第25話蠱幸

 


 幸一だって、全力で泣き喚いて抵抗する気だった。それでなくたって、母親と離れて暮らせと言われりゃ自然と涙が溢れてくる。


 だけども人って不思議なもんだ。隣でワンワン喚き立ててる奴がいると、何故だかスンッと熱が冷めちまう。


 成程、確かにこんな餓鬼が二人もいりゃあ倒れちまうのも当然だ


 兄のお陰で泣き時を見失った幸一は、どこか他人事のような心持ちで祖母の言葉をすんなり受け入れた。

 未だ喧しく泣き喚いている兄の額に頭突きを一発。


「僕はこのババアについて行く。僕が行くんだからお前も来い」


 割合理不尽な理屈でもって兄を道連れにした。

 だって自分だけ仲間外れとかズルい。


 祖母は、何にも言わなかった。

 後日、『うっせえババア!!』と言った兄は頭頂部に手刀を食らっていた。





「君、外人さん?」


 母と暮らしていた地域では、髪や瞳の色が違う人なんてのはそこら中にありふれていて、奇異の目で見られることなんか滅多になかった。

 けれども祖母の暮らしている地域はそうではないらしい。


「違いますよ」


「ほな不良や」


「親が不良なんやろ」


 転入したクラスや初めて行く公園なんかでは、大抵二、三人はこういったことを聞いてくる子がいた。母と暮らしていた場所ではなかったことだ。

 場所が変わると人だって随分変わる。

 当たり前だが、幼い幸一にはとっても不思議で驚きの真実だ。


「少しだけ血が混ざってるんです」


「合の子なん?」


「先祖返りです」


「なんそれ」


 自分が当たり前のように知ってる常識が、皆にとってはちっともそうではなかったりする。とっても不思議で驚きの常識だ。


「・・・・・・合の子どもの子どもの子どもの子どもの子どもの子どもの子どもって意味です」


「合の子どもの子どもの子どもの子どもの子どもの子どもの子どもは先祖返りなんか」


「なんて?」


「合の子どもの子どもの子どもの子どもの子どもの子どもやって」


「ちゃうって、合の子どもの子どもの子どもの子どもの子どもの子どもの子どもが先祖返り言うんやって」


「・・・いや、そういうことではなく・・・」


 自分の知ってる言葉を知らない子に教えるのって難しい。

 祖母の家に移り住んでからというもの、幸一の中の常識は度々ちり紙のように破けては、すっかり溶けて再形成!なんてことを繰り返している。

 そんなことを電話で母に話すと、随分心配され、やっぱり帰ってきたら、なんて言い出すものだから、幸一は慌てて、見えもしないのに頭を振った。


「教えるのには苦労しましたが、話せばちゃんと分かってくれましたよ」


『・・・そう、そうよね。そうなのよね』



 勿論、そうならない人だっていた。

 尋ねずに誤解したまま親に話す子供も、それを真に受ける親もいたし、何にも言わずに避ける人も、みっともないと顔を顰める人もいた。

 注意してやるべきだと、全く善意で学校に電話する人も中にはいたらしい。

 家庭訪問の折、担任の先生が言っていた。


「まあ、高杉さんのお孫さんや言うたらみんな直ぐに電話きらはりますわ」


 祖母の家は代々地元周辺の土地を管理していて、地元に住む者にとって、祖母はちょっとした有名人だった。色んな意味で。


「中には虐待されてへんか?!なんて心配し出す輩もおりまして」


 ケラケラと笑う教師の声に、部屋の外で耳を立てていた幸一は顔が引き攣っていくのを感じた。そりゃ、幸一だって祖母が子どもを手放しに可愛がる姿なんか想像出来やしないけれども。


(本人目の前にして言うか普通)


 本人はそれを聞いて笑うのだから、人って本当に不思議だ。



 幸一と兄の一幸かずゆきは見てくれも中身も随分違ったので、双子だと言うといつも大変に驚かれる。

 何かと外で遊びたがる一幸と、根っから出不精な幸一とじゃ、気の合う仲間も違えば好きな遊びだって違う。

 学校は常に別のクラスで、どっちかが忘れ物でもしない限り態々お互いのクラスに顔を出すこともなく、偶に廊下ですれ違っても見向きもしない。

 じゃあ仲が悪いのかと問われれば、この時ばかりはお互い揃って首を捻る。

 幸一は常に忙しない兄をあちこち飛び回る羽虫程度に思っていたし、一幸は常に家に居座りたがる弟を嵩張る置物程度に思っていた。

 祖母がどちらかを贔屓したり軽んじることはなかったし、お互いの趣味趣向も違うから、相手を羨んだりやっかむことも滅多にない。

 鬱陶しいと思うことはあれど、追い払うほど厄介でもない。早い話、互いが互いに無関心でいた。


 それでも幸一には、屁理屈でもって兄を道連れにしたという砂粒程度の負い目があったし、一幸は何かと自分の背後に潜んでやり過ごそうとする弟を胡麻粒程度に案じてはいた。




 母と、幸一と一幸と、親子三人で遊びに出掛けて、一番にへばるのはいつも幸一だった。

 母に似て身体の丈夫な一幸に対して、幸一は随分弱くっていけない。


「普段動かねえからだぞ爪楊枝」


「うるさい脳筋」


「暑いものね。少し木陰で休みましょう」


 母は兄弟が小学校へ入学した年に一度倒れたきりで、それ以降はいっぺんも倒れてない。

 元来身体が丈夫な人で、たまに会えば忙しない兄と一緒に元気に駆け回っている。


「僕はココで待ってますから、二人で遊んできて下さい」


「何言ってるの、みんなで休みましょう」


「えー俺もっぺんジェットコースター乗りてー」


「僕はアイスクリームが食べたい。待ってる間に食べてて良いですか」


 三人で良かったなあと思う。こんなしてすぐ自分がバテちまっても、一幸が楽しそうに笑っていりゃ、つられて母も笑っている。

 母と会う時、幸一は必ず一幸を連れていく。引き摺ってでも連れていく。

 母と引き離したほんの僅かな負い目と、コイツがいりゃ安牌だろという勝手な信用があるからだ。

 幸一はいつもそんな調子で、都合が良い時にゃ決まって一幸を引き摺り連れ回した。


 過去の話だ。

 中学生になりゃあ、幸一だってそれなりな常識を身につけている。



「え、やだ」


 ちょっとだけ意外だった。

 離れる前はあんなに泣いていたクセに。


 もう手を煩わせるほど子供でもないのだし、迷惑をかけることも少ないだろうと、母のもとでまた暮らしてみませんかと言った幸一に、一幸は否と答えた。


「今さら一緒に暮らしてもなあ。どの道向こうは忙しいだろ」


「まあ、そうですけど。そんなもんですか?」


「そんなもんだろ。それに、ババア一人じゃ危なっかしいしな」


「・・・・・・な、」


 高杉の家は広く、その上昔ながらの日本家屋で、あんまりバリアフリーじゃない。

 手摺のない階段は高さが急だし、それでなくったってあちこち手入れが大変。

 今は祖母一人で十分だろうが、背筋に鉄骨でも入ってんじゃねえかと疑っちまうようなあの背中だって、そのうち曲がるときがくるのかもしれん。

 幸一は想像もしなかったが、一幸は想像したらしい。


「なるほど・・・・・・なるほどぉ」


「あほ面」


 背中の曲がった祖母を想像しようとして、顔が歪むほど悩み苦しむ幸一の額を一幸が引っぱたいた。


 けれども、そんなら。

 そのうち婆さんになる母さんにだってそりゃ言えるんじゃねえのかと思うのだ。



「なんで自分の誕生日に自分でケーキ作るんだよ」


 丸いケーキに生クリームを塗りたくっている幸一を、一幸は怪訝な顔して眺めていた。


「どっかの国じゃ、誕生日は親に産んでくれたことを感謝する日なんだそうですよ」


「どこの国?」


「さあ」


 二人の誕生日。母は毎年仕事を前倒して無理やり休みをとってくれる。

 毎年ケーキを予約する母に、今年は自分が作るからと断った。


「それに、自分が作ったものを美味しそうに食べてくれたら嬉しいじゃないですか」


「つくる側じゃないからようわからん」


 誕生日の前日、未だ家主の帰らないキッチンでケーキを拵えた幸一は、テーブルに肩肘ついて煎餅を貪る兄に白いチョコペンを差し出した。


「“おめでとう”って書くのか?自分で?」


「言ったでしょう。“ありがとう”ですよ」


 なんで俺がやらなきゃならんのだとぶつくさ呟きながら、それでもヘッタクソな字で『ありがとう』と書く兄が、なんだかおかしくって笑っちまう。


 食いかけの煎餅が額に飛んできた。





「あの、良ければ、なんですけど」


 しどろもどろになりながら、中学を卒業したら母の家で暮らしたいのだと言った幸一に、母はきょとんとした顔をして、次いで、へにゃりと眉を下げた。


「私、なんにも出来ないよ?」


「そんなら、丁度良いですよ。僕、これでも色々出来るようになったんです。きっと、丁度良いと、思うんですが・・・」


 それからぼたぼた泣き始めちまった母親に、幸一もなんだか泣きたくなっちまった。

 呆れた兄に背中を叩かれ、慌てて背筋を伸ばす。

 この年で背中を曲げちゃあ、祖母に笑われる。




 翌朝早くに出勤する母を見送って、二人でダラダラ駅までの道を歩いた。

 昨日のことが小っ恥ずかしくって、幸一はずっと俯いたまんま兄の後ろを歩いていた。

 お互い共通の話題なんて殆どないから、一緒にいると大抵だんまりになる。


「お前、こっちで暮らすのか」


「まあ、はあ」


 暇潰しに問い掛ける兄に、小さな声で歯切れの悪い答えを返した。


 行き交う人の中には幸一みたいな色した髪の人もいれば、もっと明るい人もいた。通り向かいのバス停では、肌の黒い人の隣に肌に加えて髪まで真っ白な人が時刻表に目を凝らしている。

 母の住まうこの場所は、色んな人が暮らしていた。

 治安を気にして住みたがらない人も多い場所だが、多分、幸一にとっては丁度良い場所だ。


「俺はどうすっかなあ」


 赤い信号を見上げてボケっと呟く兄は、いつもと変わらず、祖母みたいに背筋をピンと伸ばしていた。

 本当に似てないなあ。幸一は俯き丸まっていた背中を起こす。いい加減、子どもじゃないのだし。

 信号が青になる。歩き出した兄に呟いた。


「君の好きにすれば良い」


 届いたかはわからんが、兄の足は少しだけ遅くなった。


 駅の改札に差し掛かった時、思いついたように兄が呟く。


「なあ、あそこ行ってみね?」


 指差す先には、すっかり古びてボロボロになった建物。

 母の家へ行く度に目には入っていて、お互いなんとなく気になっていた建物だ。だっていかにも何か出そう。


「入れませんよ」


「バレねえよ」


 暗に忍び込もうという兄に、目を眇めて睨みつける。

 兄は時おり突拍子もないことを考えてはなんの躊躇いもなく行動に起こしたりする。幸一は面倒くさそうに溜息吐いた。



 バリケードを乗り越え、二人で廃墟の中に忍び込む。幸一だって餓鬼なのだ。


 近くで見ると外見よりもずっと荒れ果てているのがよくわかる。窓ガラスは散々に散っていて、壁はひび割れたコンクリートの隙間から雑草が生い茂っていた。

 正面の玄関は板で打ち付けられていたので、雑草が腰まで伸びた建物の周囲をぐるりと回り、崩れ落ちた壁から中に入り込む。


 建物の中は所々床が陥没していたり、壁や天井が崩れて通路が塞がっていたりして、ちょっとしたダンジョンみたいになっていた。

 暫く彷徨うと、広い空間に出た。

 天井は空まで突き抜けていて、ぽっかりと空いた穴から薄雲が見下ろしていた。


 突き当たりには半分外れた両開きの扉があり、その先に上へと続く階段が見えた。


「危ないんじゃないですか」


 迷わず登ろうとする兄を引き止めようとするも、「怖いなら下で待ってろよ」と言って先に行ってしまう。仕方ないな、なんて言い訳して幸一は後を追いかける。


 階段は途中で分断されていたり、瓦礫が塞いでいたりして、その度階を探索して上へと続く階段を探した。気分はすっかり冒険者だ。


 遂に屋上に到達したとき、思わず二人で手を叩きあった。

 屋上から見える景色は、なんてことないつまらないものだったが、何故だか妙に満ち足りた気分になれた。

 広い屋上は穴だらけだ。一際大きく空いた穴を、穴の際まで足を寄せて興味深げに覗き込む兄を、流石に止めなさいよと窘める。


「なあ、こっち来てみろよ」


 随分弾んだ声で言うのものだから、幸一も幾ばくか、否非常に気になって、ほんの少しだけ近付き穴の下を覗き込んだ。

 下はどうやら、二人が一番最初に登った階段がある広い空間まで続いているようだ。


「なんです」


「そんなとこからじゃ見えねえよ。もっとこっち来いって」


 誘われるままに、渋々の風を装って近寄る。ほんの少しの好奇心に負けた。

 兄の隣に立ち、穴の際から下を覗き込んだ。


「・・・・・・なにも、」


 背中に軽い衝撃が走る。

 気付けば宙に浮いていた。

 身体が勝手にくるりと回って、遠ざかる冬の空に浮かぶ薄雲を見た。薄雲と、自分を無表情で見下ろす兄を見た。


 途端、不思議な記憶が幸一の中でほろほろと浮かんで零れていく。


 思考や、時間や、知らない自分、泡みたいに頼りない何かが浮かんでは壊れて空の向こうへ解けていった。


 自分がいなくなっても、兄がいる。なんだかんだと身内に甘い兄なら、きっと母を助けてくれる。きっと祖母を労わってくれる。だから大丈夫だ。いなくなっても大丈夫。


 惜しむらくは、アナタとの約束を、自分の手で叶えられなかったことか。


 安堵と、ほんの僅かの寂しさが、宙に舞う身をじんわりと温めた。


(少しくらい、こっそり舐めときゃよかったなあ)


 きっと美味しいとは思わないんだろうけど。


 空に向かって手を伸ばす。届かないことなんて、最初から知っていたけれど



 ────



「トモダチになろう、爺さん」


 その顔を喜色に歪ませ、期待に上擦る声で少年は言葉を紡ぐ。


「俺の望みを叶えてくれるなら、俺がアンタの望みを叶えてやるよ」


「お前さん如きに叶えられるってのかね」


 廃墟に嗄(しゃが)れた声が木霊する。嘲笑に満ちたその声におくびれる風もなく、少年は尚一層自信に満ちた声で笑う。


「叶えられるさ。アンタと違って、俺には手足がある。アンタよりもずっとデカい夢がある」


「へえ?」


 分不相応な取引を持ちかける少年を、鏡の主は酔い潰れた鼠を前にした猫のような面持ちで鑑賞していた。


「わかったんだ。望みを実現するには、他の何かに構ってちゃ駄目なんだ。倫理とか道徳とか、他人の幸せを考えてたら本物の幸せには辿り着けないんだよ」


 青白い光に照らされた少年は、澄んだ瞳で空を見上げる。欠けることなく満ち足りた月が廃墟の洞穴を見下ろしていた。


 月の光にも星の輝きにも染まらず只黒く満ちた瞳で少年は手を伸ばす。月に向かって真っ直ぐに伸びる指先は、まるで本気で届くとでも信じているようだ。


「俺は本物にする。他はどうでも良い。俺と彼奴の、二人だけが幸せな未来を現実にする」


 老いた笑い声が廃墟に響く。さも喝采のように空を震わせるその声は、月に臨むその様を嘲笑うようでもあった。

 生きるすべての悦びをその拳の内に閉じ込めたような笑みを湛えて、少年はちっぽけな異常を見下ろした。


「協力者(トモダチ)として、仲良くしよう」




 ◇◆◇◆



 二人は互いに友達だったが、彼らの思想や望みが重なることはなかった。

 彼は死に救いを見出していたし、彼は生に喜びを抱いていた。

 ただ一つの目で見れば、どちらが正しいかは明白なんだが、二人は友達なので、互いをちょっとだけ尊重し、ちょっとだけ軽蔑し、心の隅の「もしかしたら」をいつまでも消せないでいた。


 もしかしたら、間違っているのは自分の方で、正しいのは相手の方なのかもしれない。


 それはしばしば尊敬や憧れなんていう執着のかたちで現れ、また時々は嫌悪や蔑みといった恐れのかたちで現れたが、それでも二人は友達なので。

 家族にも仇敵にもなれない二人は、どこまでいってもいつまでたっても結局ただの友達だ。



 まあ、意思や望みや信仰なんて二転三転するものでしょう。

 そうして転がるうちに角がとれて丸まって、いずれは仏になるのでしょう。素晴らしいことではないですか。

 ですが、仏ばかりでは有難みが薄れてしまいます。

 七転爆笑抱腹忌避。転んだ数だけ誰かが笑う。笑った数だけ疎まれる。このくらいが丁度良いんじゃないですか。

 穏やかに朽ち果てるよりも、美しいまま無惨に散るほうが、きっとアナタも喜ぶでしょう。



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花と嵐と杯と 蜘蛛 @maruko9

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