終章 冬の蝶
二人がたどり着いた砂浜は、観覧会場の海岸通りへはまだ遠い場所だった。しかし視界を遮るものがないお陰で、離れていてもよく見える。
幾重にも重なる赤や緑、黄金色の花の輪が暗い夜空を彩っていた。息を尽く間もないほど次から次へと花火が上がる。人々の歓声の代わりに、絶え間ない波音に包まれながら、二人は寄り添うように波打ち際に立ち尽くした。
「すごい……」
打ち据えるような潮風の中、凍えるほどの寒さを忘れて蒼鷹は見惚れた。傍らの慶花も空を見上げたまま動かない。
「……すごくきれいだね」
放心したように慶花が呟く。
「うん、きれいだ」
甘く暖かい気持ちに満たされながら、蒼鷹は頷いた。
ただ彼女が隣に居ることが嬉しかった。いつも隣に彼女がいてくれれば、それだけでいいのだと気がついた。
心を覆う薄靄が、少しずつ晴れていくようだ。
そばにいて欲しい。ずっと。
真っ直ぐ向かい合ってようやく気付いた自分の気持ちは、呆れるくらい単純なものだった。
次第に花火の連打の勢いが弱まっていった。そろそろ終焉なのだろう。
「蒼鷹」
「うん?」
空を見上げたまま、生返事を返す。
「待っていてくれて、ありがとう」
真っ直ぐに耳に届いたその声に、妙な胸騒ぎがする。
「なんだよ、改まって」
「だって、嬉しかったんだもん」
少し照れ臭そうにほほ笑むと、彼女は空を再び仰いだ。蒼鷹もつられて空を見上げる。途端、鼓膜を震わすような音が凍えた空気を振るわせ、今までに見たことがないほど巨大な花火が夜空いっぱい広がった。
「……でも、もっと一緒にいたかったな」
その言葉が合図のように、手の中にあった慶花の温もりが忽然と消えた。
「…………慶花?」
すぐ傍にいたはずの、慶花がいない。焦って辺りを見渡しても、砂浜には誰もいない。蒼鷹以外は誰ひとり。彼女がいた気配すら、跡形もなく消えていた。
あまりにも突然な出来事に、すぐに状況を把握できなかった。
「慶花?」
慶花の手を握りしめていたはずの手が、ふわりと温かくなったような気がした。驚いて視線を落とすと、軽く拳を作った指の隙間から淡い光が溢れ出していた。
恐る恐る手を開く。途端、ふわりと白い翅が広がった。
「蝶?」
真っ白な蝶だった。広げた翅を微かに震わせ、蒼鷹の手から、ふわりと舞い上がる。
この季節に蝶なんて。
呆然と空を舞う白い蝶を眺めていたが、蒼鷹は知らず知らずのうちに蝶の後を追い掛けていた。
蒼鷹を導くかのように、波打ち際を飛んで行く。まるで花の蜜を求めるように、束の間潮の引いた砂浜へと降り立った。しかし、再び押し寄せてきた黒い波に蝶はあっと言う間に飲み込まれてしまう。
「あっ!」
蒼鷹は濡れるのも構わず、波に飲み込まれた蝶を救うべく手を伸ばした。何かを捕らえた感触を得て、濡れた手を開くと背後の淡い街灯りにかざして目を凝らす。
「これは……」
白い蝶の代わりにあったのは、三連に連なる金細工の蝶。大きな血色の珊瑚の珠。
慶花の大切にしていた髪飾りに間違いない。それが今、持ち主の手を離れ、蒼鷹の手の中におさまっていた。
「どうして、これが……」
問い掛けても答えてくれる者はいない。目の前に広がる暗い海は、ただ波音をひたすらくり返すばかりだった。
「慶花?」
わけがわからなかった。どうして彼女の髪飾りがこんなところにあるのかも。さっきまで一緒にいた彼女がどこに行ってしまったのかも。
「……慶花!」
堪らず叫んでいた。しかしその声は波の音にあっという間に飲み込まれてしまう。
蒼鷹は走り出した。何度も何度も彼女の名を呼びながら砂浜をひた走った。
「慶花!」
俺はまだ、何も伝えていないのに。
まだ何も。
「けい、か……」
擦れた声で呟く。力尽きたかのように砂浜に座り込むと、髪飾りをぎゅっと抱き締めた。
白い蝶は死んだ人の魂の化身だと、幼い頃に母が語っていた。
そんなわけがない。何度も自分に言い聞かせるが、この手の中にある髪飾りはまぎれもなく慶花のものだ。あんなものはただの言い伝えだと自分に言い聞かせても、まさかという気持ちが心を大きく占めていた。
「本当はいるんだろう? ふざけていないで、頼むから……」
願いを乞うように空を仰ぐと、思い掛けない光景が目の前に広がっていた。
「あ……」
幻想的な光景に、蒼鷹は思わず言葉を失った。視界に飛び込んできたのは、空いっぱいに舞い踊る白い蝶の姿だった。
いや蝶ではない。まるで蝶のように、花びらのように静かに舞い降りてきたものは。
「雪?」
ふわりとした白い雪は黒い海の上へ。花火の興奮冷めやらぬ人々の頭上へと、去り行く暖かい光が灯る街の上へ。
そして一人ぼっちの静かな砂浜へと、音もなく静かに降り積もる。
胸に抱いた慶花の髪飾りに、ひとひらの雪が落ちると金細工の蝶の翅が、ほんの少し震えたような気がした。
「……慶花?」
どうしてだろう。無意識のうちに彼女の名を口にしていた。すると返事をするかのように金細工の蝶が翅を振るわせ、鈴を振る涼やかな音を立てる。
蒼鷹は思わず目を瞠った。同時に自然と笑みがこぼれるのを自覚する。
「……おかえり、慶花」
目頭が熱くなり、涙が頬を伝い落ちる。次々と溢れる涙を拭いもせず、蒼鷹はゆっくりと立ち上がった。
吹きすさぶ潮風の中だというのに、白い雪は包み込むように優しい。
蝶が乱舞するような白い雪が降り注ぐ中、蒼鷹は飽きることなく、ただひたすらに海を見つめていた。
この冬初めて降った雪は、それから一晩中降り止むことはなかった。
終
冬の蝶 小林左右也 @coba2018
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