戀し心中

宮守 遥綺

此岸の岸にて

 私が死んだのは、野山から少しずつ蝉の音が近付いて木漏れ日が鋭さを増すような、そんな季節でした。

 大きな未練と大きな未来への不安を抱えて、私は耐えられませんでした。そして何より、私をこんなに追い込んだあの人が、憎くて憎くて仕方がなかったのです。

 だから私は死ぬことを選びました。彼を、呪うために。

 お腹に折角やってきた子には申し訳なく思いました。しかしそれは私の命をこの世に繋ぎ留めるには些か頼りなく、細すぎる糸だった。せめてもう少し大きくなっていたのなら。もう少し早くこの子がお腹に宿っていれば。その糸は私を今も此岸へと繋いでいてくれたのでしょう。


 彼、カエデと私が出会ったのは、学生の頃でした。

 何のことはありません。大学のサークルの新歓が出会いの場です。2つ年上で、同じテーブルの友人とお酒を飲んでいた彼が、その当時はとても大人に見えました。柔らかい、暖かな光に照らされた彼の横顔がとてもきれいだと感じたことを、今でも覚えています。

 彼はサークル活動積極的に参加していた方で、私もまたそうでした。多くの人が入部はすれど幽霊となってゆく中、私たちは顔を合わせる機会が多かった。そうなれば自然、会話も増え、お互いの事を知ります。彼が卒業するまでの2年間、私たちにはそれだけの時間がありました。そうしてその時間は、お互いが惹かれるのにもまた、十分な時間だったのです。

 「卒業式にこんなこと言うのもあれだけど……付き合って、くれないかな」

 サークル仲間から渡された花束やら色紙やらを腕に抱えて、それらに顔を埋めるようにした彼にそう言われ、私たちの関係は友人から恋人に変化しました。とはいえ、別に関係の名前が変わっただけ。立場的な変化による変化はあったものの、お互いのお互いへの接し方には何一つの変化もありはしませんでした。


 彼は地元会社のシステムエンジニアでしたので、基本的には土日はお休みでした。私もまだ学生でしたから、休日に2人で会うようになりました。

 彼は就職を機に一人暮らしを始めていました。安い割にはしっかりとした立派なマンションで、鍵こそオートロックではありませんでしたが、外観だけ見れば大きくて綺麗なマンションでした。お互いに出て歩くのが好きな性分でもなかったこともあり、休日に会うのは専ら彼の家で、お昼ご飯を一緒に作って食べるのが楽しみでした。

 「ねぇ、アヤメ」

「んー?」

「就職、どうするの?離れるの?」

 私の就職活動が近くなると、彼は不安そうに言いました。

 カエデは、とても優しかった。だから私が就職で地元を離れると言っても、彼は寂しそうに「そっか。頑張れ」と言ったでしょう。彼はいつも私の事を優先してくれていましたから。

 「……大丈夫だよ。出て行く気ないし。実家から通う方が楽だし、お金溜まるし……それに、」

彼の方を向いて一度言葉を区切り、私は笑いました。彼は歳に似合わぬ素っ頓狂な顔でこちらを見ていて、私は今度は少し声を上げて笑いました。一口、お茶を飲んで彼を見、一言。

「離れたら、こうやって会えなくなっちゃう」

「それは、私は嫌だから」と言うと、彼が突然立ち上げりました。そうして何も言わずに私の後ろに回り込むと、細身のうっすらと筋肉のついた腕に私を閉じ込めます。耳元にふわりと彼の吐息が当たり、そこだけがほんわりと温かくなって。きゅ、っと彼が腕に力を込めたのがわかりました。

「そっか……そっか。良かった……」

 そう言った彼の声が、吐息が、震えていたのを私は今でも覚えています。胸の辺りが暖かく、穏やかになるのを感じながら、私はとても幸せだったのです。


 その後私たちの関係が変化したのは、私が大学を卒業して2年目の夏でした。

 この年、私も実家を出て、小さなワンルームのアパートを借りた。彼は私にマンションで一緒に住もうと言ってくれたし、両親はもっと大きなところを借りられるのにと首を傾げていたけれど、私自身が駅から10分ほどの距離にあるそのアパートを気に入ってそこを借りたのでした。まぁ、皆さまご察しの通り、この部屋は殆ど両親へのカモフラージュであり、友人と遊ぶために借りただけの部屋でありました。普段の生活は、彼に甘えて彼の部屋で送るようになっていたのです。

 そうしてそれに伴って、私たちの関係も変化したのでした。

 今までのようなふんわりとした、友人の延長線上の関係ではなく、所謂男女の関係へと変化したのです。信じられないかもしれませんが、私たちの関係はそれまでの4年間、非常に美しく、禁欲的でありながら健康的な、そして貞淑な関係であったのです。滑らかな素肌に抱かれ、鼓動を重ねることで感じられる愛情と熱情の波に呑まれることの心地よさを、私はこの時、初めて知りました。

 「アヤメ……好き、好き……」

 子犬のように彼は私の首筋に顔を埋め、鼻を鳴らす代わりにそう言って擦り寄るのでした。

 「私も好きだよ」

 普段、言葉では伝えない私たちがお互いに愛情を伝え合うには、この非日常のような甘ったるい空気がどうしても必要だったのです。カーテンで月の明かりをも遮った、密室。週に1度、土曜の夜に行われる密やかな儀式。次の一週間を頑張り抜くための、お互いの愛情を伝え合うための。


 カエデからプロポーズを受けたのは、そのような関係になってからすぐでした。彼の部屋で、突然に指輪の入った箱を渡されて。

 「ねぇ、結婚、してくれないかな」

 後ろから私を包み込み、彼は箱から指輪を取り出して。私の左薬指に嵌めました。両手でその手を包み込む彼の心臓の音が、背中から伝わります。呼応するように私の体も熱を上げて……。

 包まれた左の手をそのままに、私は彼を振り向きました。

 「……喜んで」

 1つ笑って、瞼を下ろし。すると彼がゆるりと近づく気配がして。

 彼に呼吸を、奪われました。

 その後はお互いの両親に挨拶をしたりと、今までよりも少しだけ慌ただしく駆けてゆきました。式の話なんかもしましたが、それにはお金の心配も付き物で。1年程、2人でお金を貯めようと約束をしました。


 子どもがお腹に宿ったのを知ったのは、そのような慌ただしさが潮が引くように去って行った頃……、皮肉にも彼から別れを告げられたその日の午前中でした。体調が暫く優れなかったこともあり、有給の消化ついでに病院に行くために休みを貰ったのです。

 妊娠していると知った時、私はとても嬉しかった。そろりとお腹を撫でながら、帰りの道で私の胸は感謝の気持ちしかなかったのです。胸がいっぱいで、体調の優れなかったことなど忘れてしまう程でした。

 『子どもは、いつか欲しいね。結婚して、子どもは2人くらい欲しいな。一軒家を建てて、仲良くお爺ちゃんお婆ちゃんになるまで暮らせたら……一番幸せだよね』

 そう言っていた彼の柔らかい笑顔を思い出すと、私の心は一層浮き立ちました。そわそわと携帯で時刻を確認して、さらりと彼が仕事を終えて帰るまでの時間を計算して……。それくらい、彼に報告するのが楽しみで楽しみで仕方なかったのです。

彼は数週間前から何だか元気がありませんでした。こちらを見ては何かを言いかけて、しかし何も言わずに黙ってしまう。そんな風でした。

この報告をすれば、彼の気分も幾分かよくなるかもしれない、とそのような期待も私の中には確かにあったのです。

 久しぶりに戻った自分のアパートで、私は夕方までの時間を掃除でもして潰そうと思いました。とはいえ、殆ど使っていない自宅ですから、物など殆どありません。小一時間ほどで掃除をする場所など無くなってしまい、近くの書店で本を2冊買いました。気になっていた作家の新刊と、妊婦さん向けの本。食べ物や生活の上で気を付けることや、アドバイスが書かれている本です。お腹の中の命を大切に育てたい、全てはその思いからでした。


 だから、その日の夕方に彼からメッセージが入った時。私は無防備に開いてしまったのです。そうして、短い文面を何の疑いを持つこともなく見てしまったのです。

 『ごめん。別れよう』

 私は、その言葉を信じることができませんでした。

 しかし、震える指で電話をかけても、何度も何度も無機質な音が響くだけでした。

 メッセージを送っても、読んだというサインが点灯するだけで、返事は何日経っても来ません。

 私たちは、お互いの家の鍵は持っていませんでしたので、仕事の帰りに何度も彼のマンションに行ってはみても、彼の部屋に入ることはできませんでしたし、会うこともできませんでした。

 彼のその連絡から、1週間が経ち……2週間が経ち……。その間に私の中で、感じた事のない、うねるような感情が徐々に大きくなって行きました。様々なものが混ざり合った混沌の感情。赤も青も白も黄色も……全ての色が混ざり合ったその行く末は、いつだって黒なのです。それが大きくうねってはまた新しいものを飲み込んで行くのですから、もう流されるより他に方法はありませんでした。

 しかしこの時には、このうねりは私を対岸に押し流そうとはしていませんでした。この大きなうねりが決壊し私をいよいよ飲み込んだのは、彼がマンションのエントランスに、知らない女性と入って行くのを見たその時でした。

 彼……カエデは、笑っていました。

 隣に並ぶ柔らかな栗色の髪の女性と共に。

 彼は楽しそうに、笑っていたのです。


 それから私は部屋に戻り、1日をただぼぅ、として過ごしました。その間にもうねりは大きく、そして暗さを増して行きました。

それはもう、止められるものではありませんでした。

 次の日の朝、私は彼のマンションに行きました。

 白い封筒に入れたのは、私の部屋の合鍵とメモ帳に書いた一片の別れの言葉でした。

 彼が仕事に出て行ったのを見計らい、私は封筒を彼の部屋番号の郵便ポストに入れまして。

 「……貴方をずっとずっと、恨み続けてあげる。……貴方が、死ぬまで」

 全ての準備を終えた私は、感じた事のないくらいに穏やかな心地でした。お気に入りのカフェで朝食をとり、近くの公園で飛んで行く小さな鳥たちを眺めました。その間に職場からは何度も電話が入っていましたが、震える携帯には気付かないふりをしました。

 そうして家に帰って。

 台所から包丁を取ってきて。

 お気に入りのワンピースに着替えました。

 そうしてベッドに横になり、頭まで布団を被って。

 左の首筋に当てた刃を、引きました。

 ゆらりゆらりと傾ぐ現実に、夢幻が混ざります。その中に浮かんだ貴方の顔を思い切り睨みつけ、吐き出すのは言葉にならぬ呪詛でありました。その内にその夢幻すらも朧になって行き。

 そうして、私は死んだのです。


 黒く大きくうねる川を眺めながら、大きく息を吐きました。目の前の川は、もはや川というよりは海のように見えます。それくらい、広い。いくら目を凝らしても、対岸が見えないのです。これでは渡った先に本当に岸があるのかすらわからないではありませんか。

 「……三途の川って、泳いで渡るものなの?」

聞いた話では、船がいるのではなかったのでしょうか。

 まぁ、無いものは仕方がないと足を水へ入れた時でした。

 水面に、映ったのです。

 彼の姿が。

 彼は泣いていました。死んだ私の手を握り、縋るように泣いていました。頬に血がついて、汚れていました。

 何故、彼は泣いているのでしょう。

 彼は私を捨てたのに。

 そのまま水面を見ていると、徐に彼が私の首元に転がる包丁を手に取りました。

 そして死んだ私の体を抱きしめ……。


 「……なんで」

ちゃぷりと重い水が音を立て、続いて私の体を慣れた温度が包みました。何故か怖くなり、振り向くことが出来ずにいますと、彼が「よかった。会えて」と囁きます。

 「……カエデ、ねぇ、どうして」

振り向く私を彼は見て、そうしていつものように微笑みました。柔らかく、光るように。

 「いいんだ。これで。どうせ、遅かれ早かれ死んだだろうし。……でも、ごめんね。アヤメ。巻き込みたくなくて別れようって言ったのに、こんなことになるなんて思わなくて……」

「どういうこと……?」

「僕ね、病気になってたんだ。後々介護が必要になるだろうし、お見舞いとか何とかで、結婚なんてしたらアヤメに苦しい思いさせるの、わかってたから。だからアヤメには、違う人とちゃんと幸せになってほしくて……」

「だから、あんな風に?」

 顔を歪めて、カエデは小さく頷きました。そして今度は私を前から抱きしめて、絞り出すような声で私を詰りました。

「アヤメが死んでるの見つけて……びっくりして……。だけど、少しだけ気持ちが軽くなったんだ」

 ぎゅうぎゅうと私を締め付ける腕が少しだけ苦しく感じたけれど、何も言わずに私は彼の言葉の続きを待ちました。これは聞き逃してはならぬ言葉だと、何処かで誰かが言うからです。

「ねぇ、アヤメ……アヤメが先に逝ってる……だから僕も死んでも怖くない。アヤメに会えるんだって、そう思ったんだ」

そうして、彼はもう一度「ごめん」と繰り返しました。

 「ねぇ、カエデ……私……とんでもないことしちゃったよ……」

「ん……?何?」

 ゆうるりとお腹を撫でて、私は彼を見上げます。彼はそれで、言いたいことを察したようでした。

「……そっか。赤ちゃん、いたんだ……。ごめんね……」

 彼が私の手に手を重ね、一緒にお腹を撫でました。そのままぎゅう、と私の手を取り、彼は川を進み始めます。私も引かれるように、足で水をかき分けました。

 「ねぇ、アヤメ」

此岸の岸が見えなくなった頃、カエデが突然に立ち止まりました。そうして前を向いたまま。

「これから行く先が、天国でも地獄でも。もう、離さないから」

そう、言ったのです。



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