7 慶花

 木の葉のような小船を無事回収した時、すでに辺りは夜闇に包まれていた。


 避難用の小船は、思っていた通り定期船のものだった。大波に呑まれ沈んでいく船から命からがら逃げ出した人々は、運良く船から離れた小船に乗り込んだらしい。

 助け出された人々は次々と待合所へ運ばれ、駆けつけた医師たちの治療を受けている。中には近隣の病院へ搬送された者もいるようだ。


 すぐにでも慶花の無事を確かめたかった。だけど怖くもあった。避難してきた人々の数はせいぜい二十人程度。定期船の乗客の数としてはあまりにも少ない。考えたくはないことばかりを考えてしまい、待合所に入ることができなかった。


 怖かった。もし慶花がいなかったらと考えただけで足が竦んだ。

 天候は昼間に比べるとずいぶん穏やかになったものの、夕暮れを迎えた海からは凍えんばかりの潮風が吹き付ける。暗い海を見つめながら、ただ震える自分が情けなかった。


 どれくらい経っただろう。荒い波音に慣れた耳に、聞き馴染んだ柔らかな声が届いた。


「……蒼鷹?」


 一瞬、息が止まりそうになる。息を詰めて恐る恐る振り返る。


「けい、か?」


 目の前には、待ち焦がれていた少女の姿があった。赤い外套を身に纏い、嬉しそうに目を細める。

 幻を見ているのではないかと不安になる。恐らくよっぽど不安げな顔をしていたのだろう。蒼鷹を安心させるかのように、彼女はふわりとほほ笑んだ。


「……船は? お前が乗っていた船は……」

 慶花は笑みを消すと、静かに首を振る。

「そうか……」


 予想していた最悪の展開に、蒼鷹は胸に重石が圧し掛かるような気持ちだった。けれど。


「……よかった。お前が……」


 お前が無事で、よかった。

 こんな時にこんなことを言うのは不謹慎かもしれない。けれど、今頭にあるのはそれしかなかった。


「蒼鷹?」

 思わずその場でへたり込んでしまった蒼鷹を、慶花は心配そうに覗き込む。

「大丈夫?」


 無言で頷き、彼女を見上げる。こういう時、何を言えばいいのだろう。

 色んな思いが駆け巡るが、結局蒼鷹が口にしたのはありふれた言葉だった。


「……おかえり。慶花」

 彼女は目を瞠る。そしてわずかに潤んだ目を瞬かせ、小さく頷いた。

「ただいま。蒼鷹」


 途端、空を震わすような音が鳴り響いた。気付いて空を仰ぐのと同時に、今度は夜空に光の花が開いた。


「わ、あ」


 大晦日の厄払いの打ち上げ花火が始まった。中心街が近い海岸通りから打ち上げられた花火は、連打する大砲のような音を轟かせ、瞬く間に暗い夜空を色鮮やかな花々で埋め尽くしていった。


 思わず見惚れそうになった。花火よりも、目の前にあるこぼれんばかりの笑顔に。


「蒼鷹、今の見た?」

「うん」

「ね、砂浜の方へ行ってみよう」


 慶花が手を差し伸べる。おずおずとその手を取ると、手袋の上からでもわかるほど冷え切っていた。蒼鷹は手袋を外すと慶花の冷たい手を取った。


「この方があったかいだろ?」

 慶花の存在を確かめるように、小さな手をしっかりと握り締める。

「うん」


 彼女もまた、応えるように蒼鷹の手を握り返した。

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