第3話

 ある日、悠人は東子の家に招かれた。

 宿題を一緒にしよう。ということだった。

 最初は断ろうかと思ったけれど、清嗣の言葉を思い出し、了承した。

 最近はボランティアの活動を精力的に行っているが、今は夏休みだ。元来、主題をしたり、遊んだりで忙しい。

 悠人は帰宅部。東子は写真部に入っているが、夏休み期間中の活動はお互いほとんどなかった。

 悠人は支度をして家を出る。三十秒で目的地に付いた。

 勝手の知っている家だ。小学生の時にはよく遊びに来ていた。高学年になって性別を意識するようになってから、来ることは少なくなった。

 チャイムを押し、しばし待つ。「はーい」と東子の声がしてドアが開いた。

「どうぞー」

「こんにちは。おじゃましまーす」

 前の言葉は東子に、後の言葉は奥にいる東子の母に言った。「はーい」と返答がある。

「こんにちは」

 東子も少し気恥ずかしそうに返した。久しぶりの東子の家で、悠人もその様子に共感する。

 東子の姿は珍しくノースリーブのシャツにホットパンツだった。普段外で見る時は半袖長ズボンのイメージがある。家ではこういう服装なのかと少し驚いた。

 露出が多い方が涼しいし、女性は日焼け対策があるから皆そんなもんかな、と悠人は結論付け、納得した。

 でも。それとは別で、目のやり場に困る。

 東子を見ようとすると、肌色が目につく。小学生の時なら何とも思わなかっただろうに、今は生理現象で肌色に視線が吸い込まれそうになる。必死で抵抗していると、

「悠人?」

「っわぁ!」

「!?」

 東子が目を覗きこんできた。悠人の素っ頓狂な声に東子も驚いている。心臓がバクバクとしてやましいこともしてないのにやましい気持ちになる。いや、やましい目で見かけたからやましい気持ちになっているのだろう。悠人は思春期の衝動を隠すため言葉を発した。

「な、なんか気恥ずかしいな」

「あ、うん。そうだね」

 お互いに感じていただろう気持ちを使って、うまく隠した。東子はより恥ずかしそうにして、手首をさすった。

 ――かわいい。

 何を考えているんだ、俺は! 人の家で。奥に親がいるのに!

 悠人は心の中で自分を罵倒した。

「じゃあ、私の部屋、いこっか」

 まだ恥ずかしさが抜けない様子で、上目遣いで悠人を誘う。

 もうダメな気がした。


 ***


 東子に部屋へ通されると、「飲み物持ってくるね」と言って悠人を残し、階段を下りて行った。

 部屋に一人、取り残さる。

 部屋の真ん中にあるテーブルの前で胡坐をかく悠人は、落ち着きなく足首を動かして、視線もそれに据えた。

 何度も通った部屋だった。一年間来ていない東子の部屋は今どうなっているのだろう。興味がある。でも、部屋を眺めることに躊躇いを覚える。

 昔は興味を持ったことならどんなことでもすぐにやっていた。でも、成長するにつれ、だんだん遠慮を覚えてくる。自分の立場を考える。

 そもそもなぜ、興味が湧くのか、小学生の自分でも思っていただろう「久しぶりだから」という理由もある。でも、今はそれ以外の、成長してから生まれた、やましい気持ちがある。きっと視線を巡らせれば、ぼーっと見て懐かしんだり、差異を探したりするのではなく、一つ一つの物に目を留めて、自分にとっての価値をつける。今も鼻腔をくすぐっている、拒みようのない家の臭いも、「東子の家の臭い」というワードに、昔は乗らなかった他意が乗っている。それは止めようと思って止められるものではなく、本能だった。

 部屋を見る行為は一方的で、付き合っているわけでもない女性に、しかも「昔みたいに」を望んで招いている相手に対して、そういう気持ちで見ることは、酷く後ろめたく感じた。

 変わらないものなんてない。でも、変わるスピードは違う。特に今は第二次成長期で、そのオンオフが価値観に大きな差を生む。「昔はずっと一緒だった」と言う東子。「もう中学生だ」と言う悠人。その差が悠人に複雑な感情を抱かせた。

「ゆうとー。あけてー」

 扉の外から東子の声がかかった。

 悠人はぎこちなく立ち上がり、扉を開けた。

 東子はトレイにウーロン茶を載せて持ってきた。両手が塞がっていたから、悠人を呼んだようだ。

「ありがと」

 東子が笑う。

 変なことを考えていたせいで余計に意識する。昔と同じ笑顔を別の自分が評価する。

 東子はテーブルまで行くとウーロン茶を置いた。東子が座り、悠人は元の位置、東子の対面に座る。

 沈黙が、降りてしまう。

 昔だったらどうしていただろう。今日招かれた理由は宿題だ。だから宿題を広げるのが無難な気がする。でも、人と人とが会っているのだから、会話からスタートすべきなのだろうか。昔を尊ぶ東子に任せれば、自然な流れで過ごせると思ったのだけれど。

 東子の様子を見てみる。

 緊張しているようだった。想定と違う。

 悠人が再び色々と考えている間に、先に東子が決断したようで、

「……宿題、しよっか」

「おう」

 お互いの緊張が解け、悠人はすぐに鞄の中身を漁り始めた。東子は立ち上がり、学習机へ宿題を取りに行く。

「悠人は何かやってた?」

「数学と化学を半分くらい」

「そっか、私は現国と英語は終わらせたから、数学やろうかな」

 東子は数学の宿題を探し始めた。

 ふと、気が緩んだからか、悠人は視界に入った東子に吸い寄せられるように目を向けた。

 ホットパンツから伸びている足に目が留まる。東子は机の方を向いていて、後ろ姿を無防備にさらしていた。白く、柔らかな印象を与える脚が上半身の動きに合わせて揺れた。

 東子が数学の教科書とノート、課題のプリントを揃えて振り向いた。

 直前に、バッと音を立てそうな勢いで手元に視線を落とす。心臓がバクバクする。

 東子の近づく音が、自分を糾弾しているように聞こえた。

「悠人はどうする? 現国と英語だったら教えられるよ」

「あ、ああそうだな。どっちかにするよ」

 手元に現国が見えたのでそれを引っ張り出す。

 机に置いた。「ああ」とぎこちない動きで筆記用具も出す。

「悠人?」

 悠人の奇行に、東子が訝しんだ声を投げる。

「あ、ああ、何?」

 視線を合わせる。一秒でずらした。視線が安定の地を探して彷徨う。細い首筋、汗を溜めた鎖骨、すらりと伸びる腕。ギブアップした。

「ごめん」

「ん?」

「服……着てください……」

「…………エッチ……」

「!? ……っ!?」


 ***


 午後三時。宿題の手を止め休憩することになった。

 机の上から勉強道具は片づけられ、クッキーとアイスティーが置かれている。

 朝からずっと宿題をやって、想像以上に進んでいた。

 悠人が普段一人で勉強をするときは、これほど長時間は続けられなかった。だが二人でやっているとサボるにサボれなくなる。集中している東子を邪魔するのも悪いし、何より、負けた気になるので頑張れた。分からない所はお互いに聞き合えて効率も良かったように思う。

 お昼も東子の家でご馳走になった。久しぶりに悠人が遊びに来たことで、東子の母も歓迎してくれた。

 充足感を得ながら悠人がアイスティーを飲む。疲労した頭に心地よく滲みた。

「世界フェスタってどういう感じなのかな? 悠人は行ったことある?」

 クッキーを啄みながら、東子が聞いた。

「いや、ない」

「そっか。有名人とか来るのかな?」

「ないんじゃないか? 来るならチラシに書くだろ」

「じゃあ学校祭みたいな感じ?」

「どうだろ」

 悠人はふと疑問だったことを思い出す。

「そう言えば、何でエコ班にしたの?」

 東子はびくりとした。そして目を逸らし、再び合わせる。

「言わなきゃ、ダメ?」

「俺が聞いたら怒るようなことか?」

「……かも」

「何言われても怒らないよ。それでも言えないなら、別にいいけど」

 悠人の言葉と様子を吟味して、東子は逡巡しながら答えた。

「一番、人前に出ることが少なそうだったから」

 東子は悠人の反応を恐れながら待った。

 それは、悠人と同じ理由だった。

 悠人は思う。確かに、前の自分だったら傷ついた可能性は高かった。東子に怒ることはしないだろうけれど。

 東子は前の言葉がトラウマになっているのだろう。「そんな勇気あるわけない」そう言って、悠人を激昂させたから。

 本当に、自分勝手な怒りだった。悠人は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 悠人は東子に手を伸ばした。東子が怯えて、目がキュッと瞑られる。

 本当に、こんなになってしまうような、酷い記憶を作ってしまったなんて。

 悠人は優しく、東子の頭に手を置いた。

 東子は驚いた様子で目を開く。瞳には涙が溜まっていた。

「ごめんな。ほんとごめん」

 悠人はそのまま優しく撫でてやる。

「もう。大丈夫だから。怒ったりしない」

 ずっと撫でていると東子が安心したように笑みを見せた。

「うん」

 その返事を聞いて、悠人は東子から手を離した。

「今度またお詫びをするよ。クレープなんかじゃ割に合わないだろ」

「いいよ。クレープ、美味しかったよ?」

 東子は手を振って辞退した。が、

「あ、やっぱり一つ、いいかな……?」

「いいよ」

 東子は一呼吸置いて、少しだけ緊張した声音で、言う。

「もし、世界フェスタで自由時間あったらさ、一緒に、回ってくれる……?」

 上目遣いで様子をうかがう東子に、

「そんなんでいいのか? まぁ……いいよ。休憩時間、合えばな」

 照れを隠すように、悠人は起伏のない声で返した。

「うん」

 悠人の応えに、東子は満面の笑みを浮かべた。

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