霧裂陽織は安寧の傍に居たい

詩一

安寧の傍に居たい、その願い

 私には弟がいる。

 彼は障碍しょうがいを持っている。

 障碍の名前は知らない。

 以前、お母さんに聞いた時には、答えてくれなかった。

 と言うより、私が途中で聞くのを止めた。なぜなら私の問いかけを聞いた時のお母さんの目が血走っていて怖かったから。それはぎょろりと大きく開かれていて、小刻みに震えていた。小学生の時であったけれども、それでも直感的に理解した。これは聞いてはいけない事なのだ、と。

 私はただ、弟がお母さんの愛情を一身に受けている事への不満を抗議したくて聞いただけだ。そんなに弟に付きっ切りにならなければいけない程、その障碍というものは重篤じゅうとくなものなのかどうか。子供らしい言い方をするなら、弟ばかりズルい。私も構って欲しい。と言ったところ。

 けれども、その時にお母さんへ求める愛情の平等性は諦めた。文字通り血眼ちまなこになってかばいたてしなければならない程に、弟の障碍はデリケートなものなのだろう。

 中学生に上がる頃に、私はなんとなくまた、あの時のお母さんの血走ったまなこの意味を考えていた。当人に聞かなければ答えは解らないけれども、私なりの答えは出た。

 お母さんはつまり、我が子を障碍者だと認定したくなかったのだろうと思う。

 お腹を痛めて産んだ我が子。

 それを欠損した存在として扱う事は、あまりにも辛い。

 いずれ母になる身としてその気持ちは十分理解できた。

 しかしながら私は、お母さんの気持ちが解る反面、同時に別の位置からの意見もあった。

 愛する我が子なら、障碍者として認めても良いのではないか。

 愛し通す自信があるなら、健常者だろうと障碍者だろうと関係は無いのではないか。

 などと、子供ながらに思っていた。

 しかしそれは大人の事情を知らないからそう思えるのであって、お母さんにはもっと別の考えがあるのだろうとも思っていた。

 何せ私のお母さんだ。

 私にはおよびもつかない高尚こうしょうな考えがきっとあるはずだ。

 私が中学一年生の頃、三つ下の弟は小学生だったのだけれども、私が通った小学校には通っていなかった。

 家に帰るといつも居間に弟は居た。

「あー」

「うー」

 とうなる弟に、

「ただいま」

 と挨拶をすると、嬉しそうに笑った。

 屈託くったくのない笑顔に私は癒された。

 弟は純粋だった。

 私はと言えば、恐らく不純だ。

 いつも人の目を気にして、意見を合わせてばかり。あの、弟のような笑顔は、私からは生まれない。その純粋さがうらやましいと思った。もしも私が屈託なく笑う事が出来れば、季司花きしかちゃんも私を馬鹿にしなくなるだろうか。メガネを取れば可愛いのにって言わなくなるだろうか。メガネを取ればって、それはつまり普段は不細工だよって言っているようなものだ。勿論彼女にそんな嫌味があるはずもなく、それは私の勝手な被害妄想なのだろう。けれどもそれ以上に、私は私が可愛くないのを知っている。だから、メガネを取ったら可愛くなると言う事も信じられないし、だからその可愛いと言う言葉も信じられない。そう言う訳で私の結論としては、季司花ちゃんはいつも私を不細工だなと思っているんだと言う事になる。

 季司花ちゃんは可愛い。だからきっと私は比較対象のそれでしかない。でも、彼女の能動性には、周りを牽引けんいんする力が確かに存在していて、私はその引力に従う事がとても心地いいのだ。

 だからせめて努力できる範囲で、彼女に見合う友達に成ろうと必死だ。

 その必至がどこかにひずみを生んでいて、学校生活がとても疲れるものになっているという事も確かだ。けれどもそれをめる事は出来ない。だってそれをめると言う事は、学生をめると言う事だ。何も退学になるという訳ではない。でも、そこから脱落したら、私の今後の学生生活はとても惨めなものになるだろうという事が容易に予想できるのだ。

 季司花ちゃんは強い。だから私が居なくたって、他の友達を引き連れてスクールカーストの頂上に君臨し続けるに違いない。季司花ちゃんに見下されている、馬鹿にされていると言う認識があるにもかかわらず、私には彼女に認められたい、必要とされたいと言う願いが存在している。

 傍から見たら矛盾していると思う。

 私から見たって矛盾しているのだから。

 ともあれ私には季司花ちゃんのように可愛く強く振る舞う事も出来なければ、そんな彼女に臆することなく屈託のない笑顔を浮かべる事も出来ない。

 だから、という訳ではないが、いつからか私は弟の面倒を見る様になっていた。そもそもはお母さんに頼まれての事だったから、弟への敬意や障碍者に対しての善意からの行いではなかったけれども、それでも奉仕していると言う感覚は、学校で疲弊ひへいした心を充足感で満たした。勿論、お母さんにしかできない事があるから、私がやるのは決まってマッサージだ。

 マッサージには筋肉の硬直を解くだけではなく、精神を落ち着かせる効果もある。

 たまに出るよだれをティッシュでぬぐってあげると、弟はまた嬉しそうに笑う。

 それが堪らなく愛おしかった。

 唯一信用できる笑顔かも知れないと思った。

 季司花ちゃんの笑顔も、いや、彼女のものだけではなく、学校で出会う全ての人の笑顔にはどこかに必ず打算が介在している。相手の気を良くしてやろうと言う目論もくろみが、見え隠れしている。

 高校生になっても、脱落しない為の学生生活は続いた。

 季司花ちゃんも同じ高校へ進学したのだ。また彼女の日陰で生き続けるのかと薄い絶望を感じる反面、やはりどこかに彼女の能動性に期待している自分も居る。結局その方が楽なのかも知れないな、とその頃には自分の在り方というものに折り合いが付いていた。

 ある日、お母さんが夕食の食材を一つ買い忘れて家を出て行った。

 玄関で出くわした私はお母さんを見送り、いつも通り居間に座っている弟に、

「ただいま」

 と挨拶をした。

 彼はいつも通りの笑顔を湛えたのだけれども、どうしてかいつもより目が爛々らんらんとしているように見えた。ただその時は深く考えず、お昼寝が良くできたのかなという程度にしか考えていなかった。

 私はいつも通り弟をマッサージしてあげた。

「あー、あー」

 私はよだれぬぐってあげようと彼の顔に手を近づけた。

 その時、彼の手が私の腕を掴んだ。いつもはしない事をする弟に戸惑った。私は何かしてはいけない事をしたのだろうか。

「ごめんね。どうしたの?」

 私は咄嗟とっさに謝り弟の顔色をうかがった。

 彼は怒っていなかった。

 むしろ笑顔だった。

 ただしそれはいつもの屈託のない笑顔ではない。

 純粋ではあるが、人に対する感謝の念など微塵みじんもない。ただ目の前に何をしても良いとされるおもちゃが現れた時の、歓喜に満ち溢れた笑顔だった。

 私は瞬時にその異常事態を感じ、離れようとした。

「痛いっ」

 しかし彼に掴まれた腕はびくともしなかった。

「離して! 痛いよ!」

 悲痛を訴える私に構わず、弟はますます握力を強めた。このまま握り潰されてしまうのではないか。その恐怖が焦燥を生む。私の恐怖に慄いた顔を見ても、弟はニコニコニコニコと笑顔を崩さない。

 障碍者には社会的弱者という言葉が用いられるが、この時の彼は明らかに強者であり、私の優位に立つ存在であることは間違いのない事だった。

 自分の家族であるがゆえに、こんなことはないだろうとたかくくっていた。そして仮に私に対して暴力を振るう様なことがあったとしても、言う事を聞いてくれると思っていた。

 純粋な子だから。

 あんなにも屈託のない笑顔を見せられる子だから。

 きっと私の気持ちを解ってくれる、言う事を聞いてくれる。

 しかし現実は違った。私がどれだけ訴えても手を離してくれることはない。

 純粋、とはつまり自分の欲求に対しても同じことが言えるのだと言う事を遅まきに知った。

「あー、あー!」

 弟はますます涎で口の周りを汚しながら興奮状態になる。

 私は恐怖で体が自分から離れていくのを感じた。

 弟が体を思い切りこちらに預け、私は支えられなくなりそのまま倒れた。

 鈍い痛みが頭に走って、意識は深い闇へと落ちて行った。


陽織ひおり! 大丈夫か!?」

 お父さんの声で意識を取り戻した。

 私は蛍光灯に目をくらませながら、やおら目を開いた。

 後頭部に重さを残しながら体を起こす。

「良かった! すぐ救急車を呼ぶからな」

「駄目よ!」

 お母さんの悲鳴のような声が頭にガンガンと響く。

「何を言っているんだ! 目を覚ましたとはいえ後遺症があるかも知れない。この子は頭を打って倒れていたんだぞ!」

 ズキズキと痛むこめかみ。私はおでこを押さえて手を付いた。

 ――ぬるっ。

 粘質的な何かが手に付着してそれをまじまじと見る。

 それは弟の唾液ではなかった。もっと白濁としていて……。

 見ていた掌の延長線上にある制服のスカートにもその粘質的な液体が付いている事を確認した。と同時に、そのスカートのホックが外れており、膝の辺りにまでずり降ろされている事に気付いた。そこまで気付くと、太腿に冷ややかな感覚がある事にも気付く。フローリングに直接触れているのだ。

「え、え……? なにこれ」

 多分、この液体を出したであろう弟はお母さんに押さえつけられながらも、嬉しそうにニコニコニコニコしながら床に腰を押し付けていた。

 その、笑顔が。

 その、声が。

 私の現在過去未来を凌辱りょうじょくした。

 私は救急車の音が家に近づくまで、何もできずにただ茫然としていた。何も考えたくなかったし、考えられなかった。

 お父さんは消毒液で私の体を拭いてくれた。多分、弟の体液が付いているだろう部分を。

 汚れた制服もいつの間にか部屋着に変わっていた。お父さんが着替えさせてくれたのだと気付いたのは、母親の叫び声によって暗澹あんたんに腰掛けていた意識が呼び戻された時だった。

「洗えばまた使えるから! 勝手に捨てないで!」

「馬鹿かお前は! こんな汚いもの、陽織にまた着ろと言うのか!」

「汚くない! アナタはこの子の父親でしょう!? なんでそんな差別が出来るの!」

 お父さんの平手打ちが、お母さんの頬を捉え鈍い音がした。私は初めてお父さんがお母さんに手をあげるのを見た。と言うより、夫婦喧嘩を見たのが初めてだった。

「差別という言葉を手前勝手に使うんじゃない! お前は、陽織の母親でもあるんだろうが! なら暴力を振るった弟ではなく、振るわれたお姉さんの味方をするんじゃあないのか! 悪い方を悪いと叱るのが親の務めだろう!」

 呼び鈴が鳴る。

 私は駆けつけた救急隊員が持ってきた担架に乗せられて救急車へ運ばれた。

 救急車で病院に運ばれる中、お父さんは私が気を失っている間の事を話してくれた。

 とは言っても、お父さんは帰宅するなり私が倒れているのを見てすぐさま声を掛け、一声目で目を覚ましたので、ただ只管ひたすらにお母さんがパニックにおちいっていた事だけを説明するに留まったのだけれども。

「心配だろうから、一応検査だけはするか。お父さんが帰ってきた時の状況をかんがみるに、多分大丈夫だろうとは思うが。もしもそれが嫌なら、今日は頭だけ見てもらう事にしよう」

 私はお父さんが言う通り心配だったので検査をして貰う事にした。

 全ての検査が終わった後、精算待ちでロビーの椅子に腰掛けている時に私は疑問を口にした。

「なんでお母さんは、救急車を呼んでくれなかったのかな」

 お父さんは黙って吹き抜けの天井の先を見ていた。

「なんでお母さんは、お父さんが救急車を呼ぶ時に止めたのかな」

 お父さんは意を決したように私に向き直り、奥歯をかみしめ、じっと私を見た。

「さっきな。陽織がCT撮ってもらったり、検査してもらったりしている間にお母さんと電話して決めた事なんだが……」

「精算でお待ちの霧裂きりさきさん、霧裂禅充郎ぜんじゅうろうさん」

 お父さんは呼ばれた事を無視して続ける。

「お父さんな、お母さんと離婚することにした。陽織はお父さんに着いてきなさい」

 そう言い残し、お父さんは席を立った。


 恵まれた時代。恵まれた家庭。恵まれた生活のどこに安寧あんねいが有るのだろう。

 私は生まれて初めて深い絶望というものを味わった。

 だからこそ言える。

 安寧とは、絶望の原因から距離を置いた時に初めて手に入れる事の出来る代物であると言う事が。

 お父さんは施工管理士をやっていて、毎日残業漬けで、月に2回休みがあるかどうかという生活をしていた。だからあの時、お父さんがいつもより早い時間に帰宅していたのは奇跡的だった。たまたまコンクリートの発注が滞ったおかげだとかなんだとか言っていたけれども、詳しい事は良く解らなかった。

 忙しいはずのお父さんも、私にこんな事があったからか、一週間くらい休みを取ってくれた。ほとんどが引っ越しに費やされた休みだったけれども、その間にお父さんの優しさを感じられたし、お母さんからは諦めていた一身を捧げた愛情を受ける事が出来て、素直に嬉しかった。制服も買い直してくれた。

 今はまた忙しい日々に舞い戻ったお父さんだが、その日常を取り戻している感が私には必要なのかも知れないと思った。

 傷が癒えたとは言えない。

 今もまだ、お父さんの手さえ握れない。

 あの手が。

 男の人の握力が怖くて。目の前に手が出てくると引きってしまう。

 でもただの一週間で、私はそれなりには回復をしていた。頭の方は一週間毎に病院に行って検査をしてもらう必要があるけれども、近くにお父さんが居なくてもまともでいられるようになった。

 学校も今日から登校だ。

 長期間休んでいた私を季司花ちゃんは心配してくれた。両親の離婚の事も弟の事も言う事は出来なかったけれど、頭を打って自宅療養していた事実だけは教えた。

「全く危なっかしいんだから。今度もし何かあったら言いなさいよね。お見舞いに行ってあげるから」

「ありがとう」

 上から目線の棘のある言葉遣いはいつもの事だけれども、彼女の言葉には思いやりが有り、私はそれについては心からの感謝を述べる事が出来た。

 帰りの電車。私は席に座って携帯端末でゲームをしていた。

 その時だった。

「あー」

 背筋がビクッと引き攣った。

「うー」

 二言目を聞いた時には、悲鳴を上げそうになった。それをこらえると、全身に悪寒がはしり、体が自分の物ではないようにガタガタと震え始めた。

 あの声は弟じゃあない。弟じゃあない。弟じゃあない。

 恐る恐る声の主の方を見ると、それは確かに弟ではなかった。

 ただ自分の指をちゅぽちゅぽと舐め、右へ左へ体を振り子のように動かしながら歩き回っている。子供ではない。障碍者だ。

 私は目を背け携帯端末を握りしめた。

「あー」

 ダメだダメだ。

 障碍者だからって全てが弟のような事をするような人ではないんだ。

 差別をしてはダメ。

 そう言う目で見ちゃダメ。

 ダメダメ。

「うー」

 私みたいな人が障碍者を差別するから、皆迷惑するんだ。

 誰が迷惑するんだろう。

 弟みたいな障碍者か。

 あの私を汚した男が迷惑するのか。

「あー」

 その迷惑にならない為に私は私を押し殺すのか。

 叫び出してしまいたい衝動を握りつぶして。

 恐怖を恐怖じゃないと言い聞かせて。

「うー」

 私は。

 私は私は私は私は私は私は……!

「あー」

 ――障碍者が怖い!

「うー」

 声が近い。

 まるで耳元で囁かれているようだ。

 怖い。寒い。怖い。怖い。

 気付けば私は震える肩を抱きしめていた。

 誰か。

 誰か助けて――!

「霧裂さん大丈夫?」

 目を開けるとそこには一人の青年が立っていた。

 目の前の吊革に掴まりこちらを心配そうに見ている。

 同じ高校の制服……。

 ――あ。

 比々色ひひいろ君だ。同級生の。

「具合悪いなら次の駅で降りようか」

 私は声を出す事が出来ず、ただ彼に助けを求める様に見つめ返すしかなかった。

 私は一言も発していないのに、まるで全てが伝わったかのように彼は首を縦に振る。

「じゃあ降りよう」

 電車が減速しアナウンスが停車駅を知らせる。

 程無くして扉が開く。

 降りたい。

 でも、体に力が入らない。

「ほら」

 比々色君はしなやかな手を差し出した。掌を上に向けて。

 男性のものとは思えない程美しい曲線に、私は無意識に手を出していた。

 彼は優しくエスコートするように私をゆるりと、しかしながら颯爽さっそうと、八寒地獄はちかんじごくと化した車内から連れ出してくれた。

 お父さんの手さえも怖がっていたのに。

 車両の扉が絶望を遮ると、目の前で彼が優しく微笑んでいた。

 ああ、彼が安寧だ。

 電車に引きずられて走り出した生暖かい風が、私の体を撫でて行った。

 私は安寧の傍に居たいと願った。

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