第11話踊り浮かれて
わたしは世間一般に行われている、友人と喧嘩した後の仲直りの方法について何も知らない。
もとからわたしには友人と呼べる人間が少なかったし、友人と思っている人間と喧嘩したことすらなかったのだから。
わたしには相手に自分の思っていたこと、今現在思っていることや相手に対する気持ちを率直に伝えることしか思いつかない。
それでも相手が拒絶するなら仕方がない。縁がなかったのだ。他の人ならもっと上手な方法を思いつくのだろうが、わたしには思いもつかない。たとえ思いついたとしても自分らしくないのでやはり実行することはないだろう。
わたしは実に不器用な人間なのだ。
今朝、ゲルトルートにそれを伝えた。
ゲルトルートは昨晩の喧嘩のことを覚えてないらしく、わたしの腫れた顔を見て驚いていた。
わたしは謝る気がないし、ゲルトルートにも謝る必要はないと言ってやった。
酔っ払った挙句、支離滅裂なことを言い合って手を出したのだ。両方とも落ち度はない。いや、両方とも落ち度があるからお互い謝る必要はない。
ゲルトルートは慌てていた。わたしの話を半分くらいしか聞いてなかったようだ。医者の癖に他人を傷つけたことが気になるらしい。わたしに言わせると、酔っぱらいに使命も道義感もヘチマも無いのだけれど。
ゲルトルートがしつこく聴くから左腕が痛くてひとりでアパートへ連れて帰れなかったことを告げると、ゲルトルートはとうとう半狂乱の状態になってしまった。
泣きわめいて謝りながらわたしから上着を引き剥いで左腕や肩の戦傷を調べだし、あくまで病院に連れていくと彼女は頑張った。
頑張られてもわたしが困るのだ。
朝早くからトラエッタ将軍から呼び出しがあったうえ、昼にはサルヴァトーレとの接見の予定が入っている。
どちらも気が進まない。だが、行かなくてはならない。わたしはまだ軍を辞めたわけでもマフィアとの縁が完全に切れたわけでもないのだから。
ようやくゲルトルートからサルヴァトーレとの接見が終わってから病院へ行くとの譲歩を引き出したところでジュリオ上等兵が下に車を回してきた。
ジュリオよ。お前はどうしていつも遅いのだ。今日だけでも早く来ればいいのに。
さっきまで泣いて謝っていた人間から説教を小一時間食らったぞ。
全部、お前のせいだ。
+
わたしはジュリオの運転する車で陸軍省の馬鹿でかい玄関まで送ってもらった。
この建物が巨大なのはエーコ統領の趣味だ。この建物なら優に300年位は十分もつだろう。今から思えばエーコ統領が軍備に割かずに巨大建造物の建築に資金を費やしたのは正解だったかもしれない。
わたしはいつものごとく大階段を何度も昇り、トラエッタ将軍の執務室前に着いた。
まだ息は切れない。これがあと何年かすると、息が切れるようになる。
陸軍省にもエレベーターがあるが、頑なに外部の人間には使わせようとしない。だから、外からやってくる年老いた将校にとって大階段はぼやきの対象になっている。
わたしはぼやく前にとっとと軍をやめるつもりだ。
わたしは廊下の小机に座っている伍長に内線で入室許可を取るよう合図した。
この伍長ともなじみになったものだ。最初、くだらないことをよく話しかけてくるから礼儀を教えてやった。その後は彼との仲は円満だ。わたしがいちいち言葉にしなくとも彼はわたしの顔色を見てしてほしいことを黙ってやってくれるようになった。
入室許可のベルが鳴るまで、わたしはいつものように目の前の扉の装飾の数を数える。一体、この儀式を何度繰り返してきたのだろうか。
やがてベルが鳴り、わたしは扉を開けた。
何度もここへやってきているが、わたしはトラエッタ将軍が大人しく執務の机の前に座っているのを見たことがない。
今日も、部屋の中央で錆びたサーベルを振り回しながらなにやら副官に語っている。
この老人にとって仕事とか世の中とか人生とかいうものは何かの冗談にしかすぎないことがよくわかる。
でも、だからといってこの老人を侮ることはできない。
有能で狡猾な人間であることは彼の過去が証明済みだ。道化のふりをして多くの人間を手酷い目にあわせてきた。彼が酷いことをせず親愛の情を示したのは死んだエーコ統領唯一人だった気がする。
副官に向かってチャンバラ談義をしていたトラエッタ将軍が部屋に入ってきたわたしの顔を見て目を輝かせた。
「おお、吾輩は驚いたぞ。武勲赫々たるマリアカリア少佐を殴り倒せる者がこの世に存在しようとはな。長く生きてみるものだ。君もそう思うだろう。ええ、アルド少尉」
副官はわたしに気を使って肯定も否定もできずにオロオロしている。
将軍。20そこそこの若造をいたぶってなにが面白いのですか。小官には理解できかねますよ。
憮然としているわたしを尻目に将軍はソファーにどっこいしょと腰を埋もれさせ、お茶の準備を副官に言いつけた。将軍はエルフのように紅茶好きなのだ。
あらためて将軍を見る。
手のシミ。後ろと側面を短く刈り込まれながらも前髪が軽くカールしている、少し薄くなった銀髪。痩せた体つき。顔には深いシワがいくつも刻まれている。
しかし、身体全体から今にも爆発しそうなほどの元気が感じられる。薄い銀縁メガメの奥で光る、茶目っ気たっぷりの目が全く年を感じさせない。
この意地の悪い爺様は今回わたしに何をさせようというのか?
あまり酷いことなら、辞表を叩きつけて軍から退かせてもらおう。
将軍は熱いお茶を一口ふくみ、鼻腔をふくらませ香りを楽しんでから、用件を述べ始めた。
「君はマリ・エイメの弟子のアンヌ・ド・ボージューと親しかったな。実はその兄弟子でブランスキーとかいうポロニア人がヘレネにある我が国の大使館に匿われておる。なんせダークエルフは人道主義者の集りだからな。大使館員がヘレネ陥落の際に逃げ遅れたポロニア人達を大量に匿ったのだ。その中の一人にブランスキーがおったという訳だ。ドワーフどもも同盟国ということで手が出せずじまいだったのだが、今は同盟も破棄し、エルフランド軍のヘレネ解放も近い。やけになった親衛隊の連中が大使館の中まで入ってきてポロニア人たちを引きずり出しかねない。そこで、荒事に長けたマリアカリア少佐に彼らを保護しに行ってきてもらいたい。それが今回の任務じゃ。彼らにもしものことが起こったら胸が痛くなるだろう。人道主義者である少佐なら当然喜んで遂行してくれるわな。もう少し若ければ吾輩が行きたいくらいだからな」
フン。なにが人道主義なものか。匿った大使館員はそうだったかもしれないが、将軍は絶対に違う。アンヌからの手紙で事情は分かっている。
「閣下。小官もエルフランドが核実験に成功して原子爆弾を製造できたことを聞き及んでいます。今まで無関心だったくせに、それを知ったお国は慌てて戦後の核武装のため人材確保に走ろうとしている。そう考えていいわけですね?
あんな危険なもの、我が国には必要ありません。当然、小官もそれに手を貸すことはいたしません」
将軍は二口目の紅茶を目をつぶって楽しんだ。
余裕綽々。この老人は子ネズミの反抗くらいでは動じない。
「フム。軍人の鑑であるマリアカリア少佐にしては珍しいな。顔を腫らしておるし、何か心境の変化を起こさせることでもあったのかな?」
「先程から閣下は小官のことを少佐とおっしゃられておりますが、小官は大尉であります」
惚けたわけでもあるまいに殊更強調するので、つい言ってしまった。
「貴公がこの任務を承諾したら少佐昇進の辞令を渡すつもりであった」
わたしはカッとなった。まさかと思っていたが、このわたしに昇進をちらつかせていたのか。この老人にはわたしが昇進のため何でもする俗吏に見えるという訳なのだな。馬鹿にするなよ。
わたしは立ち上がり、踵を揃え姿勢を正して言ってやった。
「明日、辞表を提出に参ります」
将軍は慌てることもなくつまらなそうに言った。
「退出するのは今少し待ってもらいたいな。マリアカリア大尉。それにしても、貴公の反応は実に清々しいが、ひねりが無くて面白みに欠けるな。エルフの小僧の予測通り、か。会わせたくないが、会ってもらわなければ話しが進まない人物が一人控えているのだ。そやつの話を聞いてから帰ってもらおうか」
違う扉から出てきたのは、かつて小学校教師で観光客と言い張ったトニ・ニエミネンというエルフランドの大物スパイだった。
嫌な予感しかしない。
+
わたしはサルヴァトーレの収監されている憲兵隊本部へ向かう車の中でようやく冷静に物事を考えられるようになった。
トニから頼まれたのは、トラエッタ将軍と同じくヘレネにある大使館に匿われているポロニア人と接触することだった。
だが、内容はまるで違う。
将軍の命じたのは有能なポロニア人科学者の確保であったが、トニの依頼はスパイの摘発だった。こいつはあるドワーフの軍人が2重スパイであることを知っていて必死になってザールラント側に知らせようとしている。そして、ザールラント側に漏れると数百万の人々の命が脅かされる……。
本来、スパイの摘発などメラリアの関知するところではない。だが、経済援助の欲しいメラリアはエルフランドにある程度協力的でなければならない。
それに、どこから漏れたのか知らないけれどメラリアの核武装の意図を知ったエルフランドがそれを許すはずもなく、メラリアのポロニア人科学者の確保より当然スパイ摘発を優先させるよう政治的圧力がかけられていた。
トラエッタ将軍がわたしを怒らせる三文芝居をうったのは隣室に控えているトニにわたしが真剣に核開発に反対する人間であることを見せつけるためだった。同時に、トニを通じてエルフランド側にメラリアの核開発の意図はくじかれたものであることをはっきり印象づけるためでもあったのだろう。
芸の細かいことだ。
エーコ統領が死んでから、将軍の国の政治家としての顔がますます強くなった。
将軍の核開発に対する個人的意見についてわたしは何も知らない。しかし、政治家として将軍はメラリアに選択の余地を与えるため、きっと今後も密かに核開発の途を探るに違いない。戦後、エルフランドはますます栄え、軍事的にも経済的にもそして政治的にも一人勝ち状態で大陸全土に覇を唱えることはまず間違いない。そうなった場合、メラリアはエルフランドに追従するだけの衛星国となるのか独立独歩の国となるのか。まともな政治家ならメラリア自らがその選択をするだけの力を持つことを望むだろう。力の一つとして核兵器を当てにするのは自然なことなのだ。
とはいえ、今語ったすべては国の政治の話だ。
わたしがトニの依頼を受けるか受けないかはわたしが決める極めて個人的な話であって、将軍や国の意図がどうであれ、そんなものは関係ない。もちろんエルフランド側の意図もだ。
だいたいポロニア人との接触など軍務とは全く関係が無い。軍人に持ってくる話ではないのだ。
そこのところはトニはよく分かっていた。だから、わたしの琴線に触れるべく奴は多くの資料とともに決めゼリフを連発した。
『このスパイの摘発が戦争の早期終結に極めて有効なことがこれではっきりと分かったでしょう。この依頼を遂行できるのはあなただけだ。あなたが躊躇すればそれだけ死ななくてもいい人たちが死ぬんですよ。あなたはこの依頼を引き受けて全力で遂行すべきだ』
スパイの癖に本当に嫌な奴だ。
+
前回同様、わたしは2つの渡り廊下を通り、3つの鋼鉄の扉をくぐりぬけて接見室に入った。
広い空間に小さな四角い机が一つに背もたれのない丸椅子が2つ。
相変わらず殺風景な部屋だ。
しばらくすると、サルヴァトーレがいつもの穏やかな笑みを浮かべつつ入ってきた。
「お久しぶりですね。お嬢様。わたしはお嬢様の元気そうな顔を見られて本当に嬉しい」
「お久しぶりです。サルヴァトーレさん。2日前にジュゼッペさんにお会いしましたよ。友人のゲルトルートについては本当にお世話になりました。ありがとうございます」
「ご友人はお嬢様の大切になさる唯一のものですからな。それくらい当然ですよ」
敬愛するものに親愛の情を示すのは当然とばかり、サルヴァトーレは微笑んだ。
恩義には恩義を。
わたしはサルヴァトーレになにを返せばよいのだろう。わたしはマフィアを拒絶すると宣言しているのに。
「そういえば、ジュゼッペさんは少しお痩せになっていたみたいですね」
「ああ、彼は病気です。あと何年ももたないでしょう」
「!!」
死をまき散らし多くの人達に恐怖の念を刻みつけてきた、あの老人が死ぬ。
わたしは恐怖だけではなく、あの老人に親愛の情を抱いている。
わたしは一体どんな気持ちになればいいのだろう。恐怖や嫌悪からの解放感か?それとも親しい人を失う悲しみなのか?
衝撃を受けたわたしの顔を見てサルヴァトーレが続ける。
「悲しまないでください、お嬢様。尊敬すべき男と呼ばれるような人間はみんな覚悟してますよ。死は死です。ただの死なんです。みんなに平等に訪れる死なんですよ。彼は長く生きた。だから、もう恐怖は感じないはずです」
聡明なサルヴァトーレがわたしの衝撃とは全くかけはなれた無意味な言葉を羅列していく。
確かに悲しみの感情をわたしは抱く。抱いている。ここでわたしは慄然とせざるをえない。百人以上もあの世へ送った犯罪者に悲しみの感情を抱くほどわたしは裏の世界の住人と親しいのだ。わたしは未だにマフィアにどっぷりと浸かっている。精神的な繋がりを断ち切ることができていない。
「お嬢様に悲しまれることは彼の本意ではないでしょう。話を変えましょう。私の50年近く昔の恋の話などいかがですかな?」
こうしてわたしは一日で2度、厄介な因縁話を聞くはめに陥った。
「例のアルパン島には私も行ったことがあるのですよ。8才のころでした。当時、私の父はご領地内の顔役どもを完全には掌握できていませんでした。なかに一人、しつこい奴がいて山にこもりながらこちらの隙を伺って父や私を害そうとしていました。そこで父は私をアルパン島のコロンボ・ファミリーに預けたんですよ。幼い私は何も知らずにただ船に乗れることがうれしくて一人はしゃいでいましたね。でも、着いたら地獄でした。ドンの息子に3つ年上のエンリコというガキ大将がいて、それはもうこっぴどく虐められて。周りはみんなニヤニヤ笑うばかり。唯一庇ってくれたのがジェルソミーナという幹部の恋女房です。美人で優しくて気前が良くて。そう。彼女が私の初恋の相手でした……」
+
ザールラント軍が未だ占領しているロレーヌ共和国の首都ヘレネに最も近い前線の街ー
男はバーテンダーに背を向けスツールから奥のテーブルに座っている3人の女たちをしきりに気にしている。
男は糸のように細い口髭を生やし、焦げ茶色の髪をオールバックできめている。
首から上を見る限りヘレネの場末のダンスホールにとぐろを巻いてそうな伊達男である。
だが、首から下はロレーヌ自由軍の中佐の制服に身を固めている。
左手は義手だ。
バーテンダーは男の背を叩いて注文のカクテルができていることを教えた。
男の名前はオーギュスト・ブランキ。
左手を失うまで戦車隊の大隊長をしていた。
半年前、運悪く敵の対戦車陣地につかまったのだ。僚機が88ミリ砲で撃破される中、彼の乗っていた指揮戦闘車も砲塔のすみを砲弾がかすめてその衝撃でリベットが砲塔内をとびまわり彼の左手をぶち抜くと同時に砲手の命を奪った。
戦車の乗員はひとり何役もこなせるように訓練を積んでいる。
左手を失った彼にはたとえ指揮官といえども戦車隊に居場所がなかった。
だが、彼は前線にこだわった。
コネを伝い下げたくもない頭を下げて頼み込んで回った。
ヘレネ出身の彼はヘレネ陥落時の屈辱を胸に逃げ延びた植民地で共和国自由軍に参加してこれまでヘレネ解放だけを夢見て頑張ってきたのだ。
左手を失ったぐらいで自分の手で解放するという願いを諦められるか!
彼は多くのロレーヌ人と同じく愛国者兼情熱家だった。
努力の末得たのは、前線へ赴く報道班や慰問団の護衛兼アドバイザー兼お目付け役だった。
最初は落胆した。
直接ヘレネ解放に何の関係もないじゃないか。俺の目的とは違う。
しかし、報道班の連中と話しているうちに気が変わった。
連中は本気だ。ヘレネに一番乗りして自分達が解放の中継をすることを本気で考えている。だったら、俺もこいつらを護衛するためにヘレネに一番乗りしなくちゃな。
運が回ってきたぜ。
彼の頭の中には自分に本来課せられた任務の目的などどこかへ飛んでしまっていた。
このロレーヌの共和国自由軍の中佐がジロジロとみている女性たちのうち二人はおなじみのエルフランド大公女アルミと伯爵令嬢タイナであった。
彼女たちはまた性懲りもなくカメラ片手に報道班にもぐりこんだのだ。
今度はヘレネ解放という世紀の一瞬をフィルムに収めるという野望をいだいて。
+
血生臭い世界でアルミとタイナは解放感に酔いしれていた。
ここは5時間前に解放されたブランジュの町に設営されたエルフランド軍の酒保の中である。
ここではハイ・エルフの義務も身分も関係がない。
贅沢など何もできないし、命に危険だってある。しかし、彼女たちにとって今が何物にも代えがたい時間だった。
自由に話ができ笑うことができる。
素晴らしい!
彼女たちは肩章の代わりに報道班の腕章のついた将校服に身を固め、ここから50キロ先にあるヘレネ解放の世紀の瞬間を撮影するために前線部隊に紛れ込んでいるのだ。
素晴らしい!
下士官や兵隊たちと記念写真を撮ったり、解放に喜ぶロレーヌの人たちの様子を撮影したり、女の子に感謝の花束をもらったり。
素晴らしい!
もちろん彼女たちも現実が悲惨なことは知っている。
今朝挨拶を交わした兵士が死んだ。怪我をして後送された。両軍の激しい戦闘に巻き込まれ、家と家族を失ったロレーヌの住人たちの涙も見ている。
だが、浮き立つ心は抑えきれない。周りが悲惨ゆえにより一層自由に生きることことの素晴らしさを実感してしまう。
これが生きることなんだ!
とても素晴らしいことである、と。
+
オーギュストが執拗に眺めているのはアルミやタイナではなかった。彼女たちが話し込んでいる年上の美人の方をだった。
アルミやタイナも美人の部類にはいるが、残念なことに話し込んでいる相手と比べると格が少し落ちてしまう。
なんといっても相手は14歳で社交界デビューしたときから絶世の美少女と謳われ、17歳で結婚したときは大陸随一の美女が大陸中の男たちから手の届かないところへ往ってしまったと嘆かれたものだ。
彼女も今や三十路を迎えているとはいえその美貌はますます磨きがかけられ、まるで大輪の花が咲き誇っているかの状態だ。マリアカリアがよく言う、美しい魂が内面から光り輝いて見える状態というべきだろうか。
まだまだ鼻たれにすぎないアルミやタイナをそんな彼女と比べるのはいささか酷すぎるといえよう。
ただ彼女の評判は非常に悪い。
特にエルフランドの上流階級の女性たちからは忌み嫌われている。
アルミやタイナの悪評など元気がありすぎてのただの跳ね返り程度で済むが、彼女の場合は「稀代の毒婦」「魔性の姦婦」だ。
エルフの男女関係はダークエルフ同様非常に厳しい。スキャンダルは社会生命どころか実際の命にまでかかってくるほど重要なものだ。
だが、彼女は悪評などまるで関係ないかのように自由奔放に行動して世の男性諸氏の常に注目の的なのだ。口さがないハイ・エルフの雀たちによれば20歳の時にはじめてツバメを得てから今までに7人もの美少年を毒牙にかけたと騒がれている。
彼女の名は、カリタ・マルム・マッティラ伯爵夫人という。大陸で知らないものはないくらいの有名人そのひとであった。
「ここではエルフの形式はなしにしましょう。伯爵夫人。堅苦しいのは嫌ですわ」
アルミはカリタがエルフの慣習どおり格下のタイナに顔を向けアルミの問いかけに答えようとしたのを制止した。
アルミは元祖自由な女に対して余裕をかましたつもりだったが、カリタには最初からアルミたちを敬う気持ちなどない。彼女は夫から世界が自分を中心にして回っているかのように振舞えと教育され続けてきたし、自分でもそう振舞うよう心掛けてきたのだ。彼女からしてみればアルミなどそこいらの有象無象の何も知らないお嬢様であった。今更である。
「仰せのままに。大公女さま」
カリタはアルミの目を見て直接微笑みかけた。
彼女はアルミ達のように軍服を着ていない。それもハイ・エルフらしい古式ゆかしい民族衣装などではなく、ロレーヌ人好みの、胸の大きく開いたベルベットの豪華な夜会服を着ていた。ここが5時間前に銃弾が飛び交っていた前線の町であろうと彼女には関係がない。
着たいものを着る。
どこまでも自分の行動指針を貫き通す。それがカリタ・マルム・マッティラの生きざまである。
「噂は真実ですわよ、大公女さま。
わたくしが伯爵と結婚したのは伯爵の頸木となるよう男たちが仕組んだものでしたのよ。
フフフ。
当時のわたくしは何も知らないネンネ。それはもう、10歳年上の伯爵との結婚を楽しみにしておりましたわ。式の当日、失神するのではないかと危惧するくらいに」
実際、世紀の結婚と騒がれたものだった。王族の結婚でもないのに大陸中の新聞紙の記者たちが取材に訪れて紙面の一面を飾った。
原因は結婚する伯爵が有名すぎたからである。
当時、伯爵は星の数くらい他人の妻女を寝取り、それが原因で同じ数だけの決闘をして敗れたことがないと噂されていた。
彼は当時の大陸中の男の敵ナンバー・ワンであったのだ。
カリタと比べても伯爵の経歴もまた華麗である。
16歳で社交界デビューするや一夜でその美童ぶりが有名となり、あらゆる上流階級の有閑マダムたちに可愛がられた。
今の女王とも人知れず関係があったともうわさされている。
その年で上流階級の女たちとのアバンチュールは数数えきれないくらいあり、有閑マダムたちは暇であるがゆえに美童に専らありとあらゆる恋愛の手管を教え込んだ。
当時も今もエルフの男女関係は建前上非常に厳しいものである。しかし、彼女たちは自分の夫たちが陰でこそこそと若い女たちとよろしくやっているのを知っていた。
だったら、自分たちが大陸最高の素材をつかって理想の騎士を作り上げ、遊び倒して何が悪いのだろう?
居直った彼女たちは一歩間違えれば社会生命を失うギリギリのグレイ・ゾーンを行ったり来たりするスリルにひたすら溺れた。
こうして彼女たちは自分たちがとてつもない怪物を作り上げていることなどまるで気付かなかった。
もともと悪魔みたいに頭がよかった伯爵はたちまち女たちの意図をくみ取り古臭い騎士道精神の偶像を演じ続けた。そして対価をキチンととりたてた。馬を乗りつぶすように女たちを利用して出世していった。そして邪魔する男たちは決闘に託けて消していった。
二十歳で勅任官。翌年には宮内大臣。
世界を半分裏から操っている上流の女たちと仲良しなのだから当然すぎる結果ではあるけれども異例の出世といえた。
彼は女性の現金で卑怯な本質をよく理解していた。
だから特定の女性に惚れこむようなことはしなかった。しかも、別れても嫌われないという曲芸までできた。彼に捨てられても捨てられたことすら気付かない女たちも多かった。
彼の進撃を止めたのは結局、年老いた変人の侯爵の一言だった。
男たちに泣きつかれた侯爵は鼻を鳴らしてこうアドバイスした。
「フンッ!結婚させて、家庭の鎖につなげばいいさ。猛獣を手なずけるだけの美人の餌つきで、な」
既婚者が既婚者に手を出すことはタブー中のタブー。
まして嫁の実家が有力な高位貴族であれば、計算高い女たちが自分たちの命をかけてまでその実家を敵に回すような愚かなことはしまい。
さらに侯爵は悪魔に対する素敵な罰まで考えていた。
どうやら悪魔は人を愛することができないらしい。好きになれない嫁の嫉妬に晒されながら退屈な人生を不快感一杯に死ぬまで過ごすがよい。
エルフには離婚制度はないのだ。
だが、悪魔は侯爵の罠を鼻で笑った。
大人しくしろというならそうしてやろう。別に出世が好きなわけじゃない。私の人生は暇だから、たまたま女たちを利用して出世する双六を一時の戯れとしただけさ。飽きがきたからお遊びは止めにするよ。その代わりそっちのくれたお人形さんで面白おかしく遊んでやろう。
こうして悪魔はカリタに自らの反抗心を植え付けるべく教育していった。
「当時、伯爵から毎日のように言われましたのよ。『何も知らないお嬢さん。ここは歪な世界だ。市井に出て眺めてごらん。そうしたら、よくわかるさ。エルフの高貴さ?エルフの道徳?エルフの寛容さ?そういったものはすべて欺瞞さ。私たちがそんな欺瞞につながれる必要なんてどこにもない。反抗しろ。反抗のすべは皆私が教えてやろう』
ネンネである私はたちまち洗脳されてしまいましたわ。
だってそうでしょう?自分より10も年上で、世間じゃ一角の人物と目されている人物が美しい顔をして始終親しげに話しかけてくるんですもの。舞い上がって自分もなんだか特別な人間にでもなったように思えましたわ」
カリタは高貴な人らしくそう言って微笑んだ。
+
オーギュストはカクテルを呷ると、スツールを降り、楽団の方へ肩を揺らせて歩いて行った。
「やめちまえ、ジャズなんて。それはエルフランドのミドル・クラスの若造の音楽だ。下らねえ」
「中佐にそう言われましてもやめるわけにはいかないですよ。兵士たちはみんな喜んでますし。第一、ここはエルフランド軍の酒保で、ロレーヌ自由軍の酒保じゃありません」
指揮している底の厚い眼鏡をかけた軍曹が眼を白黒させながらも精一杯反抗する。
「なんだ。軍曹の癖に俺に反抗しようってのか?見上げた根性だぜ。三流音楽家の癖してよお」
言葉づかいは粗野で無頼漢みたいであるが、オーギュストはロレーヌ百家族には含まれていないけれども相当なブルジョワジーの家の出身だった。
戦前は夜はドミ・モンドたちをオペラ座や賭博場に連れまわし、昼は有名なサロンで芸術について議論を交わしたりダンス・ホールで華麗に社交ダンスを楽しんでいた。
だから、音楽やダンスに一家言あり、ロレーヌがエルフランド流行の音楽で毒されるのに我慢できない。
もちろん酒保の中で楽しげにスタンダード・ジャズにあわせて踊っている兵士と住民はいる。
しかし、オーギュストはせせら笑う。
「あんなの未開の部族の踊りの方がましだぜ。ここは朝のメトロじゃねえんだ。踊りともみ合いは違うんだぜ。俺が本物のダンスってやつを見せてやるぜ。左手のハンデくらいどうってことねえ」
こうしたオーギュストと軍曹のにらみ合いをよそに楽団員のひとりがケースからバイオリンを引き出しながら尋ねた。
「それで、旦那はどんな曲が御所望なんで?」
オーギュストはニッコリしながら答える。
「タンゴだ。タンゴしかありえねえ」
+
バイオリンとクラリネットが先行するとピアノとアコーディオンが続く。
酒保の中にざわめきが広がる。
他の楽団員たちはすでにジャズの演奏を止めていた。
楽団員たちは連合諸国のあらゆる劇場やダンス・ホールから強制徴用されてきた芸術家たちだった。来る日も来る日も兵士たちの機嫌を取ってスタンダード・ジャズばかりで飽き飽きしていたのだ。
たまには自分たちの好きな音楽も奏でたい。
タンゴ特有の暗く熱い調べが流れ出すと、オーギュストは影が滑るようにしてカリタの席の背後に回り込み、カタリの右耳の位置で恭しく頭を下げる。
ダンスのお誘いである。
カリタは微笑みながら椅子から少し腰を浮かし自分の胸をドレスごとゆすってみせた。
しかし、ストンと椅子に座りなおす。
チラ見をしていた楽団員の何人かが音を違えた。バーテンダーは拭いていたグラスを取り落としそうになった。
「ごめんなさいねえ。わたくしはもうおばあちゃんですわよ。その気になっても体がついていきませんの。中佐どのはそちらの若くて美しい方々と踊られたらいかがかしら?もしかしたら若い方々の活力に当てられて後でこの老いたからだが踊りだすかもしれませんわ」
カリタは自身が思ってもいないことをイケシャアシャアと口にしている。
少なくとも、一週間前に前線後方100キロの町で行われた慰問公演に飛び入りで踊りまくりすっかり主役の女優を食ってしまった当の本人の言うセリフではない。
しかも、言下に貴方にわたくしと踊る価値がありまして?という意味を込めてこのロレーヌのプレイボーイだかなんだかしらない男を相手にしないどころか、なんとこの女性は神聖不可侵で直接言葉を交わすこともはばかられる自国の大公女を自分の前座扱いにしたのだ!
カリタがさっき文字通り相手の期待を上げて落とした理由は四つもあった。
ひとつ、自分の話の腰を折られたこと。
カリタが珍しくもせっかく世間知らずのお嬢様たちに世の理の一端を示して差し上げようとしていたというのに、邪魔をされ興が冷めてしまったのだ。その無粋さに彼女はかなり苛立った。
ふたつ、飽きもせず身の程知らずの挑戦者がいることにうんざりさせられたこと(カリタは挑戦者がオーギュストだけでなく潜在的にはアルミやタイナもそうであることに気付いていた。)。
つまり。
カリタは自身が踊りたいときに踊る。それをカタリの気分など一切考慮せず、そううまくもない踊りをむりやり見せつけてくる無礼者がなんと多いことか。踊りは純粋に個人でたのしめばいいはず。他人の評価などどうでもいいではないか。ダンス評論家でも賞の審査委員でもないのだ。いちいち付き合ってはいられない。
三つ、誘ったのが好みの美少年ではなく中年の伊達男だったこと。
そして、四つ、アルミやタイナがなんとなく生意気に感じられたこと、であった。
冷静に見れば、強烈な嫌味のついでにアルミたちを前座扱いをしたのはほとんど八つ当たりでしかない。
しかし、カリタはそういうことを平気でする女性であった。
もっとも、この答えにオーギュストは動じない。
オーギュストもロレーヌ人らしく情熱にかられると周りが見えなくなるし、同じくロレーヌ人らしくハイ・エルフなどに尊敬の念など抱いていないのだ。
オーギュストは片目をつぶって見せた。
なに。そんなに俺の実力が見たいならこれからたっぷりと魅せてやるよ。待ってなよ、エルフの踊りの女王さんよ。
俺はこれからロレーヌ人の名にかけてロレーヌ人が大陸一芸術に精通していることを証明して見せるぜ。
この世ではバトルはなにも銃弾が飛び交うものだけではないらしい。バトルは愛国心さえあればいろいろなかたちで起こりうる。
それから、オーギュストはテーブルを大きくまわりアルミの前へ来ると、片方の口角をあげてニヤリとすると深々とお辞儀をし、右手をホールの中央へと向けた。
カリタはオーギュストの自信たっぷりな振舞いを冷ややかに見ている。
話からして大公女さまと伯爵令嬢がダンスにかなり入れ込んでいたのは判るわ。でも、はたしてこのお嬢様たちが見ず知らずの人たちの前で即興で踊るほど酔狂かしらね。
アルミの今の服装はカーキー色のポケットが4つ付いたブレザーと同じ色の半パンツ、クリーム色の厚手のハイ・ソックス、底の平べったい靴。少なくともタンゴを踊るにはふさわしくない。
が、彼女は意にもかえさずにロレーヌ人の挑戦に自身の挑戦をも重ねた。
さすがにカリタの前座扱いには腹が立つ。たとえ相手が尊敬する大陸一の美貌の舞踊家であろうとも、そこはそれ。アルミにも新しい女と呼ばれている矜持というものがある。
アルミは、もうこうなったらふんぞり返っているカリタに自分がエルフランドのただのお飾りの人形ではないことを見せつけてやるわ、と決意した。
背筋をピンと伸ばし、先に中央に立ったオーギュストを睨みつける。そして、その長い脚を交差させ、まっすぐゆっくりと近づいていく。
オーギュストの5歩手前で立ち止まり、両腕をくねらせ自身のあたまを撫でまわす。目は瞬きもさせずにオーギュストを睨みつけたまま。それから右手を差し出し、長い指を折り曲げて挑発する。
途端、オーギュストが襲いかかるかのようにしてアルミの腰へ右手を回し左右に二回振りまわす。それから彼女を独楽のように回転させ、離れていこうとする彼女を左手で自身の胸元へと引きもどす。
一瞬、彼女は目を閉じ甘い溜息を漏らすかのように唇を半開きにする。
アルミとオーギュストのタンゴの始まりである。
相対し、かかとを跳ね上げる複雑なステップを高速で刻んでいく。足をのばし靴先で円を描いて見せたかと思うと、次の瞬間にはオーギュストを中心として素早く華麗なステップを踏みながらアルミがその周りを回る。
きりりと横を見ながら横歩きを2度繰り返す。それから、二人で独楽のように回転しながらお互いに華麗なステップを披露してゆく。アルミが頭に届かんばかりにかかとを後ろへ蹴り上げステップを決めて見せる。
……。
最後はオーギュストの首めがけてアルミが身を投げかけ、それをオーギュストが後ろへと引きずる。右手でアルミの体をひっくりかえし、アルミはその右手に支えられて仰け反り恍惚とした表情で自身の左の折り曲げられた人差し指を噛み、ポーズをきめた。
その瞬間、エールやシードルを片手に周りで見つめていた兵隊や住民たちがドっと沸いた。
アルミも今の自身のダンスに満足した。
これでいい。
踊りの女王から見たらまだまだかもしれないけど、自分自身の表現ができたはずだわ。
しかし、アルミの満足感は長く続かない。
決めたポーズから身を立て直し、観客へ挨拶しようとした瞬間、酒保へ入ってきた人物と目が合い、思わず顔を赤くして目を逸らしてしまった。
そこには学生時代に見慣れたメラリア王国軍の制服を着たダークエルフがいたのだ。
しかも、アルミのこころを抉るようなことをつぶやいている。
「また、エルフのお嬢様が馬鹿なことをしているのか。やれやれだな」
相変わらず無礼な奴!
+
翌日。
「また、やってしまったわ」
カリタは二日酔いの頭痛に悩みながらベットの中でひとりごちた。
カリタは自分以外の誰かに人気をさらわれるのが我慢できない。自分の存在意義が無くなるような不安にかられるのだ。
昨夜もアルミが入ってきたダークエルフを見て固まってしまった次の瞬間、体が自然に動いて、気がつけばフラメンコを踊っていた。
タイナが次は私の番だというように立ち上がってスタンバイしていたのを横目で見ていた。大人げないことは判っている。でも、連続で衆目をさらわれることは耐え難いのだ。
結婚前はこんな性格ではなかったのに……。
カリタは反省はしない。しかし、最近では後悔に似たにがい気分をよくかみしめる。
カリタもハイ・エルフのたしなみとして幼いころからワルツやエルフの民族舞踊について慣れ親しんでいた。
だが、カリタがあらゆるダンス一般について習熟し始めたのは伯爵との結婚後である。
カリタと伯爵の関係は相当に歪である。
結婚当初は伯爵のおだてによりカリタはすっかり自分が特別な存在だと思い込み、何もしなかった。
しかし、カリタはしばらくして冷静になってみると自分には伯爵の言うほど特別な存在といえる理由がないことに気づく。
カリタをおだてた伯爵自身は確かに特別な存在だった。
伯爵は謀が巧みで、異常なまでの女たらしであり、冷酷非情。そして、かなり古めかしい才能だが、剣技については大陸でも指折りで、自分で決闘用にいくつものトリッキィな癖技を開発したくらいであった。
伯爵は常に女たちに囲まれ、信じられないほどの贅沢を楽しみ、富に恵まれたエルフにしか開かれていない場所で常に周囲から羨望のまなざしで見られる存在だった。
秘密の高級賭博場で女たちと信じられないほどの大金を儲けたり逆に大金をすっからかんになるまでスッタりした。
居並ぶ高位貴族たちが驚くような贅沢なパーティーを開いたりもした。
そして極めつけは、ハイ・エルフたちが自分たちの優雅さを見せびらかすために毎日曜欠かさず集う競馬場で優勝する馬のほとんどが伯爵の所有物であったことだ。名馬の馬主であることがどれくらい金のかかることか。
これは並みの伯爵風情ではとうていまかなえない贅沢である。
伯爵はこの贅沢を支える大金を常に非常に簡単な方法で稼ぎだしていた。
宮仕えの時分は賄賂を大いにとった(伯爵が相手の請託に応えるかどうかは気分次第だった。伯爵は勲章がほしいとか名誉がほしいとかいった望み以外まともに応えたことがない。ときたまいる、強く請託に応えてくれるように云い募る賄賂提供者に対しては、「あきらめるか、それとも僕に嫌われてつらい目に遭うのとどちらがいい?」と二択を示して冷笑しながら脅して追い払っていた)。
宮仕えを辞めた後はひたすらインサイダー取引を行い、先物や国債市場で巨万の富を稼ぎ出した。
これらは犯罪行為であり、伯爵は非常に悪目立ちしていた。
しかし、誰も何も文句を言わない。
国民の模範となるべきハイ・エルフの振舞いについて常日頃口うるさい女王もなぜか黙っている。いつもどっしりと構えているはずの女王が伯爵の悪名が話題になると途端にそわそわしだして聴かなかったフリをするのだ。そこで、こころ利きたる臣下たちは女王の気持ちを察して伯爵に関する事柄を常に不問に付すことにしていた。
これは後年、女王の懐刀として侯爵令嬢のエッラが加わってからも変わりがなかった。
その理由はエッラの顔を見れば明らかだった。鼻の形はエッラの母である侯爵夫人にそっくりだが、目元口元は死んだ侯爵ではなく伯爵にそっくりだった。ちなみに侯爵は決闘で死んでいる。
カリタは思った。
それにくらべて自分はどうだろうか。他人より少しばかり容色が優る以外取り立てて言うほどのものがない。伯爵という特別な存在と並んで歩むに為にはそれなりの理由が必要のはず。伯爵に愛し続けてもらうには、伯爵を引きつけるには、何が必要なの?
伯爵についてまだ何の理解もしていなかったカリタは悩んだ末、舞踊に活路を見出した。
華やかに見えるが、ダンスは苦役である。
毎日毎日、自らの肉体をいじめ続ける練習を何時間もしなければいけない。降りかかってくるあらゆるプレッシャーにも耐えきってみせなければいけない。まずは肉体的にも精神的にもタフであることが要求されるのだ。そのうえ、いかに自分の肉体を美しく見せるか、細やかな神経と客観性までもが要求される。これらの要求に応えられて当たり前。要求に応えられてもまだまだ自分の肉体を思うように動かすことはできない。道は永遠と思えるくらい果てしなく遠い。
このマゾヒズムに通ずる道をカリタは伯爵にかまってもらいたいという極めて素朴な感情を理由に選択した。そして、優雅に水面を泳ぐ水鳥が水面下で必死になって足をばたつかせているのと同じく、カリタも涼しい顔をしながらダンス苦行をやりぬいた。ダンスの産まれた民族性や時代背景についても音楽や文学にまで手を伸ばしてしっかりと学びとった。
これらをやりおえてからようやくカリタの才能が花開く。
当時、ワルツや民族舞踊以外を踊るハイ・エルフは珍しかった。しかも踊り手は大陸一の容姿をもつ有名人の奥方である。大変な色眼鏡でみられたが、カリタはすべて実力で黙らせた。今ほど完成されたものではなかったが、観た者はカリタのダンスが本物であることを認めた。ヒト族よりヒト族固有のダンスに精通した者として世間一般に認められるにいたった。
だが、どうだろう。
カリタはダンスに打ち込めば打ち込むほど、伯爵のこころが離れていくのを肌で感じるようになる。
遠いロレーヌで行われた著名なダンス大会で涼しい顔をしながら内心必死で優勝をかっさらったときも、伯爵は冷ややかな顔で「そう。それはよかったですね」と述べただけだった。
このころには伯爵はカリタに対して結婚当初仲間意識にさせた乱暴な言葉使いをすっかりひそめて大変馬鹿丁寧な言葉使いをするようになっていた。
それでもカリタはダンス苦行をやめなかったが、毎晩泣いた。伯爵に関わったすべての女性たちと同様にただ泣いた。
こころの隔たりが余りにも遠い。遠すぎる。もどかしいを通り越して絶望しか感じられない。こんなにも引き付けられるのに伯爵に一ミリたりとも近づくことができない。伯爵がジゴロやヒモならばよかった。それならまだ救われた。軽蔑もできるし、相手はお金とか身体とかを要求してきただろう。
けれど、伯爵はなにも要求しない!
わたくしはもう伯爵の関心すら引く存在ではなくなったんだわ!
カリタは伯爵への恋情に身を焦がしながら絶望しひたすら嘆く。天真爛漫ぶりはすっかりひそめて目の下に隈をつくり暗い顔をするようになった。
カリタを見知った人達は彼女の顔を見て驚いた。
ここまでは他の女性たちと同じ結末であった。
だが、事実は小説よりも奇なり。
ある日、カリタが仕方なく出席した何某侯爵夫人主催のパーティーで社交界デビューしたての少年と出会ったことから、カリタと伯爵の関係は大きく変わることとなった。
つづめていえば、少年はカリタに恋をし、伯爵は少年を決闘で殺害し、カリタは伯爵が嫉妬に狂ったことを知ったのだ。
カリタのダンスの達人ぶりが知られ始めた20歳のときの出来事である。
メラリア王国盛衰記 @MARIAoui1
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