8

 天使のはしごが消えてしまう前に、俺はギターとミニアンプを家まで取りに戻り、再び雷男の病室を目指してひた走る。

 俺がいま、死ぬほど欲しがっているのは、あのときの雷男の興奮だった。あれをもう一度間近で味わえるなら、命を差し出したって惜しくない。

 息を切らして病室に戻ると、雷男は憑かれたように天使のはしごを眺めていた。

 あいつの意識はもう、半分向こうがわにいってしまっている。俺は、わざと音を大きくたてて、ミニアンプを電源につなぐ。

「なんだこの、安っちいアンプ」

 現実に残した半分の意識で、雷男が悪態をつく。

「あいにく、俺はプロじゃないんでね。文句言うな」

 ジャックをつなぐと、俺は調弦しながら、上がりきった息を整える。雷男は、相変わらず天使のはしごを見つめている。

 ばかやろう。お前がそっちにいくのは、まだ早いんだよ。

 俺は、胸が痛くなるほどの思いで、サノバ、と呼ばれていた頃の幼い雷男を思い出す。初めて買ってもらったのだというギターで、天賦の才のかけらを俺に見せつけてきた、最初の一曲。

 Led Zeppelin「Stairway to Heaven」。

 音量は、両隣の病室に響かない程度。つまり、雷男にだけ届く音。その音色のつたなさに、苦笑が漏れる。雷男の眉がかすかにひそめられた。悪かったな、雷男。下手くその上に、そもそもギターがダブルネックじゃなくて。

 雷男、こんなの聴いてられねぇって、はやく俺を殴りに来いよ。ロックにささげた、その手で強く拳を握ってさ。

 弦が見えなくなると、本当に曲がくずれてしまうから、涙はどうにかこらえた。それでもどうしようもなく歌う声は震える。

 ただ、いまはそれでいいのだと思った。

 俺がいま雷男に聴かせたいのは、優れた音楽ではなく、あいつを音楽の世界に引き戻したいという、俺の一心を込めた精いっぱいの語りかけだから。

 それなら、これは合格点だろう?

 もう十分思い出したはずなのに、歌えば歌うほど、過去の思い出がくっきりと浮かび上がってくる。それは、音楽とまざりあって、実体を伴い時間と空間を突き抜けて、俺たちのそばを、あのときの笑い声をたてながら、駆け抜けていくようだった。


If there’s a bustle in your hedgerow, don’t be alarmed now,

  It’s just a spring clean for the May queen.

  Yes, there are two paths you can go by, but in the long run

  There’s still time to change the road you’re on.

  And it makes me wonder.


 歌によって雷男に訴えかけ終える頃には、天使のはしごは消えていた。最後の音を送り出したあと、祈るような気持ちで雷男を見ると、あいつの目はもう窓の外に向けられてはいなかった。

 天井を見つめるその瞳には、ちゃんとまともな光が戻ってきている。

 それを確認したときの安堵といったら、言葉になんかできない。いままでこなしてきた、どんな大手術のあとよりも、嬉しさで身体がどうにかなりそうだった。

 雷男は、例の憎たらしい笑みを浮かべる。

「なんだよ、いまのへったくそな演奏」

「悪かったな、偉大なるロックミュージシャンのRaioさんよ」

 あいつは、長いながいため息をついた。今まで身体に澱んでいたものを、吐き出すような息のつきかただった。

「俺を舐めるなだって? いきがってんじゃねぇよ、ヤブ医者」

 俺は笑って見せながら、片づけを始める。するとあいつは、そっと目を閉じた。

 そのまなじりに、うるおった光が浮かび、それがひとすじの流れとなる前に、俺は病室から出て行った。

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Stairway to Heaven 和泉瑠璃 @wordworldwork

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