セルケトの幸せ 後編
丘の上から初夏の
赤砂の砂漠と、黒土の農地。
その境界は極めて鮮明だ。
俺は、この景色が嫌いだった。
神の寵愛を受けて君臨する姉は、まさしく黒土の王だ。
それに比べて、俺のもとには
だけどさ、今の俺はやっぱりこの赤砂が好きだな。だって――
かさりと物音がして、背後を振り返る。
「あ……」
一匹の
その体の色。
砂漠の赤土のような、乾いた、けれど軽やかな
蠍の全身が
「セルケト……」
「イアフ!!」
名を呼ぶと同時に、彼女は俺に駆け寄ろうとする。俺はそれを制止した。
「やめろ、なんで来たんだよ!?」
丘の上、澄んだ空の下。俺はセルケトと向かい合う。
「イアフに……会いたかったからだよ!!」
セルケトの糸目ににらまれて、俺の体がすくんだ。でも、怒鳴り返す。
「ふ……ふざけんな、俺は会いたくなかったんだよっ!!」
「嘘だ!」
高い声の響きで俺の勢いを削いで、セルケトは全身で叫んだ。
「そんなの嘘だ! ねぇ、本当はボクと離れるのが悲しいくせにっ! 寂しいくせにっ! なんで何も言わずにボクを置いていくんだよ!!」
「セルケト……」
「ボクのことをだませると思ったら大間違いだよっ! 君はボクが大好きだし、ボクも君が大好きなんだから!!」
そう言い切って、わっとセルケトが泣き出す。ボロボロとこぼれる涙を、つい視線で追ってしまって、それで。
俺もこらえられなくなった。
「バカヤロウ、俺も泣いちゃうだろぉ」
だめだ、やっぱりだめだ。
鼻水と涙と泣き言があふれ出して、俺の決意が流されていく。
「なんだよ……セルケトのバカヤロウ……なんで大好きとかそういうこと言うんだよ」
「だって本当のことだもん」
セルケトも鼻水を垂らしている。
くそぉ、全部大失敗だ。
ちゃんと、きっぱりと別れようと思ったのに。
こいつを幸せにしてやりたかったのに。
「俺、お前に嫌われようと思って……」
俺がいなくなってもセルケトが寂しくないように。
「それで、お前に冷たくして、ひどいことしてやろうと思って。でもなんかうまくできなくて、だからなるべく顔を合わせないようにして……」
「なんだよ、それ!?」
「嫌いな男なら、いなくなっても寂しくないだろ!」
徹底的に嫌われたかった。
二度と俺に会いたいなんて思わないように。
俺がいなくても、この国で笑っていてくれるように。
「イアフのバカ! ボクが君を嫌いになるわけないだろっ!?」
――君がボクの一番だよ、イアフ!
誰にもあたためられない俺の手を、ずっと離さないでいてくれた女神。
一歩。彼女が踏み出した。
「なぁ、セルケト。俺、人間だよ? たとえ
もう一歩。ためらいなく、こちらに踏み込んでくる。
「そんなこと知ってる。だから何?」
そして最後の一歩。
とうに揺らいだ俺の決意は、それを拒むことができない。
俺も一歩を踏み出した。
手を伸ばして、胸の中にセルケトを受け入れて、久しぶりのぬくもりをむさぼって。それでまた泣けてくる。
「イアフ、好き。本当に大好き」
背中に回された手が、俺をかき抱く。
「君がどこに行っても、この世界から消えてしまっても、そんなこと関係ない」
「セルケトぉ……」
「ボクの気持ちを、勝手に変えようとしないで……!」
背中に強く爪が食い込む。その痛さが、嬉しくって胸にささる。
鼻をすする音に混じって、ふん、と憤慨したように笑う声がする。
「まぁ、変えようとしたって、この気持ちは絶対に変わらないけどね」
◇
◇
◇
その事故の知らせを最初に受け取ったのは、王配である俺だった。
「イアフメス様の乗ったお舟が……沈んだ?」
朝の公務に向かおうというところだった。俺はイアフメス様の教育係としての役割を終え、これから
「ティズカール殿下、申し訳ございません」
身支度を整えた俺の足もとにひざまずいているのは、イアフメス様の婿入りに付き添った兵士の一人だった。
わざわざ俺の自室にやってきた彼は、青ざめた顔をうつむいて隠している。
「はい、まもなく
「そんな……それでイアフメス様は?」
自分の顔から血の気がひいていくのが分かった。心配したルツが、俺のすぐそばに控える。
「数日探したのですが、いっこうに……他の者はみな助かったのですが、イアフメス様だけが発見されません」
「なんてことだ……」
口を引き結んで一瞬固まって、声を絞り出す。
「このことはアルシノエ様にお伝えしたか?」
「いえ……衝撃が大きすぎるかと思い、まだ。どうお伝えすべきか、夫君にご相談をと思いまして」
そうかと唸り、うつむいた。イアフメス様が出立されたのは、わずかに数日前。その時の笑顔が忘れられない。ずいぶんと大人びた笑みを見せるようになったのだと、感慨深かったことも。
「ティズ君」
ペタペタと足音がして、部屋のかげからメジェド君が現れた。シーツの上の平たい瞳が、兵士の足もとをじっと見ている。
「そこに何かおるぞい」
室内にもかかわらず、なぜか一匹の
「うわっ……!」
警戒して兵士が一歩ひく。けれど俺は、その蠍の背に何かがくくりつけられているのに気づいた。メジェド君がのんびり歩いて蠍に近づき、背中をのぞきこむ。
「
蠍が運んできた手紙。これは――。
兵士を下がらせ、俺とメジェド君は長椅子に隣り合って座った。知らぬうちに黒蠍も消えていた。そして手紙を開く。
それは、ごく簡潔な言伝だった。
婿殿へ。
“不慮の事故”で俺は消える。セルケトも一緒だ。じゃあな。ありがと。
「なるほどね」
俺はくすりと笑う。隣でメジェド君が長椅子の背にもたれている。その目はどこか
「悪くない……イアフメスめ、悪くないぞい……」
「そうですね、俺も悪くないと思います」
“不慮の事故”で行方不明なのだから仕方がない。
婿入り先にもそう説明しよう。違約を責められても、解決する手段はあるはずだ。それはこちらでなんとかしてやろう。
――二人で考えて、二人で決めたのなら。
王弟と、その隣で目を細めていた少年のような女神の姿を思う。
そして、いつか自分が告げた言葉を。
――好きな女性がいたら、その人が幸せになれるなら、逃げたっていいと思いますよ。
メジェド君の口の端からは、つーっとひとすじよだれがこぼれていた。
「引き裂けない恋心か――うむ、たまらんぞい」
【書籍化】女王陛下は一途な恋心《きもち》をかくしたいっ!! 風乃あむり @rimuro
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