第15話 垓下の戦い
路傍に倒れている韓王信が発見されたとき、その身体はほとんど冷たくなっていた。すでに冬が近い季節だ。項羽の陣を抜け出したが、すぐに馬が
「う、うう」
抱き起こした兵が、彼が呻いたのを聞いた。
「どうせ助からん。捨てておけ」
この小部隊の長らしき男が言う。人の死など珍しくもない時代になっていた。
「しかし、良い剣を持っているな。わしが貰っておいてやろう。死人には不要のものだからな」
剣を取り上げようとした時、後ろから襟首をつかみ放り投げられた。
「追い剥ぎのような真似をする奴は斬首だと言った筈だ!」
凄まじいばかりの怒りを発したのは、劉邦軍の前衛を率いていた
「おい、貴様。この死人を
「いや、樊噲さま。まだこの男、生きておりますが」
「何だと?」
その男が韓王信だと気付いた樊噲は、慌てて彼を本営へ運び込んだ。
それから二日のあいだ、
「あぁ、胡蓉……」
胡蓉は口をへの字に曲げたまま涙を堪えていた。
「いいものだな。目覚めた時に、胡蓉がいるというのは」
弱々しかったが、笑みを含んだ優しい声だった。
「良かったな。私の時は、劉邦だったぞ」
「ああ。それは想像したくもない」
漢中での事だった。もう、それさえ遠い昔のようだった。
「心配させて、このばか」
でも、よく。……よく、帰って来てくれた。
胡蓉は声をあげて泣いた。
漢軍は再び
張良が目をつけたのは、滎陽郊外にある
漢軍は敖倉を急襲し、奪取した。のみならず、その周辺を要塞化したのだ。
彭越を撃破して戻ってきた項羽は、それを見て歯ぎしりしたが、すでに遅かった。
やむなく、向かい合った小高い山に陣を構えた。
この頃、北方では韓信が斉国を降していた。一旦は漢の使者、
これでは、だまし討ちと思われても仕方が無い。
酈食其はその場で殺された。
韓信は、救援に駆けつけた楚の武将、
そのことを伝える使者を前に、激怒しようとした劉邦の脚を蹴り上げ、黙らせたのは張良だった。劉邦も、今はそれを認めるしかなかった。
項羽が生きているうちは。
漢軍と楚軍の間では小競り合いが続いた。
逆に言えば、その程度の争いしか起きなかったのだ。大軍を展開しやすい場所ではなかったせいもある。しかし、それ以上に胡蓉はある事を感じていた。
「楚軍は、いや項羽は一体どうしたんだ」
項羽の近寄り難いほどの覇気が、まったく感じられないのだ。
「女を傍に置くと、男は弱くなるものだ、とか言っていたぞ」
寝床に横たわったままの韓王信の言葉に、胡蓉は首をひねった。そういうものなのか、男というのは?
「確かに美しい女性だったからな。あの
胡蓉の眉がぴくりと動いた。
「ほう、それは目の保養だったな」
「勘違いするな。鼻の下を伸ばしていたら、ぼくはその場で斬られていた」
「まあ、なら良しとしてやる」
そうではない。こんな話をしたかったんじゃないんだ。韓王信は身体を起こして言った。
「楚軍には、食料がない」
もちろん、補給路を絶つために
この当時、最も豊かだったのは皮肉なことに、未開の辺地とされた漢中や蜀ではなかったか。
「項王は、ぼくを”姫”信と呼んだんだ」
姫姓とは韓、そして文王、
「韓王にしてやると言われた時より嬉しかった。お前は王族なのだと、認められた気がした。だって、ぼくはいつも王宮では邪魔者扱いだったからね」
そう言うと韓王信はうなだれた。まるで詫びるように、そして祈るように。
自分の命を助けてくれた、あの孤独な覇王に向けて。
しばらくそのまま動かなかった。そして、顔をあげた。
「決戦を、進言しに行く。一緒に来てくれ」
韓王信は立ち上がった。
「そこまで弱っているのか、項羽は」
劉邦は顔をしかめた。
「だが、今のままではやっと互角の兵力しかない。歯が立つ相手ではないぞ」
こうして西進を阻むのが精一杯なのだった。
「兵力はあります。それを生かすかどうか、陛下のお心次第でございます」
陳平が頭を下げた。
「韓信、か」
苦虫を噛み潰したような表情で、劉邦は吐き捨てた。あの恩知らずめが、と。
張良は眉をひそめた。お前こそ散々、助けて貰っておいて、どの口が言うのだ。
「ではこのまま、楚軍が消えて無くなるのを待ちますか」
「分かったわ。あいつには斉だろうが、楚だろうが、好きな国をくれてやる。そう言って使いを出せ」
陳平は命令を受け、退出した。
野に、韓信率いる大軍が現れた時点で勝負は決した、と言っていい。
項羽は追い詰められ、
四面楚歌、とはこの時の逸話である。多分に美しすぎるきらいはあるが、星空の下、聞こえてくる故郷の唄にひとり耳を傾ける項羽の姿は、どこか哀れでもある。
項羽は虞姫と最後の別れを済ませた。
翌、未明。
項羽は城門を開き、漢軍の海へ突撃した。
最初に犠牲になったのは
項羽に従う兵士は、もはや数十人にまで撃ち減らされていた。
全力で南へ、南へと向かう。
だがその項羽軍を上回る速度で追ってきた騎馬の一軍があった。
「もう逃げられはせんぞ、項王!」
先頭に立ち、叫んだのは
項羽を斬ったのは灌嬰の部下たちだった。
五人がかりで、やっと倒したと記録には残っている。
こうして、漢と楚の長い戦いは終わった。
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