セルケトの幸せ 中編
イアフがおかしい。
ボクは今日も彼を探して宮殿をさまよっていた。
この時間ならティズカールとオベンキョーしてるんじゃないかな、とか、もしかして中庭で休憩中かな、とか。イアフを求めて歩き回っている。
数日前に、ボクはやっとまた人の姿になれた。神であるボクの本当の姿は
普段ならなんてことないんだけどね。ほら、例の件で
でもアルシノエがボクを連れ帰ってくれて、
もちろんボクのために一番頑張ってくれたのはイアフだよ。動けないボクを気遣って、昼も夜もずっと寄り添っていてくれた。
それなのに、だよ。
「もーイアフどこに行っちゃったんだよぉ〜」
ボクは中庭の
人間の姿になれたら、したいことがたくさんあった。イアフを抱きしめて、ずっと一緒にいようと思ってた。話したいことだって山ほどあった。
それなのにイアフったら全然ボクをかまってくれないんだ。朝は先に起きてどこか行っちゃうし、夜は疲れて帰ってきてそのまま寝台に倒れこんじゃうし。
せっかく人間になっても、ほとんど話もできてないじゃんか!
「あーぁ、もうすぐお別れなのになぁ……」
イアフはもうすぐ南の国に婿入りする。この
もう、ボクのイアフじゃなくなるんだ。
考えだすと胸が押しつぶされてしまいそうになる。
頭から嫌な考えを追い出そうとふるふると首を振っていた、その時。
「おー
明るい声で名前を呼ばれた。呑気な顔の少年がこちらに寄ってくる。
「やぁ
「大丈夫か、疲れてるのか? まだ無理するなよ」
労わるような視線に驚く。えーと、ボクとアヌビスってそんなに仲良かったっけ?
困惑が顔に出ちゃったかな、彼は慌てて黒耳をぴーんと伸ばした。
「いや、突然ごめんな。でも様子が変だったからさ」
「そうかなぁ。確かにまだ力は十分じゃないんだけど……」
おう、と意味のない相槌をうってアヌビスが隣に座ると、ボクたちの間に気まずい沈黙が流れた。
「……俺さ、お前に謝りたいなと思ってて」
「え?」
思いがけない打ち明け話が始まって、ボクの尾っぽはぴーんと緊張する。
「俺だけじゃないんだけど。
「ボクたち?」
アヌビスの丸い目がちょっと気まずそうに遠くを見る。
「お前がアルシノエをさらったこと、俺は許さないけど。でもそこまでさせたのは俺たちの落ち度だったなって、
返答が喉につっかえた。
アヌビスが、ボクの気持ちを少しずつ拾い上げていく。
「イアフメスの婿入りは人間たちの問題で、俺たちはそこに介入できない。でもあいつがいなくなった後も、セルケトが寂しくないようにしようと思ってるから」
最後に照れた調子で笑って、じゃあまたなとアヌビスが去っていく。その背中で、細い尻尾がぎこちなく揺れていた。
あの気位の高い“闇のアヌビス”がボクに歩み寄ろうとしている。
言われて初めて気づくことってあるんだね。確かにあの時ボクは孤独だったのかもしれない。イアフは本当にいい子なのに、誰も分かってくれなかった。彼が生まれた時からずっとだ。アルシノエだけがチヤホヤされて、あげくにみんなで彼をこの国から追い出そうとしてた。
力が欲しかった。アルシノエの後ろ盾となったラーよりももっと強い力が。だからセトの邪な力を求めたんだ。
ボクの気持ちを分かろうとしてくれるアヌビスの言葉は新鮮だった。驚いたし、嬉しかった。
でも。
それと同時に、無性に悲しいよ。
あぁ、そうだ、みんなもうイアフがいなくなる準備を始めてるんだ。彼がいなくても問題ない仕組みを作ってしまおうとしてるんだ。
そこから取り残されてるのは、ボクだけだ。
◇
豊穣の星、ソティス。
ついにその姿が東の地平線上に現れた。
ボクはイアフの部屋の窓枠に腰掛けて、薄藍の空でひときわ大きな存在感を放つその星を呆然と見上げていた。
ソティスが告げるのは、やがて訪れる
そして王弟の婿入りだ。
夜明けを招くその白い光から目を背け、視線は寝台へと向かう。
寝息もたてずに、そこで眠っている大好きな彼。
今日、君は舟に乗り、異国の地へ旅立つ。
注意深くその隣に歩みを進めた。
イアフはまるでボクを拒むようにこちらに背を向けている。その肩の輪郭を視線でなぞると、胸が熱くなる。
なんてたくましくなったんだろう。
どこか弱々しかった体つきは、今や立派な大人の男のそれで。
毎日必死になって鍛えていたものね。山と積まれた
そして、周囲に人の声があふれてた。ティズカールも、その従者も、メジェド神も、君の側で笑っていた。
――イアフ、君はボクを置いていくんだね。
ほかのみんなと同じようにもう君も次の季節だけを見ているんだ。
イアフ。
尾に力が入る。その先端の鋭い針がジワリと濡れる。
ボクに宿った絶望が毒となって滲み出る。
『セルケト、俺にとって神はお前だけだ』
ついこの間まで、そう言って笑いかけてくれたじゃないか。くだらないイタズラをして腹を抱えてさ。
暗くて長い
――ねぇ、イアフ。ボクのことをまた好きになってよ。
このひと針で、君がまたボクの
長い尾を彼に伸ばす。むき出しの肩に向けて、針を構える。
でも、でも。
ボクにはその針を刺すことができなかった。
「そうじゃないんだよぉ……」
もうだめだ。瞳からも喉からもこらえていたものがあふれ出していく。
毒の力でこっちを向いてほしいわけじゃないんだ。そんな風にしたってなんの意味もないんだ。
「……イアフぅ」
彼の眠る寝台にすがった。
――いかないで、いかないでよぉ。
その言葉を必死にせき止めて力尽き、気づけばボクは眠りに落ちていた。
◇
目が覚めたら、ボクは一人だった。
部屋には誰もいない。
寝台を温めた人は、もう行ってしまったようだった。
残された抜け殻のような寝台の前に呆然と立つ。ボクにはもはや嘆く力ですら残っていなかった。
そっとシーツをなぞる。君のいた場所を。
まだぬくもりのかけらが残っている気がした。そして君の匂いも。
指先で君の名残を感じながら、ボクはふとおかしなことに気づいた。
枕元のあたり。
触れる指先が微かにしめった。
ボクは顔を上げる。
イアフ――。
ねぇ、もしかして、泣いていたの?
夜の間、ボクに顔を背けて?
そう思い始めると、止まらない。
そうだよ、君はそんなに素直な男の子じゃなかった。
ふとよぎるのは、君がまだ幼かったころのこと。
よく転んで怪我をする男の子だったよね。そういう時はビービー泣いて、アルシノエに面倒がられてた。
ボクは、君の小さな膝からにじんだ血をぬぐって、たくさん慰めてあげなきゃいけなかった。
でもさ、かまってもらえなくて寂しいとか、バカにされて悔しいとか。
そんな時は笑ってたよね。なんでもない風に、お腹を抱えるくらいに。
「イアフ……!」
ボクは駆け出す。
君が旅立つ、
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