透明な花は夏に咲く
乙原海里
透明な花は夏に咲く
実を言うと私は炭酸飲料があまり得意ではない。喉を焼くような感覚と、総じて合成甘味料の甘ったるさが苦手だったのだ。天然水やお茶なんかを常飲しているからなのかもしれない。自然にあるものでないと、慣れていない身体の機嫌が少し悪くなるのだ。
それでも、透明で甘ったるく、喉が焼けるような炭酸飲料を飲みたくなる。
こんな風に、懐かしくも嫌になるくらい暑い夏には。
◇◇◇
「透明な花、ってあると思う?」
隣に立っている彼女の手には炭酸飲料。シンプルなデザインのそれはとても無垢そうで美味しそうに見えた。彼女の手は深い青で汚れていて、炭酸飲料のペットボトルと共に一つの芸術作品のようだった。
いつもの彼女の思考に泳がされているような気がしたが、私は考えてみた。透明な花。風が吹いてもいないのに揺れるその花はどうすれば見ることができるのだろう。
「もしあるとしたら、それは存在すると言えるの」
私がそう返すと、彼女は案外びっくりした顔を見せた。まさか返事がくるとは思っていなかったらしい。どれだけ貴女の思考に金魚みたく踊らされてきたかと思ってるのよ。
私のむすりとした気持ちが通じたのかそうでないのか、彼女は口元だけで笑った。アルカイックスマイル。私は彼女のそれがあまり好きではなかった。人形じみた彼女が一層人間味を無くしたような気がするのだ。
「さあ。信じていれば、いつか見えるかもしれない」
人形のような笑みをたたえ、彼女は遠くを見つめた。のびのびと生えた常緑樹の隙間から煌めく海が見える。葉の擦り合う音が波音に聞こえた。吹奏楽部の演奏が汽笛のように鳴り響く。未来への凱旋の歌。帰る場所はなく、私たちは留まることを知らない。高校生なんてそんなものだ。常に移り変わりゆく世界を顔を上げて歩いていく。
それができなくとも、幸せになるための道は必ずあるのだ。それを見つけるのが今日か明日か、はたまた一年後か五年後か、分かりっこないけれど。
「そういうもの、なの」
「そういうものよ」
ぱちりとウインクを決め込んで、彼女はぐっと伸びをした。夏服のセーラーの裾がはためいた。蝉の鳴き声が聞こえる。彼らの一生は私たちのようだ。一度輝くために、未来を掴むために、何年も地面の中でじっとしている。成熟する前に出てきてしまえば、夏の暑さに辟易して倒れてしまう。心地良かった地中には戻れない。
「透明な花はね、こんな風になんでもない一日に咲く。私たちはこの一日を大事にしなきゃ透明な花は見えないの」
「そういうものなの」
「ええ」
彼女は口角だけを上げてにっと笑った。依然目は海に囚われたままだ。じっと見つめていると魚の群がきらりと通り過ぎた気がした。見えているのは黒い瞳であるはずなのに、どこまでも青い。
「もし、透明な花を見つけたら私に教えてね」
「そうすることにする」
貴女に恨まれそうだし、と付け加えると彼女は笑ってペットボトルの炭酸飲料を呷った。こくり、と喉が動く。ペットボトルの水滴が彼女の手をするすると滑っていく。いつか、あの水滴が大海の一部となる日を思い浮かべた。透明な花が、幸せの花が、地球上を覆い尽くしていればいいのに。
爽やかな風が私たちを包み込み、ふんわりと画材の匂いを運んでくる。これが私たちの夏。これこそが私たちの青春。
「夏が来たわ」
「貴女の夏よ、夏ノ守さん」
「ええ」
彼女は私に夏のような笑顔を見せた。流石、世界で一番夏が似合う女の子。彼女のために夏があるようなものだ。
クマゼミが鳴いている。彼女はひとつ伸びをして、またキャンバスへと向かっていく。美しい青の手は年季の入った筆を取り、絵の具をこねた。なんてことない、私たちの日常。
私たちの夏、日常に咲く透明な花は、そこにあった。
透明な花は夏に咲く 乙原海里 @otobaru
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