5 苛立ち
年が明け、長い冬の後に訪れる短い春を迎える。やっと暖かくなったと安堵している暇もなく雨の季節を迎える。
母の恩師でもある「
季節の変わり目は体調を崩しやすい。年老いた料理番は、この時期になると毎年のように体調を崩していた。いつもなら料理番の娘が代わりに訪れるが、今年は慶花が食事当番をすると言い出した。そのお陰で蒼鷹は有無を言わさず手伝わされる羽目になり、こうして豆の筋を取ったり、芋の皮を剥いたりと下ごしらえの作業を黙々と行っていた。
「わたしね、しばらくの間、里帰りすることになるかもしれない」
「里帰り?」
「うん。と言っても家に帰るんじゃなくて華先生のところ」
無意識のうちに蒼鷹の手は止まっていた。
「先方から、ぜひわたしに来て欲しいって連絡があったんだって。そりゃ華先生にはわたしもお世話になっていたから、行くべきだとは思うんだけど、半人前が行っても役に立つのかなって、ちょっと考えちゃってさ」
「……ふうん」
「でね、蒼鷹はどう思う?」
緊張した面持ちで、慶花はそっと訊ねる。
「どうって?」
すると彼女は顔を赤く染める。
「あ……ええと。ほら、わたしがいなくなったら食事の支度とか、困ったりしないかなーって」
「俺が決めることじゃないだろ。お前が行きたければ行けばいい」
「…………可愛くない」
「可愛くなくて大いに結構」
会話はこれ以上続かなかった。互いに黙りこくったまま黙々と作業を進める。沈黙がこんなにも重苦しいと思ったことはない。何か気の利いた言葉のひとつでもと思ったが、何ひとつ思い浮かばないので結局黙っているしかなかった。
慶花はどういうつもりだったのだろう。
言って来いと背中を押して欲しかったのだろうか。それとも、行くなと引き止めて欲しかったのだろうか。
どっちにしろ、蒼鷹の意見など求める必要などない。自分で考え、答えを出すものだ。間違ったことは言っていない。言ってはいないが……。
「華先生にはね、二人お孫さんがいるの」
唐突に慶花が口を開く。今までの沈黙などなかったかのように、明るい調子で語り出した。
「わたしと同い年の男の子と、五つ下の女の子なんだ。男の子の方は
ちり、と蒼鷹の心の奥で何かが燻る。
璃家では占術師としての才覚は女子に受け継がれる。だから男子はせいぜい一族の血を残すための種馬のような扱いだ。母もそれを当然のように思っているようだ。幼い頃、何度か占術を教えて欲しいとねだっても、やんわりとかわされていたのは根本的に蒼鷹に占術に携わらせるつもりはないからであろう。
なのに……そいつは占術師になるというのか。
蒼鷹は湧き上がる感情を堪えるように、唇を堅く引き結ぶ。
「でも、まさかあの恵托が後を継ぐつもりだったなんて知らなかった。子供の頃は全然占術に興味なかったのに。絵札や本に悪戯書きされたり、結構意地悪されたなあ」
慶花の声には懐かしさが滲んでいた。意地悪をされた思い出も、過ぎ去ってしまえば良い思い出になるようだ。
「意地悪されたわりには、ずいぶんと嬉しそうだな」
「蒼鷹?」
あからさまなくらい不機嫌な響きに気付いたのだろう。笑みを消して慶花は作業の手を止めた。
「どうしたの?」
軽く手の粉を払うと、芋の山を挟んで蒼鷹の目の前にしゃがみ込んだ。じっと覗き込む黒い瞳に耐え切れず「何でもない」と蒼鷹は顔を背ける。しかし慶花は容赦なかった。
「嘘。ほらこっち向いて」
粉だらけの手で蒼鷹の頬を挟むと、強引に真正面を向かせようとする。
「……やめろよ!」
「きゃっ」
そんなに力を入れたつもりはなかったが、あっけなく手を振り払われた慶花は尻餅をついてしまった。
ごめん、と咽まで出掛かった言葉を飲み込むと、無防備なくらい呆然とした彼女から目を逸らし、頬についた粉を払った。
「粉だらけの手で人の顔、触るなよ」
「ごめん。だって……」
心細そうに擦れた声は、微かに震えていた。少しの沈黙の後、息を凝らすようにぽつりと呟いた。
「……わからないんだもん」
「何が」
「最近蒼鷹が何を考えているのか、わからないよ」
今にも泣き出しそうに、慶花は小さく呻いた。
「最近いつもそんな感じだよ。いつも怒ってるみたいで、どうしたのって聞いても何も言ってくれないじゃない。今だって……」
昂る感情を押さえ込むように言葉を切ると、苦しそうにそっと訊ねる。
「わたし、蒼鷹が嫌がることを言ってた?」
「……別に」
自分でも何に苛立ちを感じたのかわからない。ただ腹が立って仕方がなかった。その原因が恵托という占術師の青年に対してなのか、慶花に対してなのか、自分自身になのかわからなかった。
「わたし、ここに居ない方がいい?」
涙声で慶花が呟いた意外な言葉に、蒼鷹は思わず目を剥いた。
「え……?」
「だって、お正月あたりから全然口利いてくれなくなっちゃったし、態度もなんだか冷たいし。わたしが、伯母さまの弟子になったのが……嫌だった?」
彼女は知っている。幼い頃蒼鷹が母のような占術師になるのだと夢を見ていた頃を。その夢が叶わないということも。
「別に、そういうわけじゃ……」
だが、これだけははっきりと言える。慶花が居ない方がいいなんて考えたことなど一度も無い。むしろ彼女とまた一緒に過ごせるのだと、心待ちにしていたくらいなのだから。
「だったら最近目も合わせようとしないのは、どうして?」
「そんなつもりは」
無いとも言い切れなかった。確かにわざと彼女と距離を置こうとしていたのも事実だ。だからと言って彼女が嫌いになったわけではない。しかし「どうして?」という彼女の問いに対しての答えを持ち合わせていなかった。
蒼鷹が押し黙っていると、とうとう堪えきれず慶花は嗚咽を漏らすと粉だらけの両手で顔を覆った。
どう接すればいいのか、わからなくなってしまった。ただそれだけだった。
だが正直に言ったところで納得などしてもらえないだろう。蒼鷹自身でさえ、その理由がわからないのだから。
彼女も必死に涙を止めようとしているらしく、唇から漏れる嗚咽を必死に堪え、何度もくり返し涙を拭う。
「慶花、顔がぐちゃぐちゃ」
「……うるさいな」
涙で濡れた頬には乾いた粉や練った生地がこびりつき、見るに耐えない状態だった。とうとう蒼鷹は芋を放り出して立ち上がる。
粉だらけの手を除けようとすると、慶花は抵抗するように顔を背けてしまう。
「こっち向けって」
「やだ」
半ば強引にこちらを向かせると、髪飾りの蝶がしゃらんと澄んだ音を立てる。嫌がる彼女を上向かせると、粉と涙でまみれた頬を指先で拭った。恥じ入るように瞼を伏せた彼女の目の縁に新たな涙が込み上げる。
どうして傷付けてしまうのだろう。
昔みたいに一緒に笑ったりふざけあったりしたいはずなのに。慶花とまた一緒に過ごせるのだと、あんなに楽しみにしていたはずなのに。
指先で目尻を伝う涙を拭う。しかし拭っても拭っても溢れる涙は止まりそうにない。涙の原因が自分だと思うと、掻き毟るような焦りにも似た思いが胸を締め付ける。
こんな顔なんかさせたくないのに、笑っていて欲しいのに。なのにどうして優しくできないのだろう。傷付けてしまうのだろう。やるせない気持ちのまま、慶花の細い肩を引き寄せた。
「蒼、鷹?」
彼女の耳元に唇を寄せると、小さな声で呟いた。
「…………ごめん」
もっと言わなければいけないことはたくさんあったはずだ。けれど何ひとつ上手く言葉にできそうになかった。結局口にできたのは、他愛のない謝罪の言葉だけだった。
慶花は俯いたまま小さく頭を振ると、二人の間を空けようとわずかに後ずさりした。
「……もう、いいよ」
諦めたような冷めた口調に、蒼鷹は焦りを覚える。
「いいって、何が」
「もういいの」
逃れるように立ち上がろうとする彼女の腕を、引き止めるようと必死に掴んだ。
「離して」
「嫌だ」
慶花の瞳が揺らいだ。途端、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「もういいから、離し……っ」
腕をよじって逃れようとするが、蒼鷹は許さなかった。彼女の腕を強く引く。
「あっ」
腕の中に落ちてきた慶花の身体を抱き締める。一瞬彼女は身を堅くすると逃れようと蒼鷹の胸を押すが、逃すまいとさらにきつく抱き締める。
目の前で髪飾りの蝶がひらりと揺れた。
「そう、よう……苦しい」
どのくらいそうしていただろう。慶花の苦しげな声で、ようやく我に返った。
慌てて腕を緩める。慶花は荒い息を吐き出すと、潤んだ瞳で蒼鷹を見上げた。
蒼鷹の目に飛び込んできたのは、真っ赤に染まった耳朶や首筋。ほつれた黒髪の一筋が紅潮した肌に張り付いた様は妙に艶かしく、目のやり場に困るほどだ。
一体何をしていたのだろう。
今更になって、恥ずかしさがじわじわとやってくる。慶花の熱が伝染したように、蒼鷹の頬も燃えるように熱かった。
「……ごめん」
やっとの思いでそのひと言を振り絞ると、蒼鷹は逃げ出すように厨房を後にした。
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