく大量の魔物を蹴散らして、御主人は魔王の待つ玉座へと進んでいった。

 そして、遂に魔王と相対し──決戦の幕が、開いた。


 幾度となく交わる剣が澄んだ音を響かせて、魔法が宙を飛び交った。

 私も御主人の力となるべく、自慢の牙を武器に必死になって魔王に食らいついた。

 何度も振り払われ、その度に御主人も私も傷だらけになっていった。

 それでも、諦めずに戦い抜いた。決して背を向けて逃げ出したりはしなかった。


 どれだけの時を、戦っていたのだろう。

 勇者と魔王との戦いは、終わりを告げた。

 魔王は討たれ、勝者となった御主人も深手を負い、魔王と一緒になって倒れていた。

 もはや手の施しようもないくらいに目茶苦茶に引き裂かれてしまった御主人の体は、流れ出る血で真っ赤に染まっていた。

 私も傷だらけで満身創痍だったが──それ以上に、御主人の状態は深刻だった。

 御主人が用意していた怪我を治療するための薬は全て使い切ってしまったことを、私は知っている。私に傷を癒す魔法が使えない以上、私に御主人を助ける手段は残されていなかった。

 私は賢い犬だ。だから、否が応でも悟ってしまう。

 御主人も……此処で、じきに帰らぬ人となってしまうのだということを。


 御主人は、今にも消えそうな小さな声で私を呼んだ。

 御主人の顔を舐める私の首に、御主人は最後の力を振り絞って自らが首から下げていた首飾りを掛けた。

 御主人がこの旅を始める時からずっと身に着けていたもので、御主人はこれを『お守り』と呼んでいた。銀色の鎖に、小さな赤い宝石が付いただけのシンプルなものだ。人が宝飾と呼ぶ品としては大した価値はないものではあったが、御主人はこれをとても大切にしていたことを私は知っている。

 私に首飾りを託しながら、御主人は言った。


「お前は家に帰りなさい。帰って……新しい飼い主を見つけて、その人と幸せに暮らしなさい」


 それだけ言い残し、御主人は息を引き取った。


 あなたは、本当に最後まで馬鹿な人だよ、御主人。

 私にとっての『幸せ』が何なのか、あなたは全く理解していない。

 私は、御主人、あなたさえ傍にいてくれれば、他には何もいらなかったのに。

 どうして、神は、御主人を勇者に選んだのだ。

 それさえなかったら、今頃私は、御主人と笑い合いながら暮らしていられたというのに。


 私は御主人の亡骸に寄り添って眠り、体を休めて体力を回復させた。

 その後、御主人の亡骸を城の外へと引っ張っていき、庭の一角に一生懸命に穴を掘って、そこに御主人を埋葬した。

 人は、死んだらこうして穴を掘って亡骸を埋める習慣があるらしい。人のみならず、相手が動物でも、自分にとって親しいものが死んだらそうするという。

 以前立ち寄った何処かの村でたくさんの墓が並ぶ風景を目にした時に、御主人が私に語っていたことを私は思い出したのだ。だから、その通りにした。

 ただ穴を掘って埋めるだけの、それだけのもの。人がこれを『墓』と認識してくれるようなものになったのかどうかは私には分からない。だが、私は犬だから、私だけの力ではこれが限界なのだ。これ以上のことはできない。仕方がないのだ。

 御主人の墓を作った私は、残されていた魔王の骸から腕を片方食いちぎり、それを咥えて魔王の城を後にした。

 私は人の言葉を喋れない。だから御主人が魔王を討ち果たしたことを、使命を果たしたことを世界の人々に伝えるには、こうするしか方法がないのだ。

 私は御主人と共に歩いて来た道を辿って長い旅を続け、ある国へと辿り着いた。

 そこにいた王様と呼ばれる偉い人に、魔王の腕と御主人が私の首に掛けてくれた首飾りを見せた。

 王様は、御主人が魔王を討ち果たしたことを察してくれた。

 魔王の城に多くの人々が足を運び、城内で朽ちかけていた魔王の骸と、私が一生懸命に作った御主人の墓が発見された。

 御主人の亡骸は国に持ち帰られ、改めて立派な墓が作られて、盛大な葬儀が国を挙げて執り行われた。そこには遠方からはるばる訪れた人々も大勢いたらしい。

 そして私は御主人と共に魔王と戦った世界一勇敢な犬として勲章が与えられ、王様の飼い犬として余生を過ごすことになった。


 日に三度出される豪華な食事に、毛並みの手入れ。存分に運動ができる広い庭。私の世話をしてくれる専属の使用人も付けられ、私は優雅な生活を送った。

 だが……それでも、それらのものは私にとっては『幸せ』とはならなかった。

 御主人が傍にいない暮らし。

 人が羨ましがる贅沢で恵まれた暮らしも、私からしてみたら色褪せた世界以外の何物でもなかった。

 御主人にとって、私が傍にいなければ駄目だったように。

 私にとっても、御主人が傍にいなければ駄目なのだ。


 それから、月日は流れ。

 私は城で私同様に飼われていた一匹の犬と結ばれて、その者との間に五匹の子供が産まれた。

 皆元気なやんちゃ坊主ばかりだ。私の周りを疲れるまで駆け回っては、他の兄弟たちとじゃれあって遊び、同じ食事を取り合いしながらも仲良く食べて、同じ寝床で一緒に眠った。

 守るべき存在ができたからだろうか。この頃になると、私は御主人を失った悲しみからほんの少しだけ立ち直っていた。

 親たる私が、いつまでもくよくよしていては駄目なのだ。この子たちが立派な大人になるまで見守り、大人としてあるべき姿を見せて導いていくのが私の役目なのだから。


 今日も、子供たちは私の傍で元気に遊んでいる。

 人からすれば皆同じ犬に見えるかもしれないが、私には彼らの違いがよく分かる。

 長男はしっかり者で、まだ幼いというのに他の兄弟たちの手本になろうとしている頑張り屋だ。

 次男は少々威張りん坊なところがあり、長男とよく喧嘩をしている。多分自分こそが兄弟のリーダーに相応しいと思っているのだろう。

 三男はとても大人しい。兄弟たちと遊ぶ時も彼だけは控え目で、ひとつしかない玩具も他の子に譲っている。優しい子だ。

 四男は甘えん坊。用もないのに私の傍に来ては、構ってくれと強請る。人に撫でられるのも好きで、よく王様やその娘の前で腹を見せて寝転がっては撫でてもらっているようだ。

 五男はそそっかしさが目立つ、いわゆるドジっ子だ。何もない場所でよく転び、城の中でよく迷子になる。淋しがって鳴いたりはしないのだが、あの方向音痴っぷりは犬としてどうなのだろうと悩むことが多々ある。目が離せない子だ。将来が実に心配だ。

 四男と五男が私の足下でじゃれあっている。

 四男に押されて、五男がころんと仰向けに転がった。

 その時……右前足の肉球に、何か汚れのようなものが付いているのに私は気が付いた。

 ……いや、模様ではない。これは痣だ。

 何処かで見たことのある形の、赤い痣。

 御主人の手の甲にも同じものがあったことを、私はふと思い出していた。


 何もない場所でよく転ぶ。とんでもない方向音痴ですぐに迷子になる。ドジの権化のような子。


 ……まさか……

 私が注目している中、五男はすぐに起き上がって他の兄弟たちの元へと駆けて行ってしまった。

 ……あ、また転んだ。

 五男を見て兄弟たちが笑っている。五男もその笑い声を聞きながら笑っている。


 その姿に──かつての御主人の姿が、重なったような、気がした。


 私は微苦笑して、その場に座った。

 全く……御主人。あなたは本当に、何処まで私を心配させれば気が済むのだ。

 私がこんなに年老いたというのに、まだ面倒を見させるなんて。

 これでは、いつまで経っても安心して暮らせないではないか。


 でも、安心しなさい、御主人。

 私は、あなたのことを見放したりなんてしないから。

 私が死ぬ時が来るまで、ずっとあなたの傍で、あなたのことを見守っていてあげるから。

 あなたは、かつて私の御主人であったことを覚えてはいないだろうけれど。

 私とあなたとの間にある絆は、たった一度生まれ変わった程度のことでは、消えてなくなったりはしないようだから。

 あなたが忘れてしまっても、私がちゃんとそのことを覚えているから。

 だから、安心して、生きなさい。


 私は犬である。

 何処にでもいるような白い毛並みで、少しばかり体が大きくて、それなりに知恵が回るだけの、ただの犬だ。

 私は物心ついた頃から、人から勇者と呼ばれていた御主人のペットとして暮らしていた。

 今は、御主人だった者の親として。

 平和になった世界の一角に存在する国の中で、多くの子供たちに囲まれて、穏やかに過ごしている。

 世界一勇敢な勇者の犬、などという肩書きも一応あることはあるのだが。

 そんなものなど、私にとっては何の価値もない勲章だ。

 私は──


 愛するものの傍で、何事もなく平穏に暮らせれば、それでいい。犬なのだから。

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