白陵のドラクレア ―Anger/Alter/Annihilate―

蜂蜜 最中

第一章

序幕『契約』

第1話




 ――俺は英雄を憎む。彼女の大切なものを奪った、あの英雄を――



 ―――――――――――――――――




 地獄が広がっていた。闇夜のウラル山脈を吹き荒ぶ風が山すそから燃え上がる炎を煽り、瞬く間に山脈を覆う木々を焼き尽くしていく。


「ここまで、なのか……」


 つぶやく声があった。弱々しいその声は、暴風と木々が焼け落ちる音にかき消される。

 その青年は血だるまになりながらも、一人の女を抱えて、エカテリンブルクからこのウラル山脈の中腹まで駆け抜けてきた。

 生きているのが不思議なほどの大怪我を負っていて、それでもなお、歯を食いしばって走り続けてきた。


 胸に抱える女を失いたくなかった。その一心で故国を捨て、親兄弟を捨てた。一人、遠い異国を敵に回した。


 その覚悟は想像を絶する重量を有しており、並の人間ならば発狂することだろう。だが、その覚悟を以てしても、個人が国を打倒することは叶わない。


「申し訳ありません、殿下」


 土砂に身を横たえながら青年は、女の黄昏に輝く小麦畑の如きハニーゴールドの髪の毛を撫でる。


「貴方が謝る理由など、どこにありましょう? 私は、貴方への感謝でいっぱいだというのに」

「……それでも、御身を救えねば意味がないのです」


 青年は女が愛おしくてたまらなかった。彼女に生きていて欲しくて、笑っていて欲しくて、立ち上がった。なのに、どうして自分はこんな場所で倒れているのか? 度し難い。許し難い。彼女を守れない己がどうしようもなく憎くくて、彼はひっそりと唇を噛んだ。


 、そう思って。



 ――だからその時、天に願いが届いたのだと彼は思った。



「ボロ雑巾が二つ」



 高い声が落ちてきた。辛うじて動く眼球で見上げた先には、黒一色のエリザベス様式のドレスを纏う小さな少女。夜闇の中にあって映える白い髪に、紅いルビーの瞳。それだけならば美の女神とでも形容できたが、彼女の小さな手に握られている、身の丈以上の大鎌が美麗な印象を徹底的に歪めている。


「しに、がみ……?」


 掠れた声が漏れ、男は最後の力を振り絞って最愛の女に覆い被さる。


「やめて……やめてください!! 私はもう、誰も失いたくないのです!! どうせ死ぬのなら一緒に――」

「嫌です。それだけは、絶対に却下です」


 彼は彼女抱きしめるように抱え込んで、死神を睨む。


「彼女は、連れていかせない……連れていくなら、俺だけにしろ」

「それを決めるのは私なのだけど?」


 死神は牛革のブーツで男の顔を踏み付ける。


「側頭葉破損、左肺及び各種内蔵破裂。私がトドメを刺さなくても散る命なのは分かりきっているわ」

「だったら、何しに来た……!!」


 頬を踏み付けるブーツごと、死神の細い足を掴む。最早痛みは無い。簡単に吹き消せてしまうような意識を手放さぬように、唇を噛みちぎる。


 彼女を害するものは、たとえ女子供であろうと殺してみせよう。

 手足をもがれようとも、口が動くなら噛み殺す。口が裂けたなら目で殺す。何があろうとも絶対に彼女を守ると、最期の力を振り絞って。

 その様を見た死神は僅かに間を置いて、何かを決断するように彼に宣言する。


「助けてあげる」

「……なに?」

「助けてあげる、そう言っているの。代わりに貴方の人生、これまで培ってきたもの、未来への展望。その全てを貰い受ける。今を生き残れるんだもの、相応の対価よね」


 死神は薄く笑みを浮かべると、次の瞬間、青年の肩に牙を突き立てた。

 その瞬間、青年の意識は暗幕に覆われるように暗黒に飲まれる。どこへとも知らぬ深淵へと自由落下していく感覚と女の叫び声、熱だけが残る。やがてそれすらも薄れて、完全に無となる。



 その時、彼――ルイス・マウントバッテンは確かに絶命する己を認識した。


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