第2話

 ただただ、静けさが染みる夜だった。遥かなる極北の大地から音も闇も飲み干した雪は、全て覆い隠していた。

 そんな無明の中にひとつ、ぽつんと佇む小屋があった。寂れた家屋に紛れて、ひっそりと佇んでいた。

 これを住居と呼ぶのならトタンで出来た家々が豪邸という概念に区分されるであろう、そんな粗末な小屋だ。


 ルイスはその粗末な小屋に鎮座するベッドの上で目を覚ます。


(酷い夢を見た気がする……)


 そんな感想を覚えると同時に、強い虚脱感、空腹感、嫌悪感に苛まれた。呼吸すら満足にできない三重苦に悶えた彼は、ベッドから転げ落ちながら空っぽの胃をひっくり返す。軋む床はところどころ腐っており、壁からすきま風が吹き込む度、それがルイスの白い肌を突き刺した。


 今までずっと寝ていたせいか、夜半にも関わらず世界が異様なくらいクリアに見えて、眼球だけ猫と取り替えたような気分になったルイスは、自身に一体何が起きて、どうしてこのような場所に寝かせられているのかを考え始めた。


 錆び付いたネジを回すみたいに、寝ぼけた脳みそを動かして、そうして、エカテリンブルクで見た灼熱地獄が、生を渇望する悲鳴が、脳裏に過ぎる。


 弾き出された鉛玉のようになって、彼は辺りを見回す。愛しい人の姿を探して。しかし、彼女の姿は無く、あるのはシーツの乱れたベッドと朽ち果てかけた椅子とテーブル。その上にちょこんと乗ったブリキのランプに粗悪な酒瓶に活けられた野花。それと調理台を兼ねた洗面台のみ。


「殿下? ……殿下、殿下!! 殿下ァッ!! ――マリー!!」

「彼女なら働きに行っているわ」

「っ!?」


 ルイスは本当に呼吸が止まるかと思った。その程度には衝撃的な近さを感じた。一言で言うなら、耳元で囁かれたような、そんな近さだ。


「誰だ、姿を見せろ!! 殿下をどこへやった!?」

「働きに出た、と言ったのが聞こえなかったのかしら?」


 またあの声が聞こえた。至近距離にいるはずなのに、姿が見えない。それどころか、気配すらも気取ることが出来ない。一辺三メートル程しかない、この手狭な小屋の中に死角は皆無。ならば幽霊? 幻聴? 答えは否だ。その声からは、確かに熱を感じるから。


 警戒をさらに強めるルイスに声は呆れてものも言えないようで、大袈裟に溜め息をついて見せた。


「貴方、結構鈍いのね」


 その瞬間、ルイスの耳元から黒い何かが飛び立った。反射的に閉じてしまった目を開くと、そこには一匹の蝙蝠こうもりが羽撃いていた。


「五ヶ月ぶりの対面ね」

「蝙蝠が喋った!?」


 思わず仰け反る彼の様子を見た蝙蝠はくつくつと、小馬鹿にしたように笑う。それが癪に障ったルイスは眉を潜めた。


「うるさいぞ化け物め」

「品のない物言いね、せっかく助けてあげたというのに。英国紳士はなんて恩知らずなのかしら?」

「助けた……? たかが蝙蝠に何が出来る。笑わせるな」

「腕ではなく腹ばかり立てるわね。それも他人様のを」


 ほんの少しだけ、いじけたような口振りの声は、もったいぶったように溜めを作って、


「ウラル山脈。燃え上がる木々。無様に死にかけるルイス・マウントバッテン。……ああ、今はただの“ルイス”だったかしら? そうね、あとは……腹立たしいことに、こんなことを口走っていたかしら――死神、とか」


 死神。その四つの音の列にルイスは改めて思い出す。死出の旅立ちを前に現れた、少女の姿をした死神を。


「思い出したかしら?」

「……お前、あの死神だって言うのか? ただの蝙蝠にしか見えない」

「貴方を助けたせいでこうなっているだけよ。それと、私のことを死神などと呼ばないで貰えるかしら? 私は吸血鬼ドラクレア。アリス・ジャバウォック・ノスフェラトゥという名前があるのだけど?」

「知るかよ。お前が吸血鬼かどうかだの、名前がどうだの興味なんかない。どうせ死んでるんだから」

「本当に無礼な男。助けた、とさっきから言ったでしょう? 貴方は生きているのよ、ルイス」

「バカを言うな、あの時俺は控え目に言って死に体だった。いくつ銃弾を受けたかもわからない。血を何リットル流したかも当然な。そんな俺が生き残れる程この世界は優しくない。何をしても覆らない現実は確かに存在して、それを無理矢理覆す為に全てを捨てた。物事には代償というものが必要なんだ」

「それは払ってもらったわ」


 ころころと含み笑いが聞こえてきて、ルイスは渋面だ。そもそも、なぜ死神相手にそんなことを懇切丁寧に話してやっているのか、という当然の疑問に頭を抱えそうになる彼に声は、


「わずかに残されたものを全てを代償に、貴方は吸血鬼になったのよ」

「は?」


 思いもよらぬ言葉にルイスは間抜けな声を出してしまった。


「吸血鬼に、なった……?」

「ええ、そうよ。吸血鬼に」


 肯定するアリスにルイスは困惑する。その心情を察した彼女は鏡を覗くようルイスに命じた。


 言われるがまま安っぽい洗面台に掛けられた、薄汚れた鏡を見る。水垢でくすんでいることとヒビが入っていること以外は普通の鏡。

 しかし、ルイスは凍り付く。鏡の中にあるべきものがない。正面に立っているはずのルイスの姿がなかったのだ。

 身に纏う、ボロだけが不自然に宙に浮いているだけ。見慣れた赤毛や、どれだけ鍛えても筋肉が付かなかった細身の体が見えなかった。


「こ、れは……一体? は? あ? え?」


 頬を触り、肩を抱き、確かに己がそこにいることを確認して、再度鏡を見るもそこに映るのは宙に浮いたボロだけ。ルイスは半狂乱になって、叫ぶ。


「俺は……俺の体は、どうなってるんだ!?」


 絶叫と言い替えても良い叫び声が小屋に響くと、ルイスの視界が黒く覆われる。


「――あら、そんなことが知りたいなら早く言ってちょうだい」


 アリスの何でもなさそうな声。直後、ルイスの激痛が走った。


「――ッッ!?!?!?」


 声なき絶叫。焼き付くような痛みを右の眼窩に感じて、しかし同時に異変に気づく。

 何故か視界が二つ別れているのだ。左目は床を見つめ、右目は……何故が蹲る白い髪の男を見下ろしていた。

 右の眼窩から血液が滝のように零れ落ちる。そのことから右目が奪われたことだけは理解出来た。しかし、右目が体から離れてなお視覚情報が送ってきている理由はわからず、ひたすら混乱だけが増していく。


 激痛に苛まれながら、ルイスは蝙蝠を見上げる。蝙蝠の足には肉片がこびり付いた眼球。そして、その眼球が見下ろす先には先程白い髪の青年――否、自分らしき男が映り込んでいた。


 海軍の訓練で少し日焼けしていたはずの肌は死人の様に青白く、赤毛だった髪は絹のように白い。瞳は紅いルビー色に変わっていて、口を閉じているはずなのに、収まりきらず少しだけ顔を出している犬歯の先が馬鹿に鋭い。しかし、顔立ちや骨格は見慣れた己の顔で、だからこそ尚更ゾッとして、ルイスはさらに混乱する。


 変わり果てた自分の姿に加え、自分の目で直接己の姿を視認するという訳の分からない状況に陥り、まともな思考ができなくなっていく。

 わけがわからない。思考に整合性など皆無。事実という情報がバラバラに飛び交い、踊り狂う。

 いっそ夢であるなら呑み込めた。されど、これは夢ではなく。この痛みは現実で。


「何なんだよ、本当に……」


 椅子に座り込んで、途方に暮れた。眼窩から零れ落ちる血液など気にも止めず、彼は頭を抱える。情報の洪水に彼は溺れそうになっていた。


 蘇生。

 アリス。

 吸血鬼。


 どれもこれも常識の範疇になく、これまで普通の人間として生きてきたルイスの理解は全く追いついていない。


「――ルイス!!」


 不意に声が聞こえた。

 温もりを感じた。

 ハニーゴールドの御髪に、海のように深いサファイアの瞳。

 夢にまで見た愛おしい人。

 何よりも変え難い人。

 マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ。

 燃え上がるイパチェフ館処刑場から辛うじて救い出せた最愛の君。


 彼女はルイスを抱きしめる。強く強く。そうして、ようやく我を取り戻したルイスは愛おしい彼女を抱きしめ返そうとして、自身のうちに湧き上がる強烈な感情に支配されそうになった。


「殿、下……少し、離れてください」


 飢えた獣の如く暴れ狂いそうな本能を押さえ込み、彼は震える手でマリアを引き剥がす。甘美なる匂いに無限に分泌されそうな唾液を、喉が大きく嚥下えんげして。


 一人未知の感情に困惑するルイスを置いて、マリアは口を開いたままの眼窩を見る。


「ルイス、右目が……!! アリス、これは一体!?」

「現状を教えるにはこれが一番手っ取り早かったの」


 済ました声で、アリスはルイスの眼球を彼の手に置く。


「……こんなものを渡されても困る」

「吸血鬼の体を舐めないでもらえるかしら。その程度、はめ直せばすぐに治るわ」

「馬鹿な」

「やってみればわかるわ。それで治らなかったら私を焼いて食べれば良い」

「……生憎、蝙蝠を食べる文化圏とは縁はない」


 ましてや、人語を介する蝙蝠など口に入れる気さえ起こらない。

 ルイスは最早どうでも良さげに眼球を眼窩にはめ込んだ。そもそも、体から離れて尚視覚情報が送られてくるのだ。最悪、眼窩が置き場所になるだけ。それならそれで一向に構わなかった。


 しかし直後、ルイスは眼窩の奥で違和感を感じた。

 眼窩に納まった眼球と体が結び付き始めるのを感じたのだ。それと同時に、徐々に痛みが引いていくのがわかり、ルイスは驚く。どうやら本当に治っていっているらしい。


 違和感がなくなると、右目はルイスの思う通りの方向へ視線を動いてくれた。

 完治した。ルイスが眼球を嵌め込んでから、そう思うまでに約十五秒。恐るべき再生スピードだった。


「どう? これで私の言うことは理解出来たかしら?」

「……ああ、理解したよクソッタレ。流石にここまで現実を見せつけられれば、夢だと言い張り続けるのは厳しい」


 酷く疲れた様子で彼はベッドに腰掛ける。荒唐無稽過ぎる現実を受け入れさせられた彼の心労は察するに余りある。

 そんな彼に寄り添うようにマリアが隣に腰掛けた。


「……生きていてくれてありがとう。貴方がこのまま目が覚めなかったら、私、きっとどうにかなっていました」


 ぽつりと語る彼女の隣でルイスは頭がおかしくなりそうだった。彼女が少し近くにいるだけでも、唾液の分泌が収まらないというのに、肌が触れるほどの近さともなれば、勝手に犬歯が牙を剥き始める。


「……ルイス?」


 きょとんと見上げるマリアの愛らしさに、ルイスはその衝動を抑え込む。あってはならない、それだけは。

 舌を噛み、自身の血を飲み込むが――ダメだった。逆にその衝動が強まってしまった。


「もしかして、血が飲みたいのですか?」


 マリアが“血”という単語を発するだけで発狂しそうになる己を力づくで抑える。

 彼女を傷物になどできない。そう思う彼を他所に、マリアはナイフを手にしながら袖口のボタンを外し、手首を晒す。手首には夥しい量の傷跡が残っており、まだ治り切っていないものまであった。


「マ、リー……この傷は?」

「見苦しいですよね、ごめんなさい。薬があればもう少しマシだったかもしれませんが……薬は、やはり高くて」

「そんなことを聞いてるんじゃありません!! どうしてこんな切り傷ばかり!?」

「貴方を生かすためよ」


 アリスはマリアの傷跡を舐めて淡々と述べる。


「吸血鬼の体は人間よりも遥かに丈夫だけど、人間のように血を作る機関がないの。日々劣化していく血液を補うには外から――つまり、人間の血液を奪わなきゃいけない」

「だからといってマリーに――」


 やらせなくてもいいじゃないか。そう言いかけて、ルイスは口を閉ざした。今まで眠ったままだった吸血鬼がどうやってほかの人間から血液を奪えるというのか? 夢遊病ではあるまいし、意識のないまま幽鬼の如く歩き、他者を襲えるというのか?

 マリアを傷つけたのはアリスでも、他の誰でもない。自分自身だった。


(俺が弱いから……弱かったから。マリアはこんな傷を……!!)


 ルイスは吼えたかった。思うがままに、思いの丈を、悔恨を、嘆きを、叫び散らしたかった。

 拳を握りしめる。唇を噛み締める。血が滲む程に。

 ルイスは一人、自己への憤激に震えていると、マリアが白く細い指でルイスの青ざめた頬を撫でた。


「自分を責めないで下さい、ルイス。私は、貴方を助けることができるこの役割をとても気に入っているんです」

「ですが!! ……そんなに深い切り傷をつけたら、必ず跡が残ってしまいます。ロマノフ家の子女に似つかわしくありません」

「もう、どうせそのような家の名に、最早価値などないですよ」

「殿下!!」

「私にはもう、貴方しかいないのです」


 マリアは叫ぶ。この世にもうたった一人しかいないのだと。


「貴方を失いたくなかった。これが貴方を著しく傷付ける行為だとわかっていても、きっと私は止まれなかった」


 マリアにはもう何も残っていない。全てを燃え上がるエカテリンブルクに置いてきた。ルイスだけが彼女の全てだった。

 ならば、是非もない。たかが血液で己の全てを繋ぎとめられるのなら、いくら差し出したって構わない――マリアのサファイアの瞳がそう訴えかけているようで、ルイスはたちまち言葉を失ってしまった。


 同時に、そこまで想い人にそこまで想われていた事実を耳にしてほくそ笑みそうになる己を恥じた。真摯な想いには真摯に返さなければならない。断じて欲望に塗れたものであってはならない。


「救って頂いてありがとうございます。ですが、もうこれ以上御身を傷物にする訳には参りません。私は以降、吸血行為を致しません」

「正気?」


 その言葉に驚きを隠せなかったのは、これまでどこか超然とした物言いであれこれと言ってきたアリスだった。


「貴方、私がつなぎ止めた命を棒に振る気なの?」

「黙れ。俺は貴様を信用しきった訳では無い」

「……私がどれだけを手を尽くしたと思っているの?」

「知るものか。何があろうとも俺は殿下から飲むつもりはない。絶対にだ」

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