第二話 「歩く非日常」と不思議

 私の祖母は、お客様が来るのを自宅で待っている『安楽椅子祈祷師』でした。


 出張祈祷はお願いされたらやっていましたが、そもそも祖母はその必要性を感じていなかったのではないか、と私は考えています。

 フィクションの世界では、霊能力者は自ら危険な現場に赴き、凶暴な霊と対峙してそれを力ずくで調伏させるものです。

 また、身の内に宿している特殊能力によって困難な問題を解決するタイプの霊能力者であれば、現場第一主義という設定は当然のことなのでしょう。

 そもそも現場に行かないと、世の中にあまねく存在するはずの霊の中から、除霊対象となるものを把握することができないはずですから。 


 ところが、神様を憑依させるほうの祈祷師には、はじめから「現場に行く」という設定は必要ないはずなのです。

 非力な人間が時間をかけて現場に出向くよりも、最初から神様に解決をお願いしたほうが話は簡単だからです。

 ここで「解決をお願いしたら神様がちゃんと対応してくれる」という私の主張に、疑問をお持ちになる方がいらっしゃるかもしれません。なんだか、神様を使い走りにしているように聞こえるかもしれません。

 しかし、これは不思議なことではないのです。

 なぜなら、そうでなければ「神社に行って神様にお願い事をする」行為が、無駄なものになってしまうのですから。

 神社の神様は、いちいち誰かに現場に連れていってもらって、その場で願いを叶えているわけではありません。

 もっと極端な言い方をすると、「ただの木の板に一方的に願い事を書いて吊るしたら、神様がそれを実現してくれる」と信じているのが日本人であり、私にはそちらのほうがよほど不躾に思えます。 


 ところで、西洋には現場に赴いて除霊を行う宗教系のエクソシストが存在しております。彼らは神の威光を用いているはずですから、一見、私の主張とは矛盾しているように見えます。

 しかし、エクソシストの場合は神様が直接手を下しているという考え方ではなく、神の力を人間ないしは道具が媒体となって使っているのだと思います。

 でなければ、同様に教会に出向いてお願い事をすることが、無意味になってしまいますので。


 さて、自宅で『安楽椅子祈祷師』と同居しているからといって、毎日不思議な出来事が生じるわけではありません。

 普段は、兼業農家のおばあちゃんと同居する日常が流れており、ごくたまにはそこから少し外れた出来事が生じたりするだけなのです。

 今回は私自身が実体験したことを、まずはそのままお話した上で、多少の説明を試みようと思います。


 *


 私が小学生の頃の話です。


 普段の通学路は、車が殆ど通ることのない田んぼのど真ん中にあるあぜ道でしたが、たまに同級生と別な道から帰ることがありました。

 その道は昔から街道として使われていたもので、そのために道の傍らには、いつからそこにあるのか分からないような古びた石地蔵や馬頭観音が立っています。

 その日、私は学校からの帰り道の途中で、そのような馬頭観音の一つに立ち寄ってしばらく遊んでいました。

 もちろん、道端にある石地蔵や馬頭観音は子供が遊んでよいものではありませんから、いつもであれば近付きもしなかったはずなのですが、その日は何故かやりたくなったのでしょう。

 しかも、小学生男子のやることですから、碌なことはしなかったに違いありません。今では何をしたのか覚えていませんが、相当なことはしたはずだと思います。


 そして家に帰った後、夕方になって急に私は全身が震えだしたのです。


 突然のことに私はもちろん、家族が慌てふためきました。

 車で行きつけの病院に担ぎ込まれましたが、もとより何か原因がある訳ではありません。お医者さんも首を傾げるばかりです。

 そのうちに震えが収まってきたので、私は自宅に戻って横になっているように言われました。

 それで大人しく寝ていると、枕元に祖母がやってきて言ったのです。


「今日、馬頭観音様にいたずらしただろう? 謝っておいたから、もう大丈夫」


 私には馬頭観音の祟りよりも、祖母のその言葉のほうが衝撃的でした。 


 *


 さて、第一話で宣言している通り、私は怪力乱神を語るつもりはありません。

 実体験をそのまま書きましたが、今になって考えてみると合理的な説明をすることが可能な話です。


 恐らく道を通りかかった誰かが祖母に、私が馬頭観音のところで遊んでいた事実を伝えていたのでしょう。田舎は人間関係が狭いので、そういうことがあってもおかしくありません。

 夕方になって急に震えだしたのは、子供心に馬頭観音を冒涜したことへの恐怖を感じていたために、それが身体現象として表に現れただけのことに思われます。

 それに、祟りであれば一緒に遊んでいた友人にも何か影響が出そうですが、そんな話はついぞ聞きませんでした。私だけが罰を受けたのでは、間尺が合いません。

 なので、これは「小心者の孫に、祖母があえて嘘をついて教訓を与えた話だ」と考えれば、どこも不思議な点はないのです。私が聞けば、祖母はそのように答えたかもしれません。

 ただ、この件について私は祖母に事実関係を問いただそうとは思いませんでした。 

 小中学生の頃は祖母の神通力を素直に信じていたので、聞くことを思いつきもしませんでした。

 高校生になりますと多少はひねくれ、合理的な説明が可能だと気がつきましたが、それを明らかにしてしまうことがなんだか味気ないことのように感じられて、そのままにしておきました。


 ただ、最近になって別な点が気になって仕方がありません。


 確かに、田舎は人間関係が濃密ですから、誰がどこで何をしていたかは筒抜けです。

 しかも、私は「お店の子」でしたから、周囲の大人は全員、私の顔を知っていました。そして、田舎の大人は顔見知りの子供には容赦しません。

 なので、馬頭観音の周りで私が遊んでいたら、間違いなく大きな声で怒鳴られていたはずなのです。車に乗っている場合でも同様で、止めて注意されたはずなのです。

 ですからこの場合は、その場で怒られた上に、家族にばらされて家でまた怒られる、というのが普通なのです。なのに、その場で声をかけてくれる人はいませんでした。


 それが不思議でならないのです。

 祖母はいったい誰から話を聞いたのでしょう?


( 第二話 終り )

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「歩く非日常」な祖母の話 阿井上夫 @Aiueo

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