第13話 背水の陣
北方で転戦する韓信の元に、新たに灌嬰の率いる騎馬部隊が配属された。
笑顔で彼らを迎えた韓信だったが、同行した劉邦からの使者が読み上げた命令書を聞き声を荒げた。
「兵をよこせ、だと」
「はい。漢王陛下におかれましては滎陽を救援するための兵力を欲しておられます」
使者はなにかを探るような目付きで韓信を見た。
韓信は灌嬰が送る合図に気付いた。落ち着け、と言う事らしい。
なんとか平静を装い、その使者に答えた。
「陛下は、どれほどの規模の兵をお望みか」
そうですな、使者は言った。
「今、将軍がお持ちの兵力の半分を」
韓信は、表情を消したまま、ぐっと拳を握った。
「それは厳しい。半数では、こちらが戦えなくなる!」
慌てて声を上げたのは灌嬰だった。爆発しそうな韓信の機先を制したのだった。
「お控えください。陛下のご命令ですぞ」
「ああ、これは失礼した」
灌嬰は一応引き下がった振りをする。
それで、いかに、将軍。使者は更に韓信に迫った。
「是非もない。……咸陽へ送ればよいのか」
使者は満足げに頷いた。
旧魏は小勢力が乱立している状態で、さほどの困難も無く制圧した。
問題は趙だった。陳余という男が王族を擁し、漢、楚からの独立を図ろうとしていたのだった。
それを一万を切る兵力で攻略しろというのか。韓信は、かつて感じたことのない心の動きを意識し始めていた。
それは『憎悪』と呼ばれるものだった。
韓信は、陳余が籠る城の周辺を自ら偵察することにした。
灌嬰と共に少数の騎馬隊を率い、川沿いに進んでいく。
「ふーん、兵書通りの城だな」
川を前に、山を後ろにした、まさに軍事の教科書に載っているような、典型的な造りの城だった。これをまともに攻めようとすれば、ほとんどの兵書が忌み禁じている陣形を採らざるを得ない。
つまり川を背にした、背水の陣である。
これは後退する余地がなく、特に自軍を上回る相手と戦う場合、全滅のおそれが非常に高い。
今の韓信が絶対避けねばならない陣形といえた。少しでも軍事の常識を知るものには、それが分かりすぎる程に判る。その点で、よく出来た城と言えた。
「困った、どうしたものかな」
言葉とは裏腹に、久しぶりに韓信の瞳に輝きが戻っていた。
「まず、問題は城に至る道だろうな」
これは偵察した韓信にも分かっていた。
「策は施してあります。もう我が軍を恐れるような腰抜けは、この世にいないでしょう」
韓信は得意げに言った。曹参はいぶかしげな顔で問い返した。
「ちょっと待て、おれの聞き間違いか。我らを恐れる奴はいない、と言ったのか」
そうですよ、と韓信は頷く。
「それとも、守りを固めた相手と戦うのがお好みですか」
うーむ、と曹参は唸った。
極力旗指物を減らした韓信の軍は井陘口を抜けた。予想通り敵の姿はなかった。
この時、趙の広武君の李左車という男は井陘口の封鎖を進言していた。だが、陳余はそれを却下した。正々堂々戦うのが男の道だ、とか言ったらしい。
漢の将軍の韓信という男は昔、脅されて人の股をくぐったらしいではないか。そんな腰抜けに何を怯えているのか、と。
それはすべて韓信が流させた噂だった。本当の事だけに、信憑性はあり過ぎるほどだった。こういった点で、この男の面の皮の厚さは計り知れない。
韓信は川を背にして、城の正面に陣を構えた。
それを見た陳余は爆笑した。臆病者のうえに兵法を全く知らないと見える。と。
陳余は、完全に韓信の策に嵌まった。
ただ、これは韓信も絶対的な勝利への確信があった訳ではない。
手持ちの兵は少なく、それも殆どが魏で徴発した新兵だった。まともに戦っては勝てる筈もないのだった。
逃げ場をなくす。それが背水の陣の目的だった。
無言で、逃げるくらいなら死ね、と、自軍の兵に言っているのだった。
ただ、そんな精神論だけで勝てるとは思っていないのも韓信だった。
彼は、兵を分けて城の後方の山に潜ませた。川岸の韓信軍を殲滅するために出撃した趙軍の隙をつき、城を奪わせるためだ。
すべては韓信の思惑通りに終わった。
総攻撃を受けた韓信の主力軍が川岸で踏みとどまっている間に、別働隊は城を奪うことに成功した。うろたえた趙軍は四散し、その主将、陳余は韓信の手に落ちた。
残る敵は、激しい抵抗の末に楚に屈した斉であった。百余城を持つという中原最大の強国である。
韓信は頭脳を振り絞ってでも、この国を降さなければならないのだった。
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