最終話 草原の風の中
先頭を駆けるのは精悍な表情をした長身の男だった。
「いたぞ、我に続け!」
視線の先には軍団の野営地があった。
それはまさに獲物を見つけた鷹だった。彼は一直線に敵陣に飛び込むと、手当たり次第に斬りまくる。潰走する敵を
かつての韓王信、姫信はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
楚を滅ぼした劉邦は、各地に王を封じ、漢帝国の原型を築いた。
斉王から楚王に転じた韓信、
だが、彼らの末路はすべて悲惨なものだった。
楚王韓信は得意の絶頂であったが、謀反を疑われ、候に格下げとなった。
梁王彭越は切り刻まれたあげく、塩漬けにされた。
劉邦の幼なじみで親友の
姫信も韓王であったのは、ほんの一年ほどだった。何かが劉邦の猜疑心に触れたのだろう。辺境の地に国替えとなり、韓王信は姫信となった。
辺境の地で、かれは匈奴の騎馬軍と激戦を繰り返したが、常に兵力不足に悩まされ、戦果は思うに任せなかった。
あるとき大軍に包囲され、漢の救援も無い彼は、ついに独断で匈奴の王に和睦を申し入れた。
それを聞いて激怒した劉邦は姫信の追討を命じたのだった。
姫信もまた漠北の地へ逃走することになった。
匈奴の将として漢に対して何度も戦いを挑み、漢を苦しめていた彼の元に、帰順を勧める使者がやってきた。
「漢で暮らしたくはないのか」
その使者の問いかけに姫信は、首を横に振った。劉邦はもう決して自分を許さないだろう、と。
「そうか」
使者は、それ以上言わず、黙って頭を下げた。
それから幾度となく、漢軍との戦いがあり、それぞれ勝敗があった。
その日も、埃にまみれた姿で姫信は匈奴の集落へ戻って来た。今度はかなり大きな勝利だった。しばらくは漢軍も動かないだろう。
少年のようだった姫信も、この数年で一気に年相応の貫禄を持ち始めた。
立ち並ぶ天幕も、彼の目にはお馴染みのものとなっていた。
彼はその中にひとつの天幕を見つけ、笑みを浮かべた。
一見同じようなものが並んでいるが、彼は決して迷うことはない。その天幕の横には竹簡を山積みにした荷車が置かれてあるからだ。
そしてその前には、赤ん坊をあやしながら竹簡を
皮をなめした衣をまとい、後ろでまとめた髪は風に傷んでいる。
しかし、その知性にあふれた瞳は何一つ変わっていなかった。
帰順を勧める使者としてこの地を訪れ、そしてそのまま留まった彼女。
胡蓉は彼を見つけると大きく手を振った。
「早速だが、この兵書の新しい解釈を思いついたのだ。聞いてくれるか」
少しだけ、しわの増えた顔で優しく笑った彼女もまた、少女の姿ではなかった。
「胡蓉。それより先に」
ふふっ、と笑った胡蓉。両手を拡げて、彼女の夫を待つ。
乾いた風の吹く草原で、二人は強く抱き合った。
「おかえり。信」
姫信は漢と戦い続け、最後はその命を落とす事になるのだが、それは、まだまだ先の話だ。
そして胡蓉がどうなったかは、どんな記録にも残っていない。
兵書に淫する姫~張良異伝~ 終
兵書に淫する姫~張良 異伝~ 杉浦ヒナタ @gallia-3
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