甜言蜜語

ととむん・まむぬーん

甜言蜜語

 夕靄ゆうもやに滲む黄浦江ホワンプージャン、その向こう岸にはテレビでもおなじみのきらびやかな光の群れがぼやけて映る。その情景に溶け込むように水面みなもを行き交うゆったりとした遊覧船の電飾をぼんやりと見つめながら彼女は呟いた。


甜言蜜ティエンヤンミー……」


 その言葉を耳にした私は思い出したように財布の中から以前彼女から渡された、多少よれてしまった名刺を取り出した。そこには今彼女が口にしたのと同じ言葉が青いインクで書かれていた。


 こうして彼女と夕食やお茶の後に同伴するのは何回目になるだろうか。

 私自身は彼女のことを気に入っているし、異国の地でこうして共に時間を過ごしてくれていることについてもありがたいことだと思っている。彼女はどうだろうか。こうして逢瀬の後に同伴してくれる客が他に幾人かいるのだろうか。私が彼女の誘いを適当にはぐらかすのと同じく、彼女もまた私のことを一歩引いた目で見ているのかも知れない。それは至極お互いさまな関係だし、これはこれでよいのだろうと私は考えるようにしているのだった。



――*――



 ここ上海で事あるごとに利用するカラオケ店に今夜も顧客の接待を理由に私たちは繰り出した。

 流暢な日本語で人当たりのよさそうな中国人スタッフが十数名の女性たちを引き連れて客の目の前に並ばせる。白いドレスの女性が六名、スタイルも見栄えもモデルのようなハイレベルな彼女たちは主に接待相手のお客様のために用意されている。一方、黒いドレスの彼女たちは年齢も背丈もばらばらで白ドレス予備軍と思しき娘もいれば、夜の世界とは縁遠そうな娘もいた。


「日本語わかるの誰だぁ?」


 今日の主賓たる取引先のお偉いさんが声を上げるとまだ幼く垢抜けてもいない二、三人以外の皆が挙手をする。まずはお偉いさんが漢人以外の血を感じさせる最も目立つ女性を指名する。続いて白いドレスから順に顧客それぞれの席に招かれて行く。私は最後の最後に向かって右端で自信なさげに右手を小さく挙げている彼女を自席に招き入れた。

 新しいボトルと言いながら既に封が切られたバランタイン十二年を目の前にして、やけに露出度の高い黒いドレスに身を包んだ小柄で色白の彼女がグラスの中にカリンコリンと氷を積み上げる。そこに甲斐甲斐しく琥珀色の液体を流し込み、冷えたミネラルウォーターを注いでひとかき混ぜ、「どうぞ」と言って私の前に置かれた紙コースターの上にそっと置くと、冷えたグラスに結露した水滴がコースターの淵をあっという間に湿らせた。


「初めまして、Lと言います。お客さんは?」

我叫ウォージャオT、よろしくね」


 私は覚えたての中国語で自己紹介をすると「おぅ、中国語、お上手です」と、お決まりの言葉が返ってくる。続いて「Tさん、中国好きですか? 上海どうですか?」とこれまた彼女たちのお約束のような台詞が続く。こうして彼女たちは新規客と上海観光案内の約束を取り付けて同伴出勤のノルマをこなすのである。


 Lは四川省は成都の生まれだと言った。雨がちな土地柄のせいか四川省のひとは色白の美人が多いとは彼女の言葉。確かに彼女の肌もきめ細やかでなめらかで、シミひとつない磁器のような美しさだった。どこで覚えたのか少しばかり舌足らずではあるが自然な日本語を話す彼女は、実は日本人客からはあまり指名されることがないのだそうだ。


「う――ん、なんとなくわかる気がするな」


 私がそう答えると、彼女は子供のように目をキラキラさせながら私の腕に抱きついて上目遣いで私を見上げた。


「どうしてわかりますか? 日本人は私のこと嫌いですか?」

「Lさんはとてもかわいいよ」

「ほんとに?」

「ああ、かわいい。でもな、あそこのオジサンたちを見てごらん。あの人たちからみると君は女性というよりも我が子……娘のように見えるんじゃないかな」


 彼女の赤みがかったストレートのショートボブヘアはややもすれば都心の女子高生を思わせるし、童顔で小柄な風貌も夜の仕事を感じさせないものだった。


「じゃあTさんはなんで私を選びましたか」

「俺はかわいい娘が好きなんだよ」

「Tさんは娘さんいますか?」

「俺は結婚もしてないよ」


 彼女は深く切れ込んだスリットから白い脚を覗かせながら私の外腿にそれを密着させながら腕を一層絡みつかせる。しかしその動作はどことなくぎこちなく不自然で、きっと先輩たちからの教えか見よう見真似であろうその行為が妙な愛おしさを感じさせるのだった。

 私は彼女の腕をやさしく振り解いて言った。


「Lさんは四川省なんだろ? それなら四川料理も詳しいのか?」

「Tさんは四川料理好きですか? それなら今度一緒に行きます。私、上海の四川料理のお店たくさん知ってます」

「いいねぇ、四川料理。俺も麻婆豆腐以外の四川料理を食べてみたいな」

水煮魚シュイジューユウ宮保鶏丁ゴンバオジーディン辣子鶏ラーズージー……等等ダンダン、きっと日本人も好き。麻婆豆腐も日式日本風とは全然違うよ」


 彼女は私に向き直って、嬉しさのせいか少々饒舌で中国語混じりになっていた。


「それは楽しみだな。いずれ一緒に行きたいな」

「それではいつにしますか。Tさん、いつまで日本にいますか……」

「そうだなぁ……考えておくよ」

「日本人はそう言います。考えます、今度、今度……Tさんもそうですか?」

「そんなことはないさ、まだ知り合ったばかりだし、これから、これから」

「もう、私、Tさんが私を選んだのうれしいのに……」


 そんな彼女の言葉が終わらないうちに私は上司に手招きされ、店の前にタクシーを三台呼ぶよう命じられて席を立った。私は自席に座る彼女の肩に軽く手を添えて微笑みかけた後、部屋を出てフロントに立つ流暢な日本語を話す先ほどのスタッフを呼び止めてタクシーの手配を命じた。

 あのまま彼女と会話がはずんでいたならばきっと次回の約束をさせられていただろう。それを誤魔化す口実ができて私は内心ホッとしていた。私たちが借り切っている部屋の喧騒、カラオケの音響と薄白く烟る紫煙からしばし解放された私はフロント脇のソファーに身を委ね、このままここでタクシーの到着を待つことにした。そして客を送り出せば今夜の宴はそこで御開きとなる。それまでの間、私はここで疲れた頭を休めながら東京を離れる前に別れたパートナーのことを思い出していた。



 Yと私は五年の時を共にしてきた。デザイナーの彼女とサラリーマンの私とは旧友宅のホームパーティーで知り合った。彼女は旧友が主催するオフィスに出入りするフリーランスだった。

 旧友が私に彼女を紹介する。どうやら彼女の商売道具であるパソコンの調子がここのところすこぶる悪く作業もままならないのだと言う。そこでIT企業で顧客のシステム環境設定を本業としている私の話を彼女にしたらしい。彼女は渡りに船とばかりに今度のパーティーで相談させて欲しいと申し出てきたのだった。


 それからの進展はすこぶる速かった。彼女のパソコンはかなりの旧式だったため、これを機に新調するとともに、ノートパソコンも購入することになり、それを理由に二人で秋葉原に出かけ、その後もまるで保守契約でもしているかのように頻繁に彼女の機器の面倒を見るようになっていった。そして私たち二人が互いを求め合い、身体を重ね合うようになったのもごくごく自然な流れだった。

 ある日私は彼女に自分がバツイチであることを告白した。隠していたつもりはなかったが話す機会がなかったのだった。


「Tさん、聞いてるんでしょ? 私も、ってこと」


 私にとってそれはまったくの初耳だった。しかしお互いさして驚くことはなかった。それなりの年齢を重ねた私たちにとって過去がどうあれ、それは大した問題ではなかった。

 離婚?

 そんなものは男女の別れを法的に規定しただけのもの、君はこれまでの自由恋愛の履歴をいちいち気にするのかい?


 こうして私たちは互いを受け入れ新しい生活を開始したのが今から数年前のことだった。しかしそんな生活はそれほど長くは続かなかった。彼女は以前の過ちを繰り返さぬよう日々の生活の節目節目にイベントを設けたがった。そうすることで二人の関係を常に新鮮に保っておきたかったのだ。一方で私は家事から解放され仕事に専念できるようになったこの生活のリズムを崩したくなかった。そして徐々に食事のときや風呂上がりのひとときなど、ふとした会話でもお互いの気持ちがすれ違うことが多くなっていった。


「ねえ、Tさん、今度旅行に行こうよ。私もスケジュールを調整するからTさんもなんとかならないかな、休暇とか」

「ねえ、Tさん、私の食事ってどう? 最近、外食にしようって言うとすごく顔がほころぶよね。私の料理に飽きたのかなぁ……」

「ねえ、Tさん、最近……最近さ……ううん、なんでもない、今の忘れて」

「ねえ、Tさん、いつも話してくれる美味しいお店にはいつ連れていってくれるのかな? とてもよかったって言ってたあの温泉は? Tさんの話はとても面白いわ。でもいつも話で終わるのよね」

「ねえ、Tさん、休暇を取ってくれる話は? 今度っていつ? ねえ、そのうちっていつなの?」

「ねえ、Tさん、私ってTさんの好みのタイプじゃないのかな。私、最近よくわからなくなってきちゃったよ」

「ねえ、Tさん、あなたは否定はしないのよね。でも同意もしない。いつもぼやけた曖昧な返事しかしないわ。それってまるで自分は悪者になりたくないんじゃないかしら、って思えるのよね」


 そして私が数日間の出張から帰ったある日の夕方、二人の部屋からYの荷物だけがきれいさっぱりとなくなっていた。そしてYが持っていたこの部屋の鍵だけが別れのメモ書きとともにダイニングテーブルに置かれていた。数少ない想い出のひとつだったYが愛用していたキーホルダーはそのまま持っていったようだったが、そんなことはもうどうでもよかった。Yがこの先、そのキーホルダーを見る度、私との五年間を思い出す……なんてセンチメンタルなことはおそらくないであろう。二人で見つけたデザインを気に入り、なおかつ使い勝手がよいから持っていっただけなのだ。そしてそのうちもっとよいものが見つかればあっさりと不燃ゴミにでも捨てられるのだろう。そう、ただそれだけのことなのだ。

 私は仕事の疲れを両肩にどんよりと背負いながらYが私に向かって言った最後の言葉を思い出していた。


「ねえ、Tさん、あなたの言葉は心地よいし楽しい期待も感じさせるの。でも、それだけなのよ。つき合うまでは期待がふくらむけれど、つきあい出したら空虚なだけだったのよ」



 もし私がたばこを喫っていたのならば、こんな大きなため息のひとつも多少なりとも絵になったのだろうか。そんなことを考えていたところに、フロントの向こう、長い廊下の両側に並ぶ革張りのドアの一つが開き、そこからガヤガヤとした喧騒が聞こえてきた。そうだ、そろそろ宴も御開きの時間だろう。タクシーも間もなく到着する頃である。私はほっぽらかしにしていたLさんのことを思い出して足早に宴席に向かった。はたしてLさんは私の席でスマードフォンの画面を眺めていた。出て行くお客の間を縫って私はLさんの隣に座る。


「ごめんね、Lさん、ほんとにごめん」


 Lさんは画面を撫でる手を止めると嬉しそうに笑って私の顔を見る。そんなやりとりを見た同僚が茶化すように声を掛けてくる。


「お嬢さん、Tからチップ倍付けでもらいなよ。放置プレイの代償は高いぞ」


 私は急いで財布から百元札を数枚を出すと二つ折りにしてLさんに手渡す。彼女は早速枚数を数えると「謝謝シェシェ」と言って席を立ち、私と腕を組んでフロントまでエスコートする。


「Tさん、今度いつ来ますか」

「そうだなぁ……すぐってわけには行かないけど近いうちに」

「Tさん、いつまで上海にいますか、また会えますか」

「仕事だからね、まだいるよ。だからいつでも会えるさ」


 彼女は軽いため息をひとつつくとポーチから名刺を取り出してフロントに置かれたペンでさらさらと何かを書いた。


「Tさん、今度来るときはここに打電話ダーディエンホアです。これ私の手机携帯電話です」


 そして次々と出て行く同僚たちに遅れないようにと私の背中を軽く押した。私は振り返って彼女を見る。彼女は微笑みながら胸の前で小さく手を振っていた。

 ホテルまでのタクシーの中で私は先ほど彼女から手渡された名刺をポケットから取り出した。そこには青いインクで「甜言蜜」と書かれていた。



 ホテルに戻った私はシャワーを浴びるよりも先に彼女が残したあの言葉の意味を調べてみた。

 甜言蜜語てんげんみつご――それは甘い言葉、耳障りのよいセリフといった中国語で、ほぼ同じ意味で日本語の四字熟語にもなっていた。しかし彼女が残した言葉には最後の「語」がない三文字である。これは単にくだけた表現なのだろうか、それとも他に含みがあるのだろうか。検索しても的確な情報が得られないのではこれ以上自分にできることはない。私は熱いシャワーを浴びながらも悶々と考え続けていた。既に答えは出ているはずだ。なのになぜか私はいつまでも逡巡していた。


 シャワーを終え、私はホテルが用意したタオル地のバスローブを羽織って窓辺に移る薄靄うすもやにけぶった夜の街並みを眺めていた。

 何をためらっているのだ。お前はこの地で別のお前を演じればよいのだ。彼女は彼女なりにお前にきっかけを与えてくれたではないか。彼女はきっとお前を拒絶しない。さあ勇気を出して行け。そして私はようやっと決心したのだった。



――*――



 翌日、まだ日が沈む前に私は名刺に書かれた番号に電話をかけた。数回の呼び出しの後、少しかすれた眠たそうな声の中国語が聞こえた。


「……もしもし……」

我是私は……甜言蜜ティエンヤンミー

「……ティエン……ヤン……おぅ、Tさん? Tさんですか? ほんとに? あ、今、寝てました、ごめんなさい」

「いいって、いいって。それより昨日話してた四川料理、どうだ今晩。もちろん、その後はLさんのお店に行くよ」

「ほんとに? うれしいです、うれしいですよ」


 Lのかすれた声に活気を感じた気がした。

 彼女は私の急な誘いにあっさりと快く応じてくれた。それはこれが彼女の仕事だからかも知れない。それでもいいのだ。上海ここにいる間だけでも交流ロマンスが楽しめればそれでよいではないか。


「よし、それじゃ時間と待ち合わせ場所を決めよう」



 私は時刻を確認する。彼女との約束の時間まではまだ多少の余裕があった。その間に彼女はシャワーを浴びてめかしこんでやって来るであろう。ならば私は今宵の会話の潤滑油にするべく何かプレゼントでも見繕っておくことにしよう。

 オフィスを出たところで目の前の車道に身を乗り出すとちょうど空車のタクシーがこちらに向かって来るのが見えた。私が手を車道に向かって伸ばしおいでおいでの手振りをすると黒いフォルクスワーゲン製のセダンが滑り込んで来た。私はドアを開けて助手席に乗り込むと運転手に行き先を伝えた。


到、来福士広場ラッフルズ・シティーまで!」


 運転手は無言で頷くと黄昏の上海の街に向かって車を走らせた。




甜言蜜語

――完――

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