甜言蜜語
ととむん・まむぬーん
甜言蜜語
「
その言葉を耳にした私は思い出したように財布の中から以前彼女から渡された、多少よれてしまった名刺を取り出した。そこには今彼女が口にしたのと同じ言葉が青いインクで書かれていた。
こうして彼女と夕食やお茶の後に同伴するのは何度目だろうか。
確かに今の私は彼女のことを気に入っているし、共に過ごす時間に安らぎも感じている。
彼女はどうだろうか。
逢瀬の度に同伴してくれる私のような相手が他に幾人かいるのだろうか。
私が彼女から誘いを適当にはぐらかすのと同じく、彼女もまた私のことを一歩引いた目で見ているのかも知れない。しかしそれは至極お互いさまなことだし、これはこれでよいのだろうと私は考えることにしているのだった。
――*――
ここ上海で事あるごとに利用するカラオケ店に今夜も日本からやって来た客の接待を理由に私たちは繰り出した。
流暢な日本語を話す人当たりのよさそうな中国人スタッフが十数名の女性たちを引き連れて客の目の前に並ばせる。白いドレスの女性が六名、スタイルも見栄えもモデルのようなハイレベルな彼女たちは主に接待相手のお客様のために用意されているのだ。一方、黒いドレスの娘たちは年齢も背丈もばらばらで白ドレス予備軍と思しき娘もいれば夜の世界とは縁遠そうな娘もいた。
「日本語わかるの誰だぁ?」
今宵の主賓たる取引先のお偉いさんが声を上げると、まだ垢抜けてもいない二、三人以外の皆が挙手をする。
まずはそのお偉いさんが漢人以外の血を感じさせる最も目立つ顔立ちの女性を指名した。続いて白いドレスから順に賓客たちそれぞれの席に招かれる。接待役の私は最後の最後に向かって右端で自信なさげに右手を小さく挙げている黒いドレスの彼女を自席に招き入れた。
小柄で色白の娘が小さく会釈して私の隣に寄り添うように座る。
二人の目の前には既に封が切られたバランタイン十二年のボトル、彼女はぎこちない笑みを浮かべながら私のグラスにカリンコリンと氷を積み上げると、そこに甲斐甲斐しく琥珀色の液体を流し込んだ。そしてまだこの仕事に慣れていないのであろう、危なっかしい手つきで冷えたミネラルウォーターを注いでひとかき混ぜする。
まるでお
「どうぞ」
緊張した声とともに彼女が手にしたグラスをそっと置くと、あっという間に結露した水滴が白い紙コースターの淵を見る見るうちに湿らせた。
「初めまして、Lと言います。お客さんは?」
「
私は覚えたての中国語で自己紹介をすると「おぅ、中国語、お上手です」と、お決まりの言葉が返ってくる。続いて「Tさん、中国好きですか? 上海どうですか?」と、これまた彼女たちのお約束である台詞が続く。こうして彼女たちは新規の客と上海観光案内の約束を取り付けては同伴出勤のノルマをこなすのである。
Lさんは四川省は成都の生まれだと言った。雨がちな土地柄のせいか四川省の
「う――ん、なんとなくわかる気がするな」
私がそう答えると、彼女は子供のように目をキラキラさせながら私の腕に抱きついて続けた。
「どうしてわかりますか? 日本人は私のこと嫌いですか?」
「Lさんはとてもかわいいよ」
「ほんとに?」
「ああ、かわいい。でもな、あそこのオジサンたちを見てごらん。あの人たちからみると君は女性というよりも我が子……娘のように見えるんじゃないかな」
赤みがかったショートボブヘアの彼女は日本ならばよく目にする都会の女子高生を思わせるし、小柄で童顔な風貌も夜の仕事に似つかわしいとは言えなかった。
「じゃあTさんはなんで私を選びましたか」
「俺はかわいい娘が好きなんだよ」
「Tさんは娘さんいますか?」
「俺は結婚もしてないよ」
彼女はスリットからチラチラと覗く白い脚を何度も組みなおしては私の外腿にそれを密着させながら腕を一層絡みつかせる。きっと先輩たちの見よう見まねであろうその仕草はなんとも不自然なものだったが、しかし私はそこに健気さと愛おしさを感じるのだった。
私は彼女の腕をやさしく振り解いて言った。
「Lさんは四川省なんだろ? それなら四川料理も詳しいのか?」
「Tさんは四川料理好きですか? それなら今度一緒に行きます。私、上海の四川料理のお店たくさん知ってます」
「いいねぇ、四川料理。俺は麻婆豆腐くらいしか知らないけどさ、いろいろあるんだろ?」
「
無理してしなを作っていた彼女は私に向き直ると、緊張がほぐれたのか少々饒舌で中国語混じりになっていた。
「それは楽しみだな。いずれ一緒に行きたいな」
「それではいつにしますか。Tさん、いつまで日本にいますか?」
「そうだなぁ……考えておくよ」
「日本人はそう言います。考えます、今度、今度……Tさんもそうですか?」
「そんなことはないさ、まだ知り合ったばかりだし、これから、これから」
「もう、私、Tさんが私を選んだのうれしいのに……」
そんな彼女の言葉が終わらないうちに上司が私に手招きをする。この後すぐ次の店に案内するからにタクシーを呼べとのことだった。私は自席に座る彼女の肩に軽く手を添えて微笑みかけた後、部屋を後にしてフロントに向った。
あのまま彼女と会話がはずんでいたならばきっと次回の約束をさせられていただろう。
それを誤魔化す口実ができて私は内心ホッとしていた。今夜借り切っている部屋の喧騒と薄白く
あとは客を送り出せば宴はそこでお開きとなる。ふと緊張がほぐれたそのとき、ほどよい眠気とともに東京を離れる前に別れたYとの思い出が私の脳裏をよぎった。
パートナーだったYと私は五年の時を共にしてきた。
我が旧友が催すホームパーティにてフリーランスのデザイナーである彼女とサラリーマンの私は出合った。
旧友が彼女に私を紹介する。どうやら彼女のパソコンが最近不調で、商売道具のCADソフトのみならず見積書を書くにも苦労しているのだそうだ。そこでIT企業に勤める私の話をしたところ、彼女は渡りに船とばかりに今度のパーティーで相談させて欲しいと申し出てきたのだった。
それからの進展はすこぶる速かった。
かなりの旧式だった彼女のパソコンを新調しようと、それを理由に二人で秋葉原のショップを巡った。それからはまるで保守契約でもしたかのように頻繁に彼女の機器の面倒を見るようになり、そして私たち二人が互いを求め合い、
ある日のこと私は彼女に自分がバツイチであることを告白した。隠していたつもりはなかったが話す機会がなかったのだ。
「Tさん、聞いてるんでしょ? 私も、ってこと」
私にとってそれはまったくの初耳だったが、しかしお互いさして驚くことはなかった。それなりの年齢を重ねた私たちにとって過去がどうあれ、それは大した問題ではなかった。
離婚?
そんなものは男女の別れを法的に規定しただけのもの、君はこれまでの自由恋愛の履歴をいちいち気にするのかい?
こうして私たちが互いを受け入れて新しい生活を開始したのが今から数年前のことだった。
しかしそんな生活はそれほど長くは続かなかった。彼女は以前の過ちを繰り返さぬよう日々の生活の節目節目にイベントを設けたがった。そうすることで二人の関係を常に新鮮に保っておきたかったのだ。
一方で私は家事から解放され仕事に専念できるようになったこの生活のリズムを崩したくなかった。そして徐々に食事のときや風呂上がりのひとときなど、ふとした会話でもお互いの気持ちがすれ違うことが多くなっていった。
「ねえ、Tさん、今度旅行に行こうよ。私もスケジュールを調整するからTさんもなんとかならないかな、休暇とか」
「ねえ、Tさん、私の食事ってどう? 最近、外食にしようって言うとすごく顔がほころぶよね。私の料理に飽きたのかなぁ……」
「ねえ、Tさん、最近……最近さ……ううん、なんでもない、今の忘れて」
「ねえ、Tさん、いつも話してくれる美味しいお店にはいつ連れていってくれるのかな? とてもよかったって言ってたあの温泉は? Tさんの話はとても面白いわ。でもいつも話で終わるのよね」
「ねえ、Tさん、休暇を取ってくれる話は? 今度っていつ? ねえ、そのうちっていつなの?」
「ねえ、Tさん、私ってTさんの好みのタイプじゃないのかな。私、最近よくわからなくなってきちゃったよ」
「ねえ、Tさん、あなたは否定はしないのよね。でも同意もしない。いつもぼやけた曖昧な返事しかしないわ。それってまるで自分は悪者になりたくないんじゃないかしら、って思えるのよね」
そして私が数日間の出張から帰ったある夕方のこと、二人の部屋からYの荷物だけがきれいさっぱりとなくなっていた。Yが持っていたこの部屋の鍵と別れのメモだけをダイニングテーブルに残して。
彼女が愛用していたキーホルダーはそのまま持っていったようだったが、そんなことはもうどうでもよかった。Yがこの先そのキーホルダーを見るたび私との五年間を思い出す……なんてセンチメンタルなことはおそらくないであろう。だたそのデザインを気に入り、なおかつ使い勝手がよいから持っていっただけなのだ。そんなもの、そのうちもっとよいものが見つかればあっさりと不燃ゴミにでも捨てられるに違いない。そう、ただそれだけのことなのだ。
私は仕事の疲れを両肩にどんよりと背負いながらYが私に向かって言った最後の言葉を思い出していた。
「ねえ、Tさん、あなたの言葉は心地よいし楽しい期待も感じさせるの。でも、それだけなのよ。つき合うまでは期待がふくらむけれど、いざつき合ってみたら空虚なだけだったのよ」
異国の地にまでやってきてまで遠慮なしに人の心に入り込む追憶に辟易した私は、ひとり大きなため息をつくとそのままソファーに身をまかせた。もし私がたばこでも喫っていたならば、こんなため息でもそれなりの絵になったのかも知れない。
手持ち無沙汰そうにひとりフロントに立つ店のスタッフ、そんな彼の視界の端で気怠そうに佇む日本人、こうして互いに見て見ぬ振りの二人の間にはこの街らしくない静寂が漂っていた。
やがてフロントの向こう、長い廊下の両側に並ぶ革張りドアの一つが開くと、その中からガヤガヤとした喧騒が聞こえてきた。
そろそろお開きの時間だろう。タクシーも間もなく到着する頃である。再びやってくる軽い緊張感と共に我に返った私は、ほっぽらかしにしていたLさんのことを思い出して足早に宴席に向かった。
はたしてLさんは私の席でスマートフォンの画面を眺めていた。フロントへと流れる波の合間を縫って私はLさんの隣に腰を下ろす。
「ごめんね、Lさん、ほんとにごめん」
Lさんは画面を撫でる手を止めると嬉しそうに笑って私の顔を見る。傍らを通り過ぎる同僚が私たちを茶化すように声を掛けてきた。
「お嬢さん、Tからチップを倍付けでもらいなよ。放置プレイの代償は高いぞ」
私は急かされるかように財布から数枚の百元札を出すとそれを二つ折りにしてLさんに手渡す。彼女は手早く枚数を数えると「
「Tさん、今度いつ来ますか?」
「そうだなぁ……すぐってわけには行かないけど近いうちに」
「Tさん、いつまで上海にいますか、また会えますか?」
「仕事だからね、まだいるよ。だからいつでも会えるさ」
彼女は軽いため息をつくとポーチから名刺を取り出してフロントに置かれたペンでさらさらと何かを書いた。
「Tさん、今度来るときはここに
そして次々と店を後にする同僚たちに遅れないようにと、彼女は私の背中を軽く押した。タクシーのドアに手をかけながら振り返ると、そこには並んで微笑む
タクシーに乗り込んだ私は先ほど彼女から手渡された名刺をポケットから取り出した。するとそこには青いインクで「甜言蜜」と書かれていた。
深夜、ホテルに戻った私はすぐさま彼女が残したあの言葉の意味を調べてみた。
検索しても的確な情報が得られなかった。中国語に長けているわけでもない自分にはこれ以上できることはなかった。
熱いシャワーを浴びながらも私の中にはLさんのぎこちなくも屈託のない笑顔が浮かんでいた。既に答えは出ているはずだ。なのに私は悶々と逡巡するばかりだった。
シャワーを終えた私はホテルが用意したバスローブを羽織って窓辺に映る
何をためらっているのだ。
お前はこの地で別のお前を演じればよいのだ。
彼女は彼女なりにお前にきっかけを与えてくれたではないか。
彼女はきっとお前を拒絶しない。
さあ勇気を出して行け。
そして私はようやっと決心したのだった。
――*――
翌日、日が沈む前に私は名刺に書かれた番号に電話をかけた。数回の呼び出しの後、少しかすれた眠そうな声の中国語が聞こえた。
「……
「
「……
「いいって、いいって。それより昨日話してた四川料理、どうだ今晩。もちろん、その後はLさんのお店に行くよ」
「ほんとに? うれしいです、うれしいですよ」
かすれながらも弾んだLさんの声が聞こえた。
彼女は私の急な誘いに快く応じてくれた。それはこれが彼女の仕事だからかも知れない。それでもいいのだ。
「よし、それじゃ待ち合わせの時間と場所を決めよう」
通話を終えた私は腕時計に目を落とす。約束の時刻にはまだ十分な余裕があった。
きっと彼女はシャワーを浴びて、めかしこんで来ることだろう。
ならば私は今宵の会話の潤滑油にするべく何かプレゼントでも見繕っておくことにしよう。
オフィスを出た私がエントランスのすぐ前を走る車道に身を乗り出すと、ちょうどよいタイミングで空車のタクシーがこちらに向かって来るのが見えた。
私が腕を伸ばしておいでおいでの手振りをすると、すぐさま黒塗りのフォルクスワーゲン製セダンがウィンカーを点滅させながら滑り込んで来た。
私はドアを開けて助手席に乗り込むと運転手に行き先を伝える。
「
運転手は無言で頷くと黄昏の上海の街に向かって車を走らせた。
甜言蜜語
――完――
甜言蜜語 ととむん・まむぬーん @totomn
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます