最終話 絶滅野営

 人類は黒い夜に絶滅させられた。と、あたしは思う。物的証拠も科学的根拠もないけど、黒い夜は人間を飲み込んで跡形もなく消し去ってしまう。夜そのものや物陰とかの暗いところに潜んでいて、昼間でもどこからともなく現れて襲いかかってくる。


 あいつらは強い熱源とか大きな音、速く動くものみたいに何らかの大きなエネルギーに反応して寄ってくる性質っぽい。でも光に弱いようだから焚き火の熱には集まってこないし、LEDランタンの小さな光でも散らす事ができる。


 個体なのか、集合体なのか。そもそも生き物なのか、さっぱりわからない。まったくもって正体不明の存在だ。それでも、あたしはあいつらのうちの一匹とコミュニケーションを取る事に成功して、クロイヨルンと名付けた。はたして一匹と呼んでいいものかどうか知らないけど。一体? それとも全体?


 あたしが焼いたパンケーキを食べたり、駐車場に停まっていた車を何十台もひっくり返したり。空気みたいに直に触れる事は出来ないけど、あいつらの方から物理的な接触は可能なようだし。アクリルガラスに彫ったあたしの壁画の横に、いつのまにかクロイヨルンが落書きを残していた事から察するに、知能もそこそこ高いようだ。やっぱり何らかの知的生命体なのかも知れない。


 何度か話しかけたり、接触してみようと試みてはいるものの、あいつらからの明確なリアクションは今までなかった。今までは。目の前のアクリルガラスを溶かすようにして描かれたパンケーキの皿とにこっと笑う二つの目。これはまさしく知的生命体とのファースト・コンタクトだ。この落書きにどんな意味が込められているのか。


 クロイヨルンについての考察。こんなもんか。あいつら、本当に何者なのだろう。


 あいつらはどこから来て、そしてどこへ行くんだろう。


 このマグロの大水槽ホール周りにも、暗闇に紛れて潜んでいるんだろうか。あたしを狙って。それとも、暗いところならどこにでも同時に居られるのか。


 もうここを出よう。あたしは暗闇のホールからエントランスへと抜けるエスカレーターに向かった。


 生温かい風があたしの頬をさらりと撫でて、長くなった髪をふわりと梳くようにすり抜けて行った。どうしてだろう? 建物の中にいるのに、こんなにじめっとした風を感じるなんて。


 じっとりと湿り気を帯びた風はやたらと重たくて、まるであたしの膝下にひゅるりと絡みつくようで何だか歩きにくい。ただでさえ電気がなくて止まっているエスカレーターは段差がちぐはぐで登りにくいってのに。乱れる髪を撫で付けて見上げれば、エスカレーターの降り口にぼんやりと仄暗いエントランスホールが見える。


 あそこから外に通じている、はずなのに。まだ午後になったばかりだけど、そこは妙に薄暗くて、差し込む光が波立っているようにも感じられた。身体に触れる空気も何だか攻撃的だ。すごく悪い意味で胸がどきどきする。


 あたしは止まっている長いエスカレーターを甲高い靴音を鳴らしててっぺんまで登りつめて、外の景色を見た。壁画を描くためにかなり長い時間水族館にこもっていた訳だけど、外に出て見れば、世界は一変していた。唖然とする。


 ここはもう、あたしの知っている人類絶滅後ののんびりとした世界じゃなかった。鈍器のような重たい灰色の雲はあたしを押し潰そうとするくらいに低く立ち込めて、渦を巻いて暴れる海をひっくり返したように空はめちゃくちゃに荒れていた。


 どこか遠くから地下鉄が迫って来ているような重低音が響いていて、水気をたっぷりと含んだタオルで引っ叩かれたみたいに風の当たりが強い。嫌に生温かくって、誰かの濡れた手で身体をまさぐられているようだ。


 ひどく空気が騒がしい。あたしの知っている人類絶滅後の世界はとっても静かなんだ。動くものは風に揺れる木の葉ぐらいで、耳が壊れちゃったかと思うくらいに何にも音がしなくて、あたしを驚かせるような変化が決して訪れない、安心して眠れる世界なんだ。


 それなのに、この世界はいったいどうしてこんなにも荒ぶっているのか。ものすごく不安定で、ものすごく暴力的で、まるで世界そのものが怖くて震えているみたい。


 ごうと大きな音を立てて風が塊となって落ちて来た。水族館のエントランスであるガラスのドームがびりびりと震える。ガラスを震わせて跳ね返った風はそのまま地面に叩き付けられて、あたしを下から持ち上げる勢いで舞い上がった。あまりの風の強さに、足の踏ん張りが効かずに身体がよろめいてしまう。


「これって、まさか……」


 風に煽られてよろめくほど弱っちいあたしは、文明のありがたみ、そして人間が築き上げた科学技術と言う堅牢な防御壁のすごさを改めて思い知った。


 人類絶滅後の世界で、あたしは原始的な生活にすっかり染まっていた。それは食べ物を求めて、寝る場所を探す毎日だ。電気が失われて、電子機器が使えなくなって、人間が自力で得られる情報は極端に少なくなった。たとえば、天気予報で明日の天気を知る事すら出来なくなったり。その結果がこれだ。ここは命に関わる重大な情報すら簡単に手に入らない世界だ。


「……台風だ」


 かすれた声でつぶやいて、あたしは振り返った。高台に建てられたガラスのドームの向こう側、そこから見渡せるはずの穏やかな青い海。そんなものはどこにもなかった。


 荒れ狂う空と同じくらい灰色の海は激しく波立ち、白く崩れた波が水飛沫を上げて海岸線に打ち寄せていた。風と言う巨人の大きな腕が海をかき混ぜているみたいに逆立った波は、何重にも折り重なって陸地に攻め込んでいた。もうだいぶ浸食されているように見える。


 人類絶滅後にキャンプ生活を始めて、今までも大雨や雪の日なんかも多々あった。でも、どんな悪天候な日でも頑丈なビルのテナント部分に避難すれば問題なく回避できていた。店舗の奥にテントを張って、保存の効くレトルト食品を温めて、古い雑誌なんかを読みふけって天候が回復するのを待てばよかった。でも、この台風は今までとレベルが違った。生命の危機を感じるほどの大型台風だ。


 空を見上げれば、ますます雲の色が濃くなり、辺りも暗くなっていく。でも、ちょっと、台風にしては暗過ぎない? 何かいつもの空と違う暗さだ。


「あれって、富士山だよね」


 あたしは誰に言うとなく呟いた。荒れる海のはるか向こう、灰色の空と海の間に薄っすらと稜線が見える。方角的には富士山でいいはずだけど、以前見たような頂上がえぐれて形が崩れた富士山ではなかった。そこにあったのは、まるで噴煙を上げる火山のように、真っ黒い水のようなものをどくどくと溢れさせている姿だった。


「富士山が、黒い夜を噴き出しているの?」


 あれは黒い夜だ。噴火の溶岩のように山体を流れ落ちているが、その色は空間を切り取ったみたいに真っ黒で、止めどなく奥から溢れ出ている。あの勢いなら、辺り一帯を真っ黒く染めて沈めてしまうのも時間の問題だ。


 あたしの身体を持ってくほどの強い風が巻いて、空の雲の塊が舞い落ちて、海の渦が高く盛り上がり、真っ黒い何かを吐き続ける歪んだ富士山の姿は見えなくなった。それでも真っ黒い何かが溢れて空に満ちていくのは見て取れた。


 逃げなくちゃ。でも、どこへ?


 あたしは水族館のエントランス、ガラスのドームを仰ぎ見た。再び水族館に引きこもるのはどうだ。いや、ダメ。頑丈なコンクリート造りの建築物だけど、地下一階二階と潜るたびに海岸線に近くなる。エントランスドームのガラスが破られたり、高潮で海水面が上昇しちゃったらそれこそ万事休す、逃げ場なしだ。


 ここ、葛西臨海公園がそもそも埋立地だったはず。ここにいる事自体が危険だ。高潮で海が溢れ返る前に海岸線から離れなくちゃ。


 まだ風が強いだけで、きっとそのうち雨も落ちてくるはずだ。空が重低音を響かせるほど大きな台風だ。高潮に加えて豪雨が重なれば、ここら辺は簡単に水の底に沈んでしまうだろう。


 さあ、ここを離れるんだ。高速道路の防音壁なら台風の強風も防げるかも。カブで走るなら今のうちだ。台風が最接近して暴風が吹き荒れてからじゃもう移動する事すら難しくなる。


 あたしはキャンプ道具をカブのリアボックスに括り付け、びりびりと風に震えるガラスのドームから急いで離れた。カブを押して走って、助走をつけた状態で飛び乗る。えいっとエンジンをかけて、風に背中を押されるままダッシュで高速道路乗り場を目指した。




 カブで高速道路に上がって、放置されている車もほとんどない真っ直ぐな道を走ってみて、あたしはすぐにこの選択ミスを後悔する事となった。


 台風なんて、言わばエネルギーの塊だ。気圧の差で生まれた空気の崖を転げ落ちる猛烈な風。肌に当たれば痛って思うほど勢いの強い大粒の雨。水を吸い上げて海を溢れさせて全部飲み込んでしまう高潮。人間が作り出すエネルギーなんかとは比べ物にならないほどの爆発的なエネルギーを秘めている。


 そして頂上がえぐれた富士山から噴き出した黒い夜の群れ。あいつら黒い夜はエネルギーを食べに集まる性質を持っている。これが台風との最悪のコンボとなってあたしに降りかかった。そう、文字通り黒い夜が降りかかってきたのだ。


 障害物のない海の上、暴れる風は高架の上の高速道路をねじり巻き込むように吹き付けて、もうただでさえ運転しづらい状況だって言うのに。黒い夜は台風の風に乗ってあたしのところまで流れてきていた。


 最初見た時は風に巻き込まれた雲の切れ端かと思った。でも違った。粒子の細かい霧が風に集まってくるみたいに黒いつぶつぶが風に乗って、太い筆で粗く描いた墨絵のように灰色の空に黒い線を引いていた。風の流れる向き、その圧倒的な強さ、爆発的な速さ、それらが黒く染まって目に見える形となってあたしの頭上に集合してくる。


 風の動きが見える。それがかえって脅威となった。黒く染まった風の塊がくるりと身をひねり、高速道路脇のビルにぶち当たった別の黒い風と一体化して、道路上のあたしめがけて一気に落ちてくる。


 あたしは脚をぴったりとカブ本体に寄せて、脇を締めて、首を身体にめりこませるように小さく縮こませて、黒い風の体当たりに備えた。防御と言ったって車と違って生身が剥き出しのバイクだ。ヘルメットをかぶってるくらいで、ほとんど無防備に近い。どうしようもない。風に当たる面積を小さくしてやるぐらいしか抵抗策はない。


 身体を小さく畳んでアクセルをぐいっと開けて走っているって言うのに、真っ黒い風に当たった瞬間、カブが急停止したかと思うほどの衝撃があたしの全身に駆け巡った。ヘルメットごと頭が揺さぶられ、目線は平行を保っているのに身体が斜めに浮く感覚があり、まるでドリフトするみたいにカブが勝手に車線一つまたいでスライドしてしまった。


「ああっ、もう! ばかっ!」


 思わず声が漏れる。汚い言葉を吐き捨てたくなるけど、そこはぐっと堪える。ばしっと風に引っ叩かれて車体が一気に流された。あたしもカブも、この台風の風に対して軽過ぎる。高速道路の防音壁に激突しなかったのがラッキーだ。


 さらに身体を折って縮めて、車線の真ん中、上下左右どっちに吹っ飛ばされても大丈夫なようにとろとろと走る。


 叔父さんが言ってたっけ。


 バイクに乗ってて、風が強い時はもう諦めて近くの建物に避難しなよ。風向き次第でバイクはどこに行くかわからなくなる。追い風ならバイクのスペック以上の速度を出してしまうし、向かい風なら空を飛ぶ。


 カブの運転を教わってた時、叔父さんはバイクで事故った友達の話をしてくれた。正面衝突で車三台分は飛んだらしい。体重の軽いあたしならもっと飛べるはず。もう、わかったよ、叔父さん。高速道路に乗ったのはあたしのミスだ。とっとと降りよう。高架の上だから尚更風が強いし。本当に吹き飛ばされかねない。


「次の降り口はどこよ!」


 台風を罵ってやるぐらいの勢いで叫んでやる。そうでもしないと、怖くて心がへし折れそうになる。


 黒い夜が乗った風はますます強くなり、あたしを右へ左へ弾き飛ばしてもてあそぶ。頭からぎゅっと押さえ付けられるみたいに風に押し潰されたり、ヘルメットが持ってかれる勢いで身体がふわっと浮き上がったり、風に蹂躙されまくりだ。


 それでも、風に押し戻されるぎりぎりまで速度を落として、踏ん張って転ばずに走っていると、頭上に降り口の案内板が見えた。もう数百メートル先、あと数十秒とかからないくらいだ。


 黒い風が高速道路の防音壁にぶつかってぐるぐると渦を巻き、あたしは荒ぶった墨絵のような道路をヘッドライトの光で切り裂きながら突っ切って走る。カブのヘッドライトに照らされた黒い夜は散り散りになって消えていくけど、またすぐに強い風が巻いて人間サイズの小さな竜巻を巻き起こして、黒い夜が竜巻の渦に呼び集められてあたしを追ってくる。


「あとでパンケーキ焼いてあげるから、あっちに行きなさいよ!」


 ここまで来て。そうだ、ここまで来て黒い夜に飲み込まれてたまるかってんだ。こっちは一年近くも人類最後の生き残りとして、たった一人で美味しいのを食べて生きてきたんだ。正確には十一ヶ月と一週間と六日、人類絶滅からまだ一年経っていないけど。まだまだ美味しいの食べたいし、またドラム缶風呂に入りたいし。こんなところで終わらせたりはしない。


 そして高速道路の降り口に差し掛かる。高架下の道路ならここよりまだましだろう。黒い夜を引き連れた風はいよいよ本格的な暴風となり吹き荒れる。


 あたしは黒い風に揉みくちゃにされながら、風に押し戻されないよう肩からぐいっと傾けて車線変更する。カブを防音壁にぎりぎり寄せて風を防いで、下り坂を降りかけて、そこで思わずあっと声を上げてしまった。慌てて後輪がスリップするほど急ブレーキ。


 高速道路の高架下、そこに道路は見えなかった。まるで夜の海だ。


 どす黒く墨をたっぷり流した海辺のように、黒い夜が地面に溜まって風に吹かれて波打っていた。街路樹やガードレールが波打つ黒からにょっきりと生えているように見える。びゅうっと風に煽られて黒い夜が吹き飛び、薄墨色の向こうにちらっと透けて灰色のアスファルトが見えた。


 さっき見た富士山から溢れ出た黒い夜がもうここまで流れて来たんだ。たぶん。台風のエネルギーを食べに、ここまで広がった黒い夜。人類絶滅の日、たった一晩でみんないなくなってしまった理由が何となくわかった。きっとあの日も、あたしの知らないところでこんな風に黒い夜が拡散されたんだ。


 見た感じ、黒く溜まった深さは膝上十五センチってところか。水が溜まっている訳ではないし、カブならヘッドライト照射で突破できるかも。いや、できるかも、じゃない。やるしかないんだ。


 猛烈な雨風をしのげる頑丈な建物へ早く避難しなきゃ。ここで雨が降り始めたら、黒い夜はますます水嵩を増して街を飲み尽くしてしまうだろう。あたしの寝床がどこも真っ黒く塗りつぶされてしまう。とても頑丈で、すごく高いビルへ。ビル? ふと、あたしは思い出した。


 あたしは何のために人類絶滅後の東京まで走ってきたんだっけ? 無人の東京でキャンプするため? 違う。あの場所へ行くためだ。


 ぶわっと風に煽られて、ヘルメットのシールドが跳ね上がってしまった。その勢いのまま頭も持ち上がり、無理矢理空を見上げる形になる。その見上げた大空に、灰色の雲を突き破るように大きなタワーが仁王立ちしていた。


 東京スカイツリーだ。そうだ、スカイツリーへ行こう。あの高さなら黒い夜が街を飲み込んでもあたしは助かる。どうせ高いところに登るんなら、一番高いところまで行ってやる。


 あたしは小型のハンドライトを首からぶら下げて、カブのヘッドライトをハイビームに切り換えて、アクセルを力強く開放して黒い夜の中に突っ込んで行った。




 撃たれた、かと思った。どこか高いビルの屋上から、あたしを狙うスナイパーが放った鋼の弾丸。あたしの小さな胸を撃ち抜いて、あたしはばったりと倒れ込むんだ。ってくらいに痛かった。あたしの胸を撃ったのは大粒の雨だ。


 すぐに次弾が降ってくる。びしっと鋭い音を立ててジャケットの腕のところに丸く濡れた跡が生まれた。このキャンプレベルの防水ジャケットなんて、台風の雨が相手じゃ役に立たないかな。ついに降ってきちゃったか。台風はどこまで接近しているんだろう。今のあたしにそれを知る術なんて何もないけど。


 まだ午後を過ぎたばかりなはずなのに、もう辺りは夕闇かってくらいに薄暗く黒い夜に沈んでいた。カブのヘッドライトと首からぶら下げたハンドライトの明かりがなければ、あたしもどうなっているかわからないってレベルで暗闇に包まれつつある。


 無意味だとわかっていても、暗闇の中を見上げて空を探してみる。台風はどこにいる? 相変わらず灰色の分厚い雲が空を覆い尽くして、激しい風に煽られてすごい速さで流れていくのがわかる。そのまま頭を上げていると、ヘルメットのシールドにびたんって雨粒が直撃した。


 まずいな。真っ黒い雨粒が目で見えるくらい、台風が巻き落とす雨の勢いは強そうだ。すぐに、息を吸えば溺れるくらいの横殴りの土砂降りになるだろう。道路も水没してカブが走れなくなるかも知れない。エンジンまで水に浸かっちゃったら、あたしの手ではもう直せない。一巻の終わりって奴だ。


 相変わらず風が強くて運転しにくいけど、急いだ方がいいかな。カブのスロットルを握り直して前方を見据えると、カブのスピードが増す度に大きな雨粒が次々とあたしにぶち当たってきた。とうとう雨は本降りとなったようだ。


 本気の雨って体に当たると痛いんだ。あたしは雨の痛さを思い知った。ハンドルを握る薄手のグローブ、ジャケットの袖口、巻きスカートからひょろっと飛び出たストッキングの太もも、ヘルメットの後ろ側の首の隙間。雨はますます強くなって、あたしの装備の弱いところから容赦なく攻め入ってきた。


 風に強く煽られてカブが横に流されれば、ヘルメットを叩く雨音も一段と高くなって雨飛沫が顔に飛んでくる。シールドが何の役にも立っていない。タイヤで巻き上がった道路の水も勢いを増してもう一度あたしに襲いかかってくる。まさに服を着たままシャワーを浴びてる感じで、あっと言う間に全身ずぶ濡れ、もうシートに座ってるお尻にまで雨のしずくが伝ってるとわかるくらいびしょ濡れだ。


 この状況で唯一の救いは雨が温いって事か。これで水が冷たかったら、カブの走行風で体温が奪われて、完全に動けなくなっていただろう。そうなってはスカイツリーにたどり着く以前の話で、黒い夜に飲み込まれておしまいだ。人類完全絶滅であたしの負けだ。


 大きな水の礫となってあたしにばちんって落ちてくる雨。空気の塊をぶるんって振るってあたしを打ってくる風。はるか空の高みからぐわーってあたしを押し潰そうと迫ってくる雲。窓ガラスがばりんって破けて外壁がべりって剥がれてあたしを見下ろす廃墟と化したビル群。潰れてひしゃげてひっくり返ってごろごろとあたしを取り囲む動かない車。四方八方にぐんぐんと枝葉を伸ばしてあたしを巻き込もうとする緑色の植物達。そしてそれらすべてを真っ黒く飲み込もうと地の底から湧き出てそろりとあたしに這い寄る黒い夜。


 これって、まさしく世界の終わりに見る光景じゃないか。


 ヘルメットの襟足から伸びた長い髪が突風にさらわれる。あたし自身に覆いかぶさるように暴れて、目の前に広がる世界の終わりからあたしの目を塞いでくれた。


 いやいや、世界は決して終わらない。人間が一人もいなくなったって地球の歴史はまだまだ続くんだ。こんなのは世界の終わりじゃない。単なる人間文明の終焉ってだけだ。


 人間様みたいなちっぽけな生き物からすればいかにも絶望的で終末的な光景に見えるだろうけど、地球規模で見ればこんな建物を揺るがす台風だってよくある自然現象の一つだ。たったこれっぽっちの荒廃した光景を世界の終わりと呼ぶだなんて、おこがましいにもほどがある。それにこのあたしが存在している限り、人間文明だって決して終わらないんだし。まだあたしがいるじゃないか。


 黒い夜をたっぷりと含んだ風がビルの壁にぶち当たって、黒い塊のままきれいに跳ね返ってあたしに降りかかってきた。すごい力で頭をヘルメットごと押さえつけられて、濡れて絡んだあたしの髪をばっさりと弾き飛ばした。黒い風の塊はあたしの頭上の伸び放題の街路樹の枝をも吹き飛ばしたようで、目の前がぱっと明るくなった。視界が一気に開ける。


 あたしが進む道に、どんっと灰色に濁った空を貫く東京スカイツリーが突っ立っていた。うわっと声が出て、思わず天空を見上げる。あたしの視界に収まりきらないほど空高く、そして抱きかかえたくなるくらいに近く、斜めに傾いたスカイツリーは耳で聴き取れないほどの重低音を轟かせてあたしを迎えてくれた。




 東京スカイツリーの根元は、ソラマチ商店街ってテナント群が立ち並んだ商業ビルとなっている。その一階部分、真っ暗闇の店内をあたしはカブごと乗り込んでやった。


 人類絶滅前はとても華やかですごく賑やかな商業施設だったんだろう。カブのヘッドライトに照らされたテナント群はみんな当時のままの姿で、どこかお祭り騒ぎの真っ最中に何もかもが置き去りにされたような、きらびやかな内装とは裏腹にひどく物寂しく感じられた。ここで働いていた人達も、観光に、お買い物に来ていた人達も、みんな訳の分からないまま黒い夜に飲み込まれて消えてしまったんだ。


 ソラマチ商店街は黒い夜で満たされていた。カブのヘッドライト、LEDランタン、首からぶら下げたハンドライト、それらのか細い光でかろうじて店内が見れるってくらいに真っ暗だ。


 前にスカイツリーを訪れたのは半年前か。正確には、ええと、日付なんてもうどうでもいいか。前に来た時と何にも変わっていない。当たり前よね。人間なんてもう誰一人としていないんだから。


 建物内のどこかで窓ガラスが割れているのか、施設内だと言うのにひゅうと風が吹き込んでいる。でも雨がしのげる分だけ暖かく感じられた。台風が過ぎ去るまで、ここでキャンプだ。どこにテントを張ろうか。どこに行っても黒い夜だらけだろうけど。


 台風はますますひどく暴れてくれて、外は未だ大荒れの様子で、時々カブのエンジン音が掻き消えてしまうほどの重低音が鳴り響いた。台風のせいでスカイツリーそのものが揺れているようだ。ここは一階部分だからそこまで揺れは感じないけど、一番上の展望台、天望回廊はそれこそ嵐の日本海を行く船のごとくに大揺れだろう。そういえば、前に登った時に見た景色は最高だったな。台風一過の景色を見に、また後で登ろうかな。


 あ、そうか。スカイツリーが傾いているのは台風のせいかも知れない。あたしがまだ地元でキャンプしてた頃、今回と同じかそれ以上の台風が来て、スカイツリーを折り曲げた。黒い夜も台風のエネルギーを食べに富士山から湧いて出て、生き残っていた人類を根こそぎ飲み込んでしまったんだ。それなら傾いたスカイツリーもえぐれた富士山も説明がつく。


 それとも、もしかしてその逆? 黒い夜が巨大台風を呼んでいたりして。人間が作り出すエネルギーがあまりに大きくなったせいで、富士山から、地球の中から黒い夜がエネルギーを食べにやって来たの。黒い夜は巨大台風まで巻き起こして、増え過ぎた人間を一気に刈り取って収穫してしまったとさ。


 現在、東京を襲っている巨大台風も実はそうなのかも。あたし一人がまだ生き残ってるのを知った黒い夜が、あたしを収穫するために台風を呼んでたりして。


 百年に一度の巨大台風でも、それが百万年も経てば一万回は襲ってくる計算になる。こんな大型台風に一万回も襲われたら、いくら最強のスカイツリーと言えどもとても耐えられないだろう。後に残るは瓦礫の山だ。その瓦礫の山すら粉々になってまっさらな更地になるかも。それが百万年と言う自然の力だ。


 さて、そんな人間を収穫する台風がいる間は外になんて出られやしない。雨に濡れた服をさっさと着替えて、焚き火を育てて、温かいキャンプ飯を戴きましょうか。


 あたしは店舗内をカブで、何か使えそうなものはないか、探して走り回った。普段なら絶対に着ないであろうスカイツリーがでかでかとプリントされたTシャツとか。ペットショップで売ってたよく燃えそうな水槽の飾りの流木とか。スカイツリーお土産のチョコレートとか。何でもあるわ。


 そしてスカイツリーの心柱内部にある非常階段へと続く鉄扉にカブを横付けする。暴風雨の中をずっと走りっぱなしだったせいか、カブのアイドリングもなんだか乱れ気味だ。あたしもひどく疲れたけど、この子も相当頑張ってくれたんだね。


「お疲れ様、相棒」


 エンジンを止めてやり、シートへぽんと優しく手を置く。それはあたしの体温が移ってじんわりと温かかった。


「台風が過ぎたら、オイル交換してあげるね」


 カブをソラマチ商店街に、黒い夜が渦巻く空間に置き去りにして、あたしはスカイツリー心柱内部に転がり込んだ。


 以前来た時と変わらず心柱の中は真っ暗で、LEDランタンの光が無骨な緊急避難用の非常階段を照らし出した。ランタンを掲げて頭上を見上げれば、嫌になるくらいに階段が続いている。光が届かないくらいはるか上まで、ずっとずっと階段だ。


 でも今は階段はどうでもいいし。後回しだ。火だ。火を焚かなくちゃ。今日はここをキャンプ地とする。心柱内部はちょうどいい煙突構造となるはずだから、狭い階段室内だけど気にせず焚き火だ。


 お洒落雑貨屋さんから借りたお洒落ブリキのお洒落バケツに、新聞紙をくしゃくしゃに丸めて敷いてやる。この新聞も一年近く前のものになる。いつどこに行っても同じ紙面の新聞が置いてあるからもう内容も覚えちゃってる。


 イケメン俳優料理人がオリーブオイルをひとかけするみたいに、ジッポーのライターオイルでバケツの中にのの字を描く。その上に飾り用の流木をいい感じに積み重ねる。水槽ディスプレイ用の流木だからサイズ感がお洒落バケツにちょうどいいし。あとは新聞紙をねじったこよりにライターで火をつけて、えいやっとバケツに投下。バケツ焚き火の出来上がりだ。


 バケツの中にオレンジ色の炎が広がって、暗闇のどん底だった階段室がぱっと明るい炎の色に染まった。このバケツ焚き火はとりあえず光と暖かさをキープするためのもの。これで十分。


 あたしはずぶ濡れになったアウトドアジャケットと葛西臨海水族館印のマグロTシャツを脱いで階段手すりに引っ掛けて、下着姿のまますぐ次の火起こしに取りかかった。裸の方がバケツの火でよく暖められるし。


 ウッドストーブにとっておきの固形燃料をセット。いつか薪の小枝が手に入らなくなる日が来るだろうって取っておいた一人鍋用の燃料だ。ウッドストーブでお湯を沸かすくらいならこれ一個でも十分いける。ペットボトルのお水をクッカーに満たしてウッドストーブで温める。


 そこへ昨日水族館で炊いたごはんを入れたフリーザーバッグをぽちゃんと浮かべる。炊いてから一晩経ったごはんだけど、湯煎してやる事でレンチンと同じくあったかいごはんが食べられるんだ。


 さて、キャンプ準備完了。バケツ焚き火で階段室は明るくなり、身体は暖まり、ゆっくり休める。ウッドストーブのお湯が沸けば、白湯でもお腹の中から温まるし、何よりあったかいごはんが食べられる。もう他に何もいらない。


 ちょっとダサめのスカイツリーTシャツを着て、バケツからちょっと離れてぺたんと尻もちをつくように床に直接座り込んで、飾りっ気のない素材感丸出しの避難階段の壁にもたれかかる。金属質の壁はひやっと冷たくて、気持ちよかった。


 ああ、やっとひと息つけた。


 胸に溜まった重たい空気を、大きなため息を一つ、ふうって吐き捨てると、あたしの中で張っていたスイッチの糸がぴんと切れて、あたしは壁にもたれかかったままずるずると崩れ落ちて、気絶するように眠ってしまった。




 無音。


 とても静かだ。物音一つしない。あたしの耳が聴こえなくなったのか。いや、かすかに聞こえる音がある。あたしの胸の辺り、呼吸の音と心臓の鼓動だ。


 何であたしはこんな静かな場所で横たわっているんだろう。きょろきょろと目玉だけ動かしてみる。


 真っ暗闇の中にぼんやりと光る何かがあった。横になったまま光に手を伸ばすと、それはLEDランタンだった。


 いけない。はっと息を飲んで慌てて起き上がる。手に掴んだLEDランタンで周囲を照らす。ここはスカイツリー心柱内部、非常階段室だ。あたし、眠ってた?


 あたしとした事が、黒い夜で満たされている階段室で寝落ちしてしまうなんて。どれくらい眠っていた?


 身体に触れてみる。巻きスカートはまだ湿っているけど、ストッキングには水気は感じられない。バケツ焚き火を確認する。火はすでに消えていて、バケツの中は燃え滓の灰だけが残っていた。ウッドストーブを見れば、固形燃料は燃え尽きているけど、クッカーからはほんのりと湯気が上っていてお湯はまだ温かそうだ。そっと触ってみる。熱くはないけど、冷たくもない。眠っちゃってから、まだそんなに時間は経っていないのかも。


 立ち上がると、少しだけ目眩がした。くらっと視界が斜めに揺れて、よろけて階段手すりにすがりついてしまった。手すりに引っ掛けていたアウトドアジャケットはまだぐっしょりと濡れていた。


 それにしても、この無音っぷりはどうだ。あまりに静か過ぎて怖いくらいだ。もう台風は遠くへ行ってしまったのか。外の世界は風が止み、雨は上がり、灰色の雲を突き破って太陽の光が溢れているのか。青空がどこまでもどこまでも広がっていて、また、たった一人の人類絶滅後の世界が始まる。


 階段室から出る鉄扉のノブに手をかけた。ドアノブをひねろうと手に力を込めるが、やめておく。ふと、ここからは見えない空を仰いだ。


「……また、登ってみようか」


 あたしの頭の上には、ずっとずっと向こうまで階段が続いていて、その金属剥き出しの階段もまた、暗闇の中に溶けるように消えて見えなくなっていた。


 あたし、いったい何をやっているんだろう。


 まずは心柱の壁に身体を預けるようにして斜めの踏み板を踏みしめてよたよたと登る。最初の踊り場まで登り着くと、そこはやや傾斜のある上り坂になっている。これが地味にきつい。えいやっと勢いをつけて踏み込んで、今度は壁の反対側の手摺りにしがみつく。手摺りを頼りに斜めの踏み板を踏ん張って登り、お次の踊り場は少々の下り坂だ。足場を踏み間違えないよう慎重に降りる。一歩踏み外せば、下の踊り場まで転げ落ちてしまいそうだ。向こうの壁にタッチして身体を預けて、ようやく1サイクル。やたら圧が強い暗闇の中、このサイクルが延々と続くのだ。


 踊り場を登り、三半規管を酷使して斜め階段を攻略して、また踊り場を駆け下りる。何度この動作を繰り返しただろう。頭上を見上げればばさりと覆い被さるような濃い暗闇。足下を見下ろせばどろりと粘っこく湧き上がるような真っ黒い塊。LEDランタンの明かりが届く範囲があたしの生きている世界だ。何度も何度も同じ世界を繰り返し生きて、いったいいつになったら終わるのやら、また同じ踊り場がやってきて、あたしは汗だくになりながら登って行く。


 考えるのをやめた頃、どれくらい時間が経ったんだろう、あたしの狭い世界にようやく変化が訪れた。非常階段の終わり、斜めに傾いたスカイツリーの天望回廊への扉が闇の中から現れた。


 息も絶え絶え、あたしは震える手で非常扉を開け放ち、身体いっぱいに光を浴びた。暖かかった。生きているんだか死んでいるんだかわからないままだったが、やっと生き返った気持ちだ。


 でも、やっと生きているって実感できたのに、あたしに目の前に現れたのは天望回廊の荒れ果てた姿だった。


 展望室の窓ガラスがすべて砕け割れ、大きな破片がそこら中に散らばっていて足の踏み場もない。内壁は剥がれ落ち、床板はめくれ上がり、もはや廃墟としか言いようがない光景だ。


 割れた窓の向こう、まったくの無音の世界に灰色の壁がそそり立っているのが見える。スカイツリーなんかよりも何倍も高い壁だ。それがぐるりとスカイツリーを囲んでいた。そして黒い海。灰色の壁は黒い海に浮かぶように、いや、違うな、黒い海が灰色の壁を飲み込むように溢れかえっているんだ。


 ここからじゃよく見えない。非常階段室にまだ上に登る小さな階段があったはず。天望回廊の窓ガラスを清掃するためのゴンドラを吊るす屋上部へ行く階段だ。あたしはその階段を登った。


 東京スカイツリー天望回廊屋上。人が登って行ける部分で最も高い場所なはずだ。屋上への狭い扉を開け放ち、あたしは外の世界を見た。


 世界には、スカイツリーの他に黒と灰色しか存在していなかった。眼下は真っ黒い海で埋め尽くされ、音もなく、波立つ事もなく、世界の下半分をすっぱりと黒く切り落としてしまったかのようだ。黒い夜だ。富士山から吐き出された黒い夜がここまで世界を埋め尽くしたんだ。


 そして世界の上半分を覆い尽くす灰色の壁。ちょうどスカイツリーを中心にぐるりと円を描いてそびえ立つ灰色の壁。あれは雲だ。雲がとてつもなく大きな渦を巻いて、スカイツリーがその中心に立っているんだ。


「……台風の目だ」


 この静寂。この何も無い世界。台風は遠くに過ぎ去ったんじゃない。今まさにあたしを飲み込もうと、黒い夜とともにあたしの真上にいるんだ。台風のど真ん中に、あたしは立っているんだ。


「いよいよ、かな」


 あんなに美しかったスカイツリーからの風景が、今や灰色と黒の二色に染め抜かれていた。黒い夜はものすごい量で大地を埋め尽くし、灰色の雲は完璧な円を描いてあたしを包囲している。


「これは、敵わないや」


 人類も絶滅するはずだ。こんなのがやって来るだなんて、誰にも想像出来なかっただろう。どんな預言者だって、どんな未来予知者だって、もう黒い夜に収穫されていなくなってしまった。


 いよいよ、その時が来たか。あたしは気が付いた。人類絶滅から一年ほど、正確には、いや、もうどうでもいいか。


「うあああぁぁぁーーーっ!」


 あたしは叫んだ。吠えた。あらん限りの息を吐き出して大声を張り上げた。


「あたしはここだぁーっ!」


 そうだ。思い出した。あたしは何のために人類絶滅後の世界を旅して、遠い遠いここまでやって来たのか。


 あたしが知る限り最も高い場所から飛び降りて、人類の歴史に終止符を打つためだ。


 完全なる無音の世界にあたしの叫びが響き渡り、黒い海がとぷんと震えた。応えた。黒い夜が、それともクロイヨルンが、あたしに応えてくれた。


「人類最後の一人がここにいるぞぉーっ!」


 あたしの大声に反応して、黒い夜は音も無くさざめき、波立ち、溢れた。黒い海が目に見えて水嵩を増して行く。まったくの無音のまま、もうすぐスカイツリーも丸ごと飲み込んでしまうだろう。


 あたしはショルダーバッグからさっき温めたフリーザーバッグを取り出した。中身は白いごはんだ。さすがにこのままじゃ味気ないかな。あたしはショルダーバッグの中を漁って、フリーザーバッグの中にお塩を一振りして、フリーザーバッグごときゅっと軽く握り締めた。もう一度きゅっと、さらにもう一度きゅうっと。さあ、塩おにぎりの完成だ。


 叔父さんの人生最後のごはんはおしるこって言ってたっけ。父さんは自分で作った芋煮を最後に食べたいって言ってた。あたしの人生最後のごはんはこれだ。ほんのり温かい塩おにぎり。


 あむっ。大きくひとかじり。おにぎりを美味しく握るコツは、あまり力を入れずに、外側の米粒をくっつけ合わせて中の米粒はふっくらほろほろにほぐれる程度の密着度を作り上げる事だ。これがそう簡単な事じゃないんだ。


 まだキスした事もないけど、きっとキスする時みたいにまず唇の内側が塩っ気を感じ取る。おにぎりの表面に歯が突き立って、くっつき合ったお米達はほんの少しの抵抗を見せるけど、すぐにほろほろとほぐれて口の中いっぱいに広がって行く。広がったお米達は舌全体に行き渡って、噛めば噛む程に甘くなる。そして唇の内側に隠れていた塩っ気が追いかけてきて、喉をするっと滑り落ちて。


「うんっ! 美味しいっ!」


 さすがはあたしの塩おにぎりだ。人生最後のごはんにふさわしい。あたしはこれを食べるために生きてきた。そして生きている。これからも生きていく。


「どうしたぁーっ! あたしは美味しく食べて、まだまだ生きてやるぞぉーっ!」


 あたしを包囲する灰色の雲の壁が音も無くその回転速度を上げて、じわりじわりと台風の目を細める。黒い夜もいよいよ盛り上がり、気が付けば黒い海はもう天望回廊にまで達していた。


「……ねえ、あたしの名前を呼んで……」


 もう、ここまでだ。塩おにぎりをもう一口かじる。


「あたしの名前はっ!」


 仕上げだ。台風に、黒い夜に、あたしを知らしめる。あたしがここにいたんだって、ここにいるんだって、ここにずっといるんだって。


「あたしの名前は、朽木めぐむ。くちきめぐむ!」


 あたしの声が、あたしの名前が大きな波となって黒い夜をどくんと震わせて、台風の目をばりばりと揺るがした。


「あたしは朽木めぐむ!」


「さあ、あたしを観測しろっ!」


「忘れるなっ!」


「頭に刻めっ!」


「あたしの名前を呼べっ!」


 そうすれば、あたしはあんたの中に永遠に存在する。


 人類史上最後の言葉を、とびっきりの大声で叫んでやる。


「あたしの勝ちだぁーっ!」


 あたしは斜めに傾いたスカイツリーの天望回廊、その屋上部から駆け出した。大きく両腕を広げて、精いっぱい胸を張って、飛んだ。


 何の音もしなかった。


 ただ、誰かに抱きとめられたような気がして、あたし、空を飛んでいる──。

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絶滅野営 鳥辺野九 @toribeno9

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