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 手術が終わったのは、朝日が昇る頃だった。俺は病室へ送られる雷男を見送り、外の空気が吸いたくなって、手近なベランダへと出た。

 術後に見る陽光は、どういうわけか、特別目に染みる。それが、時間間隔をさんざん狂わされたあとでの、一日の始まりを告げる朝日となると、なおさらだ。

 病院の前は、雷男の事故を聞きつけた報道陣たちが、まだ開かない鉄柵の向こうですでにがやついている。ご苦労なこった、と眠たい目で見届けて、俺は無性にたばこが吸いたくなった。

 全身は眠りを求めているのに、さっきまで雷男の肉体を金属の器具でいじくりまわしていた俺の心が、それを許さない。

 いちばん最初に行き会った同僚が、たまたま喫煙者だったので、たばこをわけてもらった。若先生って、吸ったっけ? と驚かれたが、答える気力がなく、むかしね、とだけ言った。

 それからまたさっきのベランダに戻り、紫煙をくゆらせる。

 俺にたばこの味を教えたのは、雷男。あいつが吸うときだけ、俺も付き合っていたのだ。

 最初の一本は、あの指導協力を頼んだのを、骨の髄まで後悔した果ての文化祭でのステージが終わった夜だった。

 打ち上げで池田たちとさんざん騒いで、声も枯れ切った頃、せっかく誘ったのに群れるのはごめんだと、とっとと家に帰ってしまった雷男の家へ一人で押しかけた。

 よう、と挨拶した俺に、お前、いまいい声してんな、本番それだったらもっとマシだったのに、と笑って見せた雷男は、茶色い液体の入ったロックグラス片手に、細く煙の立ち上るたばこをくわえているという、未成年にあるまじき行為のオンパレードだった。

 お前、いつからやってんの? と訊いた俺に、さすがに今年からだよ。親父の分をおすそ分けしてもらってな、と雷男は笑う。

 どうしてそんなこと、と重ねて尋ねれば、声を少し枯らしたくってな、と根っからのロックミュージシャンの答えが返ってくる。それから、罪悪感のかけらも持ち合わせず、俺にも、一本どう? と勧めてきた。

 俺は清々しい気分だったから、調子に乗って断らなかった。たばこをくわえて、かるく吸いながら火をつけるのだと教えられた時、てっきりライターが出てくるのかと思ったら、雷男の顔が近づいてきた。

 まるで、キスをしているような距離感で、渡されるたばこの火。

 雷男はわざと俺に向かって煙を吐きかけて、俺たち、今晩寝たら、どうなるかな? と言った。

 俺はあえて返事をせず、はじめての煙にむせこんだ。でも、興奮気味の頭の中では、それも無しじゃないな、なんて考えていた。

 あの頃を思い出しながら、俺は短くなってきたたばこから思いっきり息を吸い込み、さらにじりじりと短くしたあとで、いっきに煙を吐き出した。

 あれは、若気の至りでも、いい気になった頭で浮かんだ一瞬の冗談でもなかった。

 たとえばもし、雷男の右腕がどうしようもなくて、切断するしかない、となったとする。そうしたら、一生に一度の、この際どこの宗教でもいいから、神様のご降臨があって、俺の右腕と引き換えに、雷男の右腕を治してくれるというのなら、ためらいなく懇願しただろう。

 幸い、今回はそうならなかったってだけの話で、つまりはそういうことなのだ。

 フレディ・マーキュリーがバイだったって、お前、知ってる?

 煙を吐きかけた後で、雷男が問いかける。俺は、知らなかった、と言いながら、あいつの飲みかけのグラスを持ち、一口飲んでみた。うまいとは思えなかったけれど、鼻に抜けていく、くらりとした感じは、悪くないな、と思った。

 男も女も愛して、エイズになって、死んじまった偉大なるロックミュージシャンの一人だよ。

 雷男は俺のグラスを取り、ひといきに飲み干した。

 そういう愛し方で、お前たちが今日ド下手な演奏をしたような名曲や、フレディ自身の魅力が形作られたんだとしたら、俺はそれにならうべきかな?

 あの夜、そう語った雷男は、いまは麻酔で深い眠りの中にいる。自分の身体の状態なんて、おそらくなに一つ知らないまま。そして、あいつが正気を取り戻したら、俺は手術をした者として、主治医として、あいつの状態を説明してやらなきゃならない。

 たばこが切れた。二、三本もらっておけばよかったな、と後悔してみても、あとの祭り。だから俺は、物思いにふけるしか、逃げ場がない。

 俺はいま、世間では先生と呼ばれる立場で、院長の親父が死んでしまったら、この病院のすべてを継承することになっているけど、それが何ほどのものだっていうんだろう?

 祖父は別だ。なにせあの人は、焼け野原だったところに一から自分でこの病院をたてて、終始戦争で傷つけられた人々への治療に尽くし続けたのだから。

 だけど、二代目の親父や俺は、たんにその意思と病院を引き継ぐだけだ。ようは俺には、何かを創り出す力なんて、これっぽっちもないっていうこと。

 あの夜、けっきょく雷男は俺を抱かなかった。

 お前と寝るには、あんまり長い時間を一緒に過ごしちまったからな。ややこしすぎる、とそう言って。でももし、雷男があいつらしくない気を利かせなかったら、と思う。

 雷男のなかに取り込まれて、今後あいつが生み出す、人々を熱狂の渦に誘わずにはいられない、蠱惑的な一曲のかけらとなって、かぎりなく永遠に近い時間を生きられることを許されるなら、どれほど幸福だろう。

 そう、思ったのだ。むかしも、いまも。


 雷男が担ぎ込まれて以来、さんざん過去に耽っていたせいか、その日の眠りはどこまでも深く、夢を見ることはなかった。疲れ切った身体は睡眠に貪欲で、そのままぺろりと食い尽くされて、目覚めなくてもいいな、なんて、雷男が聞いたら鼻で笑いそうなことを考え、意識が途切れた。

 雷男の目が覚めた、と報告を受けたのは、夕方になってからだった。

 カフェインなんかを摂って、そのあいだに弱気を振り払っておいたつもりだったけれど、八神雷男と書かれた病室の前では、やっぱり躊躇してしまった。

 いまのあいつは、世間的にVIP中のVIPだから、配慮のうえで用意されたのは、病院の中でももっとも奥まった病棟にある個室。うちの病院で、いちばん静かな場所。

 その静寂が、いやに心地悪い。雷男の音が、心の底から欲しかった。

 あいつが起きているのは、なぜかドア越しでもわかった。呼吸を整えてから、俺はノブに手をかける。

 そのとき、自然とEaglesの「Hotel California」を口笛で吹いていた。それだけで雷男は、俺が来たのがわかっただろう。

 間仕切りのためのカーテンを開いたとき、雷男は天井に見据えていた瞳を、なんの驚きもなくこちらにむけてきたから。

「Welcome to the Gidou Hospital」

 歌詞をもじって歌えば、雷男は頬だけで笑う。

「You can check out any time you like,

But you can never leave! ……ってか?」

 冗談じゃねぇよ、と言う雷男の声は、あんがいしっかりしていた。ほっとしたのもつかの間、それで? と雷男は問うてくる。

 俺は椅子に腰かけてから、あいつの主治医として、一通りの説明をする。搬送時、どんな状態だったか。どんな手術を施したのか。雷男の友人としてではなく、あくまで一人の医者として、それらの言葉は口から流れ出していった。

 雷男は黙って聞いていた。でも、俺が語り終えると、顔を向け、真摯な目をして、俺がもっとも恐れていたことを言う。

「なあ、義道。俺が聞きたいのはそういうことじゃねえって、わかってるだろ?」

 そのときの俺は、やっきになって理性で自分を抑え込もうとしても、どうしても医者になりきれなかった。雷男の長年の友であり、Raioの古くからのファンであることをやめられなかった。

 医者失格だな、と自己嫌悪に浸っているあいだ、病室の窓の外で、本当に奇跡みたいに、曇天からひとすじの光が差し、どぶねずみ色に沈んでいた街の一角を照らした。

 ああ、こいつは本当に、持っている奴なんだな、と思ったとき、ようやく声がでた。

「外科医の立場から言わせてもらえば、怪我自体はたいしたことない。日常生活が不便なくおくれるようになるまでの回復は、保証するよ。……だけど、お前の場合、それじゃ足りないだろう?」

 俺の残酷な言葉が、雷男の全身に染みわたっていくのが、痛いほどに伝わってくる。それでも、俺は言わなければならなかった。

「お前が、お前の音を取り戻すには、かなりの時間とリハビリが必要だろう。……つまりは、お前次第、ってことだ」

 そうか、とつぶやいた雷男の声は、強がってるんだな、とこっちがわかってしまうくらい、めずらしく弱々しかった。

 雷男は、俺から顔をそむけて、窓の外に目をやる。

 そこにあるのは、天使のはしご。天国へといたる、一本の階段。

 なあ、義道、と雷男は言う。

「もし、俺が音楽を失ったら、お前がその手で俺をあそこに昇らせてくれねえか?」

 その言葉は、まるで雷男が陶酔の果てに生み出した一音のように美しく響き、音の波紋を描いて病室内に静かに広がっていった。

 声の波紋の名残が消え去った頃、俺は白衣のポケットからベレッタM92を取り出し、安全装置を解除して、銃口を雷男のこめかみに当てる。

 雷男は、静かに目を閉じる。そして俺は、思いきり引き金を引いた。

 架空の銃声が病室に鳴り響いたあと、俺は意識して語調を強めて言った。

「俺をなめんじゃねえよ、サノバ!」

 病室を飛び出す。

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