何時か何処かの誰かの話

ぷにばら

中年男性の話

 その宇宙人は半分概念で半分生物のような存在です。


 性質としてあらゆる次元・時間・時空にいる同一個体を認識できたため、個という概念が薄い存在でした。


 宇宙人は個の自我が希薄化し、消滅するという危機に陥っています。意識で構成されている宇宙人にとって自我の消滅は存在の消滅を意味するのです。


 宇宙人が絶滅を防ぐためには個というものを理解する必要がありました。


 宇宙人はふわふわと銀河を漂う中で人間という生物を見つけました。


 人間は宇宙人が個を探す中で見つけた、ある種理想の進化を遂げた生命体です。


 宇宙人は人間と接触を図り、人間を理解するため、人間の姿と全く同じ姿を模倣した肉体を作成しました。


 そのまま人間社会に溶け込むことに成功し、今日もひっそりと人間を学習しているのです。


 ――――


「で?そんな与太話を俺に信じろってのかぁ?」

 その話を聴いた人物はワンカップの熱燗を煽りながら絡むような口調で訊ねます。あからさまに酔っているその中年男性の前にはカップ焼きそばを頬張る宇宙人が当然だと主張するように頷いています。

 宇宙人は人間でいう少年のような格好をしており、年は12歳くらいに見えます。

「最近の小学生の設定は凝ってんだなぁ、何言ってるか全然わかんねぇや……。本当の事言えよ、家出なんだろ?」

 訝しむ様子で中年男性は尋問しますが、宇宙人は焼きそばを食べるのに必死で答えられません。

 宇宙人のことをただの小学生だと思っている中年男性は子供がいたらこんな感じだったのかもしれないなと思い、毒気を抜かれます。

「まあ、いいけどよ」

 中年男性は水虫でボロボロになった足の裏や不養生からくるできものある禿頭を掻きながら、コンビニ袋から新しいワンカップを取り出してレンジに入れました。先ほど飲んだ熱燗の容器は畳にそのまま放ってあります。

 そのような無精を繰り返してきたのか、6畳しかない部屋は汁っけのあるカップラーメンの容器や踏んで破れた跡のあるパチンコ雑誌、中身の入った酒の缶など物で溢れかえり、生活できるスペースは実質1畳もありません。

 部屋全体からは据えた臭いが漂い、その家主がいかにズボラな性格かを物語っています。

 とはいえ、帰宅途中に行き会った、空腹で倒れていた宇宙人を自宅アパートまで運び、こうして介抱しているところを鑑みれば、人情がある人物ではあるのでしょう。今もパチンコ雑誌を捲りながら、宇宙人が焼きそばを食べ終わるのを待っています。

 数分してカップ焼きそばを食べ終えた宇宙人が満足そうにお腹をさすります。

「お、食ったか」

 中年男性はたまたま気づいたかのように雑誌から視線を上げました。先ほどから開いたページは進んでいません。

 宇宙人は焼きそばが超絶美味しかった旨を伝えます。今まで食べた食事の中で最も美味しかったと。

「いやいや、それは言い過ぎだろうよ。カップ焼きそばより美味しいものなんざこの世にいくらでも――」

 とまで言ったところで、中年男性はある可能性を思い至ります。

(こいつ、もしかして親からまともな食事を与えてもらってないのか――?)

 児童虐待という文字が中年男性の頭を過ぎりました。

(それなら道端で倒れていたのも納得出来る……家出したのも酷い環境から逃げるためだったのかもしれないな……)

 宇宙人は別に何かから逃げてくる過程で行き倒れていたわけではなく、単純にお腹が減って力尽きていただけなのですが、中年男性は悪い方向へと想像を進めてしまいます。

 ニュースは滅多に見ない中年男性ですが、胸糞が悪くなるような親の仕打ちがこの世の中に多くあることは知っています。目の前の少年がもしそのような環境に置かれていたとしたら、と考えると、このまま少年を返すのはあまりに忍びありません。しかし、中年男性は自身の生活を送ることが精一杯で、出来ることはそんなにないことも分かっていました。

「その……なんだ、カップ麺くらいならいくらでもある。好きなだけ食っていいぞ。それに……もし、こんな汚いところでよければいくらでも居ていいしよ」

 目の前の少年(の形をした宇宙人)がとても不憫に思えたのか、元々面倒見がよい性格でもあるせいで放っておけないのか、せめてもの償いにと目を逸らしながらそんなことを言いました。

 宇宙人はその感情の機微をよく分かっていないような目で中年男性を眺めます。宇宙人はまだ“同情”や“親切”を言葉から読み取る術を持っていないのです。

 しかし、ここにいてもよいと許可された事実だけは理解し、感謝を伝えます。

 そこで宇宙人は“人間を知る”という本来の目的を思い出しました。

 あなたはどんな人間で、なにをしている人ですか?という疑問を投げかけます。

「なんだ、藪から棒に。俺がどんな人間か、だって? そいつは難しい質問だな……。強いて言うならそうさなあ――」

 少し考えて、中年男性は自嘲しながら答えます。

「――俺ぁ、なぁんもない人間だな」

 その意味が計りかねたのか、宇宙人は首を傾げます。

 相変わらず中年男性は自虐的な笑みを浮かべたまま、レンジから取り出していたワンカップに口をつけます。

「まず、俺の職業は鍵の交換屋だ。文字通り、家やら会社やらの扉に付いてる錠前を交換するだけの仕事だな」

 中年男性が普段誰に語ることもない思いの丈をぽつりぽつりと話出します。

「こいつが最低に輪をかけて最低の職業だ。なんの生産性もない。ドライバーでネジを回してシリンダーを取り外し、別のシリンダーに付け替えて、ドライバーでネジを閉める。毎日これの繰り返しだ。休みもなければ賃金も安い。一度会ったら二度と会うことの無い客が多い商売だ。友人なんて作れない。こちらを見ねぇまま勝手にやってくれなんて言う客もザラだ。

 ――ああ、あと鍵の交換してる間に女を抱き始めたクズもいたな。あん時はブチ殺してやろうかと――って、こんな話をしてもしょうがねぇか」

 へへっと自嘲気味に笑う中年男性。その目は落ち窪み、諦めきった目をしていた。

 宇宙人は頷いて、続きを促します。

「こんな話、聴いても面白くないと思うけどな……。――まあ、他に話す相手もいないし、たまにはいいか」

 中年男性は小声でそう付け足して、話を続けます。

「別に仕事はいいんだ。成り行きとはいえ、俺が選んだ仕事だ。しょうがない。それにこの年だ。他に転職なんてできやしない。もういいんだよ、これでやってくしかないんだ。

 けど、こうやって毎日鍵を交換してるとさ、不要な物が新しく必要とされる物に変わる様子を毎日目にする訳だよ。それを行うのは俺だ。取り除かれた要らない物はそのまま集められて処分される。そこにはなんの思い入れだって寄せられはしない。いや分かってんだよ、行き過ぎた感傷だ、分かってるさ。鍵の交換することが仕事なのに、交換されるシリンダーに同情してちゃ世話ねぇよ。

 だがな、ある時から夢に出てくるようになったんだよ。俺がドライバーでバラバラにされて、クズ溜まりに捨てられる――そんな光景がな」

 既に温くなった熱燗で唇を濡らします。冷めると飲めたもんじゃないな、と中年男性は呟きました。

「俺の代わりなんていくらでもいるというのは使い古された台詞だが、大抵は代わりになったら俺以上に役割を果たす奴がわんさかといるというのが現実だ。俺にはそれを否定できる何かもない。

 昔から何も積み重ねてこなかったんだ。何も無いのは当然さ。才能がないって最初から決めつけて、努力もしない。それで年だけ食ったもんだから、当然誇れるものなんてない。ないないづくしだ。

 昔から優しいとか、人情深いと言われたが、そんなもので慰められるのは一時の自分だけだ。優しさじゃ何も得られないのは今の俺が証明してる。そうだろ?」

 思わず問いかけた先には宇宙人の無垢な瞳があります。中年男性が連想したのはいつもの客となる人種でした。普段からの鬱憤が中年男性を饒舌にします。

「さっきはクソみてえな客ばかり挙げたが、もちろんそんな奴らばかりじゃない。むしろ大半はマナーよく接してくれるさ。

 俺みたいに個人宅を回る鍵屋が最もよく相手をする人種がどんな奴らか分かるか?――そう、引っ越してきたばかりの奴らだ。入居した時は前の入居者が使ってた鍵がそのままになってるから、鍵を交換する必要がある。

 それでだ、そいつらは決まって新生活に期待をもった綺麗な目をしているんだ。未来を望む目をしている。ああ、もう分かっただろ?俺はそんな奴らに心の底から嫉妬してる。恨んでいる。僻んでいる。そんな、未来に胸をときめかせ、これからを楽しみにしている奴らがどうにかして人生を後悔して、!!」

 目は血走り、脂汗を飛び散らせる中年男性は鬼のような形相をしていました。

 ハッと冷静になり、ワンカップを飲み干し、肩で息していたのを落ち着かせます。

「……悪いな、熱くなっちまった。こんなもん、子供に聴かせる話じゃなかったな」

 宇宙人は首を振ります。

 興味深い話だったという旨を伝えました。

「興味深いか……。そりゃよかったよ」

 酒に酔った勢いで捲し立てたのを後悔しているのか、中年男性は力無く笑います。

 買ってきた酒が尽きて手持ち無沙汰になったのか、床に落ちたゴミをかき分けてポテトチップスの袋を取り出しました。

 宇宙人はそれが食べ物であると察し、興味津々で袋を開ける様子を眺めています。

「なんだ、ポテチも食べたことないのか。じゃがいもを揚げて塩振っただけの菓子だよ。けどな、これが酒に最高に合うんだ」

 中年男性は皮脂アブラで光沢した頬をニヤリとさせ、お手本を見せるようにかじります。

「ん〜、塩味!最高だな!ほら、お前も食え!」

 宇宙人は中年男性がしたようにポテトチップスを豪快に頬張ります。

「ははっ、どうだ。旨いか?おう、まだまだあるから食っていいぞ」

 中年男性は宇宙人の威勢の良い食べっぷりに満足そうに破顔しながら、床に落ちていた菓子袋を机に広げます。

「こいつにはなぁ!さらにこうだ!」

 中年男性は広げたボテトチップスにザラザラと粗挽き塩コショウを振りかけます。

「アルコールには塩分だ。圧倒的な塩分をビールで思いっきり流し込む。これが文化的な生活ってやつだな!ガハハ!」

 先程の沈んだテンションを払拭するかのように、中年男性は馬鹿笑いしていました。中年男性は冷蔵庫からいつから冷やしていたかが曖昧な焼酎を取り出し、パックのまま口に流し込みます。

「あ〜!これがクソ最高なんだよな〜!クソみてーな生活にはクソみてーな生活習慣だ!糞して寝るしか脳がねえ俺にはクソまみれな生活がお似合いだあな!あー、世の中クソしかねえな!ガハハ!」

 完全に出来上がっているのか、中年男性は口汚く悪態をつきながら騒ぎ立てます。

 ご近所トラブルが気になるところですが、左隣の部屋は入居以来ずっと空室であることと右隣は滅多に住人が帰宅しないため、誰かの迷惑になることがないのが幸いです。

 対面の宇宙人は子供が珍しい昆虫を見るような表情で、ある中年男性のある1点を注視しています。

「お?なんだ坊主、これが気になるのか?んん?」

 宇宙人が眺めていたのは中年男性が持っている2ℓの紙パックです。“酒”と呼ばれるアルコールを含む飲料が人類の暮らしの中で少なからず役割を果たしていることが気になっていたのです。

「なんだ、坊主、酒に興味があのか?」

 中年男性はなぜか嬉しそうに宇宙人に尋ねます。宇宙人はコクッコクッと頷きました。

「ガハハ!いいじゃねぇか!若いうちはなんでも経験だな!どれ、お前の分も用意してやる」

 繰り返すようですが、宇宙人は少年のような格好をしています。20歳未満の飲酒は法律によって禁止されていますので、子供に酒を勧めることは犯罪です。

 それを咎める倫理観などは存在しないかのように、中年男性は焼酎と氷が入ったグラスを宇宙人の前に置きます。

「どうれ、坊主にはまだ早かったかなあ」

 中年男性はそんなことをいいながら喜色満面の笑みを浮かべています。年端もいかない少年に酒を差し出す中年男性は絵面としては犯罪者そのものです。幸いにも少年は少年の姿をした宇宙人なので、倫理的にはあれでも法律的にはセーフです。 宇宙人に適用される法律は今のところありません。

 宇宙人は渡されたグラスを不思議そうに眺めています。

「ガハハ!珍しいか、坊主!俺もお前くらいの年の時には酒に興味津々だったな!冷蔵庫にある親父のビールを飲もうとしてよく怒られたもん――」

 そこまで昔語りをしたところで、中年男性は宇宙人が注がれたグラスではなく、2ℓ紙パックの焼酎をラッパ飲みしていることに気づきました。

「――おい、坊主!?」

 ゴクッゴクッゴクッゴクッ。

 宇宙人は喉を鳴らして、焼酎を勢いよく体内に流し込みます。

「お、おい……――」

 中年男性は止めることもできずに呆然としています。

 ゴクッゴクッゴクン――コロン。

 宇宙人は焼酎を飲み干し、中年男性がやったように床に転がしました。

 唖然とする中年男性の様子に小首を傾げる宇宙人。

「――……ガハハハハハ!!やるじゃねぇか!坊主!!」

 驚いたのも束の間、中年男性は手を叩いて喜びました。心底嬉しそうです。

 補足しておくと宇宙人は別に酒に強いことをアピールしたかった訳でも、中年男性を喜ばせようとしたのではなく、中年男性の真似をしたに過ぎません。厳密に言えば、“酒を飲む”という文化は中年男性がしてみせたように容器から直接一気飲みするものだと学習し、それを実行したに過ぎないのです。

 そんなことは知る由もなく、中年男性はうきうきと次の酒を用意しています。

 それから数時間、中年男性は宇宙人と飲み明かしました。


 ――――――――――


「あー……ぉぇ、だる……吐き気……今何時だ?」

 酔いつぶれるように寝ていた中年男性は自身の身体が非常に重いことに気づきます。過度な酩酊感が飲み過ぎたことを知らせているようでした。

 中年男性が時計を見やると、時計は午前2時を指していました。

「完全に飲みすぎたな……酒飲んで吐きそうなのは久しぶりだ……」

 呻くように呟いたところで、中年男性はなぜここまで飲むことになったのかに思いを巡らせます。もちろんそれは普段誰かと飲むことは滅多にないからで、今回その誰かとは宇宙人に他なりません。

「そうだ、あいつは……」

 吐き気を抑えながら首を上げると、宇宙人の小さな背中が見えました。なにやらがさごそと棚を漁っているようでした。

(まあ別に盗られて困るもんがあるわけでもないし、いいか)

 と倦怠感から放置しようとしたところで、洒落た柄の封筒を手に取っている宇宙人の姿が見えました。

「おま、その封筒、どこから見つけ――ぉぶ」

 便箋の中身を見られる前にそれを諫めるために声を荒げようとしますが、連動して身体を急に上げたのいけなかったのでしょう。吐き気が臨界点に達し、そのままトイレへ駆け込むことになります。

 数分後、中年男性がげっそりした顔で狭い居間に戻ってくる頃には宇宙人は便箋を開いて読んでいました。

「まったく、人の棚を勝手に漁りやがって」

 中年男性が飽きれたように言いながら宇宙人の隣に座りました。

 これはなにかと尋ねるように宇宙人は中年男性に無垢な瞳を向けます。

「見てわかるだろ……言わせんな、恥ずかしい」

 その言葉に対し、宇宙人はただ首を振ります。

「あん?字が汚くてよめなかったってか。そりゃあ悪かったな」

 宇宙人は単に文字が読めなかっただけなのですが、それを訂正することもなくぼおっとその手紙を眺めます。

「なんだ坊主、その手紙が気になるのか?」

 宇宙人は頷きます。

「ったく、こんなゴミだらけの中からピンポイントにそれを手に取ってるんだから、話すしかないのかね……そりゃ恋文だよ。ラブレター。俺が昔書いて、渡せなかったやつだ」

 ほろ苦そうに言う中年男性に対して、宇宙人は"恋"という単語にピクリと反応します。人類が"愛"や"恋"といった感情を用いた判断基準によって"特定個人と他者を明確に区別する価値づけ"を行っていることを知っていたからです。

「どうやら気になるらしいな、その辺はガキってことなんだろうな。……顔はぼうっとしているが、なんとなくお前の反応が分かってきたな」

 宇宙人は首を傾けます。

「いやなんもねえよ。それで、だ」

 こほんと少し気恥ずかしそうに中年男性が咳ばらいをします。

 宇宙人が急かすようにパタパタと手を鳴らします。

「その手紙だが、それを書いたのは高校三年の冬のことだ。

 っていうと、何十年前だ……?へへ、考えたくねえな。

 今はこんなんだが、当時俺にも好きな女の子ってやつがいたんだよ。

 そいつは俺と幼馴染で、とても仲が良かった。幼稚園から高校まで一緒だったんだ。俺はあいつのことが好きだったし、後から思えば多分あいつも俺のことを好んでいてくれたと思う。なんもねえクソ田舎だったが、あいつと過ごす時だけはちょっとしたことでも楽しかったんだ」

 中年男性は照れくさいのかコップに注いだ水を飲んで、誤魔化すように一息つきます。

「その手紙を書いたのは高校三年の冬だって言ったよな。そう、手紙を書いたのは進路選択の時だったんだ。

 俺は田舎を出て東京で就職することを決めていた。担任にも親にも反対されたが、その時の俺は馬鹿で無知でそのくせ自意識だけは一丁前だった。とりあえず東京に行けば何かになれる、人並みに立派になれると信じていたんだ。……馬鹿だよなあ、これといってなんの取り柄もないのに、自分だけは人とは違うって確信してたんだぜ?東京に行けば何かが変わるってな。まったく笑える。そのくせ、人一倍傷つくのが怖い――我が身が可愛いだけの臆病者だったんだ。その証拠に手紙の一つも渡せやしない。

 ……自己嫌悪はここまでにしよう。あいつの話だな。あいつの実家は美容院だった。それであいつは高校卒業後、すぐに家業を継ぐか、東京の美容系専門学校に行くか迷ってたんだ。いや、正確にはすぐに実家を継ぐことを決めていたが、東京に行くことに少しだけ未練があったということなんだと思う。普段から両親を思い遣るあいつだって、こんな寂れた片田舎でずっと顔見知りの髪を切って一生を終えるのは思うところがあったんだろうな。

 そう、東京だ。俺はあいつの夢を後押しするふりをして俺の願望を叶えるために手紙を書いたんだ。"上京して、俺と一緒に暮らさないか"ってな」

 中年男性は静かに語ります。過去を咀嚼するように、ゆっくりと。

 宇宙人は理解しているのかよくわからない顔で頷きだけはしています。

「――まあ、結局書いただけで渡さなかったがな。手元にあるとおりだ。なんで渡さなかったのかは、さっきも言った通り臆病だったからだ。渡して拒否されるのが怖かったんだ。誘ってダメだったらって思うと、どうにも告白する気になれなかったんだ。手紙にはおおまかな概要を書いて、詳しくは場所を設定して自分で伝えるつもりだったんだから、そこだけは評価してやってもいいのかもしれないな。まあ、やらなかったらなんの意味もないがな。

 笑えるよなあ、告白すると決めた日のことだ。俺は手紙を渡してさえいないのに冬の寒空の中、日が暮れるまで体育館裏であいつのことを待ってたんだ。そうやって待ってたら、何も行動しなくてもあいつがひょっこり来てくれるんじゃなかってバカみたいな期待をしてな。

 ……おかげでそれをこの年になっても忘れられずにいる。それを、後悔というのかもしれんがな」

 しばらく間をおいて、息を吐いて言います。

「いや、はっきり言っちまえば、俺はこの手紙を渡さなかったことを後悔している。

 渡していれば、今のこのゴミ同然のクソ人生も多少はマシになってたんじゃないかと思っちまうんだ。一緒に上京できなくても、人生かかった土壇場で逃げるという最低の経験がなければもっとマシな根性だったかもしれない。もっと言えば、あいつが一緒だったら人生のどんな辛いことでも頑張れたかもしれない――人並みに真っ当な人生を送れたかもしれないとそんなことを考える」

 絞り出すように、吐き出すように、あるいは祈るように、そう呟きます。

 宇宙人はそんな中年男性の様子をビー玉のような目で見つめています。

 何かを考えているように見えます。

「まあ、そんなこと言ったって仕方ない話だって分かっていってんだけどな。後悔したって返ってこないんだし。

 さあ、明日も――というか今日か、仕事だし、この辺にして寝るぞ……というか今更だけど、小学生が見知らぬおっさんの家でこの時間まで泊まってていいのか?」

 中年男性は本格的に寝る準備を整えながら、宇宙人に疑問を投げかけます。

 それを無視して宇宙人が尋ねます。

 過去をやり直したい? と。

「またなんだ、藪から棒に。そういうもしも話が好きなあたり、やっぱガキはガキだな。まあそうだな、やり直せるものならやり直してみてえよ。ていうか、大人なんて誰しもがそう思うんじゃないか。やり直したい時がない人間なんていないだろ。ただ、良くも悪くも平等にやり直す機会なんて誰にも与えられていないからな。ドラえもんじゃあるまいし――あ、今のガキってまだドラえもんって分かるの……――」

 そこまで言って宇宙人に向き直ったところで中年男性は絶句します。

 振り向いた体勢のまま固まりました。


 なぜなら自身がいる場所が見知った汚部屋ではなかったからです。

 そこは外でした。

 気付いたら夜の野外にいたのです。


「なんじゃこりゃあ……」

 中年男性は夜目を凝らして辺りを見渡すと、上り棒や鉄棒があり、遠くにはサッカーゴールがあるのが分かります。そこは校庭のようでした。

 宇宙人がシャツの端、腹辺りの布地を引っ張ります。

「おい、坊主。これは一体何が起きてんだ?」

 宇宙人はその問いに答えることなく、中年男性の背後を指さします。

 そちらを向くと、暗がりながらそこがの校庭かを理解しました。

「こいつぁ……」

 そこは三年間通った高校――母校だったのです。


 ――――――――――


 あらゆる次元・時空に同一個体が点在し、それを認識できる宇宙人にとって時間軸を"滑らせる"ことは可能で、形而下における時間的変位を対象に齟齬なく同調させることもまた可能だという内容のことを宇宙人は説明しました。

 中年男性はそれ自体が何を言っているのかは理解できませんでしたが、起きた出来事から逆算してつまりタイムスリップということかと思いました。

 中年男性と宇宙人は既に校舎の中に窓から忍び込んでおり、その過程で中年男性は先刻まで自宅に居た日付とこの場所の日付が異なっていることを張り出されていた校内新聞で確認しています。

「この年は……言うまでもなく、俺が通ってた頃だな」

 流れからなんとなく察していた中年男性は抵抗なく現実を受け入れているようでした。そもそも母校の高校は少子化により統廃合されて、今はその跡さえ残っていないはずなので、こうして校舎が残っている時点で信じざるを得ません。

 さらに宇宙人曰く、この時間軸は中年男性が過去に手紙を書き終えたその日だとのことです。

「つまり、あれか?坊主は俺がやり直したいつったから、やり直しのために過去へ飛ばしたっていうのか?」

 宇宙人はこくりと頷きます。

「一宿一飯の恩ってか?鶴の恩返しじゃねえんだから……。坊主、お前さんは何者だよ」

 そう呟きながら、中年男性の足は自然と昇降口へと向かっていました。

 当然明かりはなく、中年男性は暗がりに目を凝らしながら記憶を頼りに目的の場所へと歩きます。

「確か……――お、あった。覚えているもんだな」

 中年男性が立っているのは、かつての思い人である幼馴染の下駄箱でした。

 物音が一切ない静寂の中で、中年男性は自らの鼓動がうるさいくらいに鳴っていることを感じます。

「なあ、坊主。俺は今から過去を変えようとしてるんだが、……問題ないのか?」

 宇宙人は頷きます。主観時間軸におけるターニングポイントとして観測される特異点は無数に介在し、それぞれが可能性未来として分岐するが、存在し得る事象においては許容範囲内であるため、いずれ収束される――よって問題はないと伝えます。

「全然分かんねえけど、まあ問題ないならいいか。坊主、あの手紙を返してくれ」

 宇宙人が懐から封筒を取り出します。

 中年男性は暗がりの中で、水晶のように無機質な瞳で見上げられたのを知覚しました。宇宙人を、あるいは自分を鼓舞するように言います。

「なんだ?最後の確認のつもりか?ここまで来たんだから、後には引けないだろ。

 それに――これで俺の人生は確実に良くなる。底辺で惨めな現実とはおさらばだ」

 中年男性は手紙を手に取り、幼馴染の靴箱に入れます。

 通りかかる生徒からは見えず、几帳面な幼馴染なら確実に気づくという位置に置きました。

「俺はきっとやれる――チャンスさえあれば人並みにやれるはずだ」

 念を押すように呟いたところで――

 

「そこにいるのは誰だ!!」


 ドン!!とガラスを叩く音と共に、鋭い叫びと目を眩ませる明かりが怪しい二人組に向けられます。

「やばい、守衛か!?」

 中年男性の判断は早く、宇宙人を抱きかかえて走り出しました。

 玄関の外側から発見されたのが幸いしたのか、守衛は扉の鍵を開けるのに手間取っているようでした。

 中年男性はその隙に裏口側の窓まで駆けます。なんとか逃げ切るために必死の逃走です。

 裏口付近まで着いて、窓のカギを開けます。

 中年男性が背後を確認するとまだ守衛は追ってきていないようです。

 少し安心して、窓枠を足をかけたところで――


 ――その足をガッと正面から掴まれました。


「捕まえたぞ、この不審者デブめがァ!!」

 そこにいたのは先ほどの守衛です。玄関口から入ることを諦めて、最短ルートで裏まで全速力で回ってきていたのでしょう。

 その体力を裏付けするような凄まじい筋力で足を引っ張られます。

「あ――」

 不自然な体勢で足を持っていかれたことにより、中年男性は空中で仰向けになります。ちょうどバナナで足を滑らせたかのようなポーズです。逆さまになった視界で宇宙人と目が合いました。

「――俺を未来に飛ばせぇ!!」

 ほぼ反射的にそう叫び、窓枠のヘリで頭を打つ直前、中年男性は時空を跳躍しました。


 ――――――――――


 ガン!という鈍い音と共に頭を割るような衝撃が――訪れることはありませんでした。

 かわりに、ふにっという気が抜ける感触があります。

「あ……?」

 中年男性は仰向けのまま頭部を触ってみます。ふにっ、ふにっという効果音。

 そのまま全身を触れてみますが、ふにっ、ふにっとなるばかりです。

 まるで身体がマシュマロになったかのように曖昧で不確かな状態です。

 試しに床に触れてみると、やはりふにふにするばかりで手ごたえがありません。

 その状態を知ってる範囲の言葉であてはめるなら――

「幽霊になったのか……俺?」

 さきほどから連続して不思議なことが起きているのは宇宙人が大体の元凶であり、とりあえず宇宙人の姿を探します。

「あれ、いねぇのか……?」

 辺りに宇宙人の姿はありません。

(急に飛ばせと言ったから、まだこっちに来れてないのか。とすると、俺がこんな状態なのもいきなりだったからかもしれないな)

 中年男性は冷静に判断をします。

「というか、このクソ見覚えがある天井はまさか俺の自宅アパートじゃねえのか?」

 何一つ荷物が置かれていない、いかにも入居前であるこの部屋に確かな見覚えがありました。ただ、一つ異なる点を挙げるなら――

「外の景色が違うな」

 景色から逆算するに、この部屋は元々住んでいた部屋の隣ということでしょう。

「へえ、隣の部屋、こんな感じになってたんだな。上京してからずっとここに住んでるが、そういやこの部屋に誰かが入居したの、見たことなかったな」

 そこまで呟いて気づきます。

 ――じゃあ、今隣に住んでいるのは誰だ?

 中年男性は急いで壁に耳を当てて、隣の部屋の物音を聴きます。

『なあ、これはどの袋だ?』

 くぐもって聴き取りづらいですが、それは確かに自分の声でした。

 隣には自分が住んでいることになります。

 中年男性はタイムスリップをしてここにいます。

 ただタイムスリップしただけではなく、ある行動を起こしました。そして、その行動の結果が今まさに現れようとしていました。


『それ、ガス缶じゃないの。外でガス抜いてきて缶袋ね』


 その声は――。

 その声は、紛うことなく幼馴染のものでした。

「あ、ああ……――」

 夢にまで見た、幼馴染の声。

  

「やったなあ、おい!!」

 告白は完全にうまくいったようでした。

(あの日、やっぱり俺は馬鹿みたいに手紙を渡してもいないのに体育館裏で待ってたんだろう。俺の過去と違うのはそこであいつが来たこと。でも、そこで逃げだしたら元も子もなかったんだろうが……ちゃんとやったんだな、俺)

 数十年間、思い続けた積年の後悔が一気に昇華されるようでした。

 なんだ、自分もやればできるじゃまいかと中年男性は少し誇らしげになったりします。


 その日は中年男性の人生で最高の夜でした。

 後にも先にも、それが一番幸せだったと言えるでしょう。


 ――――――――――


 4日経って、中年男性の状態は変わりませんでした。

 相変わらず隣の部屋を盗み聞きしています。

 数日過ごす中で確信が三つありました。 

 一つ、この身体は腹が減らなければ、眠くもならないこと。

 二つ、宇宙人が再び現れるまでこの状態が続くであろうこと。

 三つ、この身体ではこの部屋を出ることが出来ないこと。

 

 二つ目に関しては完全に勘の部類ですが、中年男性はなぜだかそうなのだと確信をもっていました。

 ともかく、外部刺激のほとんどが自身と幼馴染の会話と生活音しかない日々でした。

 まるで地縛霊だなと中年男性は思いました。


 そうして、地獄のような地縛霊ライフが始まります。


 ――――――――――


 1年目

 順風満帆な同居生活、かと思いきやそんなことはありません。

 主には家事の配分がトラブルの原因です。

 彼は鍵屋の職についており、出勤時間や帰宅時間が不規則です。

 対して彼女はまだ学生の身分であるため、時間は固定的ですが、彼女は彼女で大忙しです。

 最初はお互いに気を使っていましたが、半年もするとどちらが多く家事をやっているやっていないという口喧嘩がちらほら見えるようになってきました。 

 その年一度だけ大きな喧嘩になりましたが、1日経って冷静になったのかすぐに仲直りしました。


 中年男性は相変わらず壁に聞き耳を立てています。


 ――――――――――


 2年目

 彼が初めて酒を飲んで帰ってきます。

 その時はまだ彼は未成年でした。どうやら職場の飲み会で断れずに飲まされたようでした。

 慣れない酒を下手に飲んだのか、夜中トイレに駆け込む彼を彼女は介抱します。

 ただ、それが続いたのも3度まででした。

 彼は職場で飲み会があるたびに前後不覚になるほど酔って帰ってきます。

 彼が20歳の誕生日を迎える頃には、深夜にべろべろになって帰ってくることは少なくなく、帰宅時の音で目が覚めても彼女は寝たふりをしていました。

 たびたび喧嘩をしましたが、そのたびにしっかり仲直りしました。


 中年男性は相変わらず壁に聞き耳を立てています。


 ――――――――――


 3年目

 彼女が短大を卒業して、美容師の見習いとなります。

 共働きとなりました。

 今までは彼女の時間が固定的であったため、彼女が合わせることによりなんとか二人の時間が取れていましたが、就職したからにはそうはいきません。

 徐々にすれ違う時間が増えていきます。

 彼は寂しい夜は酒を飲むようになりました。

 彼女は遅くに帰宅すると酒臭く酔っている彼に苛立ちを覚え始めます。

 互いに2週間ほど口を利かなくなる大喧嘩に発展しましたが、彼女が譲歩して仲直りしました。


 中年男性は相変わらず壁に聞き耳を立てています。 


 ――――――――――


 4年目

 彼が初めて彼女に暴力を振るいました。

 いつもの口論と酔った勢いが重なった結果でした。

 彼は彼女を殴ってしまった後、我に返り、泣きながら謝りました。

 彼女はそのたびにあやすように許していましたが、その年で5回同じような目に遭う頃には、すっかり冷めきった何かが心に去来するようになりました。

 喧嘩の度に、表面上は仲直りしました。


 中年男性は相変わらず壁に聞き耳を立てています。


 ―――――――――― 


 5年目

 彼女が妊娠しました。

 それは計画的なものではなく、彼の酔った勢いで行われた行為によるものでした。

 彼女は仕事を辞め、彼は仕事を増やしました。

 彼女の親は厳格であるため、彼女と彼を酷く責めました。

 彼の親はただ悲しそうな顔をして受け入れました。

 彼らは実家には頼らず、あの部屋で生きていくことを決めました。

 妊娠が発覚した時以来喧嘩はしていません。

 

 中年男性は相変わらず壁に聞き耳を立てています。


 ―――――――――― 


 6年目

 彼らの間に赤子が生まれました。

 彼と彼女は女の子を大切に育てようと誓いました。

 ただ彼は赤ん坊と接する時間がほぼありませんでした。 

 昼は鍵屋の仕事、夜は派遣のアルバイトがあったからです。

 彼らの生活にはただただお金がありませんでした。

 この年は初めて喧嘩をしていません。


 中年男性は相変わらず壁に聞き耳を立てています。


 ――――――――――


 8年目

 彼が右足が不随となる大怪我を負いました。

 睡眠不足による不注意で重機に足を巻き込まれたのです。

 彼は派遣のアルバイトを辞めざるを得なくなります。 

 鍵屋の仕事は続けることが出来ますが、以前に比べて作業効率が落ちるため収入もおのずと少なくなります。

 彼女は3歳になる女の子を保育施設に預けてパートで働くことにしました。

 保育費を差し引くとわずかな金額になってしまいますが、それでも働かないよりはいいという判断です。

 彼らの生活にはただただお金がありませんでした。

 まともに口を利ける回数さえ少なくなり、この年も喧嘩をしていません。


 中年男性は相変わらず壁に聞き耳を立てています。


 ――――――――――


 10年目

 真綿で首を絞め続けるような生活が続きます。

 生活は続きます。

 どこまで行っても暗いトンネルのような生活です。

 ただ今年はちょっとした起伏がありました。

 彼らは付き合い始めて、同棲を始めて10年になるため、お祝いをしました。 

 それは女の子の5歳の誕生日と一緒に行いました。 

 窮屈な日々でも楽しいことを探していこうと彼は言いました。

 辛いけど娘には元気なところを見せなきゃねと彼女は言いました。

 彼らの生活にはお金がありませんでしたが、それでも生きていこうという意思がありました。

 その年、彼らは少し喧嘩をしましたが、仲直りしました。


 中年男性は相変わらず壁に聞き耳を立てています。


 ――――――――――


 12年目

 彼が鬱病になりました。

 去年から身体の重さや何をするにも億劫な心理的負担を感じていましたが、無理を押した結果、彼は動けなくなりました。

 彼女は彼の分まで働くようになりました。

 女の子は去年から小学校に通うようになりました。

 

 中年男性は相変わらず壁に聞き耳を立てています。 


 ――――――――――


 14年目

 彼女が過労死しました。


 中年男性は相変わらず壁に聞き耳を立てています。


 ――――――――――


 15年目

 ××××××××××××××××××。

 ××××××××××××××××××××××××××××。


 ××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。

 ×××××××××××××××××××××××××××××グチャ×××××××××××××××××。


 中年男性は相変わらず壁に聞き耳を立てています。


 ――――――――――


 16年目

 もうその部屋には誰も住んでいません。







 中年男性は


 ――――――――――







 中年男性は思います。 





 これは一体何だろう、と。

 何十回、何百回、何千回、何万回と思いました。

「            」 

 地獄のような時間でした。

 もうやめてほしいと思いました。

 何百回、何千回、何万回、何億回と思いました。

「          。              ?」

 もう隣の部屋からは何も聞こえません。 

 が終わる音を最後に何も聞こえません。

 嫌に生温かい音だったのを覚えています。


 宇宙人が部屋に立っていました。

「               」

 中年男性は宇宙人にそう言いました。  

 縋りつくようにしますが、身体はふにふにという擬音を立てて、まるでふざけているみたいでした。

 ふざけているのだなと中年男性は思いました。 

 この世の何もかもはふざけているのだと思いました。

 悪い冗談でした。

 狂っています。


「            !!」

 中年男性は宇宙人にそう言いました。中年男性は宇宙人にそう言いました。中年男性は宇宙人にそう言いました。


 宇宙人はこちらを見つめています。

 

 今のこのゴミ同然のクソ人生も多少はマシになってたんじゃないかと思っちまうんだ。


 ふざけています。


 中年男性は宇宙人にそう言い相変わらず壁に聞き耳を立てて喧嘩をしましたが保育費を差し引くと睡眠不足による不注意で重機に酔った勢いが重なった結果女の子を大切に育てようとガス抜いてきて億劫な心理的負担を感じていましたがもうその部屋には誰も住んでいません。


 もうその部屋には誰も住んでいません。


 もうその部屋には誰も住んでいません。


 もうその部屋には誰も住んでいません。


「――ぇしてくれ」


 俺はきっとやれる――チャンスさえあれば人並みにやれるはずだ


 この世の何もかもはふざけているのだと思いました。


 悪い冗談でした。


 狂っています。


「俺を元の生活に返してくれ」


 ――――――――――

 

 中年男性は気づくと自分の部屋に帰ってきていました。

 体感時間にして約16年ぶりの自宅でしたが、そんなことはどうでもよいと思いました。

 「ぐぇああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――」

 奇声を上げながら玄関へ駆け出します。

 そのまま外へ。

「くぉうおおおおおおおおええええええおああああああいいいいいいおいおいいいいいいいいいいっはっははっははああっは!!」

 いつも寄るコンビニを抜けて、いつも通る空き地を抜けて、職場。

 事務所然とした職場の前でのたうち回ります。

「きぃやっはっはっはっはぁぁはぁはぁあはあはははははは!!!きぃやっおはっおおおおおおおおおおおおはっはっはぁぁはぁはぁあはあはははははは!!!」

 裸足で駆けてきたので、足が血まみれででもそんなことはどうでもよいと思いました。近くにあった電柱に身体をぐにゃぐにゃとした動きで擦り付けました。

 電柱はコンクリートなので顔を強く擦り付けたりすると擦過傷になりますがそんなことはどうでもよいのです。

「あはっぁはあはは、へぐげっはは、はは、がはははははははははははははは!!!あはっぁはあははははははははははははははははははははは!!!がははははは、がははは、がはははははははははははははははははははははははははははははははは――」

 総ては大体全部がふざけている。そう思えたのが面白くてしょうがない様です。

 最低だと思ってた人生も最高になると思ってた思い出も、幸せになれると思ってた人も全部フィクションです。

 実在の人物や団体などとは関係がありません。

 かけがえのないものなんて、悪い冗談です。

 狂っているから人並みなんてないのです。


「がは、がはは、がはっ、げほっ、がっ、ォェ、ォ――」


 残ったフィクションを、これまでを、後悔を全部吐き出しました。


 ――――――――――


 それから、中年男性は隣の部屋に引っ越しました。

「いや別に、16年間この部屋の壁に耳を続けたこととかは関係がねえ……んん?いやまあ、あるにはあるか」

 一人で隣の部屋に荷物を移動させながらそう一人で呟きます。

「よう、俺。どうせお前はここにいるんだろ?」

 中年男性が引っ越し先の部屋の壁に話しかけます。

 返事は当然ありません。

「まあ、気長にやろうぜ。お前の気持ちがわかるのは俺だけなんだからよっつてな、がはは!」


 あれ以来、中年男性は宇宙人を見ていません。

 全てはフィクションでした。

 そう思うことにしています。


 荷物を運びこみ、前の部屋の掃除を終えます。 

 家電や家具でぐちゃぐちゃの部屋で寝転んでいるとチャイムがなります。

「そういやここのチャイム、こんな屁みてえな音してたのかよ。鳴らされたことないから、多分初めて聞いたな。――はいよー!」

 起き上がって、扉へと向かいます。

 ドア越しから声がします。

「あの、すいません、来週ここに引っ越してくる者なんですけど――」



END

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何時か何処かの誰かの話 ぷにばら @Punibara

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