最終話 草原の風の中

 朝靄あさもやの中を一群の騎馬が行く。

 先頭を駆けるのは精悍な表情をした長身の男だった。戎服じゅうふくに身を包み、短弓を背に掛けている。

「いたぞ、我に続け!」

 視線の先には軍団の野営地があった。

 それはまさに獲物を見つけた鷹だった。彼は一直線に敵陣に飛び込むと、手当たり次第に斬りまくる。潰走する敵を一頻ひとしきり掃討すると、彼は敵陣営に残された旗に目をやった。兵士に踏まれ泥にまみれたそれは、見覚えのある漢の旗だった。

 かつての韓王信、姫信はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


 楚を滅ぼした劉邦は、各地に王を封じ、漢帝国の原型を築いた。

 斉王から楚王に転じた韓信、梁王りょうおう彭越、そして姫信もまた韓王となった。


 だが、彼らの末路はすべて悲惨なものだった。

 楚王韓信は得意の絶頂であったが、謀反を疑われ、候に格下げとなった。

 梁王彭越は切り刻まれたあげく、塩漬けにされた。

 劉邦の幼なじみで親友の廬綰ろわんさえ、謀反の罪を受け、匈奴に去った。


 姫信も韓王であったのは、ほんの一年ほどだった。何かが劉邦の猜疑心に触れたのだろう。辺境の地に国替えとなり、韓王信は姫信となった。

 辺境の地で、かれは匈奴の騎馬軍と激戦を繰り返したが、常に兵力不足に悩まされ、戦果は思うに任せなかった。

 あるとき大軍に包囲され、漢の救援も無い彼は、ついに独断で匈奴の王に和睦を申し入れた。

 それを聞いて激怒した劉邦は姫信の追討を命じたのだった。

 姫信もまた漠北の地へ逃走することになった。


 匈奴の将として漢に対して何度も戦いを挑み、漢を苦しめていた彼の元に、帰順を勧める使者がやってきた。


「漢で暮らしたくはないのか」

 その使者の問いかけに姫信は、首を横に振った。劉邦はもう決して自分を許さないだろう、と。

「そうか」

 使者は、それ以上言わず、黙って頭を下げた。


 それから幾度となく、漢軍との戦いがあり、それぞれ勝敗があった。

 

 その日も、埃にまみれた姿で姫信は匈奴の集落へ戻って来た。今度はかなり大きな勝利だった。しばらくは漢軍も動かないだろう。

 少年のようだった姫信も、この数年で一気に年相応の貫禄を持ち始めた。

  

 立ち並ぶ天幕も、彼の目にはお馴染みのものとなっていた。

 彼はその中にひとつの天幕を見つけ、笑みを浮かべた。

 一見同じようなものが並んでいるが、彼は決して迷うことはない。その天幕の横には竹簡を山積みにした荷車が置かれてあるからだ。


 そしてその前には、赤ん坊をあやしながら竹簡をる女がいた。

 皮をなめした衣をまとい、後ろでまとめた髪は風に傷んでいる。

 しかし、その知性にあふれた瞳は何一つ変わっていなかった。

 帰順を勧める使者としてこの地を訪れ、そしてそのまま留まった彼女。


 胡蓉は彼を見つけると大きく手を振った。


「早速だが、この兵書の新しい解釈を思いついたのだ。聞いてくれるか」

 少しだけ、しわの増えた顔で優しく笑った彼女もまた、少女の姿ではなかった。

「胡蓉。それより先に」

 ふふっ、と笑った胡蓉。両手を拡げて、彼女の夫を待つ。

 乾いた風の吹く草原で、二人は強く抱き合った。

 「おかえり。信」


 姫信は漢と戦い続け、最後はその命を落とす事になるのだが、それは、まだまだ先の話だ。

 そして胡蓉がどうなったかは、どんな記録にも残っていない。


 兵書に淫する姫~張良異伝~  終


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兵書に淫する姫~張良 異伝~ 杉浦ヒナタ @gallia-3

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