おまけ

セルケトの幸せ 前編



 ずっと待ちわびていた瞬間っていうのは、訪れてみると、まぁあっけないもんだ。


 ある朝目覚めると、見慣れた少女が隣にいた。

 寝台の縁、俺のすぐわきに腰掛けて、朝日に目を細めるようにこちらを見つめている。


 確かに、まぶしい。


 まもなく実りの乾季シェムウが過ぎ、短い春を経て、やがてケアトがくる。


 天から注ぐ陽の恵みが日を追うごとに強くなり、肌も瞳も焼けていく。そんな季節だから、朝が来てもまぶたを下ろしていたくなる。


 でも、その日ばかりは飛び起きた。


 目の前の少女。


 だいだいの髪は、最後にいた時よりはやや長く、毛先が肩に届くほど。少年のような細い体と、いつでも笑みをたたえた糸目と――そして俺の名を呼ぶ声。


「イアフ、心配かけてごめんね」


「セルケト……」


 謝罪の言葉を口にしながら、その瞳はやっぱり細められ、口もともほころんでいた。

 それで、俺の頬もゆるんでいく。


「バーカ! そういう時はありがとうって言えよ!」


 いつもの調子で言いながら、蠍女神セルケトの体を引っ張りあげた。抱きしめると、その体はかつての感覚よりだいぶ薄く心もとない。まだ本調子ではないのだと、心臓にひやりとしたものがふれる。


 でも、またこの姿で俺のもとに戻ってきてくれた。それがたまらなく嬉しい。


 たとえ、


 ――またすぐに、サヨナラをしなきゃいけないのだとしても。


 ◇


 衰弱したさそりの姿のセルケトを連れ、俺が太陽神ラーを訪ねたのは、邪神セトの事件があった数日後だった。


 かごの中に布を重ねた上にそっとセルケトを寝かせていた。たまに目を覚ましても、それ以外はピクリともせず寝込んでいるような頃。


 なんとか回復してほしくて、神々の王であるラーにすがりにきたのだ。


 正直、俺は太陽神こいつが苦手なんだけどさ……。


「やあ、愚弟よ。相変わらずアホぅな顔をしているな」


 神殿の最奥、至聖所と呼ばれる小箱のような部屋で対面したラーが、開口一番はなった言葉がこれだ。


 くそっ、だから嫌いなんだよ、こいつ。


 普段の俺なら「おう、お前も相変わらず変態だな」と応戦していただろうな。この神、いつ見ても女みたいに化粧して、チュニックを着てやがる。それなのに声音も口調も男のままだから、こっちの調子が狂っちまう。


 でも、今日はこいつの力が必要だから、グッとこらえて軽く頭を下げた。


「ふぅん……君も少しは変わったようだ」


 ラーは長く伸ばした金髪をかきあげた。光が波打って、薄暗い部屋を照らす。


「イアフメス、君には少し謝りたいと思っている」


「は?」


 歩み寄ったラーが、唐突に俺の両頬を挟む。


「いへぇ! はにしやはふ!?」


「はぁぁぁぁ、本当に顔はアルシノエとそっくりなのに、お前ときたらなんでこう阿呆でマヌケで無能で愚鈍で性根が腐ってるんだろうね?」


 おい、 謝るんじゃなかったのかよ!?


「だからつい邪険に扱ってしまう。の血をひいてるはずなのに、こんなアホでは余計に腹が立ってしまって」


「はぁ?」


 頬を解放されて声を荒げても、ラーは気にしたそぶりもない。ただ、籠の中に横たわる小さな体に目をやった。


「かわいそうな、セルケト。こんな男に恋をして」


 その言葉に抗議しようとしたけれど、見上げたラーが神とも思えない苦しげな顔をしているので、言葉が詰まった。


「神が人に恋をするのは苦しいものだ。無力で、脆弱ぜいじゃくな存在にもかかわらず、人の心は決して我々の思い通りにならない……それに何より、お前たちはすぐ死ぬ。取り残されるのは常に我々だ。そして悠久の時を、ひとりで生きるのだよ」


「お前……」


「すまないねイアフメス。私も昔に恋をしたのだ。アルシノエは、私の恋人にそっくりなんだ。だからつい彼女にばかり恵みを与えてしまって、それでお前にはずいぶん苦しい思いをさせたかもしれない」


 神々の王が俺に頭を下げている。それを呆然と見て、少し昔のことを思い出した。


 幼い頃。アリィの周囲に集まる神々、官僚、貴族の子どもたち。それをねたましく見つめている俺は、確かに孤独だっただろう。


 でも。


「別にいいよ。そのおかげで俺のそばにはセルケトがいてくれたんだし」


 幼い頃は遊び相手で、人間の従者が俺にさじを投げてからは、細々とした世話もやいてくれた。


 ――イアフ、君はボクの一番さ!


 頭を撫でて、抱きしめて、笑いかけてくれた少年のような女神。


 ラーの燦々さんさんたる恩寵おんちょうも、あいつの笑顔に敵うはずはない。


「俺、今はなーんにも恨んでなんかないぜ」


 姉を呪ったかつての俺は、気づいたらもういなくなっていた。邪神の事件があって、セルケトを失いかけて、それで一番大事なことに気づいたから。


「……イアフメス、どうもお前は本当に一回り大きな人間になったようだ」


「だろ、ティズカールに毎日、ビシバシきたえられてるからよっ!!」


 俺は全身に力をいれて、最近ムキムキと膨らみ始めている気がする筋肉をひけらかした。


「まだホルスには敵わないけど、俺のもなかなかのもんだろ!? 見ろよ、この胸筋!!」


「はぁ……そういうことじゃない。やっぱりバカのままだな」


 一つ舌打ちを挟んでラーは続ける。


「とはいえ、ティズカールが君の成長に寄与したことは間違いないようだ。さすがアルシノエが見初めた男。悔しいが、その点は評価しなくちゃいけないようだね」


 言ってることの意味が分からず首をかしげた俺を無視し、ラーは籠をよこせと促してきた。眠りに落ちたセルケトごと素直に差し出す。


「お前の望みはこの小さな神を救うことだろう?」


 俺は強くうなずく。ラーは美しく紅を施した指先で、蠍の外殻を労わるように撫でる。


「セルケトにもお前にも、苦しい思いをさせたからね、助けてやってもいい」


「本当か!?」


 でも、とラーは不意に俺に顔を向けた。

 どきりと胸が跳ねる。向けられた瞳が、苦い色に揺らいでいたからだ。


 太陽神、ラー。神々の王。陽光を司り、全ての生命に生きる力を授け、この国を守護し育み、導いてきた偉大な力。


 それが今、俺のようなただの人間に向かって、懇願こんがんするような眼差しを向けている。


「どうかセルケトを苦しめないでやってくれ……恋におぼれて、幾年月も涙を流して生きる神など、私だけで十分なのだから」


 ◇


 その時ラーは、セルケトにたくさんの陽光を浴びせよと言った。我が恵みで魂が力を取り戻すから、と。

 そしてラーの言葉の通り、今日セルケトは人の姿を取り戻した。


 その細い体をきつく抱きながら、俺の胸に厳しい声がこだまする。


 ――あなたは、自分のことではなく、相手のことを考えなさい。


 ニコニコしながら俺をしごく姉婿の言葉が、真っ直ぐに俺を貫いている。


 ――愛する女性のことを想い、彼女が幸せになれるように。


 そして、ラーの揺れる瞳。


 ――セルケトを苦しめないでやってくれ。


 指先に力が入る。かき抱かれて、セルケトが咳き込みながら笑った。


「ふふふ、痛いよぉ、イアフ」


 ピョコピョコと蠍の尾が跳ねる。嬉しい時の、こいつの仕草。


 離れがたい。ずっとこうして抱きしめていたい。けれど。


 派手な化粧を施した神々の王の瞳から、今にもこぼれ落ちそうだった涙を想う。


 悠久の年月を、ひとりぼっち。


 俺はセルケトをそんな風にしたくない。

 たとえ今強く思いあってるとしても、俺は異国へと、そしていつかは冥界に旅立つのだ。こいつを置いて。


 だから、俺は。


 きっぱりとセルケトにサヨナラをするんだ。


 もう二度と、俺のことを恋しいなんて思わないように。



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