第12話 滎陽からの脱出

 彭城での大敗北により、張良は戦略の練り直しを迫られた。

 呆然としている暇さえなかった。こうして生き残ったからには、何としても生き続けなければならない。韓王信に再会するまでは死ぬわけにはいかないのだ。


 一度は漢に付いた国が次々と項羽に膝を屈し、漢へ敵対の意思を示していた。

 現在の滎陽城において、まとまった勢力を保持しているのは韓信だけだった。彼に行ってもらうしかない。しかし。

「これだけの兵力で、ですか」

 やっとかき集めた一万ほどの兵だった。

 その半数を置いてゆけ、と劉邦が命じたのだ。

 その場に同席していた張良は、首筋に寒いものを感じた。

 たしかに滎陽の守備のために必要ではあるのだが、現在、関中から周勃が一軍を率いて急行しているところだ。あからさまな嫌がらせにも思えた。

 韓信は黙って退出していった。


「韓王信も呼び戻せ」

 張良は気付いた。この男は怯えきっている。自分の身を守ることしか、その頭の中にはなくなっているのだと。

「ですが、韓はもう少しで制圧できそうだと報告が」

 無駄だと感じながら、張良は言った。

「そんなもの、項羽が来れば一瞬で覆される。とにかく呼び戻すのだ」

 張良は心の中でため息をついた。これでは戦略もなにも無いではないか。


 敗残兵のような有様で、韓王信の軍が滎陽に戻ってきた。

 撤退に転じた途端、追撃をうけたのだ。多くの兵士を失い、失意の表情の韓王信に、張良は掛ける言葉もなかった。

「胡蓉が無事で、よかったよ」

 かすかに笑顔をみせて、韓王信は彼女を抱きしめた。

 張良は込み上げるものを押さえることができなかった。敗戦以来初めて、声をあげて泣いた。

「勝てたんだ、私たちは。ほんとなんだよ、信。だって、だって……」

 韓王信は黙ったまま、泣きじゃくる少女の頭を撫でた。


 黥布げいふという男が滎陽に入ったのもこの時だ。本名を英布えいふというこの男は、額にげい、犯罪者の証である入れ墨を持っている事からそう呼ばれた。

 項羽によって九江王となっていた彼は、漢の工作によって寝返ったのだ。

 額の入れ墨を嫌い、逆に顔中に入れ墨を施しているこの男。見た目通りの典型的な猛将である。ただ、こちらも項羽軍の急襲を受け、殆どの兵を失ったため、滎陽の漢軍にとって兵力の強化には繋がらなかった。

 どこか、残念な男だった。




 その日、劉邦は異様に上機嫌だった。

「おお、子房。よい事を思いついたぞ」

 この男が言う良いことなど、いやな予感しかしない。張良としては、変に関わり合いになる事だけは避けたい。

「それは良かったな。それでは失礼」

「話くらい聞いて行け。各国の旧王族を探し出して、わしの手で王に封ずるのだ。どうだ」

「どうだ、とは私に意見を訊いているのか」

 うんうん、と餌を待つ子犬のような表情で張良を見詰める劉邦。

「それに感謝した王たちがお前と共に戦ってくれる、というのだな」

「その通りだ。な、良い考えだろう」

 張良は、大きく息を吸い込んだ。

「お前は馬鹿か!」

 ぐらっ、と劉邦がよろめいた。

「項羽のような武力を持たないお前に、唯々諾々と従う王などいるものか。良くて勝手に独立するか、最悪の場合、項羽に付いて敵に回るのがおちだろう」

 そこで、張良はふと気付いた。こんな事に頭が回る男ではなかった筈だ。

「誰の入れ知恵だ」

「あ、ああ。実は、酈食其れきいきが進言したものだったのだが」

 なるほど、儒者のあの男らしい。

 彼にとってはそれが理想なのだろうが、恐ろしいほど現実に即していなかった。




 項羽軍が迫って来る。

 滎陽城内は慌ただしく籠城にむけた準備が行われていた。この兵力では籠城の他に手段がなかった。

 食料が運び込まれ、武器が揃えられる。

 ここを抜かれたなら、関中までは指呼の間となる。何としても防ぎきらねばならない。悲壮な雰囲気が城内に漂っていた。


 包囲された滎陽城で防衛の先頭に立つのは周勃しゅうぼつ灌嬰かんえいだった。

 歴戦の二人の指揮により、項羽の大軍を跳ね返し続ける。

 だが、このままではいずれ突破されるのは避けられない。その場合、城内に劉邦がいるのはまずかった。関中へ落とさねばならない。

 張良と陳平は頭を悩ませるが、結論はなかなか出ない。

「いっその事」

「お止めなさい、張良どの」

 陳平が苦笑する。敵の手にかかるよりは、ではないでしょう。

「まったく、どこにいても邪魔な奴だ」

 ただ、陳平から聞いた情報は張良を歓喜させた。

「笵増老人がいない?」

 はい。陳平は頷いた。彼の反間策が成功したらしい。笵増は項羽の陣営を去り、彭城へ帰ったというのだ。また単に病気で軍旅に耐えられなくなったから、とも言われる。いずれにせよ、あの老人は舞台から降りた。

 張良は鴻門の会での笵増老人の渋面を思い出した。あの時、劉邦殺害に成功していれば項羽の天下は決まっていたかもしれない。

「お互いさま、だったか」

 項羽挟撃を退けた劉邦といい、あの時の項羽といい。

「苦労されたのだろうな」

 張良は笵増老人の後ろ姿を思い浮かべ、頭を下げた。


 頭脳を失った項羽軍はいきなり迷走をはじめた。

「何事だ、なぜ敵がおらん」

 その朝、劉邦が城頭に立って驚愕の声をあげた。

 項羽の大軍が、滎陽城正面の一軍を残して消え去っていたのだ。

「数日前から減っているようでした。少しずつでしたが」

 最前線で戦っていた灌嬰が言った。

「罠ではないでしょうか」

 当然の疑いだった。油断して城外にでた劉邦を伏兵によって倒す。決着をつけるにはいい方法だった。項羽のもとに笵増がいたならば張良もそう考えただろう。

 だが、今はその心配はない。そう確信した。

「項羽は斉に向かったと思われます。一応、偵察を」


 劉邦の脱出作戦は項羽軍の失策によって容易になった。

 陽動のため正面の敵軍に攻撃をかけ、その隙に劉邦以下の漢軍主力が西へ走った。

 ただ、張良の顔色は冴えない。

 滎陽城の守備に残されたのは、周苛しゅうかという叩き上げの部将と、韓王信だったからだ。再会も束の間、また離ればなれの二人なのだった。



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