セルケトの幸せ 後編



 丘の上から初夏の黒土国ケメトを見渡すと、世界は赤と黒に二分されている。


 赤砂の砂漠と、黒土の農地。


 その境界は極めて鮮明だ。聖河ナイルの恵みを受けた土地と、そうでない死の大地が隣り合わせに並んでいる。


 俺は、この景色が嫌いだった。


 ファラオの御子として生まれた。双子で、常に隣には姉がいた。


 神の寵愛を受けて君臨する姉は、まさしく黒土の王だ。


 それに比べて、俺のもとには聖河ナイルの恵みの一滴も届かないのだと。赤々として不毛な、死の大地に生きているのだと。


 だけどさ、今の俺はやっぱりこの赤砂が好きだな。だって――


 かさりと物音がして、背後を振り返る。


「あ……」


 一匹のさそりがいた。二つのハサミを振り上げて、こちらをじっと見ている。


 その体の色。

 砂漠の赤土のような、乾いた、けれど軽やかなだいだい


 蠍の全身がかすみにのまれ、すぐにそこから人の姿が現れる。短い腰衣シェンティから細い足を伸ばした、少年のように華奢な体が。


「セルケト……」


「イアフ!!」


 名を呼ぶと同時に、彼女は俺に駆け寄ろうとする。俺はそれを制止した。


「やめろ、なんで来たんだよ!?」


 丘の上、澄んだ空の下。俺はセルケトと向かい合う。


「イアフに……会いたかったからだよ!!」


 セルケトの糸目ににらまれて、俺の体がすくんだ。でも、怒鳴り返す。


「ふ……ふざけんな、俺は会いたくなかったんだよっ!!」


「嘘だ!」


 高い声の響きで俺の勢いを削いで、セルケトは全身で叫んだ。


「そんなの嘘だ! ねぇ、本当はボクと離れるのが悲しいくせにっ! 寂しいくせにっ! なんで何も言わずにボクを置いていくんだよ!!」


「セルケト……」


「ボクのことをだませると思ったら大間違いだよっ! 君はボクが大好きだし、ボクも君が大好きなんだから!!」


 そう言い切って、わっとセルケトが泣き出す。ボロボロとこぼれる涙を、つい視線で追ってしまって、それで。


 俺もこらえられなくなった。


「バカヤロウ、俺も泣いちゃうだろぉ」


 だめだ、やっぱりだめだ。

 鼻水と涙と泣き言があふれ出して、俺の決意が流されていく。


「なんだよ……セルケトのバカヤロウ……なんで大好きとかそういうこと言うんだよ」


「だって本当のことだもん」


 セルケトも鼻水を垂らしている。


 くそぉ、全部大失敗だ。


 ちゃんと、きっぱりと別れようと思ったのに。

 こいつを幸せにしてやりたかったのに。


「俺、お前に嫌われようと思って……」


 俺がいなくなってもセルケトが寂しくないように。


「それで、お前に冷たくして、ひどいことしてやろうと思って。でもなんかうまくできなくて、だからなるべく顔を合わせないようにして……」


「なんだよ、それ!?」


「嫌いな男なら、いなくなっても寂しくないだろ!」


 徹底的に嫌われたかった。


 二度と俺に会いたいなんて思わないように。


 俺がいなくても、この国で笑っていてくれるように。


「イアフのバカ! ボクが君を嫌いになるわけないだろっ!?」


 ――君がボクの一番だよ、イアフ!


 誰にもあたためられない俺の手を、ずっと離さないでいてくれた女神。


 一歩。彼女が踏み出した。


「なぁ、セルケト。俺、人間だよ? たとえ黒土国ケメトに残ったとしても、いつかはお前を置いて冥界に旅立つんだぜ」


 もう一歩。ためらいなく、こちらに踏み込んでくる。


「そんなこと知ってる。だから何?」


 そして最後の一歩。

 とうに揺らいだ俺の決意は、それを拒むことができない。


 俺も一歩を踏み出した。

 手を伸ばして、胸の中にセルケトを受け入れて、久しぶりのぬくもりをむさぼって。それでまた泣けてくる。


「イアフ、好き。本当に大好き」


 背中に回された手が、俺をかき抱く。


「君がどこに行っても、この世界から消えてしまっても、そんなこと関係ない」


「セルケトぉ……」


「ボクの気持ちを、勝手に変えようとしないで……!」


 背中に強く爪が食い込む。その痛さが、嬉しくって胸にささる。


 鼻をすする音に混じって、ふん、と憤慨したように笑う声がする。


「まぁ、変えようとしたって、この気持ちは絶対に変わらないけどね」


 ◇

 ◇

 ◇


 その事故の知らせを最初に受け取ったのは、王配である俺だった。


「イアフメス様の乗ったお舟が……沈んだ?」


 朝の公務に向かおうというところだった。俺はイアフメス様の教育係としての役割を終え、これから黒土国ケメトの財務にかかわることになっていた。


「ティズカール殿下、申し訳ございません」


 身支度を整えた俺の足もとにひざまずいているのは、イアフメス様の婿入りに付き添った兵士の一人だった。

 わざわざ俺の自室にやってきた彼は、青ざめた顔をうつむいて隠している。


「はい、まもなく黒人メジャイの領域にさしかかろうというところで、突然川が荒れ出して」


「そんな……それでイアフメス様は?」


 自分の顔から血の気がひいていくのが分かった。心配したルツが、俺のすぐそばに控える。


「数日探したのですが、いっこうに……他の者はみな助かったのですが、イアフメス様だけが発見されません」


「なんてことだ……」


 口を引き結んで一瞬固まって、声を絞り出す。


「このことはアルシノエ様にお伝えしたか?」


「いえ……衝撃が大きすぎるかと思い、まだ。どうお伝えすべきか、夫君にご相談をと思いまして」


 そうかと唸り、うつむいた。イアフメス様が出立されたのは、わずかに数日前。その時の笑顔が忘れられない。ずいぶんと大人びた笑みを見せるようになったのだと、感慨深かったことも。


「ティズ君」


 ペタペタと足音がして、部屋のかげからメジェド君が現れた。シーツの上の平たい瞳が、兵士の足もとをじっと見ている。


「そこに何かおるぞい」


 室内にもかかわらず、なぜか一匹のさそりがいた。全身が黒色で、大きなはさみを掲げている。


「うわっ……!」


 警戒して兵士が一歩ひく。けれど俺は、その蠍の背に何かがくくりつけられているのに気づいた。メジェド君がのんびり歩いて蠍に近づき、背中をのぞきこむ。


パピルスじゃな。何か書いてあるぞい」


 蠍が運んできた手紙。これは――。


 兵士を下がらせ、俺とメジェド君は長椅子に隣り合って座った。知らぬうちに黒蠍も消えていた。そして手紙を開く。

 それは、ごく簡潔な言伝だった。


 婿殿へ。

 “不慮の事故”で俺は消える。セルケトも一緒だ。じゃあな。ありがと。


「なるほどね」


 俺はくすりと笑う。隣でメジェド君が長椅子の背にもたれている。その目はどこか恍惚こうこつとしていた。


「悪くない……イアフメスめ、悪くないぞい……」


「そうですね、俺も悪くないと思います」


 “不慮の事故”で行方不明なのだから仕方がない。

 婿入り先にもそう説明しよう。違約を責められても、解決する手段はあるはずだ。それはこちらでなんとかしてやろう。


 ――二人で考えて、二人で決めたのなら。


 王弟と、その隣で目を細めていた少年のような女神の姿を思う。


 そして、いつか自分が告げた言葉を。


 ――好きな女性がいたら、その人が幸せになれるなら、逃げたっていいと思いますよ。


 メジェド君の口の端からは、つーっとひとすじよだれがこぼれていた。


「引き裂けない恋心か――うむ、たまらんぞい」




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【書籍化】女王陛下は一途な恋心《きもち》をかくしたいっ!! 風乃あむり @rimuro

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