6 手にしなかった、おまじない
その晩、慶花が恩師の元へ経つことが決まった。しかしそのことを蒼鷹が知ったのは一週間後。明日は慶花が経つという日であった。
「蒼鷹、いい?」
すでに灯りを消して寝台で寝転んでいたが、弾かれたように飛び起きた。転がるように扉の前に駆け寄った。
一息ついてから、扉を押し開く。軋んだ音と共に開いた扉の向こうには、緊張した面持ちの慶花が立ち尽くしていた。
「明日は早い時間の船に乗るから、朝は会えないかなと思って……」
途中まで言い掛けて、慶花は視線を足元に落とす。
就寝前だからだろう。普段はきっちりと結い上げられた黒髪は、簡単にひとつにまとめて肩の上に流しているだけだ。
ほのかな灯りの下、恥らうように俯く慶花はどことなく儚げに見える。気がつけば伏せられた長い睫毛に見入っている自分に気がつき、蒼鷹は慌てて視線を引き剥がした。
「蒼鷹にこれ、持っていて欲しいの」
慶花が恐る恐る差し出したのは、紅珊瑚の髪飾りだった。
鶉の卵ほどの大きさをした紅珊瑚は、よく熟れた果実に似ていた。珊瑚の下から金細工の蝶が三連になって垂れている。揺れるとしゃらしゃらと微かに涼しげな音を立てるこの髪飾りは、慶花が十三の誕生日に作られたものだ。
昔は十三歳で成人とされ、そのお祝いとして「守り石」を贈るのが慣わしとなっていた。
守り石には持ち主を災いから守ってくれるという言い伝えがある。紅珊瑚は一年の初月に生れた者の守り石だ。慶花の髪飾りは両親の娘を思う気持ちが込められた大切な品のはず。
なのにどうして?
「わたしが帰ってくるまで、蒼鷹に持っていて欲しいの」
「どうして?」
すると慶花の頬が一気に紅潮した。
「お、おまじない!」
「おまじない?」
「うん。蒼鷹が元気でいてくれますようにっていう、おまじない」
垂れ下がる三連の蝶の金細工にそっと触れ、それから慶花を見つめた。
真っ直ぐな漆黒の瞳。人と話す時は、必ず相手の目を見つめて話すのが癖だった。それは幼い頃から変らないものだとわかっている。特別なものではないとわかっているのに、へんに意識している自分はひどく滑稽だ。
「…………蒼鷹?」
彼女に行って欲しくないという気持ちと、今すぐ居なくなって欲しいという気持ちが交錯する。自分でもよくわからない。ただ、慶花の前で、あれやこれやと思い悩む自分が嫌だった。
「男に髪飾りってさ、おかしいだろ」
「そう、だけど……」
困ったように俯く慶花に、追い討ちの言葉を掛ける。
「もしかして、守り石も貰えない俺に対する憐れみのつもり?」
自嘲を含んだその言葉に、慶花は弾かれたように顔を上げた。
「そんなつもりじゃ……わたし」
十三のお祝いは一族を上げて祝う大切な行事だ。蒼鷹が十三になった時、本来なら盛大に祝い、守り石が贈られるはずだった。
しかし母の明楼は「親の庇護下にいる間は大人ではない。よって十三のお祝いなど必要ない」と宣言した。当然一族中から大顰蹙を買ったのは言うまでもない。
その出来事を従姉である慶花が知らないはずがない。案の定、彼女の表情はたちまち後悔の色に染まった。
「わたしは、ただ……」
髪飾りを握り締める手が震えている。きっと蒼鷹を傷付けたと悔いているに違いない。彼女の申し出を断るには一番効果があると踏んだが、思った通りだ。予想通りの反応に満足を覚えるものの、胸には苦いものが広がる。
何かを言おうとするが、悲しそうに唇を噛むと言い掛けた言葉を飲み込んだ。
「……ううん、ごめんね」
慶花は無理やり笑顔を浮かべると、髪飾りを隠すように手を背後に回した。
「しばらくお別れだけど、元気でね」
「どうせすぐ帰ってくるだろ」
「うん、そうだけど……」
今にも泣き出しそうな表情を隠すように、彼女は視線を落とした。
「…………ねえ蒼鷹」
躊躇うように、ゆっくりと顔を上げた慶花は笑っていた。
「帰ってきたら、また花火を見ようね」
作り笑いだとわかるくらいに、痛々しい笑顔で。
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