春のレモンを飲み込んで

雫川しずく

春のレモンを飲み込んで

 僕の先輩は、少し変わった日本語を喋る人だ。

「先輩、これの確認をお願いします」

「あーきたきた。これね、りょ」

「先輩。了解、って言わないと駄目ですよ」

 僕の指摘を気にする素振りもなく、書類を受け取った先輩は、しっしと手を振って僕を仕事に戻らせようとする。先輩がこうなのはいつもの事なので、僕もそれ以上は何も言わず、大人しくパソコンに向き直った。フロアには、カシャカシャとキーボードを叩く音と、誰かのデスクの電話の呼出音だけが響いている。

 隣のデスクに座る先輩は、真剣な表情で、僕から上がってきた書類をチェックしている。肩上まで切られたこげ茶の髪の毛を、先輩は何気ない様子で耳にかけた。先輩の薄桃色の耳たぶにぶら下がる、カットレモンのピアスが、小刻みに揺れる。僕は、それをそっといつものように、横目で盗み見ていた。

 先輩の耳には、たくさんの穴があいている。そして、その穴の数は、最近もうひとつ増えた。しかし、そんなに多くの穴をあけているというのに、先輩は今日も両耳にひとつずつしかピアスをしていなかった。

 僕は密かに、自分の頭の中で、先輩の耳の穴全てに輝きを刺しこんでみる。インダストリアルのピアスは、キューピットの矢のデザイン。ロックのピアスは、ダイヤが一つだけ付いているリングの形。

 そうやってぼけー、と先輩の耳たぶを眺めていたところで、本当にいきなり、彼女の顔がぐりんとこちらを向いた。僕は驚いて、さっき空にしたばかりの自分のマグカップにひじを打ち付ける。奇跡的に、カップは机のふちギリギリのところで動きを止めた。

「後輩くん」

「は、はい」

 先輩の、髪の毛と同じこげ茶の瞳が、ぎくしゃくと動く僕の黒い瞳を捕らえようとする。しばらく僕らの瞳が追いかけっこをした後、先輩は右手に持ったままの書類をぺらっとめくってみて、ことも無げに僕に言った。

「別に、後輩くんが私のことじーっと見てたからって、嫌そうな顔したりしないよ」

「すみません」

 先輩は、自分に向けられる好意にとても鈍い。僕は、先輩に『手のかかる後輩』としか認識されていないのだ。希望的観測をしたとしても、『手のかかる可愛い後輩』程度にしか。

「いいでしょ、このピアス」

「そうですね……。そう思って、つい。すみません」

 そういうところが好きなのだけれど、というのはあまりにもベタな感想だろうか。しかし、そうなのだから仕方ない。近寄り難いほどの美人ではなく、人並み以上には可愛い。痛々しいくらいにピアスの穴が開いているが、けして荒々しい性格ではない。変わった日本語を喋るが、仕事に対しては誠実で、後輩の面倒見もいい。しかし、その見かけからか、後輩からは避けられがちだ。先輩と私語をする人も、僕の他にはいない。それだからか、僕も同僚や上司からはよく思われていない。このままだと、僕も先輩と同じように一生平社員ルートだ。

「謝る必要、ある? 後輩くんってよくわかんないなー。あ、これ、合格。よくできました。お疲れちゃん」

「先輩こそ、よくわからない日本語喋らないでくださいよ」

 そう僕が、柔らかく先輩のことを指摘すると、先輩はいつも、了解ちゃん、とか、もっと短いと、りょ、とか、笑って軽く流す。

 ところが、今日はなぜだか、先輩の反応が違った。

「わからなくなかったんだよ、ほんのちょっと前までは。それなのに、今は皆、手のひらを返したみたいに日本の恥だ、って言うんだよね」

 合格を出した僕の書類を丁寧にクリアファイルに挟みながら、先輩はため息混じりに言葉を零した。僕は何と答えたらよいのかわからなくて、先輩の色のついていない指先をただ見ていた。

「注意してくれる後輩くんのことが嫌い、って話じゃないよ。ちょっと話しすぎちゃったかな。仕事しごと」

「……はい」

 黙ってパソコンのキーボードを叩き始めた先輩は、それきり何も喋らなかった。僕も、同じだった。誰も、僕たちに話しかける人はいなかった。

 昼休みになっても、同僚は誰一人として僕を食事に誘わない。先輩も、同じだ。

 僕は自分のデスクでコンビニのおにぎりを食べながら、隣で同じようにしている先輩に話しかけるか話しかけないか、迷っていた。

 すると先輩が、

「あの漫画の新刊、買った?」

 と声をかけてきた。こういう学生時代みたいな会話を、先輩とふたりだけで、僕は楽しむ。ここのふたつのデスクだけ、高校の教室みたいだ。先輩の彼氏の話をしたり、ふたりで同じドラマの話をしたり。

 そんな、先輩と過ごす時間が、僕は好きだった。

 もっと話していたい、もっとこうしていたい。そう思うけれど、そんなことは言えやしない。先輩には彼氏がいて、僕はただの後輩だから。この距離感が、僕たちの一番気持ちのいいところなのだ。そう分かっていた。

 けれど、あの薄暗い先輩の言葉が、僕の心に突っかかっている。いつも明るい先輩が、どこか落ち込んでいる。励ましたいと、そう思ってしまった。

 どくどくと、妙に心臓がうごめいている。それはとても気持ちの悪い動き方で、僕の不安を煽った。

「あの、先輩、今夜、食事に行きませんか」

「別にいいけど、奢らないよ」

 僕の不安を軽く、あっさりと吹き飛ばすように、先輩はいたずらっぽく笑って返事をした。なんの抵抗もない、さらりとした返事だった。思わず、肩の力が抜けた。

「分かってますよ。どこか、おすすめの店とかありませんか」

「え~。誘っておいて、私に聞くのかー」

「すみません。僕、普段は外食とかしないので」

「へー。あ、自炊できるんだ。偉いね。じゃあ、私の特別お気に入りな店に連れて行ってあげるよ」

「楽しみにしてます」

「そうしておくといいよ」

 どこか誇らしげにそう言う先輩に、僕は年甲斐もなく心が暖かくなって、それが少しだけ恥ずかしくなった。けれどそれは、心地のいい恥ずかしさだった。

「ほんとにさ、おこだよ。何よ、お前が彼女なのが恥ずかしい、って。ふざけてる」

「……そうですね」

 先輩が連れて行ってくれたのは、線路のガード下にある、薄汚れたおんぼろの居酒屋だった。

 油か何かでべとついた木のテーブルにジョッキを叩きつけ、先輩は不機嫌な猫のようにうーん、と唸る。僕は先輩を変に刺激しないように、そっと慎重に相槌を打った。

「日本語がなってないって、何よ。自分だって高校生の頃は普通に使ってたくせに。理解してくれる人だと思ったのになぁ」

「先輩が高校生の頃は、まだあの教育方針、無かったんですね」

「うん。後輩くんが高校生になる頃かな。おかしな若者言葉は規制されるべきだって、意味のわかんない方針が出されたのは」

「日本語の恥だってのは、ちょっと言い過ぎな気もしますよね」

「それ~! 生類わかりみの令〜!」

 先輩は噛み締めるようにそう言った後、一気に生ビールを煽った。それはそれは、いい飲みっぷりだった。

 僕が高校に進学する頃、『若者言葉』を規制する教育方針が発表された。正しく美しい日本語を後世に残しましょう、というのがコンセプトらしかった。多くの学校には若者言葉を禁止する校則が追加され、正しい日本語を学ぶ授業が月に一回行われるようになった。当然、次第に若者言葉を使う人は減っていった。今では、若者言葉を使う人は、無条件に冷たい目で見られる。

 それでも、先輩は若者言葉を頑なに使い続けていた。

「そりゃあ、意味のわからないものも多いけどさ、あの言葉は私の青春そのものだったんだよ。それを恥だから無くせ、明日から使うな、なんてさ。やっぱり納得いかないよ。イミフだよ」

 唐揚げの皿に乗っているレモンを、先輩は素手で搾った。みずみずしいレモンから、唐揚げには十分すぎるほどの果汁が滴る。

「それからずーっと息苦しくてさ。綺麗な日本語、正しい日本語を使いなさいって。私、自由になりたくて。気がついたらこんな耳になってた」

 先輩のカットレモンのピアスが、ゆらゆらと不安定に揺れて、照明の光を反射する。先輩のあの日ままの、青春のみずみずしさを湛えたピアス。

 先輩は、いつもより赤くなった、痛々しい自分の耳たぶをそっと触った。

「ひとつ穴を開ける度、自由になれた気がしてた。でもそれも違ったのかな。彼氏にも、この耳と言葉が原因でふられたし。それなのに、つらくて寂しくて、またピアスを開けちゃったんだよ」

 伏し目がちにそう嘆いた先輩の目尻が、ほんのりと赤くなっていた。何と声をかけるのが正解か、全く見当がつかなかった。けれど、そんな迷子のような先輩の姿を見ていたら、僕の口からぽろりと言葉はこぼれ落ちてきた。

「僕は、先輩のピアス、嫌いじゃないですよ。ちょっと痛そうですけど」

 先輩が一瞬、驚いたような、怪しむような顔をする。しかし、その表情は、すぐ泣き笑いに変わった。僕が好きな、先輩の感情に溢れた笑顔だった。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 先輩はすん、と鼻をすすって、涙で濡れた頬をおしぼりで拭った。それから唐揚げを一口食べて、僕に言う。

「後輩くんにも開けてあげようか、ピアス」

 その言葉にどきっとしてしまった僕の、ジョッキを持つ手が止まった。それに気がついた先輩は、嫌だったらいいんだけどね、と付け足した。僕は、心臓が、走った時のようにばくばくと鳴っているのを感じながら、思い切ってこう、口に出す。

「……なしよりの、あり、ですね」

 今度こそほんとうに驚いた顔をした先輩の視線を感じて、僕は急いで唐揚げの皿に箸を伸ばす。

「あ、ちょっと、後輩くん、それ」

 照れ隠しにひと口で口の中に放り込んだそれは、先輩が搾ったレモンの残骸だった。

 それはとてもとても酸っぱかったけれど、もったいないような気がして、僕はレモンを飲み込んだ。先輩は、僕の目の前で大笑いしていた。

「す」

 酸っぱい、と言おうとして、それよりも言いたい言葉があることに、僕は気がつく。僕は先輩のこげ茶色の潤んだ瞳をまっすぐ見つめて、口を開く。

「好きです」

 先輩の長い春が、終わった。

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春のレモンを飲み込んで 雫川しずく @sa_wo328

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