第18話 よかった。

「時間がねぇ。ブツはこれだ。金を渡してもらおうか?」


 黒ジャンパーの男はボクらを見つけるなり、そう言ってせまってきた。


「これクスリ? よく見えないよ。明かりつけて」


 男の差し出す手には小さいビンのような影があるが、この暗闇では中身を見ることができない。本当にこれがアイスブルーにキレイな色のあのクスリなのだろうか? 加賀見さんが明かりをつけるように言うと、男はいら立たしげに吐き捨てた。


「見つかっちまうからダメだ。くそ、いいから金をよこせ」


「やめてよ」


 男が加賀見さんにつかみかかった。ボクが慌てて割って入る。取っ組みあいになった。


「やめてくださいよ」


「うるせぇ、こっちは命がかかってるんだ! てめぇらみたいな“死にたがり”とは、オレは違うんだよ! だいたいてめぇらがつけられてあいつらを連れてきやがったからこんな目に……! オレはな、まだまだ生きて、もっと金を稼いで、もっといい思いをしてな、こんなところで死んでなんか――」


 言い立てる黒ジャンパーの男。ボクは取っ組みあいながら「ああ、こんな人もいるんだ」と思った。「生きたい」なんて言葉を聞いたのは、ボクには初めてのことだった。それならクスリなんて手に入らなくても、お金だけ上げてしまって構わないんじゃないだろうか。だってボクらはどうせいつか自殺してしまう。けれどこの人は生きるためにお金を使おうとしているんだから――。

 そんなボクの感慨は、不意に横から身体もろとも押し倒された。


 銃声。悲鳴。


「痛てぇよぉぉぉっ!」


 黒ジャンパーの男が身もだえしながら転げ回る。横から足音がした。振りむいた先に銃を構える何人かの人影。


「少しおいたが過ぎたようね、黒崎くん」


 若い女の声だった。その声の人影は、首吊り死体のむこうから優しい声でそう言いながらこちらに近づいてきた。スーツ姿の女の人。その姿に見覚えがあった。確かここに来る途中のコンビニで、ボクたちを見ていた女の人だ。

 この女の人に名前を呼ばれた黒ジャンパーの男が「ヒッ」と短く悲鳴を漏らす。その頭に銃口が突きつけられる。


「盗んだクスリを勝手にばらまかれちゃ困るのよね。こっちだってタダで手に入れてるわけじゃないんだから」


「ゆ、許して――」


「だーめ」


 銃声と一緒に黒ジャンパーの男の身体はのけぞって崩れ落ちた。でも、今のボクにはそんな彼らのやり取りなんてどうでもよかったんだ。


「……加賀見さん?」


 ボクの身体の上には加賀見さんが覆いかぶさっている。先に人影に気づいた加賀見さんがボクを押し倒して、銃弾から守ってくれたみたいだった。でも加賀見さんは?


「加賀見さん?」


 起き上がったボクは加賀見さんをゆすった。ぬめりとした生あたたかいものが手に触れた。血だった。加賀見さんのわき腹から血が流れ出ていた。首を掻っ切ったあのときのボクの母さんのようには派手ではないけれど、どくどくとたくさんの血が流れ出ていた。


「加賀見さん」


 ボクの呼びかけに加賀見さんの目がうっすらと開いた。その目にボクが映る。加賀見さんはにこっとほほえみを浮かべてボクに、


「よかった」


 と、言った。

 そしてそのまま目を閉じた。


「加賀見さん?」


 ボクは彼女の身体をゆすった。


「加賀見さん?」


 もう一度ゆすった。


「加賀見さん、加賀見さん」


 何度もゆすった。ボクは何度も何度も彼女の身体をゆすり続けた。けれど、彼女の目が開くことはもうなかった。


「あなたたち“死にたがり”かしら?」


 気づくと黒ジャンパーの男を撃ち殺した女の人が、ボクらの横に立っていた。ボクが顔を上げると、彼女は腰を屈めて加賀見さんの身体の様子を調べ出した。


「まだ少し脈はあるけど手遅れね。悪いことしちゃったわね。これを打ってあげるわ。もう少し安らかに死ねるわよ」


 そう言って彼女は、注射器を取り出して加賀見さんの腕にぷすりと刺した。ゆっくりと注射器の液体が加賀見さんの中へ入っていく。すると加賀見さんの表情がすっとやわらかくなり、さっきよりもずっと穏やかな顔になったように思えた。


「あなたたち、これで死ぬつもりだったんでしょ?」


 加賀見さんから注射器を引き抜いた彼女は、黒ジャンパーの男が持っていた小ビンを取り出してボクに見せる。ボクがうなずくと、彼女は注射器に小ビンの中身を入れて、ボクに手渡した。


「はい、これはあなたの分。巻き込んじゃったお詫びにあげるわ」


 注射器を月明かりにかざすと、アイスブルーの透明な液体が深い暗闇の色の中に浮かんだ。彼女が立ちあがる。


「いいんですか? クスリをあげちゃって」


「いいのよ。この子たちに案内してもらったおかげで黒崎も始末できたわけだし。それに誰も彼も一人でほいほい死にまくる、こんな手遅れにイカれた世界で、二人で死のうなんて素敵じゃない?」


 女の人とその仲間たちがそんな会話をしていたけれど、ボクは吸い込まれるように、このアイスブルーの液体をただ見つめているだけだった。


「じゃあね、ボーイ&ガール」


 黒ジャンパーの死体を仲間に運び出させると、彼女はそう手を振って立ち去った。取り残されたボクは加賀見さんの身体を抱きながら、呆けたように注射器の中のアイスブルーの液体を見つめていた。

 加賀見さんは死んでしまった。加賀見さんは安らかな顔で死んでいる。静かな、もう二度と暗い夜の冷たさに怯えることもない穏やかな顔で死んでいる。加賀見さんは海の上へ行けたのだ。では、ボクは?

 加賀見さんの髪を嗅ぐ。加賀見さんの匂い。まだ残る匂い。でも、もう加賀見さんは死んでしまっている。握る手は冷たい。加賀見さんは海の上へ行ったのだ。ここにもう加賀見さんはいないのだ。

 ひどく冷たい夜の闇が、ボクのまわりを取り囲む。

 ボクは行かなければならない。加賀見さんの名前を元カノのように忘れてしまう前に、加賀見さんの髪の匂いが消え去ってしまう前に、ボクは行かなければならない。それは約束だった。ボクは注射器を自分の腕にむける。アイスブルーの透明の液体。これを使えばボクの身体はすぐに冷え切って、ボクの心を海の上へと連れてってくれる。加賀見さんが先にむかった、海の上へと連れてってくれる。キレイに穏やかに死んで、この冷たい海の底から抜け出して、あたたかい海の上へとボクたちは行けるんだ。でも――。


 ――どうして加賀見さんは「よかった」なんて言ったのだろう?


 答えのわからない問いかけを繰り返す。ボクは自分の腕に注射器をむけながら、ずっとその答えを探していた。なにが「よかった」なんだろう? 答えの出ない問いかけがぐるぐると回り続ける。ボクたちのつないだ手が、死ぬ前に切れてしまったのに、なにが「よかった」なんだろう? 一緒に死のうって言ったのに、ボクをかばって加賀見さんだけが先に死んでしまって、なにが「よかった」なんだろう?

 気がつくと、破れた窓に明るい色が浮かんでいた。ぶら下がる首吊り死体が光の中に姿を現す。夜明けだ。そう思ったとき、窓から朝日がこちらへと差し込んだ。弱くもあたたかい冬の朝日がボクと加賀見さんを照らし出す。


「――え?」


 突然だった。ボクの手が震えだしたのだ。朝日を浴びた瞬間、注射器を持っていたボクの右手が震えだして止まらなくなったのだ。

 太陽の光がボクの身体をじわじわとあたためている。

 加賀見さんはもういない。ボクは行かなければならない。なのにボクのこの注射器を持つ手は、どうしてこんなに震えが止まらないんだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どうせ僕らは自殺する ラーさん @rasan02783643

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説