人間は一本の葦にすぎない。自然の中でもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である

 冷たい雨。黒い雨。痛いほどの雨。

 白いシャツと白いシューズ。まるで病室から抜け出してきたみたいな出で立ち。

 ざあざあと砕けたレンガとコンクリートの瓦礫の群れを濡らす雨に負けず、白煙燻る街を駆ける。


「ヤオ……さん?」

「ヤオで結構です、どうしましたかミズシマさん」


 白いラフな格好を黒い雨に打たせるまま、俺は目の前を走る少女に声をかけた。


「……ヤオ、本当にこっちでいいのか!?」


 足元は不安定な瓦礫、飛び散った窓ガラスの群れ、爆風にへし折れた枝がかさかさと音を立てることすらなくただ泥濘に突っ伏している。

 暗いきのこ雲の下、絶え間なく広がる雲翳と流れ落ちる雨だれが、その町をみんなみんな殺してしまったかのような。

 両脇に立ち並ぶコンクリート製の建物。均一化された集合住宅の群れ。

 そのいたるところにひび割れを走らせ、ガラスをみんな叩き割ってしまう程の爆風が駆け抜けた小道を、ただ長く長く。走っていくだけ。


「ええ、このまま進めば第4区人民公社です」


 ヤオはきっちりと統制された緑の人民服に袖を通し、市松模様の頭巾を目深に被った。

 瓦礫に裾が引っかからないよう注意しながら足の踏み場を定め、素早く崩れた石の上をわたっていく。

 ぐらりと傾いだ大きな瓦礫を踏みしめつ、革の半長靴で小石大の瓦礫を蹴とばした。


「ここはまだ第2区……もう、人のいない住宅街ですから」


 半長靴の下で割れたガラスが、パキリと音を立てて雨にのまれる。

 安全そうな厚い革の靴は重そうに見えるが、そうとは感じさせることなく泥をはじいていく。

 ちらりと。本当に一瞬だけ、ヤオは防空頭巾の下から遠くの空をにらんだ。

 その方向にあるのは、小さな森。未だにくすぶり続ける白煙が狼煙のよう。

 黒い雲の下に見える崩れた石の屋根が、元の持ち主たちの居場所を示す。


「……火事場泥棒はいないのか」


 さあ。後ろ向きながら小さく肩をすくめて、つぶやく。


「もしかしたら、私たちが初めてになるかもしれませんね」


 人民服の上からぎゅっと赤い聖書を胸に抱え込むと、わざと強めに黒く染まった泥の水たまりを踏みつけた。


「『盗みをしている者はもう盗んではいけません。かえって困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい』…………散華の民ディアスポラの復興のため、“正しい仕事”をするかもしれませんねってことです。何も好き好んで行うって訳では……」


 ぐらり。そのとたん、焼け焦げた電柱と思しき木の柱がへし折れる。

 溶けたビニールを瓦礫の上にまき散らして、鋼鉄の線条は蛇のごとくのたうつ。

 雨に打たれた土塀が崩れ、危なげなく破片を避けたヤオの後ろに落っこちた。


「危ない!」

「……っ」


 何個もの石を同時にうちならしたような音がして、泥を揺るがせるほどの震えが地面を這いまわる。

 ちょうど俺の目の前に倒れた土塀と電線。

 ばじりと火花を黒いしずくに煌めかせ、墨をかぶったかのように濡れる破片の群れを彩る。


「……あっぶねえ」


 目を回した拍子に尻もちをついたのか、視点が低い。濡れた衣服がぺたりと張り付いて気味が悪い。

 若干の鈍い痛みが腰骨からじわりと骨盤中に広がっていく。


 後ろを振り返ったヤオは、やれやれといわんばかりに肩を落として、来た道なき瓦礫の山を引き返す。


「…………本当に、東瀛人民じゃないんですね」


 小さく落胆したような、さりとて安堵したような。複雑な心境の入り混じった吐息をこぼした。


「東瀛人民……っていうと、なんだ。亜人……人間じゃないのか?」


 確かこの国は東瀛民主主義人民共和国って言ったか。

 臀部をさすりながら立ち上がる。黒く染まった泥が、白いズボンを汚す。

 立ち上がった拍子に瓦礫がまたぐらりと揺れたのを、無理やり四肢に力を込めて踏ん張った。


「東瀛人民は……ええ。散華の民ではなく角はなく契約の民ではなく小柄ではなく巨躯の民ではなく大きくもなく爬鱗の民ではなく鱗を持たず鉱造の民ではなく石の皮膚も持たず智愚の民ではなく賢くなく屍喰の民ではなく狂ってもなく――――ただの、普通のホモ・サピエンス・イアポーニアヒト科ヒト族ヒト亜族ヒト属の現生種です」


 亜人だって、厳密にはヒトなんですけど。若干不満そうに目を細めたヤオは、その右手を角を隠す市松模様の頭巾へと持っていく。


「……なるほど、だから俺が東瀛人民? ってやつだと思ったわけか」


 首肯。


「それ以外だとそういうまっとうな“人間”は、RS居留区にしか存在しないのではないでしょうか」


 また新しい単語が出たな。

 俺は苦笑して、ゆっくりと歩き出す。

 こくりとうなづいて、少女は緩やかな坂道のようになっている道を真っ先に先に上り切るべく足を急がせた。

 悪い足場をものともせず先へ。先へと進んでいく彼女を追うようにして、俺も一歩。大きくぬかるんだ泥を踏みしめる。


「もうすぐです。頑張りましょう」


 俺が小道を登り切ったのを見ると、ヤオは目の前に広がる光景に向かって、大きく腕を広げた。

 あれが。小さく前おいて、指し示す。


 第4区人民公社です。

 指した先には、黒く焦げた街並み。遠くに見える崩れた摩天楼の群れ。そこかしこから立ち上る煙と圧壊した建造物たち。


 そしてその一角にたたずむ、小さな石造りの立方体があった。

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核から始めるダンジョンマスター 浜地(はまっち) @hamachi_writer

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