第14話 虜囚の韓王信

 外では激しい怒声が響いていた。

 韓信に無理やり送らせた兵士達の訓練が行われているのだ。

 彼らは全くの新兵である。使い物になるのにはもう少し時間がかかりそうだった。

 張良は、ちらりとそれを見ただけで劉邦の元へ急いだ。広間に入ると、すでに陳平が席で待っていた。それに軽く会釈する。やがて劉邦が入室した。


「南方の状況を聞こう」

 まず、劉邦が張良に問いかけた。張良の献策により、項羽の出身地である江南地方へ兵を派遣し、各地を襲撃させているのだった。

 その一人、廬綰ろわんは劉邦の幼なじみだった。ふたりは同じ日に生まれたこともあり、兄弟のように育ってきた。劉邦が最も信頼している男だった。大軍を率いる能力こそないが、小部隊で暴れ回るのは得意としていた。

 もう一人は漢軍に加わったばかりの黥布げいふ。彼もまた喜々として楚の守備軍を翻弄していた。屈辱を晴らすため項羽軍への復讐に燃えていたのだろう。

 一種のゲリラ戦を彼らは展開していた。

 項羽が滎陽けいようを置き捨てざるを得ないのはこのためであった。


 さらに北方では、彭越ほうえつという盗賊あがりの男が勢力を拡大しつつあった。こちらには陳平が手を伸ばし、漢への協力を持ちかけていた。

 陳平はさらに斉国を味方につける方策を考えていた。

酈食其れきいきを使者として送ります。必ず、斉は我が方に付くでしょう」

 張良はこれに、かすかな危惧を感じた。韓信は酈食其に対し、思う所がある事に張良は気付いていた。彭城の一件で、自分の作戦計画を邪魔されたと感じているらしい。

 あくまでも韓信の逆恨みに近いものなのだが。

 その韓信も軍を率い、斉に向かっていた。

「韓信ひとりに任せてはいかがでしょうか」

「いや、策は何重にも構えた方がよろしいでしょう。決して損はありませんから」

 結局、劉邦も陳平の意見にうなづいた。確信が有るわけではないため、張良もそれ以上は言わなかった。


 兵士の訓練も終わり、間もなく出立となる頃、滎陽から急使が駆け込んできた。

「項王が現れました。激しい戦闘となっております。至急、救援を!」

 青ざめた劉邦は席を立たなかった。左右から声をかけるが、震える両手を見詰めたまま動かない。……行きたくない、小さく呟いた。


 その日の夕刻。血まみれの伝令が関中に辿り着いた。馬から転げ落ちるとその男は悲鳴のような声をあげた。

「滎陽は陥落、周荷将軍は討ち死にされました!」

 広間にどよめきが広がった。

「か、韓王は」

 かすれた声で、張良は言った。

 伝令は最後の息を吐き出し、告げた。

「韓王どのは、捕虜に……」


 韓王信は傷だらけの姿で項羽の前に引き据えられた。

 項羽は間近で彼を見下ろしている。

「韓王、姫信きしんか」

 ん、と韓王は顔をあげた。今、何と言った。誰かと勘違いしているのか。

「韓の王族の旧姓はであろう。姫信でも間違ってはおるまい」

 さすが、項氏は楚の名家だけのことはある。妙なところに学がある。韓王は少し可笑しくなった。確かに、私も、胡蓉もそういうことになる。

「それで結構です。項王どの」

 苦笑まじりに韓王信は言った。


「わしに仕えぬか、信」

 いきなり、項羽は言った。

「お主の腕を買っているのだ。韓王になりたくはないか」

「私は今でも韓王です」

 ははは、と項羽は笑った。漢が任じた韓王と、わしが任じた韓王。どちらが価値があると思うのだ。と彼を見た。

「漢に、私を待つ女性がいるのです」

 ふん?と項羽は片膝をついた。彼の顔を真っ直ぐに見詰める。

「お前の妻か。それくらい、呼び寄せれば良いではないか」

 いや、それは無理なのですよ。と、韓王信は頭を振った。

「その女性ひとは、漢の軍師なのですから」

 ぽかん、と口を開けた項羽。

「何を言っておるのだ。意味がわからぬぞ」

 首をひねった項羽は、何かに気付き手をあげた。

虞姫ぐきよ、こっちへ来るがいい」

 項羽の横に立ったのは、ほっそりとした、少女のような女だった。

「わしの妻だ。これと、お前の女のどちらが良い女かな」

 それは、どこか儚げな少女だった。確かに美しい。

「項王よ、私のその女性ひとは、、兵書が何より好きなうえに、気が短い乱暴ものです。この方とは比べようがありません」

「当然、この、虞の勝ちだと言うのだな」

 子供のような表情で項羽は言った。韓王信は胸を張った。

「そうではありません。たおやかに咲いた花と、名工の手による一本の筆。どちらがより魅力的か、などと比較ができましょうか」

 なかなか言いおる。項羽は微かに笑った。

 項羽は虞姫を去らせた。

「虞に媚びるようであれば、斬り捨てようかと思ったが。命拾いしたな」


 さて、後は好きにするがいい。項羽は立ち去ろうとした。

「は?」

 韓王信は思わず問い返した。好きにしろ、とは。

「ここに居たければいてもよい。去りたければ漢へ帰れ、と云うことだ」

「なぜ、そこまで寛容なのです。私は捕虜です。項王の敵なのですよ」

 項羽は、振り向いて言った。どこか哀しい目だった。

「お前は、わしを裏切った訳ではないからな」

 韓王信は、呆然とした。そして気付いた。


 楚軍の中で何かが起きている。

 



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