比翼の鳥
月浦賞人
第1話
日の光が傾き始め、気温よりも涼しく感じられる真夏の教室。クラスもバラバラな生徒たちが一様に集められていた。監督する教員の姿はない。自由に言葉が頭上を飛び交っていそうな状況で、中等部二年の若くころころ変わる表情は今、死んだ魚のような目をして机上を眺めていた。
「……だれか、この問題が解ける奴はいるか」
静寂に言葉を投げたのは男子生徒。二十数名全員の耳に届くが、返ってくる答えは無い。
ここにいるのは成績が振るわず、補修を受けにきた生徒たちだ。しかし目の前にあるのは難関高校の受験問題と思しき数学の問い。
「先生はちょっと用事がありますのでこの問題をやっておいてください」補修の開始時間直前に教室へ入って来た先生はプリントが全員に渡るのを見届けると、そそくさと教室を出て行った。問題はたった三問だ。もともと先生が解説して進めようとしていた内容なのか、自習になるからあえて難問を選択したのか、理由は分からない。しかし、ここに集められた者に、目の前の問題を解ける人間は一人もいなかった。
あるものは諦めて机に突っ伏し、あるものは国語のテストかのように問題文を熟読し、あるものは机の下で携帯を弄り始める。
教師が帰って来るまでに誰も解けないだろうなと皆が諦めた。その時だった。
ガラガラという音と共に、教室のドアが開けられた。
停滞を破る期待の視線と携帯を弄っていた者のこわばった表情とが入り乱れる。しかし、教室に入って来たのは教師ではなく、同学年の男子生徒だった。
赤毛が特徴的な少年。くせっけがさながら炎のように流れる。人を惹き付けるオーラがあり、学生のエネルギーとは趣を異にする活力を感じさせた。瞳は強く、曇りなく、しかし息苦しさを与えない。
「やあ、皆」
挨拶をすると、その生徒は教壇へと上がった。手近な棒状の磁石を一つ取ると、手に持っていた紙を黒板に張り付ける。皆に向き直ってそれを叩いた。
「ボランティアをしよう」
断る者はいないと、確信を抱いているような眼差しと声音だった。
もし、他の誰かがそれを言ったら、きっと誰もが聞き流すだろう。しかし、彼の発言となれば皆の反応も変わってくる。彼の行動、発言には誰もが期待をし、彼と一緒に行動をすれば、どんなことでも最高の充足感を得られるのだった。しかし、
「
先ほど皆に問題が解けるかと聞いた生徒が壇上の少年、清嗣に促した。
「ん? うむ。己の将来に期待を弾ませる、いい顔だな!」
「いや違うんだ。それはお前が来たからで……」
「補修手伝ってー」
教室の後方から女子生徒の声が上がった。
「ああ、そう言えば先生がいないな」
「これか?」と、清嗣が教卓の上にある問題を取った。
「ほうほう。……ふむふむ……んー…………よし、分かったぞ! これはな、ここをこうこうこうだ! 分かったか?」
「分かるか!」
「むむ!」
予想外の反応に清嗣が顔をしかめた。
清嗣は成績優秀者だ。しかし、絶望的に教え方が下手だった。それも大体の人間が知っている。だから次の言葉を待つ。
「なら、仕方がないな。
「やったー!」「待ってました!」「『
皆の歓声が上がる中、少し不満顔で清嗣が教室を出て行った。それから数十秒程で、一人の男子生徒の腕を引っ張って戻ってくる。
「なんで俺が補修なんかやらないといけない!」
「俺じゃあダメみたいだ。お前しかいない」
「なんでお前が補修を手伝う。教員は?」
「いない」
「来るまで待てばいいだろ」
「ボランティアの参加を募れない!」
「ボランティアに強制参加の義務はねーぞ」
「まあそういうなよ。今、秀人の力が必要とされてるんだ」
「そうだぞー『
「お前ら全員そうだろうが!」
わいわいと揉めている光景も見慣れたもので、秀人は教室の中央まで引っ張られて来るとおとなしく留まった。
秀人は清嗣と特に仲のいい友人だった。学年で一番成績がよく、学業で困っている人がいれば、よく清嗣を介して教えてくれた。
清嗣が教卓に置かれた余りの問題用紙を取り、秀人に渡す。
「あーーっと? ……はー……うん。なるほどな。これはな、ここをこうこうこうだ! 分かったか?」
「清嗣と全く同じだよ!」
受講者の悲鳴に秀人は顔をしかめて清嗣を見る。
「えー。お前こんな教え方したの?」
「ああ。不評だった」
清嗣は少し拗ねたように唇を尖らせた。
「分かる奴しか分からねーよ。それじゃあ」
「……そうか」
秀人は「はあ」とため息をつくと清嗣に指示を出す。
「じゃあ清嗣は黒板に一度解答を書いてくれ。俺がそれを使って解説する」
「ああ、分かった」
清嗣は二つ返事で黒板に向かった。チョークは滞りなく滑り、答えが記されていく。早々に秀人の解説も始まった。
要領よくまとまったその講義はチャイムのなる直前に三問すべてが終了した。講義の内容も分かりやすく、大体の人が理解できている様子だった。
補修から解放され、皆が安堵と解放感にはしゃいでいる。当初の目的遂行のため、その空気を払拭するように、清嗣が口を開いた。
「補修も終わったところで! これだ。ボランティア。来たる八月の九日。諸外国の伝統や文化を紹介する『世界フェスタ』というイベントがある。そこで会場の案内やイベントの放送、ゴミの分別の指示や出し物等の仕事をボランティアスタッフで行うんだ。準備も含めて数日かかるが、行ける日だけで構わない。部活動等の無いものだけでいい。是非俺と参加してもらいたい!」
「いいよー」「やるー」「たのしそー」「いく」「部活休んでいくー」
清嗣の誘いだからとりあえず行く。みたいな、内容がちゃんと頭に入っているのか分からない様子で次々と参加者が募る。
皆の返答に、清嗣は満足げに頷いた。
「よし! ではこの名簿に名前を書いてくれ!」
***
今日の昼休みのことだった。
「
清嗣さんが話しかけてくれた。
まず、自分の名前を憶えていてくれたことに驚いた。そして、同時に言葉にならない嬉しさがこみ上げた。
清嗣さんとの接点はまだ一回だけ。春の運動会で整列した時、隣になって少し話をした。そこで名前は言ったけれど、学校のリーダーみたいな清嗣さんに、何の取り柄もない自分が憶えられているとは思わなかった。
清嗣さんは憧れの存在だ。自分だけではない。きっと皆。オーラがあって堂々としている。けれど息苦しさがない。そして不思議と、見ていると「何かしたい」と言う活力が湧いてくる。
ボランティアの参加に関しては、勿論二つ返事で「行きます」と言った。
最初の顔合わせとして、来週末に参加者が集まるらしい。今から楽しみで仕方なかった。
「あ、悠人」
自分を呼ぶ声、その声で誰だか判別がつく。振り返らず、歩みを進めた。
「今帰り? 一緒に帰ろ」
駆けてきて隣に並んだのは、幼馴染の少女、
「悠人と帰るのもなんだか久しぶりね」
「先週もあったけど」
「昔はずっと一緒だったじゃない」
「もう中学生だ。ずっと一緒にいたら、おかしいだろ」
「そうなの?」
「そうだよ」
淡々とそっけない返答をする。クラスは変わったが、顔を合わせるといつも絡んでくる。その絡みかたも保護者のようで、疎ましかった。
「……ねぇ悠人。清嗣さんからお誘い、あった?」
「……あったよ」
「ほんと!? じゃあ一緒だね。行くでしょ?」
「いくよ」
知り合いが増えて嬉しいのか、東子は「やった、やった」と飛び跳ねる。その様子には自分も悪い気はしなかった。前方に飛んで行った東子が立ち止まって振り返る。
「じゃあ来週末の朝、悠人の家行くから。あ、休みだからって寝てないでよ?」
「分かってるよ」
誰が清嗣さんの誘いに遅れて行くか。
「何班にするかは決めた? 班によってやること違うんだって。一緒のにしようよ」
「別に、やりたいことやればいいだろ」
少し突き放した言い方をする。一緒の班になるのは、諸事情で、都合が悪い。
「もーそんなこと言って。悠人は大丈夫なの? きっと一年生、そんなにいないよ?」
「もう中学生だよ。平気だ」
「一緒の班だって不都合ないでしょ?」
「さっきも言った。ずっと一緒にいたらおかしいんだよ」
「……そんなに嫌?」
会話を重ねる程、後ろ暗いことを暴かれているようで気分が悪くなる。しかし、東子の落ち込んだ声に、何も言わないわけにもいかなかった。
「清嗣さんと同じ班にする」
決めていなかった。だが、そう言えば引いてくれる可能性が高いと思った。清嗣さんに憧れていることを東子は知っているし、であれば、一緒に行動する人がいると清嗣さんに付いて行く理由が薄れる。当然人気があるだろう清嗣さんの班に入れる確率も減る。さらに一緒の班になれる確率も下がるから、諦めさせる理由にはちょうど良かった。
「嘘だよそんなの。悠人にそこまで近づく勇気なんてないもん!」
どういう気持ちで出た言葉か。拒否され続けて、むきになって出た言葉かもしれない。でも、その言葉は正鵠を射抜いていて、そのことで、まるで全部が見透かされているような恐怖に陥る。獣が自分を守るため咆えるように、狂った。
振り返る視界の中に、東子の強張った顔が映った。自分の言葉に悔いているように見えた。でももう遅い。理性を繋ぐ糸が架かる前に、口から言葉が滑り出す。
「関係ないだろ! うざいんだよ、お前!」
静寂が降りる。校舎内で反響した声は人々の活動全てを中断させた。
東子の顔には微笑が張り付いた。首が固まって、何も言わない。
周囲から視線が注がれる。居心地が悪い。平静を装い、一歩踏み出す。彼女も一歩踏み出した。視界に入ってはいないけれど、きっと同じ顔で機械みたいに付いてきているのだろう。その空気に耐えられず、彼女を残して走り出した。
「くそっ!」
最悪だ。
最低だ。
最低な人間の最悪な行動だ!
自分の弱さとふがいなさに、視界が滲む。
涙が出る弱さに自分を呪った。
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