第10話再会

 例の下水の流れ出てくる川原でわたしとモーリンは睨み合っていた。


「銃を捨てて家に帰れ、モーリン。また、わたしにひっぱたかれたいのか?」

「あんたに命令される覚えはない。あたしはアルカンジェロさんに頼まれて来たの」

 私服野郎め、余計なことを。

「ふん。また、人殺しがしたくなったのか?しかも、7年前と同じ狙撃銃を持っていやがる。今度こそ誰かを殺して奪ってきたんだろ。人殺しは軍人だけで十分だ。帰れ」

「銃はアルカンジェロさんが捕虜から取り上げて私にくれたもの。私は人殺しをするつもりはない」

 そう言うと、モーリンはガチャリとボルト・ハンドルを引きチェンバーに弾丸が込められていないことを見せた。

「まだ信用できないならこうしてやる」

 モーリンは捕虜から取り上げたであろう工具を使ってマウントをいじり銃からスコープを分離した。そして銃だけを地面に横たえると、スコープを自分のポケットに仕舞い込んだ。

「4倍しかないけど、役に立つこともある」


「アルカンジェロは何を頼んだんだ?そして、お前は何をしたいんだ?」

「この間、アルカンジェロさんは私からカリアとの出会いを聞いたの。それで私が地下水道に詳しいと思っていて、カリアの手伝いにいってくれと頼まれたの。私は可哀想なジョバンニ・ガブリエリさんに会ってみたい。会って彼を助けてあげたい。慰めてあげたい。ああ、ジョバンニ様、待っててね」

 ミーハーがここにいる。放送を聞いてのぼせ上がり一気にロマンス・ストーリーのヒロインにでもなったつもりか。冗談ではない。


「帰れ」


 腹が減ったと言うと、モーリンが弁当を出してきた。サラミと鳥の冷肉、オレンジ、パン。水筒には水。エーラ人にしては感心だ。水道労働者も勝手に手をのばしてきた。わたしはケチではないから文句は言わない。


「ところでどうするんだ?ジョバンニは大使館の秘密の入り口で別れたそうだ。いくらなんでも広すぎて探しようがない」

「ジョバンニ様はきっとお腹がすいているわ。早く探して差し上げないと」

「入り口のところにチーズでもぶら下げて置いたらそのうち出てくるかもな」

「ジョバンニ様はネズミじゃない。冒涜するな」


「おい。何かいい知恵ないか?」

 わたしが問いかけると、水道労働者が答えた。

「やはり大使館の入り口から調べる方が手がかりが見つかりやすいのでは」

 朝から酔ってた癖になかなか理知的なことを言う。


 よし、それでいこう。


 +


 わたしたちは戦闘で傷つけられた大使館に入った。

 大使館の壁や柱は弾痕で一杯だ。窓も割れているものが多く、床は色々な破片が散らかっていて足の踏み場もない。内部の部屋べやは資料を押収するためと称して憲兵やら兵士やらで混雑している。 

 ミレッタ上級曹長とジュリオは地下水道の臭さを予想して駐在武官を収容先に送っていくと言って逃げてしまった。要領のいい奴らだ。


 わたしは暑さと朝からの重労働でヘトヘトで頭が回らない状態だった。

 漆喰やガラスの破片が散らばった一階の大広間に中年の男がうなだれてソファに座っているのを見つけて、わたしが秘密の抜け道のことを聞くと、男はボソボソとみぎ奥の廊下をまっすぐ進むと左手に厨房があるからそこに入って食料庫を探せば見つかると教えてくれた。

 わたしたちは男に礼を言って、言うとおりに進んで秘密の抜け道を探し当てた。


 水道労働者がわたしに何度も本当に中に入るんですか?と尋ねてきたが、わたしは鈍い頭のまま「給料もらってんだから仕方がない」とか「代わってくれる奴がいないんだから仕方がない」とかブツブツ呟いて頷いた。


 7年前は冬で寒かったし、わたしは覗いただけで入らなかったので臭さをそんなに感じなかったが、今回は違う。夏で暑いうえ地下水道の中へと入らなければならない。非常に臭い。モーリンは慣れていると思っていたが、彼女すらきつそうだ。


 意を決して竪穴から地下水道に降りていくと、水道労働者の奴が急にキビキビしだしてあちこち懐中電灯を照らして調べ始めた。

「複数の足跡が南に向いてますね。しかし、一人東側へ向かったことがわかる」

 地下水道は両側が通路状になっていて人一人通れる幅がある。わたしにはよくわからない東へ向かったという足跡を水道労働者が懐中電灯を照らして追いかけていく。

「ほら見てください。この壁に手をついた跡がある。男はおそらく足を滑らして転けそうになり慌てて手で壁をついたようですな。ああ、床にも擦った跡がある。間違いない」

 ますます水道労働者がキビキビしだす。おそらく地下の有毒ガスがこの男を活性化するのであろう。この臭さのなかでよく元気でいられる。

「ここで男は立ち止まっている。男はおそらく横穴の方へ行こうとしたが、横穴が狭く断念した」

「うん?なぜそんなことまで判る?」

「床の足跡が強く残っている。それに、男の身長は175センチ以上。この横穴が狭いと感じるはずだよ、カリア君」

「カ、カリア君って。なぜに男の身長まで判る?」

「経験と注意力の差だな、カリア君。見たまえ、この足跡を。26インチ。ダークエルフの平均身長から割り出すと175センチは十分にある。それに本革製のオーダーメイドだ。人のを借りてきたのではなく本人の靴。理解できたかね?カリア君」

 くっ。殴りつけたいが我慢しよう。こいつに見放されたら広い地下水道を当て所なくさ迷わないといけなくなる。それにしても推理マニアなのか?こいつ。ものすごくウザイ。


「もう少しで追いつけそうですな。カリア君」

「なんで?最低でも2時間半ほど差があるんですけど」

 わたしでなくモーリンが投げやりに答えた。モーリンも臭さと水道労働者のウザサに参っているようだ。

「見たまえ、彼の足跡の幅を。以前に比べてかなり狭まっている。彼が疲れ果てている証拠」

 ハイハイ。お説のとおりだとわたしも助かる。


 しばらく行くと、本当にこの先で人が壁にもたれて休んでいるようだ。

 目には見えないけれど気配と息遣いの音で次の曲がり角にいるのがわたしにはわかった。

 急いで水道労働者に懐中電灯を消さして静かにさせた。驚かせて逃げられても面倒だ。わたしたちは靴音を忍ばせてソロりソロりと近づいて行った。

 曲がり角を曲がると、私が制止する間もなく得意げに水道労働者が「観念したまえ」と懐中電灯をつけて男を照らしてしまった。

 わっ!バカ野郎。


 でも、そこにいたのはジョバンニではなく、髭をはやし片眼鏡をかけたドワーフのオッサンだった。しかも、懐中電灯の光にびっくりして腰を抜かしていた。


「……どこが175センチ以上だ。せいぜい160センチだろうが」

「ド、ドワーフとは想定していなかったものですからな。まあ、ひとつくらい間違いはあるものですよ。カリア君」

「お前にカリア君呼ばわりされる覚えはない」

「この男がジョバンニでないことは私が保証しますよ」

「見りゃ誰だってわかるよ」


「ちょっと、カリア」

 わたしが水道労働者を締め上げていると、モーリンが声をかけてくる。

「なんだ?今この推理マニアをとっちめて二度と偉そうな口を叩けなくしてやろうと。えっ!」


 ドワーフのオッサンがワルサーP84を構えていた。


「さあ、カリア君。君の出番だ。私は知的労働にしか向いていないんだ」

 水道労働者が押してくる。水道労働者はいつからインテリゲンチャーになったんですか?肉体労働そのものだろうが。

 でも仕方がない。仕事は仕事だ。

「二人は後ろに下がって。跳弾に気をつけろ。怪我するなんて馬鹿馬鹿しい」


 わたしは二人を後ろに追いやると、ゆっくりと前に出た。

 ドワーフのオッサンがガタガタと震えている。


「オッサン。オッサン。誰もあんたに危害を加えない。安心しろ。緊張するな。呼吸を楽にしろ。

 ほら。ヒッ、ヒッ、フーだ。やってみろ」


 何かを間違えていたようだが、オッサンも緊張していたせいでツッコミも入れずに変な呼吸をしてみせた。


「落ち着いたか。モーリン、水をやれ」

「ちょっと、まだ拳銃持ってるよ」

「大丈夫だ。安全装置がかかっているから」


 オッサンがギョッと驚いた隙にわたしは拳銃に手をかけ撃鉄が下りないようにしてやった。

 憤激したオッサンが腕を伸ばしてきたが、お返しにわたしは蹴りをくらわしてやった。


 ドボンっ


 オッサンが真ん中を流れる下水にはまった。


「助けてくれ!」

「「……」」


「うあ。ちょっと、誰が引き上げるのよ?あんな臭い奴」


 モーリンの指摘は的を得ている。どうしようか?


 ほっておくわけにもいかず、わたしと推理マニアとで引き上げた。モーリンはみんなを嫌って10メートルくらい離れてしまった。


「ところでカリア君。これからどうするつもりかな?」

「どうもこうもあるか。ジョバンニは見つからないし、もうやめだ。休憩にする」

「ほっほー。諦めが早いですな。ですが、私はジョバンニを見つけましたよ。この灰色の脳細胞で」 

 推理マニアは自分の頭を指さした。

「経験と注意力の差ですな。私たちに秘密の抜け道を教えてくれた彼がジョバンニです。だいたい秘密の抜け道を知っている時点でおかしいと気づくべきですな、まったく。ハハハ」

「早く言え、それを」

「だから、何度も地下水道へ降りるんですかと聞いたではありませんか」

「くうっ」

「あたしもわかってたよ。でも、カリアがどうしても地下水道に潜りたがっていたから別の仕事かと思ってついて行った」

「くっそう」


 みんなで馬鹿にしていたんだな。もう、グレるしかないわ。トラエッタ将軍に辞表を書いて領地で隠棲してやる。


 結局、ずっとソファに座っていた中年男がジョバンニだった。放送を聞いて落ち込んでいたようだ。


 ちなみに、下水にはまったオッサンはカール・フォン・ドライスという外交官だった。名前だけは7年前に聞いたことがあった。

 本人は総統の命令で午前10時に間に合うよう大使館に来てみればドンパチやってて中に入れず、護衛もみんな降伏したあとでコッソリと一人で落ちた大使館に忍び込んだらしい。

 それから秘密の抜け道で脱出しようとしたが地下水道で道に迷ってしまい、結局、わたしたちにつかまったのだ。


 わたしはドメニコ憲兵少佐にジョバンニが見つかった旨報告し、身体を洗いに家に帰った。


 +


 午後2時。

 ヴィットリオ国王は放送局のマイクの前に立った。国王は何故か緊張してもじもじしている。

「陛下。もう3回も録音の取り直しをしてるんですよ。諦めてサッサと終わらせて下さい」

 トラエッタ将軍がガラス越しに録音室にいる国王を睨みつけて言った。

「これで最初で最後かもしれないのだよ。メラリア全土どころか大陸中に僕の声が届くんだ。少しでもいい声聞かせないと、一生、変な声の奴とか言われちゃうよ。そんなの国王として恥だろう?」

「いやいやいや。陛下は歌手でもなんでもないんですよ。変な声でもなんでも陛下がメッセージを読み上げるという事実だけが重要なんです。ああ、こんなことなら最初から生でやらせておけばよかった」

「生だって。なんという怖いことを。そんなことしたら緊張で倒れちゃうよ、僕」

「陛下、しっかりして下さい。これで最後ですよ」


 なにが僕だ!?いい年しているくせに。いつもは大胆かつ冷静で計算高い陰険極まりない癖にこんな時だけ気弱になるなんて。時間がないんだ、時間が。

 トラエッタ将軍はガラス越しに歯ぎしりしてみせた。


 1時間前にマリアカリアが連れてきたザールラントの大使に対して国王自らがザールラントの重大な条約違反を理由に軍事同盟の破棄を通告した。同時に、メラリアの放送を通じて大陸全土に向けて同盟破棄を発表している。


 だが、問題が残っている。

 メラリア南部は侵攻しているエルフランド軍に残留しているザールラント軍の後始末を任せるとしても、北部地方をどうするか?北部地方には無傷のザールラント軍が4個師団も残っているうえ、エーコが長年拠点としてきた特殊な地方である。そこにいるメラリアの軍集団の動向も気になる。


 それなのに、この問題をラジオの放送によって一気に片付けられると国王が言い出したのだ。


 放送が始まった。

「……余は21年前、ウンベルト・エーコに大権を任した。貴族制度がメラリアの発展を3000年にわたり阻害し続けたからである。余はエーコの振るう大鉈によって貴族制度やその他諸々のメラリアにある矛盾を取り除こうとした。その結果はどうであったか?」

「……ザールラントの甘言にエーコは騙されてしまった。しかし、わがメラリアは名誉を重んじる騎士道の国である。いかに不利であろうと、約束は約束である。わがメラリアは全力を尽くして条約の履行を果たしてきた。それにもかかわらず、ザールラントは野心家たちを使嗾し反乱を起し国家を転覆しようとしたのである。このような無礼が許されるであろうか?」

「……事が破れたにもかかわらず、野心家たちは未だに策謀をやめず北部地方で反乱の機会を狙っている。彼らの甘言に乗り反乱を起こせばどうなるか?同じ国民同士が殺し合うことになる。北部地方は戦乱で荒れ果て父や兄は死に女子供は家を失い路頭に迷うかもしれない。彼らは同胞の血によって自らの野心の成就をなそうとしている。こんなことが許されていいのであろうか?余はメラリアの名において命令する。これら反乱首謀者の命令を聞いてはならない。私は全メラリア国民、ことに全兵士に彼らの命令に服従することを禁じる。メラリア万歳。メラリアの男女諸君、余を助けよ!」


 国王の演説の前半は国王がいかにメラリアに尽くしてきたかを強調するものであった。

 簡単にいうと、「国王とエーコが音頭をとったけれども以前は自分たちも踊ったことを思い出せ。それでなにか不都合が生じたか?メラリアの国民よ。今度も国王を信じよ」というものであった。

 国王の演説の中盤は一方的にザールラントを悪者にして参戦の責任をなすりつけるものだった。

 ザールラントの憤激を呼ぶ大嘘であるが、メラリアの国民向けのメッセージであり国王は気にしていなかった。エルフランドとの講和の言い訳にもなるので国王は遠慮しなかったのである。

 眼目である国王の演説の後半は北部地方のメラリア国民と兵士たちに不安と動揺を与え野心家とザールラントに反抗する覚悟を決めさせるものだった。

 これはザールラントが北部地方でしようと考えていた策謀の余地を事前に排除することを狙ったものだった。


 苦労して録音された国王の演説がメラリアの放送で流されたのが午後3時だった。

 流された国王の演説は冷静に考えると極めて悪辣なものだったが、早朝から重大な情報を聞かされ続けていたメラリア国民の耳にはすんなり入った。

 北部地方にいるメラリア軍集団の司令官たちも相次いで国王に忠誠を誓いその指示に従う旨を伝えてきた。


 またしても国王は賭けに勝ったようだった。


 +


 午後5時。

 エーコは浴室で頚動脈を切り自殺した。遺体にためらい傷はない。

 その1ヶ月後、ヴィットリオ国王の命令で国葬となる。葬儀委員長はトラエッタ将軍だった。

 エルフランドは全体主義者の首魁であったエーコをメラリアが国葬にしたことを不快に感じていたが、それでも葬儀に陸軍大将を送り弔意を示した。


 同じ頃、ジョバンニはラーラの下町で安宿をとって部屋のベットに寝転がり天井を眺めていた。

 さすがにベットにダニはいなかったが、白い漆喰の壁とそれに掛かっている小さな花の絵しかない殺風景な部屋だった。

 その部屋の中で、ときおり煙草を吸う以外、彼はなにもしなかった。


 彼は逮捕されなかった。しかし、エッダ・マヨナラの事件を知る者として翌朝、ドメニコ憲兵少佐に会うよう呼び出されていた。


 +


 翌朝、ドメニコ憲兵少佐は予定通りジョバンニとモナコ大噴水前広場で落ち合う。


 広場にはもう軍務を解かれたらしい軍服姿の男と恋人らしい女とが額をくっつけながら何か楽しそうに話し込んでいる。


「最初にエッダ・マヨナラの妊娠についての手紙をくれたのは君だったんだろう?」

「はい。自分では恐ろしくて調べられなかったものですから」

「憲兵隊に喚起を促すことにしたのか?」

「時が経つにつれて不審が強くなって。でも、確かめられなかった。いつも自分は卑怯者ですよ」


 ドメニコとジョバンニは広場の男女を見ながらしばらく沈黙した。


「昨日の早朝、タルティーニがザールラント大使館へ逃げ出す可能性を憲兵隊に知らせたのも、予定の逮捕時刻ぎりぎりにタルティーニに憲兵隊の行動を知らせたのも君だな?」

「はい。国王側の動きを察知したのが1日前でした。もう逆転は不可能でした。そこで、試したのです。本当にタルティーニが理想のために行動しているなら逃げ出すことをせずに自室で逮捕されたでしょう。逃げ出したということは彼が保身しか考えていない野心家であった証明になる」

「君は嘘をついているな。ザールラントの作戦開始命令が到達する正確な時刻がわからないと国王陛下の一連の作戦は非常に危うい賭けになっていた。そんなことをする陛下ではない。誰かがザールラント側の情報を国王陛下に漏らしていた。それは君だろう?」


 ジョバンニは広場の男女を見ながらなにも答えなかった。


「大使館から脱出しなかったのも理想実現に絶望したからか?」

「どこへ行けと。20年間、汚い仕事ばかりやらされて耐えてこられたのはエッダのような不幸をなくしたかったからです。エーコ統領には力があった。マフィア撲滅も実現してみせた。しかし、女性の境遇には無関心だった。より強い全体主義者なら叶えてくれるかもしれない。それでタルティーニを信じた。いや、信じたふりをした。内心ではあんな胡散臭い奴に期待なんかかけられないと分かっていた。でも、信じたふりでもしないと耐えられなかった。こころの中でエッダが責めるんですよ、今でもね」

「国王陛下の例の放送で国民の関心が集まっている。もしかしたら実現するかもしれないな」


 しばらくすると、マリアカリアに連れられマリーア・アンドロニーコが2人のもとへとやってきた。

 広場の男女はもういない。


 ジョバンニは誰もいなくなった広場を関心もなさげにただ眺めている。

 マリーアはジョバンニの前に立つと、一瞬、目を閉じた。

 それから目を怒らせ、平手でジョバンニの頬を叩いた。


 パシンっ


 広場には虚しい音が響いた。


 +


 同盟破棄宣言のあった日から2週間後、メラリア王国はエルフランド及び連合諸国と和平の講和条約を締結するに至った。

 ヴィットリオ国王の意図したようにメラリアは戦争から短期でしかも賠償も支払わずに抜けることができたのだ。


 同盟破棄を宣言した翌日から、国王は精力的に動いた。


 まず、国王は北部地方に駐留するザールラント軍に対し兵糧攻めを仕掛けた。ザールラント軍の周りにいるメラリア王国軍と鉄道労働者に対しすべての鉄道と道路、橋脚の封鎖を命じたのだ。

 しかもそれは、「ザールラント軍が突破するために攻撃を仕掛けてきたら鉄道も道路も橋脚さえも爆破して使用不能にしてしまえ」という徹底ぶりであった。


 次に、こうして時間稼ぎをしている間に国王はあらゆる努力をして南部地域にいるエルフランド軍の北上を助けた。鉄道の貨物輸送もエルフランド軍を最優先とさせた。

 これによって国王によっていやらしく足止めされて身動きが取れなくなったザールラント軍は意気揚々と北上してきたエルフランド軍に対して降伏するほかなかった。


 国王の悪辣さぶりはまだ続く。

 これらすべてのことがメラリアが中立宣言をしエルフランドがそれを受諾したにすぎない段階でおこなわれたのである。

 エルフランド軍の司令官たちは戦果にしか目がいっていなかったが、エルフランドの外交官たちは違った。

 中立国で自国の軍隊が軍事行動をおこなうことなど国際法上のタブーである。外交官たちは軍事活動の正当性をどこかに求めざるを得なかった。端的に言うならば、形のうえでメラリアから自国の軍隊の軍事活動について要請があったことにしなければならなかった。

 それゆえ、メラリアのためにエルフランド軍がザールラント軍を降伏させたのに、形のうえでのメラリアの要請をわざわざ自分たちからメラリアにお願いをして引き出さなければならなくなってしまった。

 エルフランドの外交官たちと女王はヴィットリオ国王にまたしてもしてやられたとの屈辱を感じずにはいられなかった。


 +


 こうしてヴィットリオ国王がメラリアのために働いている陰で、獄中のサルヴァトーレもまたマフィアのために尽くしていた。


 メラリアは食料以外あらゆる生活物資が不足していると言っていい状態だった。煙草、化学繊維、ガソリン、金属製品などなど。

 マフィアにとって闇市場で大いに儲けられるチャンスである。


 サルヴァトーレはすぐさま指示を出し、北上するエルフランド軍の補給部隊の将校たちを賄賂漬けにした。

 マフィアの甘い誘惑に引っ掛かった者たちはもう逃げ出すことができない。マフィアは次に脅迫で彼らを縛りにかかるからだ。


 こうしてエルフランド軍から大量の物資が闇に流されることになった。


 ラーラの下町の横丁では突然トラックが横づけされ、うしろの幌が巻き上げられてガラの悪そうな兄ちゃんたちが下町のおばちゃん連中を呼び止める。

「さあさ。今日は特売日だ。ここにあるのは進駐軍さま特製のチョコレートにガムに化繊のストッキング。ラジオにブーツにリバーシブル・コート。それに目玉の煙草だ。どんな種類のタバコもあるよ。キャメルにラッキー・ストライク。ケント。ゴロワース。V4。P8」

 おばちゃん連中は最近見かけなくなっていた品々に目を輝かせて群がってくる。

 品物は次々と売れ、兄ちゃんたちは紙幣を数えるのもめんどくさそうにしてボロくずでも投げ捨てるかのように鞄に放り込んでいく。

 一区切りついた頃、人相の良くない男が近づいてくる。コイツは制服を着ていないが憲兵である。

「なんだ、憲兵の旦那か。そら、今日の取り分だ」

 マフィアの下っ端が憲兵に賄賂を手渡す。


 旧い世代のマフィアは未だに監獄島の中にいる。今、活動しているのは彼らのことを知らない若い世代だ。

 この新しい世代のマフィアたちにマフィアの流儀を叩き込んだのが、サルヴァトーレの右腕のジュゼッペだった。


 目立たないが、旧い世代の親分衆がいない隙を突き、サルヴァトーレは若い世代のマフィアすべてを率いることでラーラだけでなくメラリア全土に再びマフィアの根をはることに成功した。


 獄中にいながらサルヴァトーレはメラリアの闇にも君臨しているのだった。


 +


 昨日、メラリアはエルフランドと講和した。戦争が終わったのだ。

 人々は街に繰り出した。男も女も老人も子供もみんな嬉しくて喜び勇んで通りや広場や街角に集まった。

 歓声をあげ、踊り、歌い、キスをし合った。中にはパレードよろしく、どこからか古いトラックを引き出し飾りつけをして乗り回すものもいる。見知らぬ人がそのトラックに便乗して周りに向けて歓声をあげる。見知らぬ女性をトラックに引き上げる。

 すべてがお祭り騒ぎだった。


 結局、ダークエルフは誰もが戦争を望んでいなかったのだ。




 そんな喧騒の中、今日一日はわたしとヒューとのデートだ。

 わたしは今朝から休暇中。そして、ヒューは失業者。2人は暇なのだ。


 わたしは以前、駅で秘密警察に襲撃されたことがあった。あのとき、ヒューの助けがなくてはわたしは死んでいた。


 その日から、わたしとヒューとは気持ちのうえだけ男女としてつき合いだした。

 わたしはダークエルフで、ヒューはヒト族。他人種同士では遺伝子の関係で子ができない。だから、今でもヒューとは肉体関係にない。関係になれば、お互い、虚しくなるのが目に見えていたからだ。


 ヒューがもしダークエルフならば、わたしは今頃、社会から爪弾きにされる女になっていただろう。死んだエッダ・マヨナラのように。


 繁華街から少しずれた位置にあるリストランテが落ち合う場所だ。

 このリストランテの奥には鏡張りの個室がある。

 客がダイヤの指輪で悪戯したらしく、鏡は落書きで一杯でまるでクモの巣を張ったようにみえる。


 わたしはこの淫靡な雰囲気の漂う個室をあえて予約した。


 いつものようにわたしが先に個室に着いてしまった。

 エーラ人は時間にルーズなのだ。いつもヒューは当たり前のように遅れてくる。それもかなり遅れて。

 しかし、今日に限ってヒューはわたしのすぐあとに到着した。

 ボーイに案内され個室に入ってくる。

 どうしたんだ、一体?

 当たり前のことが逆にわたしを不安にさせる。


 給仕長らしき人物がメニューをわたしたちに渡し、雰囲気を察して本日の料理のおすすめをさり気なくおこなって迅速に消える。

 もう、この部屋には料理を運んでくる給仕以外はだれも来ない。


 食前酒を飲み、運ばれた料理を食べ、シャンパンを開けた。酔いがほどよく回る。


「姫さん。あんたの銀髪はいつ見ても綺麗だな」


 嘘だ。

 ヒューは腕とか手のフェチストなのだ。いやらしい目で見るのはいつもわたしの手なのだ。わたしから見れば、わたしの手は皮が硬いうえ関節にたこがある醜いものだ。しかも血に染まっている……。


 ヒューはどうしようもない奴なのだ。


「姫さんの目は神秘的だ。大きく感じる青い目に吸い込まれそうだ。海に溺れていくような気がする」


 これも嘘だ。

 ヒューが気に入っているのはわたしのポッテリとした唇だ。

 ヒューは言葉では詩人のような綺麗事を言うが、吐く息づかいで解る。ヒューはわたしの下品な唇に劣情を感じている。



 わたしとヒューはキスをした。


 わたしはヒューに言った。


「愛している」


 わたしも嘘をついた。

 はじめてヒューとキスをしたときは、腕も肩も首も背中までもが鳥肌立った。こころも震えた。

 だが、今では鳥肌なんて立たない。こころも震えない。



 何故なのか、わたしにも判らない。でも、深く深く安心する……。


 +


 メラリアがエルフランドと講和した日、ゲルトルートは治療している負傷者を連れて必死に森の中を進んでいた。案内はパルチザンと面識のある密輸業者であった。


 戦局が悪化する中、ロレーヌの占領地域に残留するザールラント軍はメラリアを北上してくるであろうエルフランド軍に備えるため当地のパルチザンの掃討を強化した。


 今までは見過ごしていたメラリアとの国境地帯の村や町にまでハーフトラックに乗ったパトロールを出すようになり、パルチザンの潜伏が少しでも疑わしい村には重武装の武装親衛隊の部隊を送った。

 この部隊の送られた村は必ず焼き討ちに遭う。そして、成人男性はすべて広場に集められて銃殺された。

 ザールラント軍はもうなりふり構っていられないのだ。


 これに対して、パルチザンであるマキも容赦はない。

 捕虜は一部の例外を除いてすべて刺殺した。弾薬を節約して銃を使わないのだ。


 日々、お互いに出し抜こうと、待ち伏せ、狙撃、仕掛けた爆弾による爆殺、火炎放射器による焼き討ちなどありとあらゆる残虐行為を行った。


 こうした状況の下、ゲルトルートは辛い日々を送る。


 医者として負傷した仲間の治療にあたるゲルトルートにはマキの隊員たちも笑顔をむける。

 しかし、ゲルトルートが食事時や休憩中など医師ではなく普通の顔にもどると、ときおりマキの隊員から憎しみのこもった目で睨まれる。

 睨んだ本人たちもそれが理不尽なことだと分かっているが、ゲルトルートもドワーフであることを認識すると自然に沸き上がる感情をどうすることもできなくなるのだ。

 そういうとき、彼らはゲルトルートを傷つけないよう黙って席を外した。

 ゲルトルートもそれが分かっているだけに辛い。


 さらに、ゲルトルートのいるマキの部隊ではゲルトルートの目に入る範囲で例外的に捕虜をとる。捕虜を刺殺しようとすると、ゲルトルートが身を投げ出して庇おうとするからだ。

 マキの隊員たちもゲルトルートの献身には感謝している。彼女を殺すような真似はしたくないのだ。

 こうして捕虜になったザールラントの兵士は必ずゲルトルートに貴女も捕虜なのかと問い、ゲルトルートがマキの隊員たちと談笑している様子を見ると、今度は口にこそ出さないものの目で売国奴と非難する。

 これもまたゲルトルートにとって辛いことだ。故郷の人間がすべて敵にまわる。味方は捕虜の中にもマキの隊員のなかにもいない。

 しかし、ゲルトルートは彼らにも言い訳はしない。自分で決めたことだ。

 それに、医師の務めについて語ったところで憎悪の念を抱きあっている連中には理解してもらえない。


 ただ、辛いだけ。それだけだわ。私は揺らぎはしない。ゲルトルートはこころに強く念じた。


 +


 マキたちの武装にはエルフランドの援助が欠かせない。エルフたちは夜間に爆撃機を送って武器や弾薬をパラシュートをつけてマキたちへ降下させた。

 ところが、3日前、ゲルトルートのいるマキが援助物資の回収のため爆撃機に向けて落下地点の目印の火を点けたところをザールラントのパトロールに見つかった。

 そのせいで、武装親衛隊の包囲を受けて回収に向かったマキの部隊は壊滅する。


 現在、からくも生き延びた四、五名のマキの隊員と後方にいたゲルトルートたちは合流し武装親衛隊の追撃をしのぎながら森の中をメラリアに向けて逃走している。


 生き残ったマキの隊員であるエミール・ゾラがゲルトルートに囁く。

「医師殿。このままでは追いつかれて全員御陀仏だ。負傷者を捨てていきましょう。全員がダメなら歩けない負傷者だけでも」


 ゲルトルートは無言で首をふる。


 すると、暗い感情を剥き出しにしてエミールは言い募る。エミールはまだ17才の少年にすぎない。死ぬのが怖くてたまらないのだ。


「あんたや捕虜たちは追いつかれても助かる余地があるだろうよ。でも、俺たちは追いつかれて捕まりでもしたら家畜のように殺されるしかねえんだよ。解って首をふってんのかよ」



「黙れ。それ以上しゃべるな、臆病者め」


 声を出したのは、1ヶ月前、マキに救出されたエルフランド軍の輸送機のパイロットであった。手には自動拳銃を握っている。撃墜されてパラシュートで脱出したときに足の骨をおり、彼も歩けない負傷者である。


「無理に我慢して私たちと一緒にいなくてもいいわ。先へ行きなさい」

 ゲルトルートは日頃エミールを年の離れた弟のように感じていた。彼女はエミールに死んで欲しくない。だから、逃げるように勧めた。


「ケッ」

 エミールは悪態をつくと、森の先へではなく仲間の負傷者のいるところに戻っていった。


 +


 案内役の密輸業者が双眼鏡で谷越しにいる武装親衛隊のサイドカーを観察している。


 ゲルトルートたちと武装親衛隊との直線距離は1キロ半ほどであろう。

 しかし、両者の間には深い谷間があるうえ、ゲルトルートたちは小高い岩山のうえにおり、片や武装親衛隊はもうすぐバイクでさえ通れない山道にさしかかろうとしている。彼らがサイドカーを乗り捨てて追ったところで追いつける距離ではない。


 密輸業者がほとんど誰も知らない近道を案内して距離を稼いだのだ。

 ゲルトルートたちは地元の住民でもないダークエルフの男がなぜ知っているのか疑問であったが、誰も口に出そうとしなかった。

 密輸業者は妙な威圧感を纏っており、誰にも尋ねることができないのだ。


「どうだ、坊主。心配ないと言ったろう?」

 密輸業者はいやらしく笑いながらエミールに語りかけた。

 エミールは顔を顰めてみせているが、助かったという喜びを隠せていない。


「まずは一安心というところだが、これからどうするんだ」

 ジャン=バチストというマキの生き残りのリーダーが尋ねる。


 エミールを含めた5人のマキの隊員が生き残ったのは、この男が援助物資の回収にむかった本隊を見捨てる判断をしたおかげだった。

 5人はたまたま回収地点の南側を警戒する役割りを任されていたが、ジャン=バチストがいち早く包囲されかけているのに気づき迂回して逃げ果した。

 このとき、仲間の一人が本隊に知らせに走ろうとしたが、彼は無駄死にするだけだと言って止めている。


 密輸業者はジャン=バチストの質問には答えずに、ゲルトルートに尋ねる。

「医者の先生さんよ。食料はどのくらいもつんだい」

「よくて3日。2日分しか保障できないわ」


 ゲルトルートら女性たちの側でパンを食べていた2人の男の子たちは食べるのを止め、パンを置いた。

 彼らはマキに保護されたポロニア人の少年たちであった。


「いいのよ。あんたたちは食べて」

 女性たちは少年たちに微笑んだ。


 この集団は人数は多いものの戦闘には不向きだ。

 女性が9名。八才の子供が2人。負傷者6名。そのうち歩行が困難で担架に乗せられているのがパイロットを含め4名。その担架を担ぐ捕虜が7名。

 戦闘に従事できるのは、マキの隊員5名と密輸業者の併せて6名しかいない。


「なんだあ。俺の顔になんかついてるのかい?ジロジロ見やがって」

 密輸業者がゲルトルートとパイロットに視線を向けられているのに気づいて言った。


「その傷、大変上手に縫っているわね。相当腕のいい外科医に当ったのね。運がいい」

 ゲルトルートが密輸業者の顔を角度を変えながら執拗に見る。ダークエルフの顔には左頬から目尻にかけて湾曲した傷跡があった。

「よせやい。これだから医者ってのはよくわからねえんだ。俺の顔を標本教材かなんかと一緒にするな。縫ったのはベルエンネのエルフの医者だよ」

「なるほど。納得がいくわ」

 ゲルトルート自身、同じ留学先の首都で外科一般を修めたのだ。彼女は当時の名医たちを思い浮かべた。


「お前さんの方はなんだ?」

 密輸業者がパイロットに聞く。

「腕は確からしいが何を考えているのか不安になるパイロットの操縦する飛行機に乗ったらこんな気持ちになるんだろうな、と思った」

「よかったじゃないか、乗客の気持ちになれて。せいぜい戦後の商売の参考にしやがれ」

「俺はエルフじゃない。国に帰っても飛行機会社はない。客を乗せて飛ぶことはないよ」

 パイロットは黒目黒髪のプストリア人だった。

「じゃあなんで空軍なんかに入ったんだ。要らん知恵つけてもしょうがねえだろうが」

「単純に空を飛びたかったから。それだけだよ」


「俺にはオメエらの考えていることの方が全然わかんないよ。変人どもが」


 +


 2日後、密輸業者の案内でゲルトルートたちは山小屋にたどり着く。

 そこには食料その他の必要な品々と密輸業者の仲間という歓迎されない者たちが待っていた。


 小屋の前で、トランプに興じていた一人が案内の密輸業者に声をかける。

「よお、マッテオ。ずいぶんと来るのが早いのではないのか?」

「あと2,3日くらいグルグルと回りたかったんだがな。食料がないんじゃ仕方がないや」

「そうかい。目ぼしはつかなかったんだな」

「そういうこと。怪しい奴はいるにはいるんだが、どうもひとつハッキリしねえ」


「何のことを言っているんだ?誰を探しているんだ?」

 不穏な空気を察してジャン=バチストがマッテオと呼ばれた密輸業者に尋ねる。


「まあそうだな。ここまで来んだ。説明してやるか。その前に武装解除だ。おい!」

 マッテオの呼びかけに隠れていた15、6人のダークエルフが出てきてゲルトルートたちに銃を突きつける。ダークエルフたちは容赦なくゲルトルートたちの身体検査をして小銃から拳銃、ナイフまで取り上げていく。


「俺たちをドワーフに売るつもりか。裏切り者」

 エミールが手をあげながらも唾を吐いて悪態をついた。


「逆だ、逆。お前たちの中から裏切り者を探し出して処刑することが俺たちの仕事なんだよ。おい、坊主。おめえはおかしいとは思わなかったのか?ここ最近、やたらとマキが壊滅していくのをさ」

 マッテオに言われてエミールは言葉に詰まった。確かに異常だった。誰かがザールラント軍に情報を漏らしているのではないかとエミールも考えていた。


 みんなの目がジャン=バチストに集まる。

 もとからゲルトルート以外はジャン=バチストに対して疑惑を抱いていた。

 なぜ彼と彼に従った者たちだけが壊滅を免れたのか?彼が包囲されるのを事前に知っていたから逃げられたのではないのか?それに彼は本隊に包囲のことを知らせに行くのを妨げている。


 ジャン=バチストの薄くなった頭と額に汗が光る。


「お仲間にずいぶんと不人気な奴がいるみたいじゃないか。そいつなのか?マッテオ」

「さてねえ。オレが見張ってた限りじゃ、不審な行動はなかった。少々臆病だがな、生存本能が一人前というのは貶されることでもないさ」

「オレはまどろっこしいことが嫌いだ。さっさと捕虜とマキの男どもを殺してしまえばいい。そうすりゃ間違えねえ」

「短気はいけないな、ルチアーノ。捕虜とマキを殺したって、肝心の裏切り者を殺せなかったら仕事に失敗したことになるんだぜ」

「おいおい。いつまで探偵ゲームをする気なんだ。いい加減にしてくれよ」

「早目に着いたんだ。時間はあるさ」


 ゲルトルートが口を開ける前に、捕虜のエーリッヒ・シラーが怒声をあげた。


「捕虜を殺すだと。マキでもロレーヌ軍でもないお前たちにそんな権利はないはずだ。それに、同盟は破棄されたとはいえ、メラニアは中立宣言している。交戦規定を守れ」


 エーリッヒの怒声を聞いてルチアーノたちが一斉に低く笑う。


「間抜けな軍人さんがいたもんだ。オレ達を見て分からねえのかい?オレ達は法の外で暮らしている人間だ。国同士が勝手に戦争しようとどうしようと関係ねえ。

 交戦規定だ?笑わせるんじゃねえよ。

 お前たちには一文の価値もねえ。だから、ここでくたばれ。

 裏切り者を除いたマキの連中は今までの商売のよしみだ。メラニアの街まで送ってやるつもりだ。オレ達は義理堅いんだ、感謝しろよ。でも、時間がかかるようなら全員まとめてあの世行きにしてやる。分かったなら、裏切り者はサッサと出てこい!」


 ルチアーノの恫喝に周りが静まりかえる。


「私がそうだとしたら、捕虜の人も含めてみんなを助けてくれるの。マフィアのみなさん」


 ゲルトルートが今度こそ口を挟んだ。彼女は自分が殺されないことを確信していた。


「そいつはありえねえな、医者の先生さん。確かに先生は拠点を巡回していたが、見張りが始終ついてたうえ連絡の手段がなかった。それに医者気質をもった変人だ。なおさらありえない」


 マッテオが言い続ける。


「こいつはオレ達の仕事なんだ。

 上のひとたちがやたらと裏切りを嫌っていてな。そのうえ商売先を潰されてカンカンに怒っているんだ。裏切り者にはキッチリ報いを受けてもらわねえとオレ達が困ったことになるんだよ。

 医者の先生さんは口出ししねえでもらいたい。

 先生とエルフランド軍のパイロットさんは上のひとの用があるとかでラーラまで丁寧に送ることになっている。だから、そこで何も聞かず何も見なかったことにしてくれや」


「マッテオさん。あなたはカリアの使いなのね。だったら捕虜の人を助けて頂戴。カリアが聞いたらきっとその方が喜んでくれるわ」


「残念だが、オレ達は少尉殿いや今は大尉殿か?大尉殿とは関係ない。

 そんなことより先生はどうやら裏切り者について何か知っているのだろう?教えてくれよ。さっきもジャン=バチストに目もくれなかったし。妙に庇いだてしてるしよう」

 マッテオの問いかけにルチアーノが口をはさむ。

「大尉殿か。懐かしいねえ。オレもマッテオの野郎も8年前にベルエンネでしごかれたもんだよ。

 そうだ、マッテオ。懐かしついでに医者の先生と取引してはどうだ?裏切り者の情報をくれる代わりに捕虜をエルフランド軍に引き渡すという約束でな」


 ルチアーノの目が光った。狡いことを考えるときの目だ。マッテオは長年の経験で知っている。


「誰が捕虜を連れていくんだ?オレ達にはできないぞ」

「ふん。アントニオに頼めめばいいさ。アイツはエルフランド軍にゴマを摺っている最中だ。きっと喜んで飛びついてくる」


 ゲルトルートは困った。

 捕虜の人たちには無事でいて欲しい。何といっても戦争が終わりかけている。こんなところで助かった命を散らせるのは悲惨すぎる。

 かと言って、正直に裏切り者の正体を告げるのもはばかられる。彼らはきっと殺してしまう。

 どうすればいい?


 ゲルトルートはジャン=バチストやエーリッヒら捕虜たちの縋るような視線を浴びながら沈黙してしまった。


 +


 ゲルトルートの困った様子を見て、エミールはかつて自分が彼女に告げた事実がその原因になっていることに気がついた。


 気づいてしまえば、彼も言うべきか黙って素知らぬ顔をすべきかについて悩むことになった。


 今にも泣きそうなジャン=バチストの顔。

 エミールは神経質で口喧しいこの中年男をあまり好いてはいなかった。おまけに臆病者だし。マッテオの話しで裏切り者ではないとは納得できたが、正直尊敬どころか軽蔑しか感じない。

 でも、ドワーフたちから命を救ってくれたのは事実だ。それに臆病者である点では自分も同じだ。


 捕虜たち。

 最初は憎しみの念しか感じなかった。

 国を侵略しにきた野蛮人。村を焼き親兄弟と離れ離れにさせた仇。

 だが、捕虜が7名しかおらず担架を担ぐ人数合せのため一番彼らと接することの多かった自分に直接彼らを殺せるのかといえば自信がない。

 エーリッヒの無念そうな顔。コイツは頑固者でどうしょうもない奴だが、嫌いではなかった。


 エミールのこころもグラグラと揺れる。


「医者の先生さん。時間切れということにしようか。なに、後ろむいて耳を塞いどけばすぐにすむことさ」

 ルチアーノがゲルトルートを急かしはじめた。


 エミールにはゲルトルートが焦っていることがわかる。


 医師殿。

 エミールは彼女のことを尊敬の念を込めてそう呼ぶ。

 憎いドワーフのはずだけど、エミールのはじめて見た知識人であり、他人とはまったく違う強烈な個性をもった信念の人。

 なによりも勇敢で自分とは反対の人間だ。

 エミールは、将来、こういう人間になれたらいいとさえ思っている。


 その彼女が困っている。


「マッテオさん。医師殿に代わってオレの知っていることを言っても取引は有効ですか?」

 思わずエミールの口から言葉が飛び出た。


 沈黙。


「マッテオ、どうする?今の小僧の言葉で俺には誰が裏切ったか判ってしまったぜ」

 ルチアーノが意地悪そうに笑いながら言った。

「ああ。オレも確信した」

 マッテオは顔から表情を消していた。


 ゲルトルートは最悪の結果になった予感に顔を歪めた。


「待って。捕虜の人たちもあの」

「小僧。最近まで占領されているヘレネで怪談が流行ってたのを知ってっか?」


 ルチアーノがゲルトルートの必死の嘆願を遮る。そして、なにがどうなっているのか皆目わからないエミールにルチアーノが話しを続ける。


「金髪の天使がそばを通るとポロニア人とそれを匿っていた住民が行方不明になるんだそうだ。

 金髪の天使というのはよ。ポロニア人とひとめで分かる幸薄そうな大変な美少女だ。

 その少女は温和で他人に優しいと噂のある住民のアパートを巡るのを日課としている。ある時は親衛隊員に追われ、またある時は飢えで倒れそうな振りをしてな。

 そうするとな。他人に優しい住民が美少女を匿うためにノコノコと出てくる訳よ。翌日には親衛隊員で一杯のトラックがそのアパートに乗りつけて、住民もその住民が匿っていたポロニア人たちもみんな拘束して保安局のあるブリアン街に連行しちまう。住民もポロニア人ももう戻ってくることは永久にねえ。 

 ところが、あら不思議。またぞろ金髪の天使だけは別の住民のアパートの前に姿を現して三文芝居をはじめるって寸法だ。

 この三文芝居に引っ掛かった住民とポロニア人の数が千人を超えているというから驚くじゃねえか。

 もっとも、芝居は一週間前に永久に終演となっちまったがよ。そうよ。オレ達がヘレネまで出かけていって止めてやったのよ」


 ここまで聞いてゲルトルートはマッテオとルチアーノが正確に裏切り者の正体を突き止めたことを知った。


「待って。あの子たちは自分たちのしていることがわからないのよ。知らずにしていたの」


 エミールにもマッテオたちの結論が解った。


 ここにいるポロニア人の子供2人は1週間前に村の警戒にあたっていたマキの隊員によって村に通ずる道路上で保護されていた。

 彼らは焼き討ちにあった村から逃げてきたという。

 確かにその村にはポロニア人の家が何軒かあったし、保護された道路も距離はあったが焼き討ちにあった村へも通ずるものだったので、マキの隊員たちはその言葉を信じた。

 保護された翌日、子供たちが真剣な様子で持っていた熊のぬいぐるみの中から色紙を取り出して数字を書きつけているのをエミールは見た。エミールは小さい子供のよくやる不可思議な遊びかなにかと思い、気にも留めなかった。

 しかし、マキが壊滅し森の中をさ迷った初日にたまたま最後尾を歩いていたエミールは再び数字の書かれた色紙を見つける。エミールはとてつもない不安に襲われた。

 そこで、休憩の時にゲルトルートにすべてを話し相談したのだ。話しを聞き終えたゲルトルートの顔が青ざめたことを覚えている。エミールはゲルトルートからこのことを内緒にして自分たちで子供たちを見張り、落ちている色紙をすべて回収することを言い含められた。


「大尉殿なら黙って素知らぬ顔をするんだろうけどな。オレたちには出来ん」

 かつてジュゼッペの護衛でありながらエーラ人の小娘と子供の命乞いをしたマッテオはため息をついた。


 しばらくして小屋の裏から2発の銃声が響いた。


 +


 昨日の昼頃、ジュゼッペのところからゲルトルートを無事に保護したから送るとの連絡を受けた。

 わたしは居ても立ってもいられずにジュゼッペの申し出を断わり、ゲルトルートを直接引き取りに行った。

 相変わらずジュゼッペは例の稀覯本を扱う古書店の二階におり、サルヴァトーレの代わりを務めている。彼には会いたくもないが、ゲルトルートに会えるとなると話は別だ。

 わたしは最近買ったばかりのサイドカーをアパートの中庭から引き出して、古書店まで飛ばした。少し無茶な運転をしてしまったが、気にも留められなかった。それだけ気が急いていたわけだ。


 派手な音を立ててサイドカーを古書店の前に停めた。

 何事かとばかりに店員が出てきたが、わたしの顔を見ると彼はニコリと笑顔を見せた。いつものように丁寧な店員に今日に限ってもどかしさを覚えたが、わたしも大人しくいつものように二階に案内された。


 通された部屋は以前となんの変化もなかった。

 奥の丸テーブルのところにはジュゼッペとゲルトルート、あと見知らぬエルフランドの空軍将校が座ってカプチーノを喫していた。

 後でジュゼッペが痩せたのに気づいたが、この時はゲルトルートの方ばかりに気を取られてそれどころではなかった。

 ゲルトルートはボロボロで垢じみたザールラント軍の制服のうえに洗濯はしているのであろうがアイロンがけを全くしていないくしゃくしゃの白衣を羽織っていた。白衣が唯一、軍医である証しみたいだった。顔は垢と日焼けで黒かったし、髪の毛も粘ついているようだ。軍医というより脱走兵かボロ軍服を着た女乞食といったほうがよさそうだ。いや、ゲルトルートも女性なのにこの評価は酷いな。汚かろうがどうしようが、わたしは彼女が五体満足で無事でいただけで満足だ。なにも言うことはない。

 わたしを見てゲルトルートは微笑みながら涙を零した。器用なヤツだ。あとでジュゼッペに言われたが、このときわたしも笑いながら涙を流していたそうだ。


「お嬢様もカプチーノをいかがですか?そんなところに突っ立っていたのでは軍医さんと満足にお話もできないでしょう。さあさ。ここに座って」

 ジュゼッペが笑みを浮かべ白髪頭を振りながらわたしにソファを勧めた。


 わたしはいつものほろ苦いカプチーノを貰い、ジュゼッペからゲルトルートが保護された経緯のあらましを聞いた。

 詳細ではなかったが、話しが裏切り者の処分の段になってゲルトルートばかりか空軍将校までもが顔を暗くした。

 ゲルトルートも随分酷い経験をしてきたことに気づき、わたしもすかっかり暗い気分になった。軍人であるわたしですら戦争はもう嫌だ。もうこりごりだ。人を殺すのも傷つけるのも飽き飽きだ。それなのに、軍医とはいえ、殺し合いに慣れていないゲルトルートにはわたしの何倍も辛かったであろう。そう考えると、また涙がでてきてしまった。いやはや今日のわたしは感情が表に現れすぎる。一体どうしてしまったんだろう?


「野郎どもならこんな日にはグラッパか強い酒を呷るのが一番ですが、お嬢様方ならどうしたもんでしょうかね。年寄りにはとんと見当もつきませんよ」

 気を利かしてジュゼッペが話題を変えた。


 +


 ジュゼッペに暇乞いをしたあと、わたしとゲルトルートは忙しく動き回った。

 国際条約で、中立国メラリアにいるゲルトルートたちザールラントの軍人は戦争に参加することはできず、戦争が終わるまでメラリアに拘束されたままとなる。

 ただし、捕虜ではなく、内務省と憲兵隊に居所の申請をするだけが義務であとは自由だ。働いてもいいし、メラリアから生活資金の貸与を受けて何もしなくてもいい。

 とりあえずわたしはゲルトルートをサイドカーに乗せて内務省と憲兵隊本部を回った。わたしがゲルトルートの保証人となり、居所もわたしのアパートにした。わたしの住処は家具付きのアパルトマンではなく、一応キチンとしたアパートであり、部屋も余っている。困ることは何もない。

 わたしたちは内務省と憲兵隊本部を回ると、今度は行方不明となっているゲルトルートの身分回復のために再開されたザールラント大使館へ存在の申請に出かけた。

 大使館は窓にガラスだけは入れられていたが、壁や柱には生々しく弾痕が残ったままだった。国際条約では大使館も外交官も不可侵のはずだが、あのときは緊急事態だったのだ。仕方がない。


 ゲルトルートの事務手続きが済むのを待たされている間、弾痕を見てわたしはあの日のことと地下水道の臭いを思い出していた。

 そんなに日にちが経った訳ではないけれども、ひどく遠い昔のように感じられる。

 エッダ・マヨナラの死の復讐のため二人のプライバシーを躊躇いもなく公開させたジョバンニ・ガブリエリ。自決したウンベルト・エーコ。通りで死んだ顔に傷のあるザールラントの少佐。

 起こったことすべてに意味があったのか。なかったのか。軍人のわたしにはよくわからない。でも、それを決定づけるのは今後のわたしたちの行動次第ということだけは何となくわかる。願わくば意味のあるものにしたい。そうでないと死んだ連中が浮かばれないから。


 メラリアはしばらくは戦争に参加することはないだろう。再び3000年ほど続くかどうかはわからないが、少なくともわたしが死ぬまで位は平和が続きそうだ。

 平和なメラリア。

 これが本来の姿なのだろう。ダークエルフには争いは似合わない。陽気で親切で、いい加減なくせに誰からも好かれたい。そんな勝手な連中の集り。最近、わたしはこの連中が愛おしくてならない。以前はうんざりしていたんだが、どういう訳なんだろうか?



 ようやくゲルトルートが出てきた。大使館員に何か言われたらしく、神妙な顔をしている。


 聞いたところ、医薬品不足のためメラリアで拘束されている傷痍軍人の治療に滞りが生じているそうだ。それをふまえた注意をゲルトルートは大使館員から受けたのだ。

 メラリアでは特にエルフランドの抗生物質が絶対的に足りない。ダークエルフも欲しがっているため、ドワーフの治療になかなか回ってこず、患者に間に合わないのだ。そうかといって闇で怪しげな横流し品に手を出すのも躊躇われる。それらの品質の保障がどこにもない。文字通り水増ししているものまで売られており、使ったために死亡した事件が起きている。

 大使館員の注意も、軍医として医療活動するのはいいが、闇で医薬品を贖うことは厳禁というものだった。


 わたしはゲルトルートの肩を叩いて言ってやった。

「今日くらいは医者の務めを忘れろ。せっかくお互い無事で会えたんだ。お祝いをしよう。それに君の体臭は酷いものになっている。わたしは慣れているからどうともないが、そのままではリストランテには行けないぞ。まずは湯浴みでさっぱりしよう」


 さすがのゲルトルートも真っ赤になった。


 アパートに連れ帰ったゲルトルートを浴室に追いやり湯浴みをさせている間に、わたしは顔の利く仕立て屋に頼み込み、ゲルトルートがすぐに着ることができるよう既製服を何点か持った寸法直しの職人をアパートまで連れてこさせた。

 美容師も呼んでおいた。あと婦人帽のデザイナーにも声をかけておいた。


 浴室から出たゲルトルートはひどい目に会った。女性が外出しようとすると、男よりは何分手間がかかるのだ。仕方がない。


 夕方になって、わたしも着替えてゲルトルートと夕食を摂りに外出した。


 行ったのは顔なじみのリストランテだ。予約を入れずとも個室を当ててくれる有難い店だった。

 過去形なのは、ゲルトルートと店で泥酔して大ゲンカし迷惑をかけたので今後もいい顔をしてくれるかどうかわからないからだ。


 ケンカの理由は解らない。

 ポロニア人の子供二人の処刑を防げなかったのを嘆き出したゲルトルートを慰めようと、酔っ払ったわたしの語った愚痴がきっかけだった。

「君はまだ自分の手を汚さなかっただけマシだ。わたしはなんの恨みもない何十人にもの男たちを殺しまくった。街でやったら正気の沙汰ではないね。稀代の犯罪者だ。みんな恐れて飛び退くだろう。でも、言い訳は国が用意してくれている。戦争だから仕方ないだとさ。国はわたしに勲章までくれたよ。賞賛されたんだ。フン。賞賛された割には心を酸で溶かすような苦しみを毎日味わうのは何故なんだ?気を抜くと殺した人間のことが思い浮かぶ。昼も夜もない。こういう地獄を味わう覚悟でわざわざ宣誓してまで軍人になったんだ。今さら嘆くことも誰かに許しを請うこともできない。死ぬまで自分のやったことに苛まれ続けるしかないんだ」

「カリア。こう言っちゃなんだけど、カリアと私とでは商売が違う。私は人の生命を助けるのが務め。カリアのは人を殺すのが務め。カリアは軍人には向いてなかっただけ。私は嬉々として人殺しをする親衛隊の連中もマキの連中も見知っている。軍人に向いているのはああいった連中だけだわ」

「それは違う。連中は戦争犯罪者で軍人なんかではない。ただの人殺しだ。軍人には人殺しのルールがあるんだ。連中はルールを踏み越えている。それに、軍人だって自国民の生命を守る義務はある。自国民のという限定つきだけど、医者と違わない」

「ハッ。人殺しのルールだって。笑っちゃうわ。ルールに従おうと従わまいと人が死ぬ結果は同じ。親衛隊もマキも敵には容赦なかった。捕虜にしたり解き放ったりしたら再び自分たちを殺しに現れるかわからないからね。恐怖と恨みが蛮行に駆り立てた。残酷な殺し方をすればするほど、連中は気が休まるらしいわ。ひどい殺し方ばかりだった。鋭いナイフで頚動脈を断ち切って唖然とする相手に笑いかけたり、墓穴を掘らしてから落ち込むように穴の淵で後頭部に銃口を当てて射殺したり。ここにいう敵には自国民ももちろん含まれていたのよ。脱走しようとしたものや軽い服務規程違反のもの、マキの連中では食料の供出を嫌がったものまで容赦なく殺しまくっていたわ。私が渡り歩いたところではルールなんて誰も守っていなかった。カリアのところでは大変上品な戦争をしてたんだね。私もそちらで過ごせればよかったのに」


 酔っ払った上、同じような経験をした者同士で、もとから腹蔵なく何でも話せた仲だったからいけなかったのか。


 とうとうお互い手が出た。


 といっても、軍隊仕込みの汚いやり方を親友に使うわけにもいかないから、わたしは自由の利く右手の平手打ちだけで対処しなければならなかった。そのうえ、わたしはゲルトルートのことを素人とタカをくくっており、まずは好きなだけ殴らしてやろうと気楽に考えていた。

 これがいけなかった。わたしは幹部養成学校で格闘技の指導教官にやられて以来、人生で二度目の他人から殴られて鼻血を出すハメになった。

 ゲルトルートの殴り方は扉を叩くような素人のものだったが、わたしは力の強いドワーフの腕力のことを忘れていた。かわすこともダッキングすることも壁際でできず、ガードも軽く突破されてポコポコ顔を叩かれてしまった。その力強いこと、思わず衝撃で意識を失いそうになった。

 たまらずわたしは腕ごとゲルトルートを抱え込んだ。頭一つ分背が高いわたしはゲルトルートの頭に顎を乗っける形となった。それでもゲルトルートは力の限り暴れた。左腕が痛くて仕方なかったが、歯を食いしばるしかなかった。

 テーブルが揺れ、皿が落ち、容器がひっくり返って中身がテーブルのうえを汚した。


 物音を聞いて給仕が駆けつけた頃には、個室は酷い有様だった。それとゲルトルートは暴れ疲れてわたしの腕の中で眠っていた。

 わたしは給仕長を呼んでもらい、彼に平謝りに謝り通した。彼は少し苦い顔をしたが、わたしが鼻血を出しているのに気づくと冷水とハンカチで止めてくれた。


 左腕が痛くてゲルトルートを一人で連れ帰る自信がなく、わたしはヒューを電話で呼び出し送ってもらった。ヒューはトラックの修理工として働き始めたところで忙しく、以前のように暇ではない。彼にも迷惑をかける。


 アパートに帰ってからゲルトルートをベットに寝かしつけ、その部屋にあった鏡で殴られた顔を見てみる。

 酷いものだ。しばらく腫れが引かないだろう。


 鏡で自分の顔を見ながら思った。


 本当にわたしはいつまで経っても大馬鹿者のままだな。もうそろそろ三十路に近づいているのに。落ち着きも慎重さも冷静さも足りない。以前は軍人なのだから直情径行で十分と思っていたが、どうもそうではないらしい。わたしは部下や他人に迷惑かけずに済ますという最低限のことすらできないのだ。

 それに人生も迷走したままだ。心の拠としている軍人であることの矜持もだいぶ怪しくなりはじめている。平和になったら軍人として人殺しをしなくて済む。こんな甘い想いが心のどこかに巣食っている。耐えられなくなったら軍人としてはおしまいだ。

 では、すっぱりと辞めるか。でも、辞めてわたしに何ができるのか?

 悩み出したらきりがない。


 でも、鏡から目を離し、ゲルトルートの寝顔を見ているうちに気が晴れていった。

 お互い無事だった。これは実に喜ばしいことだ。本当に恵まれたことだ。ある意味、奇跡だ。

 死んだ連中にくらべて悩めるだけでも贅沢の極みだ。

 わたしたちと死んだ連中との違いは何もなかったはず。ただただ運に恵まれただけだ。わたしの場合、砂漠でいつ死んでもおかしくなかった。実際、何度も死にかけた。死が常に隣にいたと言っても過言ではなかった。


 そうだ。そうなのだ。


 せっかく拾った命だ。思いっきり人生を楽しもう。死んだ連中にできなくなった、したかったことをたくさんして砂漠で死なずにすんで本当によかったと思える人生を歩もう。死なずにすんだことを心から笑える人生を送ろう。


 慎重さも冷静さも糞くらえだ!

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