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ストレッチャーに乗せられた雷男を見ても、それが二十年来の付き合いのあいつだと、すぐには符合しなかった。
まるでいつものようにまったくの他人の、傷ついた肉体を眺めている気分だった。そのくせ、新米研修医だったときのように、身体の全身からいやな汗が噴き出してくる。
脳震盪を引き起こしているのか、意識がない。そして、右腕からの出血が確認できた。
「レントゲンとCT!」
耳を打つ自分の声に驚く。一瞬凍り付いた現場のなかで、唯一岡崎さんが動いた。
「急いで!」
その声に後押しされて、雷男は運ばれていった。それを見送ったあとで、岡崎さんは俺に向き直る。
「若先生、私、青木先生を呼んできます」
「……なんで?」
みっともなく声が震えているのくらい、よくわかった。それでも、岡崎さんは噛んで含めるように言ってくれた。
「いまの先生には、このオペは無理だと思います」
その瞬間脳裏をよぎったのは、子供用のエレキを抱えている雷男だった。
ケラウノスのRaioの演奏は、セックスと同じである。
あいつがメジャーデビューしたときにでた、最も有名な評だ。もう十年くらい前になるのか。それはなかば伝説になりつつある。
なぜ、あいつが人を惹きつけるのか?
鮮やかなテクニックや、耳に残る声質も確かにある。あいつの魅力の真髄は、演奏中に「感じて」いるからだ。じっと見つめていると、観客の方がこっぱずかしくなってしまうくらい。
岡崎さん、と俺はつぶやいている。
「あいつの演奏姿がやたらとエロいのは有名ですよね」
いきなり関係のない話を始めた俺に戸惑いつつも、岡崎さんは頷いた。
「みんな、あれって大人になってからだと思ってるんでしょうけど、実は子供の頃からなんです」
え、と目を見開いた岡崎さんに、俺はなぜか微笑んで見せている。
「あいつは、モノホンなんですよ。知っているんです、俺は」
だから、と言葉を続けた意味が、自分でもよくわからない。
「だから、青木先生は呼ばなくていい。俺がオペします」
はじめて雷男の家に招かれたとき、出迎えたあいつの母親があんまりそっくりな顔をしているのでびっくりした。
確か、それをそのまま素直に言ったのだと思う。雷男は機嫌を損ねて、ふいと自分の部屋へ行ってしまったけれど、母親のほうは明るく笑った。
うちは二人いるけど、どっちも私似なんだよね。
リビングに飾られた写真を見ると、姉は、雷男をちょうど少女にしたような顔だった。
雷男の部屋に行くと、お前さ、ああいうのやめろよ、と言われた。本当に嫌そうな口調だったから、俺はすぐに悪かった、と謝った。
それから、部屋の壁に立てかけられたギターを見つけた。
お前、ギター持ってるの?
すると、雷男の頬に誇らしげな笑みが浮かんだ。このまえのたんじょうび、むこうでかってもらったんだ。俺のはじめてのギターだよ。
それから、とうとつに、義道、お前ってさ、おんがくわかる? と訊いてきた。
音楽って、学校の授業でやってるだろ。
そういった瞬間、雷男は笑い出した。さんざんクラスの男子を敵に回してきた、人を馬鹿にする笑い方だ。
あんなのが、おんがくだとおもってんの? ちげぇよ、あんなヨウチなの。
雷男はついてこいと言い、別の部屋に俺を招いた。そこは、はじめて入る俺にとってはなんだか不思議な部屋だった。
派手なエレキギターが飾られ、他にも大型の機械が並び、部屋の奥には、なんだか円盤をのっけた大きな装置があった。それと、壁の一面は全部棚になっていて、そこが薄いなにかで満たされていた。
俺のおやじのへやだよ。
雷男は言いながら、棚から一枚引き出すと、普段のがさつさからは想像もつかない繊細な手つきで、表紙を開き、中に入った大きくて黒い円盤を見せた。
どうせ、recordみるのもはじめてなんだろ?
レコードの発音があまりにも本格的だったので、目の前にものがなかったらわからなかっただろう。いまから思えば、ようやく日本語での会話がなれて自然なイントネーションを身につけ始めた雷男なのに、そこだけ英語に戻ってしまうのは、それだけ慣れ親しんでいた証拠だったのだろう。
レコード盤を初めて見た。そっと針を下ろすのも、くるくると目の前で回りながら、音を発するのも。
衝撃的な音楽体験、とでも言えばいいのだろうか。もっと成長してから気付くのだが、雷男の父親がそろえていた音楽機器は優れたもので、音の質の良さといったらなかった。
だけど、俺自身を虜にしたのは、あのレコード自体の形容しがたい存在感と、そこから流れ出してくる音の洪水そのものだった。
俺は大興奮で、ぴん、とあることを思いついた。自分では最高の思い付きのつもりだった。
雷男、お前さ、ギター買ってもらったんだろ? だったらいまの弾いてくれよ。
Shut up, fuck.
あいつはらしくない動揺した態度で、首筋を掻きながら言い直した。
これは、すごいうまいひとがえんそうしてるんだ。かんたんにまねなんてできねぇよ。
当然だ。ギターを持ち始めたばかりの小学生に、プロの演奏ができるわけがない。でも、俺にはわからなかった。無理強いをして、雷男にギターを持ってこさせ、父親のアンプにつながせた。
そこから出てくる音の、つたなくってしょうがないことったらなかった。二、三音出しただけで、雷男はつらそうな顔になった。
これはちょっとさすがにかわいそうなことしたな、と思いつつも、あまりに下手くそなので、くすっ、と笑ってしまった。
すると、突然音楽が鳴りやみ、かわりに耳元でぱぁんと爆発したみたいに激しい音がした。
相手が俺だから、雷男としては手加減したつもりだったんだろう。平手だったし。だけど、耳の奥はわぁんとしたし、かなり驚いた。
さすがに殴り返そうとしたところで、雷男のばかにすんな! という叫びが響いた。
ともすれば英語に戻りそうになる言葉を、何度か飲み込みながら、雷男は顔を真っ赤にさせて、訴えだした。
きょうまで、recordみたことないくせに、このmusicをわらうな! これは、すごいきょくなんだ!
わらうな! と繰り返す雷男に、俺はびっくりさせられた。俺は、てっきり、雷男の演奏が下手なことを笑ったせいで憤られているのだと思ったのだ。
だけど雷男は、曲そのものを笑うなと、訴えかけてきたのだ。
たかが十歳なのに、ここまでロックに心酔していたなんて、ぞっとさせられる。あまりの迫力に、殴り返そうなんて気持ちはあっという間に消え去ってしまった。
ごめん、わるかったよ、という俺の声は、我ながら馬鹿みたいに響いた。
気まずい沈黙を破ったのは、雷男のつま弾いたギターの一音だった。
これだったらたぶん、お前、わらわないよ。
そういうなりギターを構えて弾き出したその曲こそが、「Stairway to Heaven」。
イントロを少し弾いただけで、さっきの曲とは格段に違うことが、ド素人の俺にもわかった。きっと、ギターを買う前から何度もなんども繰り返し聴き続けて、ようやくギターを買ってもらったら、時間も忘れて練習していたのだろう。
子供の手には似合わない、あのちょっと物悲しくって、静かな奥深いイントロ。それを雷男は、よどみなく演奏してみせた。しかも、ありったけの敬愛をこめて。
There’s a lady who’s sure
All that glitter is gold
And she’s buying a stairway to heaven
人は「本物」にであったとき、足元から背筋まで、小さな電流のようなものが走る。それから、心の中が甘いような、切ないような、そういうものでいっぱいに満たされるのだ。
雷男は一音弾くごとに、一声歌うごとに、目がうつろになっていった。考えてもみてほしい。ついさっき生のレコードの音に興奮していた坊やに、こんなのは刺激が強すぎる。
このまま弾き続けたら、雷男の意識がどっか遠くへいってしまうような気がした。ああいうのを、本当の自己陶酔っていうのだろう。でも、そんな知識を持ち合わせていなかった子どもの俺は、そんなに激しいとも思えない曲調なのに、頬を紅潮させてゆく雷男が、不気味でしかたなかった。
もういいよ、と俺が切羽詰まった声で言うと、雷男は、はっと現実に引き戻されて、俺の顔を見ると、そこに勝手に自分の落胆を反映させて、少し落ち込んだ顔をした。
Ten years、とつぶやきがもれた。訊き返すと、じゅうねん、と雷男は繰り返す。
じゅうねんごまでには、このきょくをかんぺきにひきこなせるようになってみせるよ。
そうして伏せた瞳をあげたときには、いつも通りの負けん気が強い雷男が戻ってきていた。
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