第7話

 仰向けになって見上げる空は美しかった。東の濃紺と西の橙。真上に広がる紫。何も無いようで、幾層にも重なったような重厚感がある。何もないのにすべてがある。そんな感慨を起こす。自分の成したことも、ひいては自分の存在も、ちっぽけだなぁと改めて自覚した。

 熱くなった体を夏の夜の温い風がくすぐる。地面はひんやりと心地よくて、眠気を誘った。満身創痍も手伝って、土に還りそうだ。

「おつかれさん」

 自分に向けられた声に、清嗣が西側へ首を倒す。秀人がいた。

「ああ。お疲れ様。皆は? 怪我してるやつはいないか?」

「大丈夫だよ。相手は戦意喪失でまともにやりあっていない。ボロボロなのはお前だけ」

「そうか。良かった」

「むしろ、お前にけがさせちまったことを悔いているよ。皆」

「そうか。いい仲間をもった」

「正確には、お前がいい仲間にしているんだがな」

 清嗣は体を起こし、周りを見た。

 皆勝利に酔っているようで動きも声も騒がしい。

 悠人の周りには人が集まっていた。足を縛っていたロープは解いたが、まだ立てないようで、背中を支柱に預けている。囲む皆の表情を見るに、優しい言葉をかけているのだと思う。

 人だかりはもう一つ。不良達の方にもあった。不良達は悠人と同じ目に遭わされ、今は追加で、どんな制裁を加えるか談義が成されていた。

 最初は殺意すら滾らせるものがいたが、清嗣が命に関わることだけはするなと注意していたので、過激な発案は無くなっていると思う。命を取るな、とは当たり前の言葉のようだが、命を鑑みられず暴行を受けた清嗣の身から出た言葉と考えれば、慈悲深い裁定だった。

 歓喜の叫びと共に人だかりが動き始める。何かが決まったようだ。時節「びーえる」だとか「うけ」だとか聞こえてくるが、清嗣には分からなかった。秀人の顔が引いているのを見るに、結構過激なことのように思える。大丈夫だろうか? 仲間が重罪を背負わないかと清嗣は本気で心配した。

「悠人」

 決して大きくは無い声。しかし、決意を込めたその声は、清嗣の耳に響く。

 東子だ。姿を見せた東子に、里奈は気を使って悠人から皆を引きはがした。

 二人だけの空間になる。東子は悠人を決意の眼差しで見つめる。

 悠人は目を逸らして、表情を消した。

 お互い、何も言えずに固まっていた。数秒の沈黙の後、先に口を開いたのは悠人だった。

「……写真、見た?」

「……うん」

「そっか」

 再び、重苦しい沈黙が降りる。

「……情けないよな」

「情けなくなんか、ないよ。……別に、あの写真で悠人をどう思うとか、ないよ。でもさ、そうじゃなくってさ……っ」

 感情はぐちゃぐちゃなまま、こみ上げてくる熱に浮かされて東子は言う。

「どうして、どうして相談してくれなかったのっ!? 私は、私はっ……悠人にとって、なんでもないの……っ?」

 東子の目から涙が落ちる。

 悠人が無関心な鉄面皮を維持できなくなって、眉根を寄せた。

「なんでもなくなんて、ないさ……!」

 前髪を握りつぶして感情を抑え込む。

「なんでもなくないから、こんなに苦しいんだよ……!」

「……ぇ?」

 悠人の意地が決壊する。

「守りたかった! お前を守れるような、強い男になりたかったっ! でもダメなんだよ。俺は、いつもお前に守られる! 守られて、安心すらするんだ! 挙句の果てに、今日、お前を取り返しのつかない事件に巻き込むところだったっ!!」

 全力で吐露してふらつく頭を、手で押さえて脱力に耐えた。

「俺は……弱い……強くなるにはお前に守られなくちゃならない……本末転倒なんだ……」

 弱音を晒して、気持ちを軽くした悠人。ここでもまた東子に頼る。東子に晒して楽になる。東子には関わらない。そう、決意したのに、また――。そんな自分に辟易する。まるで寄生虫だ。

「悠人は……弱くないよ。それに、私はいつも悠人に守られてた」

 東子の声は優しかった。静かで、温かくて――次に出てきそうな言葉を、言語化する前に頭から消した。

「昔、私が落ち込んでいた時、色んな人が励ましてくれたことがあった。東子は悪くないって。とても嬉しかった。でもね、悠人は私を叱った。あらゆる理由を述べ連ねて。……私、怒ったよ。それで喧嘩した。でもね、後でとても嬉しくなった。皆が慰めてくれた時よりも、ずっと。その理由には、最後まで納得できないこともあったけど、ちゃんと考えて、思ったことを口にしてくれたから」

 東子は丁寧に言葉を紡いだ。今までの全部を話すのは、この時だと思って。

「悠人はちゃんと考えて答えを出す人。自分の正しいと思ったことに正直な人。ダメだと思ったことに妥協できない誠実な人。だから、悠人は背負いすぎる。背負いすぎて、行動に移せないだけ。弱いわけじゃないんだよ」

 人は弱さをうやむやにする。言い訳だったり、見て見ぬふりをしたりして、自分を守る。でも悠人は自分の弱さを受け止める。受け止めきって負ける。だから、守れないなんて理由で屈する。相手に何も与えられないのに、その相手に何かを求めることに不誠実さを感じる。東子が女だから、男の自分は守れる人間であらねばならないと決めつけているのだ。

「この前バケツ倒して、私が皆に謝ったことあったでしょ? あれは悠人がいたから謝れたんだよ。どんなことをやっても、ちゃんと見てくれている悠人がいるから、余計なことは考えず、やるべきと思ったことに踏み出せた」

 東子は気の弱い人間だった。人見知りする方だった。それこそ、ボランティアでエコ班を選んだ理由が『一番、人前に出ることが少なそうだったから』と話したように。人の目が気になる。自分の行動の意図が他者にどう伝わるのか分からないことを恐れる。でも悠人がいると、東子は怖くなくなった。

 悠人はダメなことはダメと言い、一つの間違いだけで人の評価を下げない。今までの全部の一要素として取り込んで、見知らぬ相手の失敗なら、評価もしなかった。

「悠人といるといろんなことができるようになる。同じ景色が違って見える。一緒ならどこまでだって行ける。そう思えた」

 悠人の前でだけは、東子は素の自分でいられた。取り繕わないで、心の赴くまま走って、無防備なのに、転びそうになったら、そっと隣で支えてくれるから。

「でも中学生になってから、悠人は私と距離を取るようになった。このまま別々になっちゃうのかなって怖くなった。私は近づく理由が欲しくて、悠人に必要な人と思われたくて、お姉さんぶった。今になってそれが、悠人を追い詰めてたって分かったけど……ごめん」

 東子を守る力を欲していた悠人に、守ってあげれば必要とされると思って、東子は尽くしてしまっていた。とても皮肉な行き違いだった。

「悠人? 悠人は私に守られたって言ったでしょ? でもね、それは悠人が私を守ってくれてたからなんだよ? 悠人が私を、強くしてくれたんだよ?」

 東子の言葉に、悠人は目を見開いた。

 悠人が守りたいと思っていたのとは別の方向で、悠人は東子を守っていた。悠人が自分の弱さだと思っていたところが、知らないうちに東子を守っていた。

 東子がしゃがむ。目線を合わせて問う。

「悠人……私を守りたかったのは、幼馴染に対する義務感? それとも、異性に対する、気持ち?」

 東子の瞳がふるふると揺れる。恐れと願いを込めた艶っぽい眼差しだった。

 こんな俺でいいのか。そんな資格あるのか。悠人の頭の中に言葉が飛ぶ。でも、それは、東子がちゃんと話してくれた。聞き返すのは安心したい自己満足だ。だから率直に解を出す。

「好きだよ。東子。……大好きだ」

 口にしたとき、何かが弾けた。温かいものが全身を包んだ。目の前の一人の女の子が可愛くて、愛おしくて、たまらなかった。

「悠人、私も……私も、大好き」

 東子が悠人の胸元に入る。手を悠人の後ろの地面に付く。肩をぶつけて、下から見上げる。目が合うと、繋がる何かがあって、どちらともなく唇を重ねた。

 愛が、息苦しかった。幸せの燃料が過剰で、行為が追い付かなかった。その先はイケナイことで、だから窒息しないように、強く抱きしめて、唇を長く重ね続けた。

 幸せになった二人を、清嗣は離れた所で見届ける。そして、清嗣は満足気に、空へと視線を移した。


***


「中一でキスってどうなんだろ」

 三秒後、清嗣が場違いな感想を漏らす。

「焚き付けたのはお前だからなー」

「うむ」

「隣はもっとやばいぞ」

 言われるがまま、清嗣は視線を投げた。

「……同じカットで見たくなかった」

「同感だ」

「カルチャーショックだー」

 清嗣は再び、仰向けで寝ころんだ。

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比翼の鳥 月浦賞人 @beloved

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