夏の坂道

たままる

夏の坂道

 僕と”あの人”が出会ったのは、夏の中頃、セミが大合唱するような時期だった。その時勤めていた会社の真ん前に、凄く急な坂道があるので、そこを登って出勤しなくてはいけない。


 いい会社だったけど、僕にはそれだけが凄く不満だった。それでも仕事は楽しかったから、その日も元気な太陽の光と、セミの生命賛歌にふうふう言いながら、坂道をえっちらおっちら登って出勤していたのだ。


 そんな時、ふと視線を感じると、女の人が一人、道の向かい側からこちらを見つめている。薄い色の服だったけど、長い袖のカーディガンか何かを羽織っていて、顔がどうとか体型がどうとかよりも、暑くないのかなと思ったことを覚えている。あまりにもじっと見つめてくるものだから、普段はかけない声をかけてしまった。


「あの、何か?」


 そう言うと、女の人はぎょっとした顔になり、そして慌てて


「あ、いえ、そうそう、駅まではどう行けばいいのかわからなくて。その、最近こっちに来たものですから」


 と、しどろもどろに答えた。


「ああ、駅なら、この道を真っ直ぐ下って、信号に当たったら左ですよ。確か、下りたら看板があるんじゃないかな……」


 今通って来た道ではあるが、いつも通る道なので、逆にそういった細部は記憶から綺麗サッパリ消えてしまっている。


「大分上から来ましたもので、下りていいものやら。ありがとうございます」


 と女の人は軽く頭を下げた。長い髪がはらりと前に垂れる。綺麗な人だったけど、それよりも優しそうな人だな、と思った。


「いえいえ、どういたしまして。では、私はこれで」


 さっさと会話を切り上げて出勤しようとする僕を、慌ててその人が呼び止めた。


「あの、お礼をしたいんですが!」


 あまりに必死だったし、美人のお誘いだったのだけど、残念ながら僕は今出勤中の身である。これからどこかにお出かけというわけにはいかない。


「いえ、今から仕事がありますので……申し訳ないのですが」


 そう断るとあからさまにがっかりされてしまった。


「ええと、多分今日はそんなに仕事もないと思いますし、夕方頃からなら空いてますけれど……」


 あんまりにもがっかりした顔だったので、僕がそう言うと、女の人はぱっと顔を輝かせて言った。


「それでしたら、またここでお会いしましょう!」

「え、ケータイ番号とか教えますよ」

「私、ケータイ持ってないんです」


 お爺ちゃんお婆ちゃんでも持っているこのご時世で珍しいが、それなら仕方ないか。駅の方角を聞いたということは、それまで何か用事もあるんだろう。僕はまたここで会う約束をして、女の人と別れた。


 夏期休暇直前と言うこともあり、思った通りそんなに仕事はなかった。昼飯にとった出前の蕎麦を啜りながら、僕は朝出会った女の人のことを思い出していた。

 綺麗な人ではあった。でもなんだろう、綺麗ということにはあまり意識はいかずに、話をしていて凄くホッとするような……。去り際に手を振った彼女の左手には指輪が光っていた。僕には人妻属性でもあったのだろうか。


 そうやって夕方、その日の業務を終えて、夏期休暇に入った僕は、会社の前の坂道を下る。この時に坂道が目の前にずっと続いているのが僕はとても好きだった。そして、朝に会った彼女は居た。朝会った時と同じ姿、同じ場所で。


「やあ、お待たせしてしまったようで、ごめんなさい」

「いえいえ、お誘いしたのは私ですから」


 そうやって二言三言言葉を交わした後、駅前の喫茶店に行くことになった。そこに着くまで、彼女はほとんど何も喋らなかった。僕の言う「暑いですねぇ」とか、そんなことに曖昧に返事を返すだけだ。だから結局、僕はこの暑いのに暑そうなカーディガンのようなものを羽織っているのがなぜなのか、聞くことは出来なかった。


 喫茶店に入ると一転、彼女は饒舌になった。僕の小学校の頃の話、中学校の頃の話は特に聞きたがった。ほとんど初対面のはずだが、僕はなぜか、不躾にぶつけられたその話をすることに嫌悪感を覚えず、素直に喋った。

 隣の席の子に初恋をしたこと、中学校で出会った、今も親交のある親友のこと。普通はどれも初対面の人にペラペラ話すような内容ではない。でも、僕はなぜかそれらを喋ることに抵抗を全く覚えなかったのだ。


 彼女もそれを実に楽しそうに聞いた。僕が林間学校でした失敗などは、手を叩いて笑うほどだった。そうやって手を叩いたり、口元に手をやるごとに、指輪がキラキラと輝いた。控えめなデザインだった。


 そして結構な時間が過ぎた頃、彼女は言った。


「今、楽しいですか?」

「色々あったけど、そうですね、楽しいですよ」


 それを聞くと、彼女はその日一番の笑顔で、そう、それは本当に良かったわ、と言った。


 その後、僕も田舎に帰る準備があるし、と言うことで引き上げることにしたのだが、彼女が申し訳なさそうに、


「お礼に誘ったのはいいのですけど、あいにく持ち合わせが無くて。ホントにお恥ずかしい話なんですが、立て替えて頂けませんか?必ずお返ししますから」


 と言うので、僕は


「いえ、今日は楽しかったですし、ここは僕が持ちますよ」


 と奢ろうとしたのだが、


「いえ、そういうわけには行きません。必ずお返しします」


 と言って引かない。仕方がないので僕のほうが折れることにした。


「分かりました。そのうち返していただくことにします」

「ありがとうございます。それでは、これを覚えておいてください。左から二番目、上から4番目、そこの奥。これでお礼になると思います」


 謎すぎる一言である。これで何を返そうと言うのかさっぱりわからなかったが、まぁ、何かのおまじないのようなものだろう、と思うことにして、そこを出た。彼女は何度も頭を下げて、それでは、と去っていった。去り際にちょっと涙が浮かんでいたように見えたが、その時の僕は何かの錯覚だと思うことにしてしまったのだ。


 翌日、僕は遠路はるばると言っていい距離を電車に乗って、実家に帰った。


「父さん、ただいま」

「おう、お帰り。先に母さんに手を合わせてきな」

「うん、分かってるよ」


 父親に促されて仏壇の前に座った時、僕はすべてが分かってしまった。と、同時にもの凄く後悔もした。


 仏壇の写真には、昨日の昼間出会った彼女の顔があったからだ。同時に、昨日の昼間見た指輪が、お供え物と一緒に置かれていた。ともあれ、手を合わせた僕は、父親に息せき切って聞いた。


「父さん、あの仏壇の写真……!」

「ああ、あれか。こないだ家のタンスの整理してたら出てきてな。写真嫌いだーって言ってロクに写ろうとしなかったから、あれともう一枚だけがうちに残った写真だわ」


「も、もう一枚って?」

「ん?ああ、そこにある」


 父親が指差した先のちゃぶ台の上には、一葉の写真が乗っていた。それを見ると、昨日の昼間出会った彼女が、昨日の昼間見た指輪をはめて、一人の赤ん坊を抱いて、幸せそうに笑っていた。


 僕はそれを見て、こっそり泣いた。


 その後、僕が写真の見つかったタンスの「左から二番目、上から4番目、そこの奥」をどうしたのかは、母さんと僕との秘密だ。

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夏の坂道 たままる @Tamamaru

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