後編
ともかく、夏目先生が気持ちを打ち明けてくれて安心した。まだ失恋の痛手は残っているようだが、いずれ時間が解決してくれるだろう。夏目先生ほどの
食事を終えた私たちは、コーヒーを飲みながら少し世間話をして、一緒に店を出た。
夕暮れの道を、夏目先生と並んで歩く。夏目先生は程よいペースで話題を振ってくれ、居心地がいい。無口でマイペースな三田村さんにはこんなこと、できないだろう。
やがて夏目先生は病院へ、私は駅へと向かう分かれ道に差しかかった。角に立派なお屋敷があり、桜の大木が板塀を越えて歩道に覆いかぶさるように、その枝を伸ばしている。若葉がさわさわと、風にそよいで心地よい音を立てた。
「ここで失礼します。今日はお会いできて良かったです」
私が頭を下げようとすると、夏目先生は
「ちょっと待って」
と手を伸ばし、私の頭上にあった桜の枝を掴んで引っ張った。
「これ」
見上げると、青々と茂る若葉の影にひっそりと隠れるようにして、小さな淡いピンク色が見えた。一輪だけの桜の花。
「珍しいな」
そう呟くと、夏目先生はそっと枝を元の位置に戻し、静かに手を離した。
優しくいたわるようなその仕草に、はっとした。夏目先生の本質を見た気がした。それだけじゃない。自分の気持ちも。
私は反射的に名刺とペンを取り出し、プライベートの連絡先を走り書きして夏目先生に差し出した。先生の笑顔が戸惑った表情に変わる。
ああ。
こういう時、営業で培った会話術は何の役にも立たない。何人もの男の人と付き合ってきた経験も。必死で頭を回転させ、何とか言葉を絞り出す。
「出張や学会で東京にいらっしゃるときに、お知らせ頂けたら嬉しいです。私からもご連絡差し上げたいんですけど」
夏目先生は「ありがとう」と名刺を受け取った。そして私がしたように、自分の名刺に連絡先を書いて渡してくれた。良かった、つながった。
「ありがとうございます。もし――」
「もし?」
「来年ここで、満開の桜を一緒に見られたら嬉しいです」
さっき見た小さな桜の花が幸運の印のように思え、願いをかけたくなった。夏目先生は何も答えず、あいまいな笑みを浮かべた。
「すみません、急に変なことを」
引かれてしまっただろうか。
「いや。ごめん、ちょっと驚いて。飯倉さんから聞いていたのと違うから」
「私がですか?」
「うん」
「……」
花音。一体何を話したの?
「別に悪い話じゃないんだ。十歳以上年上にしか興味がないと――まさか僕の年、間違えてる?」
「大丈夫です。三十三歳ですよね?」
「うん。それなら良かった」
夏目先生にいつもの笑顔が戻った。私もつられて笑った。
(了)
六重奏:地味OL、ジャズ(?)バンドに加入してハウスシェアして恋をする。 オレンジ11 @orange11
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます