第4話
イベント本番四日前、最初は集まりの悪かった人たちも今は半数以上の人たちが来るようになっていた。制作物完成の目途が付き始め、どの班も追い込みにかかっている。
「あれ、ここ何センチ開けるんでしたっけ?」
「あー三十です。グラフは五十ですよ」
エコ班は森林伐採の推移表と地球の塗り絵を並行して手掛けていた。推移表は壁一面に貼れるサイズにするために模造紙を張り合わせており、今は製図に明るい山下さんが書いた設計図を基に、皆で作っていた。
地球を模した塗り絵は小学校の運動会の大玉ころがしで使うような、直径一メートル程のビニールボールを使うことにしていた。今は山下さんが一人で、世界地図を片手に線画を書いている。
「悠人君。そっちの下書き終わったら、こっちの色塗りやってもらっていいかな」
「はい」
「東子ちゃんも、それ終わったら色塗りね」
「はい。分かりました」
活動日のほぼすべてに参加していた悠人と東子は、エコ班にいるほとんどの人達と話せるようになっていた。
有志で集まっただけあって皆優しく、人と関わることが好きな人達だった。そんな温かさに当てられて、初めは緊張していた悠人と東子もすぐに打ち解けることができた。
真剣に取り組んでいるとあっという間に時間は過ぎ、気付けば正午になっていた。
時計を見て、班長が声をかける。
「皆さん。お昼にしましょう。続きは一時からにします」
作業をしていた人たちから息抜きの声が漏れる。黙ってやっていた訳ではないけれど、皆集中して作業をしていたため、休憩に入った時の声は一層大きく聞こえた。
「悠人ー。ご飯食べに行こー」
「おー」
後ろから東子に呼ばれ、悠人が振り向いた。その時だった。
バシャと後ろで音がした。手に何か触れた感覚と連動した音。確信的な予感を覚えながら、手元を見る。
絵の具で色を塗っていた際、使っていたバケツが倒れていた。
室内の空気が、固まった。
予定調和に悠人の背筋が凍る。自分の犯した罪に、頭が一瞬理解を拒む。ただ目の前にはどうしようもない現実が広がっていて、唾を呑みこみ、受け入れた。
とにかく、謝らなければ。
「ご……」
「ごめんなさい!」
誠意のこもった声が、先に響く。頭を九十度倒し、謝っていたのは東子だった。
東子にも原因の一端はあるかもしれない。でも、直接被害を与えたのは悠人だ。悠人もすぐに頭を下げる。
「ごめんなさい!」
東子が先に謝ってくれたことで、はっきり、ちゃんと謝ることができた。謝りやすかった。でも口にして、心の片隅に余裕ができた瞬間、暗い感情が萌芽した。
「いいよいいよ。大丈夫! まだ直せるから」
班長が優しく言ってくれる。
「そんな大事じゃないから。二人とも顔を上げて」
作成の指揮をしていた三原さんにそう言われ、悠人と東子は顔を上げた。
皆も笑顔で許してくれていた。
「すみません。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」
東子がそう言うと、皆頷いて受け入れた。
「じゃあ午後も、皆で力を合わせて頑張りましょう」
班長が締めると、それぞれ昼食を取りに散らばった。
悠人と東子は責任を感じて残った。
「濡れたとこ切って張り替えて置くから、二人もごはん食べといで」
班長が二人を昼食へ促す。
「何か手伝えることはありませんか?」
東子の申し出に班長は答えた。
「んー、じゃあ、体の緊張を解いて、午後に備えて」
笑顔の班長にそれ以上は言えず、二人はその言葉に甘えることにした。
「すみません。ありがとうございます。……悠人、行こう?」
自制を効かせた声で、東子は誘った。
「うん」
悠人は返事を返し、東子に続いた。
『人の強さはできることで決まる。できないことは悲観せず、できることを誇ればいい』それは清嗣から教わった強さ。
強くなれれば、全部うまくいくと思った。でも、できないことに、強くなりたい理由があった。できないことを受け入れることで強くなってしまった。
もうどうしたらいいか、分からなくなった。
***
失敗の責任を取ろうと、東子は悠人と共に最後まで作業を手伝った。時刻は二十時を回っていた。
「お疲れ様でした」
片づけを終え、最後まで残っていた班長と副班長、山下さんに挨拶をし、東子と悠人は部屋を出た。
ホールを抜けて外に出ると、空は真っ暗になっていた。
普段は外出しない時間帯。外にいることに疎外感を覚える。真新しさを二人で共有するような溌剌とした空気もそこにはなかった。肌にまとわりつく湿気が、やけに強く感じられた。
悠人が失態を犯した直後の昼休み。暗く沈んだ様子の悠人を見て、東子は元気づけようとした。悠人は東子に励まされ、失敗については消化できた様子だった。しかし、その後も暗さは消えることなく、落ち込み方も今までとは違うように見えた。悩み、葛藤する様子ではなく、疲弊して擦り切れたような、活力を感じさせない様子だった。うまくいかないストレスが放散することなく、決定的な論理が心をグサグサ刺し回っているかのような、見た者に憐みを抱かせる姿だった。
正門から抜けた所で、悠人が足を止めた。
「東子、俺今日一人で帰っていいかな」
悠人の言葉に、具体的な憔悴の形に、東子の胸がぎぃと痛む。
「うん。いいよ。……気を付けて帰ってね」
東子は暗く、優しい声で送り出した。
「じゃあ、また今度」
「うん。またね」
東子の返事を聞くと、悠人は走って先に行った。
***
いつもは地下鉄を利用して、JRに乗り換えて帰っていた。悠人は今回、地下鉄は使わず、直接JRの駅へ向かう道を歩いていた。
――間違いだっただろうか。
東子を置いてきたことを思い、悠人は自分に問う。
こんな時間に、女の子を一人置いてきた。それはあからさまな間違いだと思う。
でも、一人になりたかった。何か解決する目途は立っていないけれど、歩いていると心は少し軽くなり、ふと妙案が思いついたりすることがある。隣に東子がいては気を張ってしまって落ち着けない。
でも、間違いだっただろう。理由はどうあれ。
間違いと判断した。なら今、連絡を取って戻るか。
そうする気にはならなかった。だから、行動の評価を変える。
『モラルよりもエゴを優先した。』
そう思うと、自嘲的な笑いが出た。
そのまま歩みを進め、解決のないまま、駅までの距離を半分ほど消化したときだった。
「よぉーひさしぶりー。元気してたー?」
高校生か、大学生ぐらいの男に声をかけられた。初対面だ。金髪で赤いパーカーとスウェットを着ている。見るからにそういう人だった。他に二人いた。黒いニット帽とサングラスが特徴的な男。顔が縦長の男。ニット帽の男が出てきて悠人の肩を抱く。
「ちょっとこっち来いよ」
耳元で囁かれて、路地裏の方へ連行される。
嫌な時に嫌なことは重なるものだな、と悠人は思った。
東子、大丈夫かな。
現実逃避か、素の心配か、悠人は東子の身を案じた。
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