メンガーのスポンジ
成井露丸
メンガーのスポンジ
右手のひらの上で小さな立方体を転がす。握っては開いて、握っては開いて。その感触を確かめるように。
小さな立方体の上には大小様々に方形の穴が空いていて、際限のない再帰構造を持つ。その形状から生み出される混沌とした触覚刺激を、僕は自分の皮膚感覚で味わっているのだ。
重さは殆ど感じない。それなのに角は痛くて、押し込むと柔らかい。そんな三次元空間での存在感を僕は空虚に感じていた。
――メンガーのスポンジ
それは、約2.73次元のフラクタル図形。僕の会社の象徴的なノベルティグッズだ。シーツの掛かったベッドの端に腰掛けて、僕は暗がりの中で、その手触りを楽しんでいた。
理論的には重さはゼロ。表面積は無限大。メンガーのスポンジは、三次元の空間に存在しながら、自らは三次元の存在でないと主張し続けている。そんな冗談みたいな物体なんだ。
誰のことだか。何処に向かいたいんだか。そう考えると、僕の口の端が少し上がる。きっと今、鏡を覗き込んだら、そこには自嘲的な嘲笑いを浮かべる二十代後半の男性が映るのだろう。
「どうしたの、ユキヤ? 眠れないの?」
僕の耳朶に温かな吐息が掛かる。僕はゾクリとする。女性にしては少し低い、落ち着いた声が僕の鼓膜を震わせた。ほんの少し前までは、もう少し高い声で、ベッドの上で小鳥のように
――
僕の両肩の上を通って、背後から弾力感のある
でも、僕は左手で彼女の前腕を優しく掴むと、その拘束をそっと解いた。
今、彼女の感覚を押し当てられると、右手の平で感じていたメンガーのスポンジの繊細な触覚刺激が逃げて行ってしまいそうで。何だか無性にそれが嫌だった。
「何でもないよ。ちょっと考え事をしていただけ」
首を右に回して呟く。ベッド脇のサイドテーブルに置かれたスタンドが電球色の光を暗闇の中に浮かべていた。右手のひらの上のメンガーのスポンジをその光にかざすと、複雑なフラクタル構造が光を散乱させて、立方体はぼんやりと光った。その立方体は三次元世界の暗闇の中で電球色に照らされていた。結局のところ三次元世界に囚われた哀れな姿だ。
スタンドの下には小さなクリスマスツリー。そして、結婚指輪の入った小箱。夕方の宝石店で君が見せた溶けてしまいそうな笑顔を、ふと思い出す。僕はその笑顔の向こう側に未来の家庭の姿を見たんだ。
遥は僕が疲れていると思ったのか、しなだれかかかった両腕をシーツへと下ろした。彼女は、そうやってシーツの上に手刀と小指を預けながらも、その親指で僕の腰骨辺りの素肌を何度か擦る。肉体の接点を維持するために。繋がる。そうやって僕達人間の番は繋がっているわけであり。
「そう? ――ねぇ。今日は泊まっていくんでしょう?」
彼女が上体を起こし、僕の背中の皮膚感覚からは彼女の柔らかな膨らみが失われる。でも失っても、それまで接触したから、彼女の永続性が背中の向こうに感じられる。その意味で彼女の存在は確かなのだ。その肉体の存在に僕は何処かで安堵して、そしてまた何処かで苦悩する。自宅で待つ彼女のことを思いながら。
スマートフォンを引き寄せて、平板な画面を発光させる。午後十時。クリスマスイブもあと二時間で終わる。僕の生きてきた二〇二〇年代最後のクリスマスイブ。それは本当に特別な日なのだ。
僕は自宅で待つ彼女の顔を思い浮かべる。その笑顔を想うと無性に心が掻き乱された。彼女の声を思い出して、彼女の仕草を思い出した。裸体の婚約者の前で、僕は別の女性のことを想い、僕の心は掻き乱されているのだ。
今日は自宅で彼女――カナタと過ごすことが出来る最後の日だったんだ。
それなのに、僕は
僕の部屋で最後の時間を一人で待つカナタの姿を思い浮かべる。今更のように激しい焦燥が僕の背中から額へと駆け上がった。
「――いや、帰るよ」
「……そう? 朝にでも、朝食を食べながら結婚式の相談でも出来たらって思ってたけど」
遥の放つ夜霧が背後から立ち込めて、僕の周りの湿度を暖かく上げる。半年ちょっと前、僕はその霧の中に迷い込んで、気付いたらこの部屋に通うようになっていた。
「悪いね。ちょっと、明日の営業回りの前に、自宅で片付けないといけないことがあってさ」
「クリスマスイブだっていうのに。非道い会社ね」
振り返ると、些細な嘘を誤魔化すように、彼女の腰のくびれに左手を回し、右手で髪の毛を柔らかく包むように彼女の顔を引き寄せた。優しく口付けをして舌を入れる。冗談っぽく唇を尖らせていた彼女がくぐもった声を漏らす。電球色の薄明りの下に君の幸せそうな表情が見えた。
僕達は二〇三〇年の春に結婚する。きっと直に、君は子供を産んで、僕達は温かな家庭を築くだろう。僕が抱きしめる遥の柔らかな肌の感触と体温が、何よりもそれを約束してくれているように思われた。僕は仕事を続けて家庭を支えるよ。とりあえずは君と出会ったあの会社でね。
僕の仕事は
留まることを知らない
僕は脱ぎ捨てていた服を着て、コートを羽織り、遥に「おやすみ」と口付けると、彼女の部屋の扉を閉めた。マンションの自動扉から真冬の大通りへと飛び出して、僕は家路を急いだ。
――
結ばれることのない僕の最愛の女性の名前だ。
今日は彼女との時間を過ごせる最後の日。それなのに、その最後の大切な時間の多くを、
寒風の中、スマートフォンの画面をスワイプする。メッセージング用のアプリが立ち上がる。幾つかのアイコンの中から「三咲カナタ」と書かれたアイコンをタップする。可愛らしいイラスト調の女性のアイコン。本当の彼女自身も大体こんな感じ。
夜遅くなって心配しているだろうと思って、僕はキーを弾く。怒っているかな。
『ごめん。遅くなった。ちょっと仕事の話もあって、話し込んじゃって。急いで帰るよ』
直ぐに既読マークが付いて、彼女からの返信が届く。
『わかった。電気つけて待っておくよ。お風呂も沸かしておいた方がいい?』
『頼むよ』
『りょーかいっ!』
僕はカナタの返信を確認すると、スマートフォンをポケットに突っ込んだ。彼女からの変わらぬ明るい返信を見ると、自然に頬が緩む。一つ一つの彼女の言葉から、その優しさが溢れ出る。でも、それも今日が最後だと気付くと、胸がつかえた。
僕とカナタは五年間一緒に暮らした。その関係を解消し、今日、二〇二〇年代最後のクリスマスイブに僕達は別れることを決めている。
二人で決めた結末。僕達はサヨナラしなければならないんだ。どうしても。
ふと気付くと、スマートフォンを突っ込んだポケットから、ストラップに付いたメンガーのスポンジが外に垂れていた。僕はその立方体を手に取ってまじまじと見つめた。それは、約2.73次元のフラクタル図形。僕の会社の象徴的な図形。
二〇二〇年代も
ただ、二〇一〇年代の人工知能技術が二〇二〇年代に、大きなお金を動かす産業になったかと言われると疑わしい。どこまでも複製可能な人工知能技術は急速なコモディティ化により、過度な競争と、価格低下をもたらした。二〇一〇年代後半期に「これからは人工知能の時代」という号令の下、
二〇二〇年代は再び物質と材料の時代になった。二〇二〇年代に入って人工知能技術と、デジタル
今では、どんな小さな町工場も廉価版の
僕の会社は
僕はその台湾人の創業者のことが好きな訳でも、この会社のことが好きな訳でも、
でも僕は、この会社の
僕は右手のひらで、その異様に軽い立方体を捕まえると、寒風の中で、握っては開き、握っては開き、その空虚な感覚を味わった後、乱暴にポケットの中に突っ込んだ。
「ただいま」
自宅の扉を開けると、部屋の中は白いLEDの光で明るく照らされていた。
カナタはまだ起きているようだ。
「おかえりなさい。遅かったわね。大丈夫? あっ、お風呂湧いてるしねっ」
マンションの扉口で靴を脱ぐ僕。奥のリビングからカナタの声が聞こえてくる。時間は夜の十一時を回っていたが、カナタは起きて待ってくれていた。いつものように。
室内に響くカナタの声を聞くと本当にホッとする。深夜でも白くて明るい部屋。彼女の笑顔と、膨よかな声の音色。あったかい。
「起きていてくれたんだ。――ありがとう」
「何言ってるのよ? 私は全然大丈夫だし。ユキヤさんこそ、明日も普通に仕事でしょ? 直ぐにお風呂入っちゃったら? もう十一時過ぎてるし」
彼女の言葉が胸の底の檻を溶かしていくのが分かる。白くて明るい室内は彼女の声で僕を包む温もりになる。ついつい甘えたくなってしまうんだ。僕は鞄をダイニングの椅子に置くと、カナタの目の前でリビングのソファに飛び込んだ。
最後の晩だというのに、君は約束通り、いつもと変わらない一日を過ごそうとしてくれている。灰色のソファに僕は顔を埋めた。幸せな分だけ、それは切なさに変わり、僕の目頭を熱くするんだ。
「カナタも一緒にお風呂入ろうよぉ〜」
「もぅ、冗談言わないのっ! 無理無理」
僕の大人気ない甘えた声に、彼女は困ったような恥ずかしいような、そんな声をあげた。大きな瞳を少しだけ細める。僕はカナタの困った顔が好きだ。カナタの事が好きだ。
でも、好きだからこそ僕達は別れないといけない。今日、夜の零時に二人は別れる。二〇二〇年代最後のクリスマスイブの今夜。そして、もう二度と会わない。
僕がカナタを好きな気持ちに負けないくらい、僕が遥を好きなのもまた事実だ。結婚したいし、家庭を築きたいと思っているのは遥とだ。
僕は遥の柔らかさに溺れている。僕は彼女との関係に溺れている。そして、僕は遥と作る未来の家庭にも溺れているのだ。遥との未来を歩みたい気持ちに嘘偽りはない。
ただ、カナタを愛する気持ちと、遥を愛する気持ちを天秤に掛けた時に、その針がどちらに傾くのか。その問に対して即座に答えを返す自信はない。でも僕は遥との人生を選ぶことを決めたのだ。
僕はソファからカナタの表情をチラリと伺った。二メートルほど先、手を伸ばしても肌に触れられない程度の遠さ。変わらない彼女の笑顔。僕と目が合うと、カナタは「ん?」と首を傾げた。少し見つめ合った後、僕は「なんでも無いよ」と唇を動かした。「そう」と彼女が応じる。いつものように。
カナタは遥のことを知っている。直接会ったことは無いが、遥の写真を見たこともあれば、動画を見たこともある。彼女から届いたメールももしかしたら僕の知らぬ間にカナタが見てしまったということも有るかもしれない。
「じゃあ、お風呂に入っくるよ」
「ごゆっくり〜」
僕はソファから起き上がると、ポケットの中のスマートフォンを手に取ると、机の上に放り出した。ストラップに繋がった立方体が机の上でコロリと転がり、静止する。
部屋の白い光を吸収し、メンガーのスポンジはほんのりと光っているように見えた。そして、その淡い光彩の向こう側に、僕はカナタの横顔を見る。動く彼女の長い黒髪が弾んでいた。僕はその長い髪に僕の手で手櫛をかけ、そして彼女を抱き寄せる。そんなイメージを頭の中で浮かべながら、報われない思いと共に、風呂場へと向かった。
湯船に沈みながら三咲カナタと過ごした五年間を思い返す。
一緒に暮らすようになったのは、僕が大学を卒業し、今の会社で働くようになって一年ちょっと経った頃。その頃の日本は酷かった。東京オリンピックで燃え尽きてしばらく経った後だ。どうしようもない人口構造と、旧来の企業の生産性の低さの中で、絶望的な不況に喘いでいた。街を覆うムードはいつも最悪で、外国からの資本投下と、企業買収による構造変化だけが、僕達若者にとっては、寧ろ明るいニュースだったんじゃなかったろうか。
そんな真っ暗な二〇二〇年代を生きた二十代の僕を、彼女はずっと僕の隣にいて変わらぬ光で照らしてくれた。
でも、三咲カナタと僕は結婚出来ない。
家族になって子供を育て、家庭を築いていくことは出来ない。彼女もそのことは良く理解している。彼女は僕の子供を産めない。僕も彼女を生涯の伴侶として地元の両親に紹介し、家庭を築いていくことが出来ない。僕は彼女を愛している。彼女も同じだと思う。でも、やっぱり、僕は普通の家庭を、未来を生きたい思いも捨てられないのだ。そしてまた、それをカナタも知っていた。
そんな時、七海遥に出会った。僕の勤める会社に派遣社員として来ていた彼女と僕は、社員旅行でのちょっとした出来事を切っ掛けに急接近した。社員旅行から戻ってきたその日の晩には、僕は七海遥の部屋で彼女を抱いていた。
それから半年で僕と遥は婚約をして、結婚式の準備を急ピッチで進めてきた。僕は遥を地元の実家に連れて行って、両親にも妹にも紹介した。でも皆、カナタの存在を知らない。知らないからこそ、遥との事を手放しで祝福してくれた。
ただ僕の心の中にはいつも三咲カナタが居た。
遥との結婚の準備を進めると同時に、僕はカナタとの別離の準備を進めてきた。
遥との結婚には、やっぱりカナタとの別れが必要だった。ケジメは付けないといけない。流石の僕にも、それは理解できた。
三ヶ月前、僕とカナタは、二人で話し合った。
――今年のクリスマスイブを二人で居る最後の日にする
それが僕達の導いた結論だった。
カナタも寂しそうだったけど、僕の考えを尊重して、頷いてくれた。カナタはいつも僕の人生を第一に考えてくれる。明るい笑顔と、未来を見つめる大きな瞳。だから大好きなんだ。僕は何度も泣いた。
風呂から上がり、寝間着に着替えてリビングに出ると、ダイニングテーブルの向こう側でカナタがうとうとと居眠りを初めていた。時計を見ると日付が変わるまで、もう十五分程しかない。カナタとの別れの時間が近づいていた。
僕達は残り十五分をただいつものように、他愛もない言葉を投げ合って、お互いを見つめ合って、笑いあって過ごした。
零時で別れが訪れるなんて、シンデレラみたいだ。
王子さまはガラスの靴を赤い糸にして、シンデレラとまた出会えた。でも僕達は違う。時計の針が零時を示す。これが、本当のさよならなんだ。
僕はソファから立ち上がり、壁面に向かう。
壁面に掛けられた大型ディスプレイ。そこに映る、三咲カナタの純朴な笑顔。僕が彼女を見つめて、彼女が僕を見つめる。二次元の世界からカナタが僕を見つめる。
壁面の大型ディスプレイの光沢の上へと、僕は広げた両手を押し当てる。三咲カナタがディスプレイの中で僕の両手にその両手を合わせる。冷たい画面越しに、二人の手が合わさる。三咲カナタが寂しそうに瞳を閉じる。
僕はその彼女の唇の場所へと、自分の唇を押し当てた。
届かない三次元から二次元への絶望的な断絶。
彼女の唇の感触は冷たかった。
「さようなら、カナタ。五年間ありがとう。楽しかった」
「さようなら、ユキヤ。今度は私、そっちで普通の女の子に生まれ変わるから」
タイマーセットされていた削除用のソフトウェアが起動する。サーバー上の彼女を活かし続けるプロセスは遮断され、カナタの姿は大型ディスプレイの虚空の中へと消えた。
――さようなら。僕の大切な人。
――さようなら。私の大切な人。
白い部屋が静寂に包まれる。
天井の白色LED照明はただ無機質に僕の部屋を照らしている。
僕は嘘みたいな静寂に包まれた部屋の中で、テーブルの上のスマートフォンを手に取った。メッセージング用のアプリを立ち上げて、画面から「七海遥」の名前を見つけると、そのアイコンをタップしてメッセージを打つ。
『今日は帰ってごめんね。来年からは一緒に暮らせるからね』
三十秒もしない内にメッセージには既読が付き、そして遥からの返信が届く。
『おつかれさま。仕事は片付いた? メリークリスマス。アナタだけの七海遥より愛を込めて』
そのメッセージを見て、僕も遥に返信を打ち込む。
『僕が愛しているのも、もちろん世界で遥だけだよ。メリークリスマス』
送信完了を示したスマートフォンの画面にポツリ、ポツリと水滴が落ちては広がった。僕は滲むメッセージングアプリの画面を見ながら、胸の奥から上がってくる嗚咽を抑えることができなかった。
僕は間違いなく三咲カナタのことが好きだった。
――でも、さようなら。
スマートフォンに付いたストラップには僕の会社の象徴的なノベルティグッズがぶら下がる。三次元の空間に存在しながら、自らは三次元の存在でないと主張し続けている。そんな冗談みたいな物体。
約2.73次元のフラクタル図形。
――メンガーのスポンジ
メンガーのスポンジ 成井露丸 @tsuyumaru_n
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