第6話

 アルジュナは駅から徒歩十分という位置にあった。個人経営らしい広さで、打ち上げ参加者がギリギリ入ることができた。四人掛けのテーブル席が三つにカウンター席が十席。テーブル席は通路側に椅子を追加して五人掛けにしている。十三時から一時間、貸切りにさせてもらっていた。店長に正午からだと困ると言われていたため、一時間ずらした十三時だった。それでも譲歩してくれたと思う。

「皆さん。ボランティアの仕事、お疲れさまでした。私にとって、今回のイベントは学ぶことの多い会でした。皆さんの中にも充実した気持ちがあれば幸いです。今日は打ち上げをめいっぱい楽しみましょう。乾杯!」

「「「乾杯!」」」

 清嗣の号令で皆がグラスを打ち合った。中身は勿論、ソフトドリンクだ。

 掛け声と同時に料理が配られる。インド料理店なので皆カレーだった。各テーブルの中央にナンが数枚まとめて置かれた。

 打ち上げがカレーというのも珍しいが、中学生で打ち上げもそうない。値段的にも千円は超えられず、何よりカレーが嫌いという人はいないだろう。世界フェスタで出店していた時も評判が良かったため、異国交流祭の打ち上げとしても適当な場所だと清嗣は考えていた。

 店内を貸し切っている間にも時節客が入って来た。テイクアウトも行っているため、店内で食べようと訪れた人たちには店長がそちらを促していた。大体が固定客らしく、砕けたやり取りが目についた。

 皆が楽しく笑いあっている中、一人、ぎこちない笑みを浮かべる少女がいた。上級生に囲まれているから、仕方ないようにも見える。

「東子。こっちで君と話したい。来てくれないか?」

 清嗣は気になって東子にカウンター席を進めた。

「はい」

 清嗣に呼ばれ、東子は促された席へ移動した。

 東子は座って、皿やコップを整地する。一呼吸置いたところを見て清嗣が声をかけた。

「お疲れ様」

「お疲れ様です」

「上級生ばかりで息苦しくないか?」

「あ、いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

「エコ班は真尋まひろ貴志たかし里奈りなか。三人とは話せた?」

「はい。皆良くしてくれました。さっきも一人でいた私と一緒のテーブルになってくれて、あ、エコ班だったからですかね? 打ち上げですし、考えすぎでしょうか」

「いや、里奈はそういうところあるよ。真尋も勘がいいし、貴志はとりあえず誘われたら断らない」

「そっか……ありがたいです」

 空白を一拍おいて、周囲の雑然とした声が耳に入る。皆、楽しそうな声音だった。

「今日は来られないと、悠人からメールがあった。東子は理由、知っているか?」

 東子の肩が不自然に微動した。

「私にも、分かりません……」

「そうか」

 続きを言うべきか言わざるべきか、考えていた東子の様子を見て、清嗣が一度話を切った。

「……用事があるわけではないと思います」

 東子は逡巡の後、そう漏らした。

「聞いてもいいか?」

 東子は頷いた。

 東子は心当たりをすべて語った。ボランティアの話を清嗣から聞いた時、悠人を馬鹿にする発言をして怒らせてしまったこと。ボランティアの顔合わせの時まで機嫌が悪く、午後からとても優しくなったこと。本番の四日前、制作物を壊してしまってから、元気がなくなったこと。次の日から、まともに会話もしてくれなくなったこと。その状態が今も続いていること。

 一通り聞き終えて、清嗣が言う。

「顔合わせの時の話だが、実は昼に悠人と話した」

「え?」

 東子は思わぬところで一つの疑問が解決して驚いた。

「悠人は『強くなりたい』と言っていた。俺みたいに強くなりたいと。でも俺の強さは悠人の思う強さとは違うと話した。悠人は個人の力を強さだと考えていた。対して俺の思う強さはできないことは他者に頼り、できることは他者に尽くす。足りない力を補い合い、目の前の問題を達成する力を強さだと言った。だからできないことを悲観せず、できることを誇れと。個の強さは人に必要とされる能力だと教えた」

 清嗣が顎に手を当て考える。

「悠人がその後優しくなったと言うなら、俺の言った強さに共感し、自分の在り方を見つけられたと言うことだろう。だが四日前の失敗から急変した」

「はい。それからの様子は怒ってる感じじゃなくて、塞ぎ込んでいると言うか、元気がなくて、諦めているような感じでした」

「制作物を壊したと言っていたが、その時の顛末を聞かせてもらってもいいか?」

「はい。……あの森林伐採の表を作っていて、私と悠人は色を塗っていました。お昼になったので昼食に行こうと、私が悠人の後ろから声をかけたんです。そして振り向いたときに、悠人の手がバケツに引っかかってしまって、水が模造紙にかかっちゃったんです。そして、固まる悠人を見た時居た堪れなくなって、私にも責任があると思ったから、皆に謝ったんです。そしたら悠人も謝って、その時は、大丈夫そうだなって思ったんですけど、……今、こんな感じです」

 聞き終えて清嗣が考える。

「俺の話が理解できていれば、失敗も悲観する必要はないんだがな。と言うことは俺の言った強さに意味を見いだせなくなったってことだな。そもそも強くなりたいと願った理由はなんだ? 悠人の考えていた強さと俺の語った強さは抵抗なく乗り換えることができるものだった。だけど乗り換えたことによって袋小路に入った。だから以後の諦めた様子になった。ということは……本当は強くなりたかったわけじゃないな」

「どういうことですか?」

「悠人の本当の願いは強くなることではなく、何かしらの、特定の弱さを克服することだ」

「よく分かりません」

「自分のある弱さが許せなくて、強くなろうとした。でも俺の語った強さは弱さを受け入れ、長所を磨くことだ。そこに矛盾が生じたんだろう」

 東子にも清嗣の言った意味が分かった。でも実像が掴めない。それは結局なんなのか、清嗣から、その先の言葉を待つ。

「最初、ボランティアに誘った話を二人でした時、なんて言って怒らせた?」

 東子が一瞬言いよどむ。説明すれば、自分の罪と、悠人の気持ちを勝手に明かすことになる。でも、先を望む気持ちの方が強かった。

「同じ班になろうって私が言ったら、嫌だって言われて、悠人が清嗣さんと同じ班になるって言ったから……清嗣さんにそこまで近づく勇気はあるの? って、……言いました」

 ばつが悪そうに、東子は顔をそむけた。清嗣は何も気にした様子がなく、言った。

「確定だな。分かった」

「本当ですか!? なんですか!?」

 東子の勢いに清嗣が面食らう。その声は大分大きかったようで、店内の上級生たちも皆二人に視線を向けた。そのことに気付いて、東子が萎縮する。

 先ほどの東子の瞳に、様子に、清嗣は胸の奥から温かいものが流れ出る感覚を覚えた。心臓の鼓動が強くなり、ドクンドクンとその温かいものを全身へ送り出す。知らないうちに相合は崩れ、それを見た東子が恥ずかしそうに袖を絞る。

「東子には言わない。不公平だからな」

「なっ」

「当事者以外の人間が一番知っているっていうのも何だが、一つ、解決策だけ教えよう」

「は、はい!」

「悠人が東子にとってどういう存在か、具体的に、できるだけ細かくまとめて置け。そして次に会った時に、それを言う」

「……それだけですか?」

「それだけだ」

 東子の頭に疑問符が浮かぶ。本当に、それだけでいいのだろうか。確かに、気恥ずかしくて、こうした話がなければ一生言わないことだとは思うけれど。

 懐疑的な東子に対し、清嗣はもうすべてが解決したかのようにカレーを食べていた。

 清嗣は事態の好転を確信していた。


  ***


 十六時五十分。夏の日はまだ高く、地上を照らしている。光に朱が混じり始め、その日暮れの予兆に、早く時が過ぎ去ってくれと、日の当たらない高架下から悠人は願った。

 まだ不良達は来ていない。緊張と恐怖で体が僅かに震えていた。

 金を渡すだけで済めばいい。ただ、今後も続きそうなら、駆け引きもする必要があった。金はもうない。通帳から下ろせばあるが、際限がなくなる。なにより、通帳の管理は親任せだ。通帳を持っていったら、絶対に不審がられる。

 彼らが引き際を弁えている人間か、警察沙汰になるまで引けない人間か。

 弱みを握られてはいるが、引けない人間たちなら、即刻警察に行くしかないだろう。止められる人間ならば、交渉の余地がある。でも、仮に交渉ができたとして、年齢も人数もあちらの方が上だ。緊張した頭でまともに纏められる自信は無かった。

 絶望的な気持ちでいると、堤防の上の方から、品のない話し声が聞こえてきた。そして、嫌な予感を覚える。

「お、いたいた」

「どうもー」

「はじめまして」

 二人増えていた。茶髪の小奇麗な男と鼻ピアスの男。前の三人を合わせて五人になった。

 ただ遊ぶ仲間ならいいが、悪事を働いているのに不必要に顔を晒すことは明らかなリスクだ。リスクと考えないほど能天気な可能性もあるが、あえて会いに来たということは、新たな関係の構築を予感させた。

 金髪の男に目を留める。前に会ったときは暗い路地裏だった。明るい所で見ると思ったより怖くない。

 自分より各上の、底知れない存在と対峙する。最初のイメージを言葉にすればそんな感じになる。しかし、相手を自分と同じ人間だと認めると、数と力で抗えない。と単純な論理で諦めがついた。想像より相手が弱くなったのに、絶望を抱いた。

 頭がクリアになって余計なことを考える。どうしたらこういう仕上がりになるのだろうか、今の自分には想像もつかない姿の五人に、理解できないものへの侮蔑と恐怖で笑いそうになった。

「お金もってきた?」

 金髪の男が言った。

「はい」

 言って悠人は財布から三万円を取り出す。

 金髪の男は、しかめっ面で舌打ちした。

「もっともってねぇの?」

「え? 三万円って……」

「人数みりゃ分かんだろ。五万だよ!」

「き、聞いてないですよ」

「あーもう! いい。とりあえずさっきの財布出せよ」

 恫喝されて震えた手で、悠人は財布を取り出した。

「まじか、小銭しかねぇ。ゴミだな」

 金髪の男はそう言うと財布をひっくり返して小銭を手元に納めた。

「か、帰りの電車賃なんですが……」

 勇気を出して、悠人が言った。帰りの電車賃は、この河川敷の石の下に隠してある。しかし、状況を全て呑みこむ人間と思われてはこの先の要求がエスカレートしかねない。

「あ? うるせーよ。文句あんのかゴラァ!」

 悠人の顔が酷くひきつる。力の強い人間が、言葉の通じないヤバい奴だった。怒られている恐怖とどうしたらいいか定まらない恐怖で狂いそうになった。

 瞳を直視できなくて、視線を金髪の男の後方に向けると、鼻ピアスと茶髪の二人は笑っていた。弱いものがいたぶられて笑っているのか、金髪のイカレ具合に笑っているのか、どちらなのだろう。前からいる顔が縦長の男は本当に何もしないな、と現実逃避の思考を巡らせた。

「まぁいいだろ。三万って言ったんだから」

 後ろで見ていたニット帽の男から制止する声がかかった。

「はぁ。ちっ、分かったよ。拓也に感謝しろよ」

 そういって、金髪の男は手に持っていた小銭を悠人に投げた。

 名前、言ってよかったのかな。そんな感想が頭に浮かぶ。本人も気にしていないようなので、構わないのだろう。悠人は『拓也』という名前を頭に刻みつけた。

 去ろうとしていた金髪の男が、ふと立ち止まって振り向いた。

「あー。悠人。次五万な。来週ここで」

 ダメだ。予感はしていたが、飲めない。

「む、無理です! そんな大金!」

「あ? 無理じゃねーどうにかしろ。この写真。ばらまくぞ」

 金髪の男が携帯をかざす。それはあの晩、悠人が剥かれ、滑稽な姿で取られた写真だった。連絡先もすべて写し取られている。それをばらまかれたら、精神的に終わってしまう。だが、この抑制のきかない獣は、きっと通帳の金額がゼロになっても、要求を続ける。警察に捕まる想像ができず、捕まることをゴールに走り続けるような、そんな人間だった。でも、五人のうち、まともな人間もいるかもしれない。そう願って、悠人は食い下がる。

「通帳は親が持ってます。記帳も親がしています。下ろしたら、絶対にばれます」

「ばれねーように何とかしろっつってんだよ!」

「まあまあ。さすがにまずいだろ。リスクが高すぎる」

 またもや怒り出す金髪の男を茶髪の男がなだめに入った。この人であれば話がまともに通じるかもしれない。悠人は一縷の望みを抱いた。

「中学生から取るならお小遣いの範囲にしないと。だからお金じゃなくてさ、女の子紹介してよ」

 望みは打ち砕かれた。

「いや、無理ですよ。そんな知り合いいません」

「携帯かして」

 悠人の言葉に被せるように、お前の話はどうでもいいと言うような態度で要求する。悠人は言われるがまま、携帯を差し出した。

「ロック番号は?」

「1391」

 悠人に投げた問いに、後ろのニット帽が答えた。前回教えた番号を覚えていた。茶髪の男は悠人に優しく微笑んだ。

 男は携帯のロックを外すと、勝手にいじり始めた。プライベートな情報を閲覧されていることに、居た堪れない気持ち悪さがこみ上げる。

「うわー、ほんとに女っ気ないね。……『加藤里美』」

 名前を読み上げる。この人は誰? と、問う視線だった。

「……イベントでお世話になった人です」

「……『佐藤里奈』」

「…………学校の先輩です」

「…………『三島東子』」

「……同級生です」

 間が開いて、まだ誰か探しているのかと、悠人は携帯へ視線を上げる。すると、男の手は止まっていた。じっ、と悠人を見ていた。

「東子ちゃん。この子にしよう」

「……は?」

 頭が真っ白になる。

「だから、君が俺たちに紹介する子」

「い、いや来ませんよ。呼んでも」

「嘘でしょ」

 言われて、硬直する。悠人に向けられた画面にはトークの履歴が写っていた。

「嘘じゃなくてもいいけど、ためしに呼んでみれば分かるし」

 男は悠人の携帯を弄り始めた。

「別にさ、いいじゃん。ここで呼ばなかったら、あの写真がばらまかれるんだよ? 当然東子ちゃんにも。そしたらさ、東子ちゃんに絶対嫌われちゃうよ。付き合えないよ? 付き合えない女って意味ある? エッチできない女っている意味ある? でもさ、俺たちと合わせてくれたらさ、俺たちでやった後やらせてあげるよ。そしたら傷物どうし、これからも仲よくやって行けるようになるかもよ? ほら一石三鳥じゃん。ばらまかれない。やれる。付き合える。まあ、たまに借りるかもしれないけど」

 そう言うと五人の男たちは笑った。

 こいつらは何を言っているんだ?

 これが、同じ人間なのか?

 理解が追いつかず字面に対してそんな感想が浮かぶ。

 目の前の男たちの顔が目に入る。楽しそうな顔。これから起こる幸せなことに気味の悪い笑みを浮かべ鼻の下が伸びている。一番頭の悪そうな金髪の男に目が留まる。その股間が隆起しているのを見たところで、言葉と光景が起こりうるビジョンを結んだ。

「 ふざけるなっ!! 」

 悠人の激昂に五人はびくりと肩を震わせた。一瞬、五人の瞳に宿ったのは畏怖だった。

 その瞬間、悠人は目の前の男の手から自分の携帯を取り上げた。すぐさま振りかぶり、全力で川へと投げた。遠方で、携帯が飛沫を上げて川に沈んだ。

「……てんめぇ」

 畏怖したこと。ガキにしてやられたことに不良達がマジギレする。

 携帯を取り返された茶髪の男が、怒りを呑みこんだ。言葉にまんべんなく載せて吐きだす。

「今日はいい天気だなぁ!」

 仲間たちを振り返って続ける。

「いい絵が撮れそうじゃないか?」

 後ろの四人はその意図を理解し、悠人を睨んだ。

 恐怖心など、遥か下層でショートしてしまった悠人は、五人の視線を小揺るぎもせずに受け止めた。

「来いよ下種ども。相手になってやる」

 力のない子供への、一方的な蹂躙が始まった。


  ***


 店を出た清嗣たちはカラオケ屋に来ていた。

 二次会への参加者は百パーセントだった。人数が多すぎて六部屋に分かれている。部屋分けはボランティアの班をベースに決めていた。東子はエコ班の人たちと、清嗣はステージ班の人たちと一緒にいる。

「おーい。誰も入れてねーぞ」

 秀人が画面を見て文句を言う。

「もーネタ切れ」

「俺も」

 清嗣以外の三人はすでに満足したらしく歌う気がないようだった。

「しょうがねぇな。清嗣。お前はまだいけるだろ?」

「愚問だな。まだレパートリーの十分の一も消化していない」

「じゃあとりあえず、十連、行ってみようか」

「おいおい待て、疲れるじゃないか」

 秀人が差し出すデンモクを受け取って「かわりばんこだ。かわりばんこ」と清嗣は制した。

 清嗣がデンモクを操作して曲を探していると、秀人の携帯が鳴った。続けざまに清嗣とステージ班のもう一人の携帯が鳴る。清嗣はデンモクを置いて携帯を見た。

 清嗣の顔から、表情が滑り落ちた。

「……秀人、これ、どこだか分かるか?」

「赤江橋の下、かな」

「そうか」

 清嗣はすくっと立ち上がった。

「どうすんだ?」

 清嗣の背中に、秀人が投げやりに問う。


「 つぶす 」


 無機物を叩いて落ちた欠片のように、指向性のない無が零れ落ちた。ごくごく小さなその声は部屋の全員の耳に届き、心臓を凍らせた。

 室内から次の言葉が出る前に、清嗣は部屋を出て行った。


  ***


 外は黄金色に染まっていた。夕暮れ特有の、色のある日の光は地上を金と青に分断していた。そのツートーンを縫い上げるように、清嗣は一人、街の中を疾走した。

 電車を使わなくていい距離の場所で幸いだった。

 全力で走れば、まだ間に合う可能性がある。最短ルートを駆け抜けた。

 目的の橋を視界にとらえる。近くまで来ると、下卑た笑い声が聞こえてきた。

 一度足を止め、堤防上から橋の下を覗く。橋の支柱に背中を預けて座る悠人と、それを取り囲む五人の男の姿が見えた。一人の男が悠人の肩を踏みつけている。悠人は服を着ていたが、足を縛られているようだった。

 不良達の年齢は十代後半から二十代前半ぐらいだ。体格から見ても勝ち目はほとんどないだろう。しかし、清嗣は助走をつけ、全速力で堤防を駆け下りた。坂が作る勢いを殺さず、バランスを崩さないように集中する。平面ではありえない速度が出た。

 視界の端に動くものを捉えたのか、一人が清嗣の接近に気付く。しかし、もう遅い。高く飛び上がった清嗣は未だ背中を晒しているニット帽の男にドロップキックを放った。

「ぐへぁ!」

 ニット帽の体が平行に飛ぶ。悠人の真横。橋の支柱に上半身を打ち付けた。

 空中で体勢を整え、辛うじて両足で着地した清嗣は、曲げた足をばねに金髪の男へと襲いかかった。未だ茫然としている金髪の顔面に清嗣の拳が吸い込まれる。無防備な状態で貰った一撃に、金髪の男はそのまま昏倒した。

 そこで、男たちは敵が現れたことを理解する。不良なだけあって、暴力沙汰の経験はあるのだろう。清嗣の想定内ではあるが、早い方だった。

 清嗣は五人の中から体格の良い順番に伸した。が、残りも全員清嗣より大きい。とにかく次の一発。戦闘態勢に入っていない、一番近くにいた鼻ピアスの男の鳩尾に拳を叩き込む。

 男は苦痛に顔を歪めた。が、

「舐めんな!」

 男が手を伸ばす。辛うじて躱す。足で膝を蹴飛ばし間合いから抜けた。掴まれたら終わりだ。動きを止められたら、三人で羽交い絞めにされて終了。

 その間に三人の体勢が整ってしまう。清嗣は次の一手が出せなくなった。

「やってくれんなぁ。クソガキ」

 相手の背格好と三対一の構図を見て、鼻ピアスの男が優位性に笑う。

「てめぇ。こいつの仲間か?」

 親指で悠人を指す。

「そうだが?」

 清嗣の答えに、男は悠人を振り返って笑う。

「へぇ。いい仲間もってんなぁ? ま、自分の力も測れないバカみたいだけど」

「……清嗣さん……」

 悠人は嬉しいような、悲しいような、複雑な顔をしていた。

「清嗣さん。俺のことなんていい。逃げてください!」

 清嗣が悠人を一瞥する。

「いくら清嗣さんでも、無理です。一人で三人相手にするなんて」

 悲痛に叫ぶ悠人から、清嗣は目を離す。目の前の討つべき敵へ。

「断る」

「清嗣さん!」

「いや、そもそも逃がさねぇから」

 鼻ピアスの言葉に悠人が、ぐっと、息を呑みこむ。

「今度はこっちから行くぜ」

 そう言うと、三人の男は清嗣に襲いかかった。

 清嗣は相手の動きを見極め、拳を裁く。安定感のある身のこなしだったが、裁いているだけではすぐじり貧になるだろう。囲まれたら終わりだ。攻撃を入れる必要があった。

 目が慣れてきた頃、危険度を見極め、思い切って攻めにも転じる。まともに入ることもあったが、清嗣の体格では威力が足りなかった。結果、防戦一方。明らかに勝ち目は無かった。

 じれったくなったのか、目の前の男が思いっきり拳を揮う。カウンターのチャンスだった。横にそれて重心移動でためを作る。飛び出そうとした、その時、


「掴まえたぁ」


 倒れていた金髪の男が清嗣の足を掴んでいた。そのまま腕を横に投げる。清嗣は成すすべなく、転倒した。

 金髪の男が足を掴んだまま立ち上がった。足を振りかぶり、逆さに吊った清嗣の鳩尾をつま先で蹴り上げる。

「ぐはっ」

 重い一撃。呼吸が乱れて清嗣が咳き込む。

 金髪は足を離すと胸倉に持ち替えた。引き摺り上げて顔面を近づける。

「よくもやってくれたなぁ。てめぇ」

 金髪の男は唾を吐きかけた。それから、三回殴る。その後、見ていた三人の方へ、清嗣を投げ捨てた。

「お前らやれよ。俺は少し休憩する」

「おう」「腕が鳴るなぁ」

 三人が倒れた清嗣に集る。画して、蹂躙が始まった。

 その光景に悠人は目を見開いて、空気を食むように口を動かし、頭を抱えた。

 男たちの粗野な言葉が飛び交う中で、時節入る、清嗣のくぐもった呻き声が聞こえるたび、悠人の何かが削られていった。

「清嗣さんっ!」

 何かが削られていった先にある、覆われていた別の何かに刃が入った時、無力な絶叫が飛び出した。

 自分のせいで尊敬する人が目の前で汚されていく。その現実に、悠人は嘔吐きで自愛するしかなかった。


 ***


「オラッ! オラッ! 馬鹿にしやがって! オラッ!」

 もう、どのくらいの時間が経っただろうか。今は起き上がってきたニット帽の男がしきりに清嗣を踏みつけている。日の光は、未だ健在だった。

「はぁ……なぁ、こいつ持ち上げてくんねぇか」

 ニット帽の男が座って見ていた茶髪と顔が縦長の男に要求する。

「いいよ。あんなんやられたらなぁ」

「はは」

 二人は転がっている清嗣の左右に立つと両肩を持ち上げ、ニット帽の男の前に立てた。

 無理やり立たされた清嗣は、まるで干された雑巾のようにボロボロだった。

 自分を蹴り飛ばした人間のありさまに、ニット帽の男は笑う。

「いくぞ、オラ!」

「がっ!」

 思いっきり振りかぶった拳が清嗣の腹にめり込む。パンチングマシンでやるような打ち方だった。悠人がやられたら、一撃で昏倒したかもしれない。清嗣は辛うじて意識を保っているようだった。

「なぁ。意識飛んじまう前に撮影会しないか?」

 茶髪の男が当たり前のように口にする。

「ああ。剥くか」

 茫然自失としていた悠人の目に光が戻る。尊敬する清嗣にそんな恥辱を与える訳にはいかない。人との関係を大切にし、育んできた清嗣に、それを汚す行為をさせる訳にはいかない。それも自分が巻き込んだせいなら、耐えられない。

「やめろ! やめてくれぇ!」

 悠人が叫ぶ。音量の問題で、五人はうざったそうに視線を向けた。

「いや、もうお前の出る幕じゃないから」

 茶髪が代表して、相手にしてやった。

「悠人」

 ずっとまともな言葉を出していなかった清嗣の声に、今度は興味を持って、全員の視線が集まる。

「気にするな」

 その声には、清嗣の気高さの、少しの減衰も見られなかった。これだけ痛めつけられ、罵倒され、屈辱的な写真まで撮られようとしているのに。

 その姿には、不良達は勿論、悠人までもが気味の悪さを感じた。

「気にしないわけないじゃないですか! ダメです。そんなの、絶対に!」

 憔悴し、地面を見ていた清嗣は、そこで悠人に視線を向けた。

「悠人。お前は俺が恥ずかしい写真を撮られて見せられたとき、なんて思う。軽蔑するか? 笑うか?」

「ありえません!」

 考えるより先に、口が動いた。

「ありがとう。俺は仲間を、皆そう思ってくれる奴だと信じている。なら、恐れる必要はない」

「てめぇ何分けわかんねぇことゴチャゴチャ言ってんだよ」

 未だに闘志を燃やしている気味の悪い子供の顔に、ニット帽の男が拳を打ち付けた。

 清嗣の前髪を引っ張り上げて顔を突き合わせる。

「自分の立場分かってんのか?」

「分かってるさ」

 清嗣が凛として答える。瞳に宿るのは澄み渡る闘気と敵意。夕陽によるものか、金色に光って見える。心は折れるどころか傷一つ付いていないようだった。

「貴方たちこそ、自分の立場を分かっておくべきだった」

 ニット帽の男が眉を寄せ、唾を吐き捨てる。清嗣の頭を投げ捨てた。

「会話はダメだ。頭おかしい。もう剥くぞ」

「だな」

 言って、清嗣の左肩を持っていた茶髪が清嗣を脱がせようと裾を掴んだ。

「清嗣さん!」

 抵抗すらしない様子の清嗣に、悠人が声を上げた。――その時だった。

「げはっ」

 服に手をかけていた茶髪が横転する。

 何が起こったのか、不良達が茫然とする。その間に、

「ぐっ」

「ヴぇ」

 清嗣を掴んでいた顔が縦長の男と近くにいた鼻ピアスの男から悲鳴が上がった。

 ニット帽の男がその光景を見る。男たちを転倒させ、その後地面に転がったものへと視線を向けた。

「ボール……?」

 それは、硬式野球のボールだった。

「助かりました。真壁まかべさん」

 清嗣が堤防上へと声をかけた。

「いや、すまん。遅れた」

 答えたのはユニフォーム姿の少年、清嗣の中学でエースを張る真壁だ。

 その後ろに、同じユニフォームの少年達が集っている。ボールを握るベンチメンバーからボール籠を運搬する下級生まで、野球部全員がそろっていた。

 エースの投球を体で受けた男たちはまだ現状が呑みこめず、危機回避の本能でニット帽の男の後ろまで逃げた。その時、

 ――バシャ

 一条の光が不良達の目を焼いた。

「こんばんわー。不良さんたち。おぉ、いい間抜け面ですね~」

 手にした一眼レフカメラの画像を確認しながら、恐れ知らずなことを言う少女。新聞部部長の高崎たかさきだ。

「やほー。清嗣君。いいネタ提供してくれてありがとー。あとで取材の協力もお願いねー」

「ああ。いいよ」

 清嗣のボロボロな姿を物珍しそうに眺める少女。場違いに非力な少女の登場に、茶髪の男が走り出した。狙いは高崎。カメラと、あわよくば人質にすることを考えていた。しかし、

「小手ぇ!」

 伸ばした手を打たれ、茶髪の男は悲鳴を上げて後退した。

 突如、高崎の前に割って入ったのは剣道部の部長、片倉かたくらだ。その後、道着に身を包んだ人々が壁を作るように雪崩れこんだ。

「大丈夫か。清嗣」

「はい。おかげさまで。片倉さん」

 剣道部の間からひょこひょこと高崎の腕が伸びる。いい隙間を見つけて顔を出した。

「あーあー。茶髪君。このカメラだけならね。盗ってもあんまり意味ないよ」

 目が合うと、「上を見るのだー」と言って堤防上を指差した。

 ――バシャ、バシャ

「この望遠レンズからは誰も逃れることはできない」

「あらあら、今日は凄い張り切り様ね」

 長大なカメラをライフルのように構える少女とその隣でハンディカメラを回す少女がいた。写真部の変人、黒川くろかわと部長の吉沢よしざわだった。

 見るとその他にも、堤防には続々と人が集まって来ていた。

 柔道部、サッカー部、陸上部、レスリング部、テニス部、卓球部、その他制服の少年少女たち。

 その中から、一人、偉そうな少年が姿を現す。堤防の上から場を観覧した。

「派手にやられたなぁ」

 秀人だ。ニヒルな笑みを、清嗣に向ける。

「一人で突っ込むからだぞ?」

「逃げられるわけにはいかなかった」

「俺が皆を呼ばなかったらどうする気だったんだ?」

「そんな想定はしていない」

「はぁ、信じられてるねぇ。……総勢二百五十、戦闘員百五十ってところだ。しがらみの多い大人は省いた。俺らのネットワークで今用意できる限界人数だが、行けるか?」

「十分だ」

 清嗣の返答に秀人は頷く。

「あと、手土産だ」

 秀人が袋から二つの金属塊を取り出した。

「ほらよ」

 投げられた金属塊を清嗣は直接キャッチする。それは手に握り、打撃力を高めることができる武器、ナックルダスターだ。

 与えるダメージが足りなかった清嗣に、ちょうど良い得物だった。

「ありがたく使わせてもらう」

 清嗣が不良達の方に向く。皆、非現実的な光景に顔を引きつらせていた。

 もはや堤防の芝生は人の姿で見えなくなり、二百人を超える人々に不良達は囲まれていた。

 その中央、先頭で、清嗣はナックルダスターを手に馴染ませながら語りだした。

「俺は強くなるために心掛けていることがある。――それは善人であることだ」

 清嗣が顔を上げる。視線が合ったニット帽の男は、満身創痍なはずのその男の瞳に呑まれる。

「俺の定義する善人とは、各個人にとって都合のいい人間のこと。逆に悪人とは、他人の都合を悪くする人のこと――」

 清嗣の瞳は、先ほど殴り倒されていた時と変わっていない。仲間の登場に興奮するでもなく、それが当たり前かのように受け入れている。ニット帽の男が呑まれたのは、彼の心の方が弱っていたからだ。

「善人は人に愛される。故に強い。悪人は人に嫌われる。故に弱い――。悪人は自分を強いと思うかもしれない。自分の都合で相手を傷つけるから、イニシアチブを握っている感覚は得られるだろう。だが、それは小規模なコミュニティーでしか成立しない。そして、刹那的な物だ」

 そして、ニット帽の男は殴られていた時の清嗣に感じていた気味の悪さ、その理由に気付く。

「貴方は俺に自分の立場が分かっているかと聞いた。イニシアチブを握っているのは俺らだ。そういう意味だろう?」

 それは、清嗣が一人で戦った結果をまるで考慮に入れていなかったからだ。ボロボロにされることは清嗣の描く、勝利への軌跡。その序章だった。

「俺は分かっていると答えた。でもそれは、貴方と同じ意味ではない。。戦う前から変わらない立場について言ったんだ」

 清嗣は福音を述べる。


「人に嫌われる悪が、人に愛される善を犯したらどうなるか、今から骨身に刻んでやる」


 清嗣は手の甲を向い合せる。そして、ナックルダスターを思いっきり打ち鳴らした。

 キィーンと高い金属音が堤防にこだまする。後ろに控えた人々が一様に閉口する。堤防が静寂に包まれた。

 清嗣が右腕を上げる。御旗のように。夕陽を反射する金属の光が、皆の集うべき印になる。清嗣が、大音声を上げた。

「俺たちの仲間が辱めを受けた! 笑った者は下がれ! 怒りを覚えた者は前へ出ろ!」

 清嗣の言葉に、人波が迫った。前進しないものは一人もいなかった。

「俺は彼らを許さない! 仲間の復讐を誓う者は前へ出ろ!」

 再び、人波が迫る。怒り、悲しみ、憐み、場に居合わせた者のあらゆる感情が、その二言目で敵意へと収束する。

 二百対を超える視線が、五人に刺さった。その様そうに、不良達の背に冷や汗が流れる。

 清嗣が、不良達を睥睨して言う。

「見ろ。これが『』だ」

 朱金の空を背に立つ、その姿は太陽の化身だった。人の皮を被った何か。未熟な体つきに、もう弱さを感じることはできない。むしろ未熟な体だからこそ、得体の知れない恐怖が湧く。黄金に輝く瞳が揺らめいた。


「 総員! 我に続けぇ!! 」


「「「「「「「「うおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」」」」」」」」


 鬨の声を上げ襲いかかる義勇兵。満身創痍な清嗣の『』にその士気は極限にまで高まった。

「ガキに舐められてたまるかよ!」

 ニット帽の男が年長者のプライドを持ち迎え撃つ。

 数秒と持たず、雪崩に消えた。

 凄惨な光景。金髪の怒号が飛ぶ。すぐに鳴き止んだ。個の強さでどうにかなる問題じゃない。その様はまさしく雪崩。質量が人を蹂躙する。

「は、はは……」

 茶髪の男が乾いた笑いを漏らす。三秒後、彼の意識は途絶えた。

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