七人みさきの庭

宇部 松清

住宅街に現れる2人組の男女

「何? 牧子さんが?」


 隆雄がその知らせを聞いたのは夕食を終え、彼の妻が淹れてくれたコーヒーに舌鼓を打っている時だった。


 妻――とはいえ、籍は入れておらず事実婚状態のさゆりとはもう長い付き合いだ。籍を入れても良かったのだが、お互いに子どもが欲しいわけでもなく、『結婚』というものに憧れを抱く年も過ぎていた。

 長らく友人というのか、仲間というのか、とにかく愛だの恋だのというものから遠ざかった関係だったこともあり、いまさら「妻です」「夫です」というのも、何だか気恥ずかしい。だからいま『妻』と表記しているものの、実際はお互いに『パートナー』とそう呼んでいる。

 隆雄の両親は既に他界しており、さゆりの方でも、こういった男女の形に眉を潜める親戚はいなかった。共通の友人達からも「2人らしくて良いんじゃない?」と言われている。


 お互いにバリバリ働き、家事も折半、共通の趣味もあり、大きな喧嘩もなく関係はずっと良好だ。


「そうなの。海外の方ですって。そういえばご主人の会社、確か海外に本社があるって聞いたことがあるわ」

「だとすれば、ご主人栄転かぁ。それは喜ばしいことなんだが。そうかぁ、海を越えるかぁ」


 読むともなしに広げていた雑誌を閉じ、眼鏡を外して瞼をこする。


「……

「えぇ。を探さないといけないわね」


 さゆりによってもたらされたその知らせに、隆雄は頭を抱えた。




「ねぇ、私昨日見ちゃった」

「とうとう見た?」

「何なのかなあれ。誰か話しかけてみれば良いのに」

「普通に嫌でしょ」


 高校である。

 女子生徒が数名固まってわいわいと話に花を咲かせているところへ、千明ちあきはずいずいと割り込んで行った。何せその輪の中に千明の机はある。彼女らは千明の後ろの席を中心に集まっていたのだった。


「おはよ千明」

「おはよ渚。朝から何の話?」


 千明自体はそのグループに属しているわけではない。けれど、その中心人物である渚とは親友とも呼べるほどに仲が良い。それをやっかんでいるのか、はたまた千明の方がそれを拒んでいるのか、取り巻き連中は彼女と必要以上に関わろうとはしなかった。


「またあれよ。例の2人組」

「2人組――あぁ、あれね」


 最近、この高校を中心として半径2Kmほどの範囲でがよく目撃されている。

 もちろん、中年の男女などさして珍しい組み合わせではない。見たところ、夫婦と呼べなくもないような親密さでもあったようだし、某国の工作員のようにも見えない。ただ、このようにして話題に上るということは、ということである。


 その2人が目撃されるのは決まって住宅密集地なのだが、彼らは横に並んで歩いたりはせず、歩くのだという。

 角を曲がる時も、昔のRPGのように先頭が曲がった地点まで移動してから直角に曲がったりはせず、むしろ、後ろにいる者は、まるでほんのわずかにでもはみ出るのを許されてないかのように、ぴったりと張り付いて動くのである。

 必ずしも男の方が先頭というわけでもなく、女が前に出ることもあった。その交代も一瞬のうちに行われ、気付けば代わっているのだとか。


「何か不気味だよね」

「確かに」

「何かの宗教じゃない? 勧誘してるとかさ」

「有り得る」

「そういやウチにもたまに来るよ、『聖書オバサン』」

「それならウチにもしょっちゅう来る」

「ウチは日中誰もいないから、ポストにチラシが入ってるだけだけど。神様が見てるとか地獄がどうとかってやつ」

「あーはいはい」


 気付けば周りの女子生徒も千明と渚の会話に混ざっていた。かの『聖書オバサン』なる人物はこの界隈ではかなりの有名人なのである。


 上から下まで真っ白の服を身に付け、帽子や鞄、靴下に靴といった小物に至るまでが白、白、白で統一されている。キリスト教にそんな服装規定でもあるのかと思ったのだが、そんなことはないらしい。だから恐らく、彼女のオリジナルルールなのだろう。いや、単に白が好きなだけかもしれない。それはそれでこちらに口を出す権利はない。


 しかし、その白さが時として厄介なのだ。


 ちょっとした偶然で、掃いた砂ぼこりがかかってしまったり、洗車の水が跳ねてしまったりすれば、もう烈火のごとく怒る。クリーニング代を寄越せと騒ぎ出すのだ。

 もちろんその家の者も、通行人がいると思えば玄関先を掃く手も止めるし、水も止める。そうして彼女が通りすぎるのを待つわけだが、一向に動く気配はない。それどころか、にこやかに「お気になさらず、続きをどうぞ」とまで言い出すのである。そこで「では、お言葉に甘えて」と再開すると、上記の流れに持ち込まれるという寸法だ。

 大人しくクリーニング代を払って手打ちにしたいところだが、精神的苦痛がどうたらこうたらとごね、普通は菓子折りを持って謝罪に来るものだが、今回は神の御慈悲で勘弁してやる、○○日の○○時にどこそこで勉強会を行うので必ず出席しろ、なお、参加費はいくらで、聖書も購入してもらう、と続く。


 時間的な拘束に加え、参加費と聖書の購入、その上、一度参加してしまえば引っ越しでもしない限り次回以降も強制参加となるため、渋々、菓子折りにプラス少々金を包んで渡し、追い払うことになるのだった。


 彼女が何という宗教団体に属していてどんな神様を信じていても、それは個人の自由だ。それを咎める権利はないことくらいわかっている。もしかしたら、話を聞いてみればものすごく素晴らしい宗教なのかもしれない。

 けれど、彼女自身のその行動によって未来の信者を逃してしまっているのは確実であろう。


「でも、聖書も持ってないし、普通にスーツだったよ?」


 昨日見かけたという女子生徒が言う。


「じゃ仲間じゃないのかな」

「まぁ、言い切れないけど」


 そう、確かに言い切れない。

 服装は自由なのかもしれないからだ。

 家人の不在時にポストへ投げ込まれるチラシを見れば、『聖書オバサン』の宗教の信者数は全国に1,000人ほどいるらしい。そこまで大きな団体ではないが、だとすればこの町にも彼女以外の信者がいたって不思議じゃない。


「……あのさ」


 一番小柄な女子生徒が怯えたような目でおずおずと挙手した。グループに属してはいるものの、普段はあまり発言せず、皆の宿題係に任命されている、奈々という名の子である。要は、成績の良さと断りきれない性格に目をつけられた形だ。しかし彼女の方でも独りぼっちになるのは嫌だったため、そのポジションに甘んじている。


「1週間くらい前にね、社台やしろだいパレスに住んでる私の親戚の叔母さんがその2人組を見たらしいんだけど」

「社台パレス……あの駅前の?」


 その言葉に数名がほぼ同じタイミングでちらりと渚を見た。渚の家はお世辞にも裕福とは言えず、築ウン十年のボロアパートである。


『あんた口に気を付けなさいよ』

『社台パレスって最初に言ったのは奈々でしょ』


 無言ではあったが、確かにそんな会話が聞こえてきそうな視線のやり取りがあった。

 渚は悲しそうな――というより、少し呆れたような顔でそれを見つめる。


 自分の家がボロいアパートなのはいまに始まったことじゃないし、そこまで気にしてないんだけど。


 心の中でそう呟く。


 それに外観がボロいというだけで中は結構きれいにリフォームされているし、貧乏なのは事実だけれども、生活は特にカツカツというわけでもない。


 しかしそれを知っているのは親友である千明だけだ。だからその中でも、彼女だけは、女子特有のそういう配慮やら共感やらといったものを面倒くさそうに一瞥して、鞄の中のノートやら教科書やらを机にしまい始めた。


「奈々、それでその社台の親戚がどうしたの」


 うんざりした声で続きを促したのは渚だった。彼女がそう言うのであれば、と、奈々は丸めていた背中をしゃんと伸ばす。それが『でっかいマンション』と口を滑らせたこずえには面白くない。


 あんたなんて渚のお情けで仲間に加えてるだけなんだから。


 そんなことを思い、ぎろりと睨み付ける。しかし、渚の後ろ楯を得た(と思っている)奈々はそんな梢の視線など気にしない。


「あのね、その2人組が、叔母さんの隣の部屋に来たみたいなの。でも叔母さんはまさかその2人がこんな噂になってるって知らなくて」

「まぁ確かにこうやって騒いでるのはウチらくらいかもだしね」

「だからこの話もたまたま会話の流れで知ったんだけど。問題はね、その叔母さんじゃなくて――」

「じゃなくて?」


「そのお隣さんって、『美冬みふゆ』のウチなのよ」


 誰かの、ごくり、と唾を飲む声が聞こえたような気がした。

 教室の中は相変わらず騒がしかったが、ここだけは、しん、としていた。誰もが次の言葉を選んでいた。選び終えた後も、それを口にして良いのかと視線を泳がせている。


 このクラス――いや、この学校において、『美冬』という名前は、ある意味禁忌タブーである。


 二瓶にへい美冬とは、ごくありふれたつまらない言葉で括れば『美少女』、それもとびきりの、だ。

 住んでいるのがこんな田舎じゃなければとっくに芸能界デビューしているだろう、というのは大人達の弁だったが、こんな田舎でもスカウトマンという生き物は何の気まぐれにかふらりと現れたりはする。噂によれば、その度に当然の如く声もかけられているし、名刺なんかも渡されているらしい。しかしそれを蹴っているのは他ならぬ彼女自身なのだという。あくまでも噂、だが。


 そんな彼女が何故『禁忌』扱いなのかといえば――、その理由もまた彼女の並外れた美しさなのであった。


 確かに美冬はその美しい名の似合う、美しい少女ではあるのだが、例えばしんしんと音もなく降り積もる雪のような静かな美しさではない。

 それよりは、どうすることも出来ない大自然の脅威に対して、降参し、思わずこうべを垂れてしまうような、ひれ伏さずにはいられなくなるような、気高さと激しさが共存した少女だった。


 とはいえ、彼女はただぽつんとそこにいるだけなのだ。

 けれど彼女の醸し出すオーラがそれを許さない。彼女の意思とは裏腹に、ぞぞ、ぞぞ、と信者が沸いてくるのだ。彼女を前にすると、なじられたくなり、蔑まれたくなり、うんと酷い扱いを受けたくなってしまうのである。


 そうして、彼女の虜となる者はクラスの男子にとどまらず、男性職員にも及び、さらには、保護者達にまで広がっていった。

 彼女が1人存在するだけで、すべてが崩れるのだ。

 クラス内の秩序も、教師との力関係も、果ては、倫理観までも。


 彼女は学校に来なくなった。

 

「馬鹿みたい。あんた達に付き合うの」


 それが彼女の最後の言葉だった。

 ホッとしたのは女子生徒達ばかりではなかった。

 女神の如く崇め奉っていた男共もだったのである。彼らは皆一様に「何だか熱に浮かされていたようだった」と口走り、それがあながちその場しのぎの出まかせでもないように思えるのは、彼女が来なくなった途端、その名すらも口にしなくなったからである。存在そのものを記憶から消したかのように。


 美冬が正式に学校を辞めたのはいまから数ヶ月も前のことだったが、彼女の机は、欠席が数日続いた時点で何者かによって撤去されていた。居場所なんてとっくになかったのだ。


 とにかく、その名を大っぴらに呼ぶこと、話題に出すことは、許されない。せっかく穏やかな生活になったのだ。彼女達の生活に、食うか食われるかのヒリヒリした緊張感は必要ない。他者の顔色をうかがい、おもんぱかり、忖度そんたくし……、とにかく周囲に合わせて、同じリズムで呼吸をすることが求められている。この和を乱す人間など、どんなに美しくとも邪魔なだけだ。

 

 その美冬の家にくだんの2人組がやって来た。

 奈々の話ではその2人組は10分程度玄関で立ち話をした後で、部屋の中に入っていったのだという。


「どんな関係なんだろう」

「それは……わからないけど……」

「もっとぐいぐい聞きなさいよ、叔母さんに」


 これだからあんたはいつまでたっても宿題係なのよ。

 そんな心の声すら聞こえた気がして、奈々の背中は再び丸くなった。小柄な彼女がさらに小さくなる。


「何か変わったことはなかったの? 何か物が増えたとかさ。ほら、例えば車とか――、楽器とか」


 助け舟を出したのは渚だった。


 宿題係という位置にいても、渚は奈々の宿題を断固として写そうとはしない。

 そんなの自分でやるのが筋でしょ、と言いながら。それでも「わかんないとこだけ教えて」と恥ずかしそうにノートを持って来るのだ。


 こんな最下層の私なんかに頭を下げて。

 

 つい卑屈にそう考えてしまうのは、渚以外は皆彼女のことをそのように扱っているからだ。


「えぇと――、車とかじゃないと思う。つい最近買ったばかりって聞いたから」

「あんたの叔母さん、いちいちチェックしてるの? 良い趣味してんのね」


 と厭らしい笑みを浮かべてそう言ったのはほんの数分前に「もっとぐいぐい聞きなさいよ」と言った康夏やすかである。


「そういうわけじゃないと思うけど……。ただ、何か外国産の珍しい車だったから、って……」

「良いじゃない。そんな大きなもの買ったら嫌でも目に入るでしょ。それに珍しい車なんだったら私だってチェックしちゃうって」


 ここでもやはり渚のフォローが入る。


「でもまぁ、それなら車のセールスじゃないのね、きっと。そしたら後は、リフォームとか、家電関係とかのセールスとか……。だとしても、ちょっと気になるのはさ」


 渚がそう言うと、彼女を取り囲んでいる人の輪はぐっと狭くなった。皆が身を乗り出したのだ。何となくその輪に混ざってしまっている千明はひたすら窮屈だった。精神的にも物理的にも。


「どうして奈々の叔母さんの方には行かなかったのかな」

「確かに!」


 同意したのは奈々と、それから密かに心の中で頷いた千明だけだった。

 その他はというと、


二瓶美冬の家に行くようなセールスが奈々あんたの叔母さんみたいなつまらない成金のところに行くわけがないじゃん』


 と冷めた目をしている。


 彼女らの理屈では気に入らない金持ちは遍く『成金』なのである。

 正直意味などわかっていない。ただ、『成金』というのは、お金持ちに対して使う言葉であることと、どうやら好ましい意味では使わないらしい、ということだけはわかっている。だったら、何かムカつく金持ちのことを指すのだろうとろくに調べもせずに使っているのだった。


「ということは、例えば芸能関係のスカウト、とか?」

「そう、例えばね。住宅街に出没するってだけで何となくセールスかなって思ってたんだけど、改めざるを得ないかな」

「それなら奈々の叔母さん家にはいかないもんね。さすがにその年で女優デビューも厳しいだろうし」


 千明がそう言うと、奈々は何だか意外だとでもいうような顔をした後でぷっと吹き出した。

 まさか千明が自分にそんな軽口を叩いてくれるなんて。それが1人の人間として扱われた証のように思われて嬉しかった。


「無理無理。叔母さん、超あがり症だから。お芝居なんてとてもとても」

「っていうか、その年齢の新人女優って扱い超難しそうだし!」

「言えてる!」


 千明と奈々のやり取りに渚も加わる。輪の中はさっきまでの緊張感などすっかり消え失せ、穏やかで柔らかな笑いに包まれている。取り巻きの何人かはどうにかそれに混ざれないかと曖昧な相槌を打って入り込む隙を探している。しかし、梢と康夏はそれも癪なのか、引き攣った笑みを浮かべているだけだったが。




 放課後である。

 千明は渚と連れ立って歩いていた。

 他愛もない話題で盛り上がり、『藤見崎3丁目』というプレートが貼りつけられている電柱で「じゃあね」と別れる。

 2人の家は近い。3丁目にあるのが渚のアパート『ふじハイツ』で、千明の住む建売の家は2丁目にある。


 その境界ともいえるのが、この電柱である。

 ここを曲がると、その後はもうずらりと家々が立ち並ぶ住宅街に入る。皆似たり寄ったりの外観で、そこにぽつぽつと千明の家のような比較的新しめの建売がある。新しければ新しいほど、デザインが凝っていれば凝っているほど、余所者感があって落ち着かない。中にいる分には良いのだが、一歩でも家の外に出れば疎外感に背中を丸めたくなる。事実、千明の家がここに越して来たのはほんの10年前である。まだまだ充分『余所者』だ。

 大きな道路沿いにあり、すぐ近くにコンビニもある渚のアパートの方が本当はちょっとだけ羨ましかったりした。


「――ねぇ、君、


 渚と別れた後で、背後からそう声をかけられた。聞いたこともない、低い、男の人の声。声の遠さからして、多少離れた位置にはいるようだ。これならもしもの時も逃げられるかな、などと思いながら恐る恐る振り返ってみる。するとそこにいたのは――、


 一列に並んだ、だった。

 もちろん、すぐにそうとわかったわけではない。何せ彼らは横並びではなく、きっちりと縦に並んでいたのだから。

 先頭にいる男性がさほど大きくなかったために、その後ろに何名かの頭やら腕、服の一部などが見えたのである。


 1、2、3……ろ、6人?!

 だって、噂では男女2人組のはずじゃ……!


「君のことは調べさせてもらった。二谷にたに千明ちゃんだね」

「あ、あなた達……一体……」

 

 そう問い掛けてから、ふと美冬のことが頭をよぎった。


 彼らの中に美冬の家に上がり込んだ2人組がいるかどうかはわからない。けれども、こんな特徴的な並び方で住宅街に現れるのなんて、絶対にこいつらしかいない。


「もう君しかいないんだ。私達の仲間になってほしい」

「みっ……美冬は? 美冬はどうしたんですか!」

「美冬……、あぁ、二瓶さんね」

「彼女も素晴らしい素質を持っているわ。けれど、少々スタミナが足りないのよね」

「家に引きこもってばかりだとどうしてもねぇ。でも本人にやる気があるのは大きいわね」

「だからいま、自宅でトレーニングしてもらっているんだ」

「特別に君は彼女とペアを組んでもらって――」


 ずらりと並んだ6人はまるで役割がきちんと決められているかのように順番に話していった。


 頭が混乱する。

 ちらりと見えた面々は、性別も年齢もてんでバラバラだったのだ。一体何の集まりなのか。それに、彼らの話だと美冬も既に彼らの仲間になっているのだという。


 こんな未成年に声をかけるのだから、セールスのわけはない。

 宗教……でもないような気がする。

 ヒントになりそうなのはスタミナが足りないという点と、美冬とペアを組むという点……。

 まさか私の容姿でアイドルデビューもあるまいし。美冬1人ならまだしも。


「勝手に決めないでください! あなた達、一体何なんですか!」


 肩から下げていた通学鞄のショルダーベルトをぎゅっと握る。もしもの時はこれを振り回して逃げる算段だ。


「私達は――、そうだったな。まずは名乗るのが礼儀だった」


 先頭にいた男が、こほん、と咳払いをした。そしてちらりと後ろを見、小さく頷く。それから、高く手を上げると、それが合図だったかのように、後ろの5人はざっと横並びになった。

 そうしてから、先頭にいた男が軽く一歩前に進み出た。


「一ノ瀬隆雄!」


 実に良く通る声だった。静かな住宅街に響き渡るには少々間抜けに思えるほどに。そして、それに続けと言わんばかりにその隣の男がやはり一歩前に踏み出す。

 

「三ツ山茂樹!」


 その次はその隣にいた女性である。


四谷よつやさゆり!」

 

 そして、次もまた女性。


五百木いおき英枝!」


 次はやや特徴的なヘアスタイルの中年男性が。


六平むさか博文!」


 最後に真面目そうな学生風の若者が。


「七瀬輝明!」



◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「……我ら、自転車同好会『チーム七人みさき』!」

「ストップ。いや、『七人みさき』ってそういうのじゃないでしょ」


 顔の前でぎゅっと小さな手を握りしめ、妻――菜佳子は「決まった!」とでも言わんばかりのキメ顔を作っている。

 僕がそう指摘すると、菜佳子はその白い頬をぷくりと膨らませた。


「良いじゃない。盛り上がっちゃったんだから」

「良いけどさぁ。あの恐ろしい集団亡霊を戦隊ヒーローみたいに登場させるからびっくりしたよ、僕は」


 今回はというと、会社の同僚が自転車にハマった、という話をしただけだったのだ。

 彼はまぁ平たく言えば『デブ』ってやつで、ダイエットの目的で購入に踏み切ったらしいのだが、これが何とも彼の性分に合っていたらしく、始めてからものの1週間で効果が出たのだという。それは何より、と思い、そういえば自分も最近腹に肉がついて来たような気がして、やってみようかな、という流れに持ち込む予定だった。


 のに。


 すっかり主導権を奪われ、いつもの展開である。


「うふふ。でもね、この話は100%作り話でもないのよ?」

「そうなの? どの辺が? あ、わかった! 『宗教オバサン』だろ。ウチにもたまにチラシ入ってるし」

「ううん、違うよ?」

「あれ? 違うの?」

「じゃあ……あのすごい美少女?」


 モデルはもしかして君かい? なんて口を滑らせそうになるのをぐっとこらえる。僕にしてみれば菜佳子は誰よりも美しい愛しい妻ではあるのだが、校内のパワーバランスを崩壊させるほどの美貌はさすがにない。


「まっさかー!」

「そ、そうか……。でも、じゃあ何? あの何かドロドロした感じの女子の力関係?」

「うーんまぁ、それは女子の世界では当たり前すぎるっていうか……」

「当たり前なんだ。怖い!」


 あんなのリアルにあるの!? めちゃくちゃ怖いんだけど!!


「それでも割とライトにした方だけどね。女子校とかもっとエグいし」

「もう良いよ。もう少し女子校に夢見させて」


 降参とばかりに両手を上げる。菜佳子は「よろしい」と大きく頷いた。


「最後に出て来た6人の男女」

「まさかの『七人みさき』部分!?」


 一番有り得なさそうなところが何とノンフィクションらしい。


「何かねぇ、ウチからごみ収集所までの道を歩いてたらね」

「うん」

「いたのよ」

「縦に並んで歩く6人の男女が?」


 それもう不審者として通報した方が良いんじゃ……。


「いや、厳密には6人じゃなかったし、男の人しかいなかったんだけど」


 だとしたら、それだけの情報でよくぞここまでの話に盛ったものである。


「5人だったかな」

「うん。予想より多くて驚いたよ」

「で、1列に並んでね」

「しかも並んでたんだ」

「そう。でね、その人達、自転車乗ってたのよね」


 成る程、それで僕の話に絡めてきたわけだ。


「でも男だけとはいえ、自転車乗った5人がきちんと並んで住宅街を走るってのはかなり奇妙な光景だね」

「でしょ。しかもね、皆スーツだったのよね」

「スーツ!? 自転車競技のあのぴったりした服とかじゃなくて?」

「うん。ジャージとかでもなかったのよね。でも乗ってるのは競技用の、ほら、あの変なハンドルのやつ」

「変なハンドルって……ドロップハンドルっていうんだよ、あれは」

「へぇ、祥之助君はさすが物知りねぇ」


 いや、君のたくましすぎる想像力の前には僕の知識なんて霞むよ。


「きっとあれはサラリーマンの自転車チームだなぁって思ってね。ああいうのって欠員が出ちゃうと大変なのよねぇ」

「何か経験あるような口ぶりだね」

「ないけどね」

「ないんだ、やっぱり」

「それがほら、『七人みさき』に似てるじゃない。ね?」

「まぁ、彼らも欠員が出たら補充するけど」


 そんなことを言って無邪気に笑う菜佳子はやっぱり可愛い。

 こんな話を毎日毎日聞かせられたら、世の夫はもしかしたら「良い加減にしろ」なんて思うのかもしれない。けれど僕がちっともそんな風に思わないのは、やはり彼女の何にも勝る愛らしさに起因しているのかもしれない。


「ね、あたし達も今度自転車でどっか行かない?」

 

 声を弾ませて、ちらりと庭を見やり、そう菜佳子は提案した。そこにある物置には僕らの自転車がしまわれている。

 けれど、僕は知っている。


「良いよ。それじゃまず、自転車の練習しないとね」

「あ、そうだった」


 彼女がまだ自転車に乗れない、ということを。


 可愛いじゃないか、そんなところも。


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七人みさきの庭 宇部 松清 @NiKaNa_DaDa

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